第一話 ようこそ、ムラージュの夜へ
どこか遠くから聞こえてくる、ザザーンという波のざわめきが、耳鳴りのように耳朶に纏わりついている。
30畳以上はあると思われる、広大な調理場めいた室内は電気が落とされ、汚れた窓から差し込む青ざめた月光に照らされた、これまた調理台を思わせるずらりと整列したステンレスの台は、深海に眠る沈没船に積まれた銀塊のように輝いていた。
室内に20個程整然と並ぶどの台の上にも、裸の人々が横たわり、まるで死体置き場を連想させる。
人々は老若男女様々で、トドのように太っている者もいれば、ガリガリに痩せている者もいて、統一性はなかったが、一様に月の光と同じく青白い肌をしており、お日様なんて拝んだこともないような不健康な色をしていた。
彼らは皆、何らかの傷を負っていた。ある者は胸を縦に切り開かれ、ある者は腋の下からイソギンチャクの触手のような神経叢を覗かせていた。首の付け根に血を滲ませている者もいれば、大腿の皮膚を大根の皮のようにぺろんと剥かれている者もいる。
その創部にはどれにも湿らせたガーゼが突っ込まれ、その目的が簡単に傷口が閉じない為であるのは明らかだった。
また、彼らの腕の血管には細い管が差し込まれ、傍らの点滴台に繋がっていた。
部屋の片隅には、漂白されたかのように真っ白な人骨が一体、まるでハンガーに掛けられたスーツみたいに台から吊り下げられている。
壁際の洗面台に、脂肪や筋肉などの屑を集めた笊が、キッチンの野菜くず入れと同じ感覚で設置されている。
部屋の入り口付近の木製の棚には、用途の不明な巨大な鉈や糸鋸のような刃物類が、たった今脂肪を拭い去られたばかりのように、鈍い光を放っている。
そんな一種幻想的ともいえる異様な光景を、あたしは台の上に寝転んだまま、ぼんやりと眺めていた。
あたし自身は背中側と胸側に傷口がある為、大きめのクッションのようなものを腰に当てられ、ごろんと横倒しになっているので、他の連中のように天井ではなく、こうやって周囲を観察することが出来るのだ。
ちなみにここからは壁際の洗面台が近いので、鏡に映った自分の姿をチェックすることも可能だったりする。
あたしは見たところ、17歳前後の少女で、くしゃくしゃな赤い髪をしていた。
顔つきは整ってはいるが、あまり温かみを感じず、どこか作り物のように見える。
意外とスタイルは良さそうで、胸も他の横たわっている女性よりは大きそうだが、嬉しいとも誇らしいとも邪魔だともいやらしいとも、特になんとも思わなかった。
しかし物を視認することは出来ても、自分の意志では指一本動かすことも不可能で、せいぜい瞬き程度しか出来ず、意識は朦朧とし、胎児のように薄い膜につつまれている。
何を見ても心が反応せず、痛みも感じず、世界は色を持たなかった。
ただ脈を打ち、呼吸し、眠るだけの日々。それがあたしたちの閉じた世界だった。
朝が来れば、また白衣とマスクを身に着け、青い帽子をかぶった連中が大量に来て、あたしたちを切り刻む。
上半身側と下半身側に分かれ、分厚い本を片手に、ここのメイソーシンケーがどうだ、ここのホーコーキンがどうしたという、暗号のような会話を繰り広げながら、メスとピンセットでもって、あたしたちの皮を剥ぎ、肉を切り開き、神経や骨を露出させる。
ビニールの手袋に包まれた手で、身体のいちばん深い所を撫でさすり、神経や血管に糸を巻きつけることもあった。
彼らがどうしてあたしたちを魚市場のマグロのように解体するのかは、バカなあたしにはさっぱり理解できない。
お魚みたいにこのまま食べられてしまうんじゃないかという考えが、ふと頭に浮かぶことはあったが、別にそれでもいいかと、あまり怖くなかった。
ただし彼らはそんなことはせず、ある程度あたしの体内見学が終わると、肉を閉じ、皮膚を縫い、次の部位に移っていく。
どうやら殺すつもりはないらしく、あたしは少し残念なような、不思議な気持ちになるのだった。
鋼の寝台の上で、眠れない夜を点滴のしずくを時計代わりに数えていた時、静かな室内に、「ピッ」という微かな電子音が走った。
ちょうどあたしの頭側から聞えた気がするそれは、蚊の羽音よりも小さいものだったが、その瞬間あたしの体内に、ドクンとマグマみたいに熱い何かが脈打つような感覚が迸った。
急速に辺りの灰色の世界が色を帯び、無価値な光景が、新たな意味を持って再構築される。
眼が、耳が、鼻が、そして切り裂かれた肌が、全てを感覚として捉え、生きる人形だったあたしを血の通った生物へと生まれ変わらせる。
徐々に、背中と胸にひりひりする、肉を焦がすような痛みが押し寄せ、暑い淀んだ空気が、今夜は熱帯夜だということを思い知らせる。
突然の変貌に戸惑うあたしの鼓膜に、「気分はどう?」という、先程の電子音よりも優しく、カステラのように甘くてふんわりとした女の子の声が響いてきた。
あたしは寝たきり老人のように24時間同じ方向を向いていた身体を、いつの間にか声の方向に少し傾けていた。
ステンレスの台との間に生じた褥瘡がきしみを上げて引き剥がされ、ぼたぼたと出血が生じているようだったが、新たに生じた「好奇心」という感情には勝てず、随分苦労して、あたしはようやくその人物とご対面した。
そこに彼女が夢の中に咲く花のように存在していた。
あたしの隣りの台の上に腰掛け、ぶらぶらと白い両足を動かしている彼女は、年齢は15、6歳ぐらいだろうか。エメラルドのように輝く緑色の双眸は大きく見開かれ、無垢そのものだった。
流れるような金色の髪が、銀色の台と対を成し、月の光を受けてきらめくその姿は、神話の妖精族の女王のようで、背中に翅のないのが不思議なくらいだった。
しかしその宝石のような姿とは対照的に、彼女の腹部は縦に大きく切り開かれ、ガーゼの下からザクロの中身のように真紅の臓物が見え隠れしていた。
「ご機嫌いかが?」と彼女はもう一度あたしに愛くるしく語りかけ、満月の猫のような笑みを浮かべた。
今気付いたが、彼女の右手には、華奢な指には不釣り合いの、黒光りする四角く細長い箱のようなものが握り締められていた。
「……あまり、よく、ない」
あたしは眉をしかめながら、正直に答えた。
「そうぉ? でも、直に慣れるよ」
やけにうれしそうに微笑みながら、綺麗だが奇妙な女の子は、あたしに気安く呼びかける。
「あんた、誰?」
「ボクはD-5092。よろしくね」
彼女は座っている台の下部を指差した。白魚のような指の先には、ラミネート加工された小さな紙が貼られ、「D-5092 Moulage」と記されている。
「ようこそ、ムラージュの夜へ」
左手を胸の前に当てると、お腹に穴が開いているにもかかわらず、貴婦人の礼のように腰を折り、そしてその手を差し出すと、あたしの赤髪をわしゃわしゃと撫でる。
その野良猫のように、自由だが気品溢れる仕草は、あたしの心に、真夏の陽光よりも強烈に焼付いた。
彼女は、あたしが「もうやめてよ」と言い出すまで、愛おしそうにずっとあたしの頭をわしゃわしゃしていた。