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第十話 知り得ぬ過去

「ほほう、それは大活躍だったな、ソーセージ。褒美としてネズミをファックしていいぞ」


「いりませんよ! てかどうやってするんですか!?」


「そんなこと俺に聞くな。しかし溶血の件はともかく、夕暮れ症候群の件はどうやってやったんだ?」


 居間のソファーに腰をうずめた楓が、カレーうどんをすする手を止め、僕を見下ろす。ちなみに具材に肉は入っていない。


 白衣を着たままカレーうどんを食べるなんて正気の沙汰じゃないと思うけど、服に付いてもいいのか?


「ヒントは讃美歌です。なんであんな暗い低音の曲ばかりかけてるんだろうって疑問に思ったんですよ。


 確かにクラシックはお年寄りの心を落ち着かせるとは言いますけど、これじゃあ気持ちが落ち込んで死にたくなるだろうに……ってね」


「つまり俺は老人達を呪い殺したいと思っているとでも言いたいのか?」


 湯気で曇った楓の眼鏡の奥が、怪しく光る。


「だから違いますって! いくら楓が捻くれ物で、猟奇マニアで、偽医者で、犯罪者でも、お年寄りを思う気持ちは本物ですし、何かわけがあると思ったんですよ。そしたら簡単に分かりました」


「貴様、最後にさりげなくフォローしたつもりだろうが、言いたい放題だな……」


「えーっ!? すっごーい!? 私全然分かんないんですけどー!」


 追加のうどんを茹でていたネズミが、我慢できずに会話に加わる。おい、麺をちゃんと見ててくれ。


「お年寄りっていうのは、高音域から徐々に聞こえなくなるんですよ。


 だから、最初はニュースの女性アナウンサーの声が聞えなくなったって訴える人もいます。


 さっきネズミがキンキン声で耳元で叫んでいても、彼には殆ど聞き取れていなかったってわけです」


「あーっ、そういうことか! じゃあ、CDの曲が低音だったのも……」


「ええ、ここの老人達全員に聞き取れるようにという、楓の配慮だったんですよ。


 それで、地獄の底から響くようなバスで吠えれば、さすがに聞こえるだろうと思ったわけです」


「ふむ、確かに論理的だな。だが何故食べ物で釣ろうとしたんだ? 食欲のない老人だったら無反応だったかもしれんぞ」


「あの方、頓服薬がリスペリドンだったでしょう?


 老人に錐体外路症状をあまり起こさず、せん妄に効果的なのはクエチアピンで、楓の性格から考えたら、あんな流涎のある人にそれを使わないのは不自然です。


 彼は男性で、暴力的だったというし、家ではきっと好き勝手をしていただろう。ということは、使えない理由はただ一つ……」


「糖尿病、ですね!」


 それなら私も分かるわよと言わんばかりに、ネズミが嬉しそうに答える。


 お鍋も賛同したのか、一斉に泡がぶわっと吹き零れ、彼女は「キャーッ!」とか言いながら、慌てて差し水をぶっかけた。ほーら、言わんこっちゃない。


「そう、彼は糖尿病を患っていたに違いない。糖尿病ではクエチアピンは禁忌ですしね。つまり食べ物に目がない食いしん坊ということです」


 僕は自慢げに推理を披露すると、ようやくうどんを口に入れた。げっ、早くも伸びている!


「金田一君並みに凄い奴だな。それだけのヒントで解決策を導き出すとは……」


 楓は手を伸ばすと、ふにゃふにゃになった麺を悲しくすする僕の頭を、よしよしと撫でてくれた。


「褒めてくれるのはうれしいですけど、それならたまにはお寿司でもとりましょうよ。


 中村乙女さんちは、この前外泊した時、お寿司の桶を注文したとか言ってましたよ。


 お嫁さんがいつの間にかけちんぼになって、お魚の醤油入れを取って残していたわ~と愚痴ばかり聞かされましたけど」


「ふむ、寿司なんかよりカロリーメイトの方が美味いぞ。お前も醤油をかけてこいつを喰ってみろ」


 カレーうどんを早くも平らげた楓が、怪しげな黒いカロリーメイトを握り締め、不敵に笑う。


「いりませんよ、そんな汚物! てか僕のうどんに突っ込まないで! お願いだから!」


「それにしても本当によく思いつきましたよね。ソーセージくん、私より後からここで住み込んだのに……昔どこかで医学を勉強していたんじゃぁないですか?」


「えっ……」


 口元から黄色い汁がたらりと落ちる。どんぶりにはねて、楓の裾にたちどころに染みが付き、彼女は眉をしかめた。


「うわっ、やってくれたな! これって落ちにくいんだぞ!」


「じゃあ食べる時ぐらい脱いで下さい! まったくずぼらなんだから……」


「皆さーん、追加が煮えましたよーっ!」


 たちまち一瞬生じた闇は、食卓の喧騒に紛れて蒸発していく。


 だがその後に残った結晶は、僕の心にへばりつき、決して消えることはなかった。



 ……僕はいったい何者なんだろう?

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