第十一話 いばらの鎖
「ところでムラージュって何?」
名残惜しそうに彼女……名前は確かD-5092だったかがようやくあたしのもじゃもじゃ頭から手を放すと、あたしはさっそくさっき彼女が言った謎の単語を聞き返した。
「よく知らないけど、ボクたちのことだって。君の名前はK-2120ムラージュ。そこに書いてあるよ」
その白い指が指し示したあたしの寝ている台の下にも、確かに彼女の台と同じような紙が貼られていた。
「この番号のようなものが、それぞれあたしたちの名前だというの?」
「そうだよ。白い服の奴らがボクたちのことをその番号で呼んでいた。君も聞いたことあるだろ?」
「あまり覚えていない……記憶がはっきりしないから」
あたしは額を手で押さえ、力弱く首を振った。頭にかかっていた霞は徐々に晴れてきたが、今まで以前のことは夢の中の出来事のようだったから。
確かにあたしは自分の名前も、いや、自分が何者なのかすら、思い出せなかった。
「そうか、今まで解剖モードだったから、仕方がないか。ごめんね」
「解剖モードって?」
「ほら、ここに書いてある」
彼女は手にした黒い物体を、未だに寝転んだままのあたしの顔面に近付けた。
そこには大小様々なボタンがカラフルに配置され、それぞれ「解剖」「省力」「温痛覚」「触覚」「運動」「感情」などと記されている。
「これはいわゆるリモコンってやつで、ボクたちの様々な感覚や身体機能を一時的に制御しているんだよ。
例えば『温痛覚』ボタンを押せば、温痛覚を全く感じなくなり、いくら怪我をしようがやけどをしようが、ちっとも痛くも熱くもないってわけ。もう一度押したら元に戻るけどね。ほら」
あたしに向けて拳銃のようにリモコンを構えると、赤い「温痛覚」ボタンをそっと押す。と同時にさっきと同じピッという電子音が小さく鳴り響き、途端にひりつくような身体の裏と表の痛みが嘘みたいに消え、うだるような熱気も感じなくなった。
「この方がいいかい? いいんならしばらくこのままにしとくけど」
まるで男の子のような話し方で、彼女はニッと悪戯っぽく笑う。
本当に笑顔が可愛い子だ。あたしは返事の代わりに微笑み返し、小さく頷いた。
「ちなみに解剖モードっていうのは、まさに今みたいに、ボクたちが解剖中に使用されているモードで、ボクたちが痛みを感じたり、動いたり、物を考えたりしないようにする専用チャンネルさ。
ついでに代謝機能も抑えて、必要カロリーは点滴ぐらいですむようにしているんだって。そこの説明書に書いてあった」
彼女が顎でしゃくった辺りには、棚の上にうすっぺらい冊子が放り出されていた。
「でもさすがにそれだけじゃ足りないらしくて、この点滴中にも痛み止めかなんかが入っているらしい」
そう言って管に繋がれた左手をくいくいっと動かすので、ようやく体を起こしたあたしは慌てて止めた。今にも管が引っこ抜けそうだったから。
「な……何故あんたは自由に動けるの? みーんな冷凍マグロみたいに寝っ転がっているのに」
あたしは細い両腕をいっぱいに広げ、部屋中を見渡した。あたしたち二人以外は相変わらずぴくりともせず、時々瞼を動かすだけで、死んだ魚のような眼をとろんとさせている。
「それはねぇ……話すと長くなるけど、いーい?」
「いいよ! 時間はいっぱいあるし」
「そうだよねぇ、それじゃ君の首筋を触ってごらん」
「えっ?」
おずおすと首の右側をそっと撫でると、ゴマ粒ほどの大きさの、わずかに硬いものが皮一枚隔てた向こう側に触れた。言われなければきっと分からなかっただろう大きさだ。
「ICチップだよ。それがボクたちを縛り付けているいばらの鎖だ」
彼女は夏の小麦畑のように輝く見事な金髪をひるがえし、隠されていた白いうなじをそっとこちらに向ける。
新雪のような素肌に、虫が刺した跡みたいな赤い点が映えていた。
「このちっぽけな異物がリモコンからの電波を受信し、ボクたちの肉体や心を制御している。凄いもんだねぇ」
本当に虫に食われたかのように、首筋をポリポリ掻きながら語る様は、まるで他人事。
「ど、どうやって制御しているのよ!?」
「ボクも詳しいところまでは分からないよ。でも推測だけど、この米粒よりも小さな機械は、ボクたちの神経系の伝達物質などになんらかの影響を与えているんじゃないかと思う」
「し……神経がなんですって?」
いきなり専門用語が飛び出してきたので、あたしはちょっと面喰った。
「そうだねぇ……また温痛覚を例えに使うけど、人間が感じた痛みや温度の感覚は、まず皮膚の表面に無数にある受容器っていうセンサーから体内に入ると、神経線維をぎゅぎゅーんと通って、脊髄の後ろの根っこ、すなわち脊髄後根をくぐってようやく脊髄の中までたどり着く。
ところで、神経細胞同士の間にはシナプスという細胞間の空隙がありまして、細胞から細胞へ神経伝達物質というものがやり取りされ、信号を伝えていくんだ。
ちょうどパチンコの玉がチューリップに入ると、さらに沢山の玉が受け皿にジャンジャンバリバリ出てくるようなもんかねぇ。
もっとも、パチンコなんて一回もやったことないんだけどさ、キャハハハ」
「……」
あたしはあっけにとられて、彼女の奇妙な授業を聴講していた。




