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作者: 英星

 『閉じられた本F』


 僕は飢えていた。情報、知識、行動、感情、接触、意志。

 そして、書くことはできないが、もうひとつ。書かない理由は明確にしておく。力を持ってしまうから。存在させるのは危険で、僕の心に不安を与える。そんな薄い氷を自分から踏む気はない。


 僕は海沿いの喫茶店にいた。4人掛けのテーブルにつき、隣の椅子に手提げのバッグを置いた。着ているスーツを正し、正面を見つめ、ある人物を待った。彼が来るまでコーヒーは頼まない。

 気を使ってくれる女性の店員。

「気になさらないで下さい。もう1人来てから注文します」

 射し込んでくる光。僕は海を背負った形になる。僕が海を背にしたのは、彼に素敵な海を見て欲しかったから。そして、海という巨大なものを嘘でも背負っていないと、怖くてここから逃げ出してしまいそうだったから。彼に会う決意をしたのも彼への恐怖からだった。


 僕は肘掛けに肘を乗せ、指で顎をいじった。初対面であまり失礼がないようにと、髭を剃った。

 10分ほどすると彼が店に入ってきた。何が起こっているのか、彼自身まだわかっていない。きっと理解する。彼はあたりを見渡し、僕に気がつくと、さすが直ぐに冷静さを取り戻し、僕の前に座った。彼も隣の席にバッグを置いた。許して欲しい。


「何か頼みますか?」

 彼は面倒くさそうに首を振った。同じ店員が彼のお水を運んできた。

「すみません。アイスコーヒーをひとつ、お願いします」

 僕は自分の分だけ注文した。

「おひとつですか?」

「はい」

「かしこまりました」


 女性の店員が去ると当然2人だけになった。空気のわずかな振動を感じた。少しずつ彼の背負う景色が変わり始めている。

 僕は声を出さずに笑った。彼は暴力的な言葉を吐かない。そんなもの吐こうと思えば、いくらでも吐けるからだ。そして暴力的な言葉を吐くことが、僕に力を与えることを彼は知っている。慎重に、スパイス程度に、それも裏返して。彼が感情のまま暴力に走ってくれたら、僕としては楽なのだけれど。


 彼の背景が変化するスピードを上げた。時間は限られている。彼の世界に浸かるのも悪くはない。

「失礼なことをしているとは思います。ただ、僕の邪魔をするなら僕も考えなければいけません」


 彼は僕の邪魔をしていると思ったことはない。彼はこう思った。『こんな奴気にする必要はない』と。


 アイスコーヒーが運ばれてきた。

「ありがとうございます」

 僕はミルクをいれ、ストローでアイスコーヒーをかき混ぜた。


 世界が落ち着き始めていた。彼も僕も慎重になり、膠着状態になっていた。僕としては楽しかった。キャバクラに行って時間を延長するようなものだから。彼は居心地が悪そうだけど。それなら出て行けばいい。『呼んだのはお前だろう!』と、怒って帰ればいい。僕はストローをくわえて、アイスコーヒーを吸い上げた。


 彼はバッグを漁ると、そこから何かを取り出し、椅子にもたれた。本だろう。めくる動作をしている。バッグや着ている服はかすかに見えるが、本は見えない。時間が必要だった。


 僕は煉瓦壁に背中をつけ、左を向いて窓越しに海を眺めた。細かく揺れる波が、光を受けたり、離したりしていた。

 僕は眠くなってしまった。光と波の遊戯を見て、緊張が和らいだのかもしれない。僕は何度か瞬きをして、その内に目を閉じ、そのまま眠りについた。


 目が覚めると、OSがコンピューターを診断するように、僕は瞬きで自分と自分の状況を確認した。あれほど眩しかった太陽も西の山に消えようとしていた。


 僕は背筋を伸ばし、両肩を丁寧にほぐした。彼はまだ本を読んでいる。目を覚ました僕に興味さえ見せず、集中して読んでいる。

 僕はそんな彼に違和感を覚えた。地層がズレたような噛み合わない違和感。彼に新しい動作が混じっていた。彼は何かを飲んでいる。何を飲んでいるのかはわからない。ストローで飲んでいるのか、グラスに口をつけて飲んでいるのか、まったくわからない。ただ何かを飲んでいる。裏返しの勘定書がテーブルの隅に置かれていた。


「トイレへ行ってきます」


 僕はそう言って席を離れた。彼が頼んだ飲み物を女性の店員から訊きだすためだ。だが、レジで計算をしている女性の店員を見て、僕の考えは変わった。彼女に訊いてしまったら僕と彼のバランスが崩れてしまうだろうし、何より彼女は教えてはくれないだろう。それにもし僕が彼女に訊けば、彼は僕を軽蔑する。その行為自体は構わないが、自分の成長が遅くなりそうだった。だから訊くのをやめた。

 僕はそのままトイレで用を済ませてから、席に戻った。


 彼には僕のすべてが見えているのだろうか? 確信はないが、『     』だろう。

 どちらにしろ、慎重に、じっと息を潜めて。


 彼に変化はない。黙って本を読んでいる。

 僕はズボンのポケットから携帯電話を取り出した。午後5時49分。メールが何通か来ていた。友達からだ。

 開いてみる。

『頑張れ! 負けるな!』

『絶対いけるよ』

『応援してるからね』

『お前ならやれる!』

『気合いだーー!!』

『ファイト!』

 ありがとう。

 みんなのおかげで僕はここにいれる。みんながいたから、この彼と向かい合えた。みんなの力を僕の体に取り込む。大切に使わせてもらうから。


 僕は携帯電話のアラームを6時にセットした。あと6分42秒。


 僕は視線を隣のテーブルに移した。テーブルと接している壁に一枚の絵が飾られている。タキシードを着て立っている男性の絵。長い口髭を蓄え、左手にワイングラスを持っている。右目だけが異様にギラつき、こちらをじっと見つめている。危険に描かれたその目は、僕の心を常に見張っていた。こんな奴にかまっている時間はない。僕は絵から視線を逸らし、携帯電話を開いた。残り1分24秒。


 時間が訪れそうだった。

 カウントダウンが始まる。…5…4…3…2…1。

 アラームが鳴った。


 彼を、この世界に存在させる


 僕は携帯電話をテーブルの上に置き、彼を見つめ意識を集中した。

 年齢は40代後半。眼鏡はかけていない。髪は短く、襟足も綺麗に刈られている。着ている服はスーツ。ネクタイは、色が深い。紺だ。白い斜線が等間隔に何本か入っている。右腕に時計をしているが、ブランドまではわからない。映像にノイズが走った。彼が力を使い始めたのだろう。落ち着け、慎重に、意識を集中して。乱れ飛ぶノイズの中、彼の飲み物を見た。白いコーヒーカップ。彼はコーヒーを飲んでいる。ミルクもシュガーも封は切られている。音がした。不快な高いノイズ音。まだ。

 顔は溶岩石のようにゴツゴツしている。眉毛は濃い。目は二重で唇は厚く、目立つホクロはない。


 問題は本だ。何を読んでいる? 僕は意識をもっと深く集中した。彼の両手から、輪郭のズレた本が姿を現し始めた。意識を安定させる。色は不完全で確定はできないが明るい色彩。ハードカバー。タイトルさえわかればいい。もう僕の目には本しか映っていない。歪んだ本から文字が浮かびあがる。掴める。僕の意識が一斉に彼の本に飛びかかった。


 バタンッ! 重たい物を落としたような鈍い音が店内に響いた。彼が本を閉じた音だった。その音は僕の意識を貫通し、僕の中から集中力を奪っていった。緊張からの解放。

 あと少しだった。


 彼は本をバッグにしまい、コーヒーを一気に飲み干すと、満足そうに立ち上がって、

「面白かったな」そう言って、テーブルの隅に置いてある勘定書を取った。

 疲労のせいで僕は言葉が荒くなっていた。

「置いていけ。僕が払う」

 彼は僕の言葉を鼻で笑うと、バッグを肩にかけ、レジへと向かった。


 僕は脱力したまま笑った。

「ショルダーバッグか」

 見えていなかった。彼が喫茶店から去ると、僕は椅子から崩れ落ちそうになった。疲れた。お腹が空いた僕はここで夕食をとることにした。


 『閉じられた本F』 終





 『星の卵』


 会社の飲み会の帰りに、僕はカズヒト先輩と2人で舗道を歩いていた。舗道は直線を描き、右に民家、左に川と、風景をふたつに分けていた。傾斜した土手は対岸と手を組み、川を海へと導いていた。


 カズヒト先輩は腕時計を見て、

「11時半か。お前、明日は何時から仕事?」と僕の顔に視線を当てた。

 僕は歩きながら、シフト表を思い出した。

「明日は遅番ですね」

 カズヒト先輩と視線がぶつかり、猿人をちょっとだけ進化させたような先輩の顔が僕の瞳に映った。

「じゃあ、ラーメンでも食って帰るか」

「いいですね。どこですか?」

「ラーメン『加藤』。○○ビルの裏にある」

「それ、加○鷹が経営してるとかじゃないですよね?」

「そんなわけあるかよ」

「ですよね」


 くだらない話をしながら、ラーメン屋に向かって歩いていると、土手の方で何かがぼんやり光っているのが見えた。

「先輩。あそこ、何か光ってますよ」

 僕は土手の方を指差した。

「ホントだな。なんだろ」

 カズヒト先輩も気づき、不思議そうな表情を浮かべた。

「僕が見てきます」


 土手には十段ぐらいの石段が設けてあり、光はその石段の近くから発せられていた。僕は石段を駆け下り、発光している場所で雑草を掻き分けた。


「なんかあったか?」

 舗道からカズヒト先輩の声が聞こえた。僕は発光体を確保すると、石段を駆け上り、カズヒト先輩のところへ戻った。

「じゃーん!」

 僕はカズヒト先輩の目の前で、掌の小さな空間を開いてみせた。僕の掌の上で、ある物体が輝きを放っている。


「なんだこれ? 卵?」

 カズヒト先輩は僕の掌から卵を持ち上げ、いろんな角度で凝視した。僕は嬉しそうに言った。

「星の卵ですよ。図鑑で見たことがあります。卵を孵化させてお願い事をすれば、どんな願いでも叶うそうですよ」

「魔法のランプみたいなもんか」カズヒト先輩は星の卵を観察したまま言った。

「そうです。ド○○ンボールです。孵化させて、お願い事をしましょうよ」


 何をお願いしよう。やっぱりお金かな、それともスッゴイ男前にしてもらおうかな。

 僕の心は楽しみで一杯になった。


「星の卵ねえ……。つまんねえ」

 カズヒト先輩はそう言うと、星の卵を右手で2、3回お手玉し、地面に叩きつけた。黄金に輝いていた星の卵は光をなくし、割れた卵の殻と、中から飛び出した黄色いゼリー状の物体が地面にへばりついた。


「ああ!! 先輩、何してるんですか! もったいない!」

 僕は星の卵の残骸に駆け寄った。

「ヒロト。お前、○玉小せえなあ。男なら夢は自分の力で掴み取るもんだろ?」

 恨めしそうに振り向いた僕に、カズヒト先輩は親指を立ててポーズをきめた。


「捨てるぐらいなら僕にくださいよ」僕は泣きそうになった。

「気にするなって、ラーメンおごってやるから」

 カズヒト先輩は、落ち込んでいる僕の肩に優しく触れた。

「それは本当ですか?」僕はあっさり立ち直った。そして「レッツゴー、加○鷹!」と元気に叫んだ。


「だから加○鷹は関係ねえって」カズヒト先輩は僕の変わり身の早さに呆れ果てた後、「じゃあ、行くか」と言って歩きだした。

 僕は「はい!」と笑顔で答え、カズヒト先輩の背中を追った。

 僕たちの通った後に、星の卵の残骸だけが残った。


 『星の卵』 終




 『フィルター』



 6月14日は僕の命日でもある。

 2003年6月14日。

 その日から僕の人生は、僕だけのものではなくなった。



 公園のベンチに寝そべって空を見る。今日は仕事が休み。特に予定もなく、こうして1人でのんびりしている。風はまだ冷たいけれど、空は気持ちよく晴れていた。公園で遊ぶ親子の声も子守唄のように聞こえる。


 寝ぼけ眼で空を見ていたら、ジーンズの左ポケットに入れていた携帯電話が騒ぎだした。

「誰だろ」

 僕は体を起こして、着信を確認してみた。携帯電話の画面には『貴ちゃん』の4文字が表示されていた。わめき散らす携帯電話を鎮めるように僕は通話のボタンを押した。

「はいよ」

 最初に僕が声を発した。今度は貴ちゃんの番。

「健二、オイラだけど」


 貴ちゃんは本当に変わっている。いつも自分のことを『オイラ』と言う。男のくせにやたらと声も高い。たまには友達として親切につっこむべきだろうか。僕は電話を続けた。

「うん、久しぶり。どうした?」

「健二さ、今日は仕事休みだよね」

「うん、そうだよ。今は公園のベンチで光合成してる」

「今日の夜、空いてるならそっちに遊びに行ってもいいか?」

 公園でゴロゴロしているぐらいだから、当然空いていた。

「全然構わないですぜえ、兄貴」僕は舎弟口調で返してやった。

「誰だよ、それ」

 貴ちゃんの微妙な笑い声が聞こえた。僕も微妙に笑った。


「部屋に来る頃にまた電話してよ。何時でもいいから」

「わかった。たぶん7時頃になると思う」

「うん、じゃあ、その時に」


 約束をして電話を切ると、僕はまたベンチに寝そべった。瞳の水晶体に精細な空が広がった。この状況を的確に表す格言があったような気がする。自分が起こすだの、起こさないだの。確か人生は自分が……、人生は自分が……。うーん、無理。

 僕は思い出すのを諦めて、今日の晩御飯に想いを寄せた。


      


 僕と貴ちゃんは小学校からの友達で今年で24歳になる。なんの目的もなくここまで来てしまった。スライド写真のように変わる環境に僕はまったくついていけず、途中から観るのをやめてしまった。人生放棄宣言。そのおかげで僕は1人寂しく残され、有り余る虚しさを独占状態。やった。嬉しくないけど。それでも僕はまだましなほうかも。身体は健康だし、夢なんてなかったから。だけど、貴ちゃんは違った。貴ちゃんは苦しんでいた。

 貴ちゃんには『絵』という夢があった。



 どこかで僕の携帯電話が鳴っている。貴ちゃんからだろうけど、意識が重い。部屋で待っている間に眠ってしまった。不安定な意識のままで僕はちゃぶ台に手を伸ばした。確かこの上に置いてたはず。僕は音を頼りに右手を動かし、なんとか携帯電話を掴んだ。


「はい、もしもし」

 自分でもはっきりわかる寝ぼけた声。

「健二? オイラ。寝てたね。もうマンションの近くまで来てるから、コンビニで買い物してからそっちに行くよ」

「うん、わかった」僕は幽霊のような声で言った。

 コンビニに行くことだけは聞き取れた。よし、覚悟を決めた。貴ちゃん、ごめん。ちょっと無理です。僕は潔く二度寝した。



 再び深い眠りに落ちた僕は、とても深い闇の中にいた。

「なんじゃ、ここは」

 僕は周囲を見渡し、この場所を把握しようとした。でも、まったく見当がつかなかった。目立つものは何もなかった。

「まあいいか」

 どうせ夢だろう。楽観的な僕は深く考えずに闇の中を鼻歌交じりに歩いた。


 闇の中をしばらく歩いていると、遠くで何かが光っているのが見えた。もちろん興味を持った僕は、さっそく不思議な光に向かった。不思議な光の正体は古びた木製のドアだった。古びた木製のドアが淡い光を放っていた。

「なんだろう」

 僕は光るドアをまじまじと見つめた。どういう原理で光っているのだろう。光の強さは一定で、黄緑色に光っている。ジーという蛍光灯特有の音はしない。

「LEDかな?」

 僕はドアに触れてみた。発熱はしていなかった。見た目も間違いなく木材で、木目もはっきりと見える。


 今度はドアを軽く叩いてみた。木製ドアの心地よい反響音が返ってきた。蛍光塗料の光り方に一番近かった。きっとそうに違いない。面倒くさくなった僕は自分を無理矢理に納得させた。


 当然ドアを開けてみたくなり、ノブに手をかけた。ドアは押しても引いても開かない。僕は頭にきて、ノブの周りを何発か蹴った。ドアはびくともせずに僕が疲れただけだった。簡単に諦めた僕は、ドアの前に座り込んだ。そのまま後ろに倒れ込み、暗い床の上に寝そべった。


 こんなに広いんだからと、僕は両手両足を伸ばし、暗い床の上をゴロゴロと転がってみた。肩凝りに効きそうで気持ちがよかったけれど、何回も転がっている内に、自分の体が床の埃取りに思えてきた。


 僕は転がるのを止めて、また仰向けになった。なんの音もしなかった。暗闇だけがあった。暗闇が僕を圧迫しているせいだろうか、広いはずなのに窮屈で狭く感じる。ずっとここにいたら、僕は高い確率で発狂するだろうな。

 今度はうつ伏せになって、脳と身体を休めた。

 コンコン。

 僕は突然聞こえたノックの音にびっくりした。せっかく休み始めた脳と身体を起こして、木製のドアを見つめた。

 コンコン。

 また聞こえた。でも、このドアからじゃない。重い金属の反響音が遠くで聞こえた。

「そうだった! 貴ちゃん!」

 僕は部屋のチャイムが壊れていたのを思い出した。



「開いてるよ!」

 僕は布団から出ずに今だせる限りの声を玄関に放った。ドアの開閉音と靴を脱ぐ音がセットで聞こえた。僕もそろそろ起きたいんだけど、なにせ体が重い。ガラスの引き戸が、鋭く開く音がした。


「友達が来てるのにいつまで寝てるんだよ」

 貴ちゃんの高い声が布団の中でぐずっている僕に喝を入れた。僕は力のない声で最後の意思を伝えた。

「衛生兵を……おねがい……します」

「電気つけるぞ」

 衛生兵案は速攻で却下され、電気案が採決された。カチカチと蛍光灯の紐を引く音が聞こえた。


 蛍光灯は数回点滅をすると、6畳和室の部屋を明るく照らした。僕の目も光を感じた。僕の部屋は電化製品と洋服しかない。無責任な僕は背負う荷物をできるだけ少なくしたいんだと思う。


「これジュースとお菓子」

 貴ちゃんはレジ袋をちゃぶ台の上にドンと置いて、畳の上に座った。ちゃぶ台の脚の隙間から、胡座を組んだ薄い色のジーンズが見えた。

「ありがとう」

 寝起きのせいなのか、やたらと喉が渇いていた。僕は重たい体をゾンビのように起こし、貴ちゃんの買ってきたジュースにちゃっかり手を伸ばした。


 髪を64に分けている貴ちゃんが、それを確実に見ていた。僕はジュースの手前で、ピタッと手を止めた。

「どっちでもいい?」いちおう訊いてみた。

「いいよ」

 さすが貴志くん。

「オレンジ、もーらい」

 僕はコンビニのレジ袋から、オレンジジュースを奪い取った。必然的に貴ちゃんはスポーツドリンクになる。


 僕たちはペットボトルの蓋を開けて、乾杯の準備をした。

「じゃあ、今日もお疲れ様です」

 まだ虚ろに見える貴ちゃんの前に、僕はオレンジジュースを掲げた。

「二人とも休みだって」

 ぺットボトル同士の乾杯は、鈍くこもった音がした。



 洗面所から部屋に戻ると、貴ちゃんは横になってバラエティ番組を観ていた。貴ちゃんの整った顔が明るい表情を作っていた。

「どう、最近調子は?」

 僕は貴ちゃんに話しかけ、空いている場所に座った。貴ちゃんはテレビを観たまま答えた。

「やっぱり仕事を辞めて、実家に帰ることにしたよ」


 貴ちゃんが実家へ帰るという話は以前からあった。3月の終わりか4月の始め頃に帰るかもしれない、と貴ちゃんは言った。

「そうか。まあ、それでもバイクで40分ぐらいだから、たいした距離じゃないよ」僕は明るく返した。

「そうだね。健二はどう? 仕事は順調にいってる?」

「相変わらず。毎日同じことの繰り返し。働いて家に帰って寝るだけ」

「それだけ安定してるってことだよ」

「給料安いけどね」僕は愚痴った。

「ちゃんと生活出来てるだけでもマシだよ」

 貴ちゃんはタバコに火をつけて、美味しそうに吸い始めた。


 僕は口を尖らせて貴ちゃんに言った。

「そうだけど、学生の頃から7年も働いてるんだから、少しぐらい給料上げてくれてもいいじゃん」

「まだ7年だよ。給料が上がらないのは健二の能力不足でしょ」

 貴ちゃんの的確な言葉が僕の心を貫いた。

「確かに」僕は頷いて納得した。そして、残り少ないオレンジジュースを飲み干し、気になっていることを訊いた。

「そういえば、絵の方はどう?」

 貴ちゃんは灰皿を引き寄せて、人差し指でタバコを2回叩いた。

「描いてるよ」

 貴ちゃんはサラッと答えたけど、僕にはわかる。

「絶対、描いてない」

 僕は追求することにした。貴ちゃんは含み笑って、「描いてるって」と言い張った。でも、僕にはわかる。口調でわかる。

「絶対、描いてない」

「描いてるって」


 嘘をついてるのが楽しくなってきたのか、貴ちゃんは本気で笑い始めた。それを見た僕はムキになった。

「ほら、描いてないでしょう。笑ってるじゃん。友達にそんな嘘ついて」

「嘘じゃない。描いてるって」

 そんなに人を騙すのが楽しいのか、貴ちゃんは馬鹿笑いしている。

「絶対、描いてない」

「だから描いてるって」

 僕たちはこのやりとりを何回かした後、2人でアホみたいに笑った。

 

 一通り笑い終えてから、僕は言った。

「夢はどうした、夢は。貴ちゃんには絵しかないんだから」

 どんな職業があるのか詳しくはわからないけど、貴ちゃんならきっとやれる。貴ちゃんは苦笑した。

「そんなに可能性を限定されても困るんだけど。オイラは絵に関係する仕事に就ければいいな、くらいにしか思ってないよ」


 貴ちゃんは性格に問題があるけれど、絵はうまかった。

 小学生の時、貴ちゃんの描いた絵を見てびっくりしたのを今でも覚えている。いろんな絵を見せてもらった。人間の顔や体、風景、アニメや漫画のキャラクターから、空想の人物や動物まで。そのすべてが小学生の描いた絵とは思えなかった。動きの一瞬を正確に記憶して、そこに自分なりの感性を加える。繊細な絵だった。細部まで緻密に描き込まれていた。思い描くイメージの豊かさと、それを出力する技術との差が極端に少ないんだと思う。


 それから数年経っても僕の考えは変わらなかった。友達という色眼鏡を外して冷静になってみても、僕の考えは少しも変わらなかった。


『貴ちゃんの絵はたくさんの人に好きになってもらえる』


 僕にはそういった才能がないから憧れる。でも、貴ちゃんならきっとできる。僕はやりきれないんだ。あの時、貴ちゃんが家族と対立しなければ。絵だけにもっと集中できていれば。貴ちゃんの絵に対する情熱が現実と時間に溶かされて、今にも消えてなくなりそうだったから。


「まあ、別に僕の夢じゃないから、どうでもいいですけど」

 そして正直じゃない僕。

「なんだよ、それ」

 貴ちゃんはタバコの煙を吐きだしながら笑った。

「それよりお腹減ったね。なんか食べる? 夕方に買い込んでたからいろいろあるよ」

「いただきます」

 貴ちゃんの即答を聞いて、僕は台所へ向かった。


      


 中学生の時に自分の命の計算をしたことがある。いい加減で独自の計算だったけれど、僕の命の値段は350円だった。ジュース3本、タバコ1箱と半分、卵3パック、コミック本1冊。デパートで見た熱帯魚よりも安い。

 変な話だと思う。生きていくのに何千万もかかって、僕の命の価値は350円だなんて。バイクを買い替えるには何回死ねばいいんだ。



 今日は街に出かけてみることにした。平日が休みの僕は、ほとんどの休日を1人で過ごす。会社の人とも友達とも会わない。1人の時間は大切でそれなりに楽しいけれど、それが何ヵ月も続くとさすがに嫌になってくる。


 僕はジーンズをはいて、着ているTシャツの上に紺のトレーナーを重ねた。あまり、深刻に考えずにそろそろ出かけよう。

 僕の住んでいる場所はわりと市内の真ん中で、街までは歩いても行ける。もちろん面倒くさいから、歩いていくことは滅多にない。


 1階に停めてある50ccのボロスクーターに挨拶をして、市電の走る道路へ出た。スロットルをひねり、スピードを上げると、春の風を受けて、風景の一部になった気がする。澄んだ空に向かって叫びたくなった。周りから白い目で見られそうだからやめた。


 石橋を渡っている途中で信号が赤に変わり、前のRV車が停まった。僕も続いて停まった。橋の上から川に沿って立つ桜の木が見える。花はもう散ってしまい、桜の木は出汁をとった鶏ガラのようになっていた。そういえば社会人になってから花見をしたことがなかった。僕は遠くでぼんやりと見える桜の木に、消えそうな記憶の花を付け足した。


 信号が変わり、前のRV車が走り出した。僕も遅れないようにスロットルをひねった。


 10分ほど走り、ホテルの近くにある駐輪場にバイクを停めた。無事には着いたものの、目的がなかった。着いてそうそう、どこへ行こうか迷ってしまった。とりあえず時間がもったいないのでアーケードの方へ歩いた。平日にも関わらず多くの人がアーケードの中を行き交っていた。

 スーツを着たサラリーマンに若い男女、たぶん主婦、この街で働いているであろう人々、僕みたいな遊び人。その他大勢。


 多様な人間を呑み込むお店も騒がしい音を立てていた。ハンバーガーショップや豚骨スープの香るラーメン屋。入り口から音のするゲームセンターに話題作のない映画館。信号を渡った先にはデパートもある。


 豚骨スープの香りを嗅いでしまった僕は、自分が何も食べずに部屋を出てきたことを思い出した。確か部屋を出たのは午後の2時頃。どうやら充電が必要だった。僕は花屋の隣にあるラーメン屋で食事を済ませ、充電を完了させた。


 最初にCDショップへ行くことにした。今いるラーメン屋から神社の方向へ歩いた。6車線ある道路の信号が点滅を始めた。急げば間に合いそうだけど、走りたくない。僕は素直に赤信号に捕まり、そばにあった肌色の円柱に体を預けた。


 目の前を通り過ぎる車の群れが、すべてピンぼけしている。信号が青に変わると、ふたつの向かい合ったダムが一斉に放流を開始した。僕もその流れに乗って横断歩道を渡り、再びアーケードに入った。CDショップがあるビルはセレクトショップと美容室に挟まれていた。突入開始。


 爽やかな店内には人気バンドの新曲が流れていた。若者やカップルが、碁石を掴んで投げたように散らばっている。まずは入り口付近で新譜のCDを確かめた。


 10日ほど前、貴ちゃんは実家へ引っ越しをした。

 僕はその引っ越しのお祝いにCDをプレゼントしようと考え、女性アーティストのシングルCDを一枚選んだ。ジャケットにはギターを抱えた女性アーティストが写っていた。


 僕は支払いを済ませ、他の人を避けるように階段を上がった。2階ではギターやキーボードなど、たくさんの楽器がひしめきあっていた。

 僕は楽器の隙間を縫いながら歩き、店内を見て回った。


 音楽関連の書籍が棚にずらりと並び、様々な種類のギターがキノコのように立ち並んでいた。UFOにしか見えないシンバルが壁にあり、西アフリカで使われていそうな打楽器が床にあった。


 高校生の時に友達からギターを習ったことがある。指が痛くて3分で放り投げた。それ以来、触っていない。カップラーメン並のギター歴。もちろん買わない。買っても3分だし。


 僕は階段をテンポよく降りて、1階に舞い戻った。出入口の自動ドアの前になぜか毅然と立つ。自動ドアが開くと、僕の視界に人の流れが広がった。それぞれが時間を持ちあい、共有し、こんなにも大きな流れを作っている。僕もここから踏み出せば、脆弱な支流から大きなひとつの本流になる。同時にそれは自分を見失う現実のように感じる。僕だけが流れを止めたり、変えたりすることは許されないから。


 次は本屋に行く。僕は趣味で本を書いていた。本とはいっても、日記みたいなもので、とても人様に見せれる代物じゃなく、恥ずかしくて貴ちゃんにも言ってない。作業的にめちゃくちゃ楽しいわけでもない。


 本屋は角にあり、交差点から伸びる2本の道路に接していた。固い豆腐を箸で掴んでいるイメージが頭に浮かんだ。僕はアーケード側から店内へ入った。


 ここの本屋は結構大きく、地下1階から地上3階まで本で埋め尽くされている。種類があるのはいいけれど、埋め尽くし過ぎのような気もする。棚の高いところにある本を取るには、レール式の階段を左右に動かさないといけない。わざわさ店員を呼ぶのも面倒くさい。


 手の届く範囲で気になる本を片っ端から読んでいった。本の好き嫌いは特になかった。2時間ほど立ち読みをして、『京都の楽しみ方』という情報誌を買った。でも京都に旅行する予定は一切ない。


 外に出ると学生の姿が増えていた。そこから、僕は今の時間を6時頃だと推測した。携帯電話を開いてみる。午後5時48分。


 次は家電量販店に決めた。僕の部屋は洋服と電化製品しかないので、新製品の下調べは重要だった。電車通りへ向かい、大勢の人とすれ違いながら歩いた。

 家電量販店は雑貨屋を過ぎたあたりで、突然ポンッと現れる。ここの家電量販店は街中にあるせいか規模が小さく目立たない。それでもパソコンやテレビ、時計、携帯電話、コンポ、DVDプレーヤーなど、一応は揃っていた。


 店内を見渡して、入口から左手にある携帯電話のコーナーに向かった。僕の携帯電話はもう2年目ぐらいで、だいぶ限界にきていた。ポイントも貯まっているし、できればそろそろ替えたい。何か背中を押してくれるきっかけが欲しい。通話中に携帯電話が炎上したとか。


 携帯電話をいじるのにも飽きた僕は、隣のパソコンコーナーに移った。パソコンは持っていたけどノートパソコンではなかった。ノートパソコンはコンパクトで便利そう。買いもしないのに欲しい物を選んだ。ある程度の自己満足を済ませると、上機嫌で2階に足を向けた。自分でも嫌な客だと思う。


 階段を挟む左右の壁には時計がぎっしりと飾られていた。掛け時計だけじゃなく、腕時計や目覚まし時計も。スペースの有効活用だろうけど、他の人の邪魔になりそうで僕は立ち止まる勇気がない。


 2階の売り場にはMDコンポとDVDプレイヤーが陳列してあった。MDコンポは今使っているのが気に入っているので、買い替える気はない。DVDプレイヤーのコーナーに向かうと、大量のDVDプレイヤーが僕の前に押し寄せた。

 僕は人差し指を天に掲げ、棚に陳列されたDVDプレイヤーを指で突っついていった。


 こんな風に電化製品で遊んでいると、ふと疑問を感じる時がある。若干、納得できない部分がある。使い方はわかるのに電化製品そのものがわからない。電気信号に変えてとか、磁気で記憶して、とかはなんとなくわかるけれど、作ることができない。だから、凄く気持ちが悪い。使えるのに作れない。押しているボタンの先がまったくわからない。そう考えると携帯電話も、パソコンも、時計も、MDコンポも、DVDプレイヤーも、すべて胡散臭く思えてくる。機械の中を開けて、ところてんが入っていても信じてしまう気がする。

 僕は急に寒気がして、落ち着かなくなり、駆け足で外に出た。

 外はもう暗くなり始めていた。


 最後に友達が経営しているフーズ・バーの『rain』に寄っていくことにした。『rain』は路地裏にあり、木目調のドアが歩き疲れた僕を迎えてくれた。僕はドアを勢いよく開けて店内に入った。


 店に入って直ぐ左に水槽があり、その中を色鮮やかな熱帯魚たちがのんびりと泳いでいた。水槽は同時に仕切りにもなっていて、テーブルと通路をわけている。


 カウンターの中でグラスを磨いていた友達が僕に気づいた。彼とは小学校からの友達で、付き合いは貴ちゃんよりもほんの少し長い。背が高くて冷静な男だった。


 お客はまだ1人もいなかった。僕はカウンターのど真ん中に座り、荷物を足元に置いた。冷静な友達が冷たいお水を出してくれた。短い挨拶を交わした後、僕はお腹が空いていることを彼に伝え、メニューを手にした。


 バイクだからとお酒を断り、ウーロン茶とサラダスパゲッティを頼んだ。注文を受けた冷静な友達は親指を立てて、不敵な笑みを浮かべた。僕は「愛情をよろしく」と言って、不敵な笑みを浮かべた。冷静な友達はまた親指を立てた。


 彼は高校を卒業後、お金を貯め、21歳でこの店を開いた。ちゃんと目標を持って進んでいて、偉いなと思う。僕にはない行動力が羨ましかった。


 冷静な友達は僕にウーロン茶を差し出すと、調理場へ去っていった。僕はウーロン茶にストローを突き刺し、ポンプのように吸い上げた。彼の店を観察しながら、料理が出来上がるのを待った。


 何人くらい入るのだろうと思い、座席を数えてみた。テーブルは3台あり、そこには4人ずつ座れる。カウンターには8席あるから、合わせるとちょうど20人まで対応できる。正直それが多いのか少ないのかはわからない。


 壁に視線を向けた僕は、ある異変に気がついた。ハリウッド俳優のタぺストリーが、知らない白人男性のポスターに変わっていた。白人の男性はマイクに向かって何かを叫んでいる。なかなか迫力があって格好いい。センスだと感じる。あるべきものをあるべき場所へ。僕にもこういうセンスがあればいいのに。


 天井のスポットライトが店内を効果的に照らしていた。テーブルにはそれぞれ専用のスポットライトが振り分けられていて、それがテーブルの中央に鮮やかな円を描いていた。


 カウンターはテーブルとは違って、シアンやレモンイエローといった複数のライトが降り注ぎ、幻想的な空間を演出していた。カウンターの中、並べられたボトルの横にターンテーブルが見える。店内は躍動感のあるジャズが流れていた。普段は有線のジャズを流しておいて、リクエストがあった時にはレコードをかける、とかなり前に冷静な友達から聞いた。その時、リクエストを訊かれたけれど、音楽に疎い僕は、「なんでもいいよ」と、雑に断ったのを覚えている。


 僕は入り口付近の時計を見た。時計の針は午後7時に迫っていた。


 冷静な友達がサラダスパゲッティを持ってきてくれた。僕はお礼を言って、サラダスパゲティにフォークを突き刺し、リズムよく食べ始めた。食べながら冷静な友達といろいろなことを話した。仕事の話やここにはいない友達の話、お腹を壊したくだらない話から、僕に彼女ができない話などをした。音楽の話になると、冷静な友達は僕にリクエストを訊いてきた。音楽に疎い僕は、「なんでもいいよ」と雑に断った。


 サラダスパゲティを食べ終わっても話はまだ続いた。特別盛り上がるわけでもなく、これといった沈黙もない緩やかな会話だった。しばらく冷静な友達とそんな緩やかな会話を続けていたら、いきなり店のドアが開いた。僕と同じ年齢くらいの男性が3人と女性が1人、店に入ってきた。どこかで見たことのある顔だった。


 4人の正体は直ぐにわかった。4人は僕と同じ中学校の出身だった。男の方は2回ほど一緒に飲んだことがあり、そこそこ知っていた。ただ女の子は同じクラスになったことがなく、一緒に飲みに行ったこともないので、あまり詳しくは知らない。4人はテーブルに座り、お酒と料理を頼むと、楽しそうに会食を始めた。本当に楽しそうな会食だった。


 そして気がついたら、僕もその会食に交じっていた。いくら顔見知りとはいえ、自分の社交性の高さと図々しさに惚れ惚れする。しかも僕はサラダスパゲティを食べ終わっていたので、みんなの皿をつつくという最低な行為をしながら、会食に交じっていた。


 楽しい時間が深くなるにつれ、客も次第に増えてきた。店員もいつの間にか増えていた。後ろ髪をふたつに束ねた女の子と八重歯の目立つ女の子が、注文を取ったり、飲み物を作ったり、料理を運んだりしていた。


 冷静な友達は調理場やカウンターで懸命に働いていた。繁盛している様子を見て、僕は勝手に安心した。それにしても楽しかった。他の4人はどうか知らないけど、僕は楽しかった。店も賑やかで、話せる友人もいてくれて。これであとはお酒があればなと思う。歩いてくればよかった。


 結局そのまま僕たちは午後11時まで『rain』にいた。残念なことに全員明日は仕事だった。僕たちは会食を切り上げ、冷静な友達にねぎらいの言葉をかけて店を出た。4人とは店の前で別れた。僕はCDと情報誌の入った袋を提げながら、バイクを停めている駐輪場に足を進めた。


      


 僕は人生を楽しんでいた。

 ビリヤードにボウリング、ドライブに旅行、ゲームに映画、カラオケで叫び、雰囲気のあるお店で美味しいお酒を飲み、綺麗な女性たちと楽しく食事をする。溜まったら出して、稼いだお金で欲しいものを買う。きっと僕の方に問題があるんだと思う。欲張りな僕は、それでも違う何かを求めていた。



『今度の休み空いてる?』

 3日前、僕の携帯電話に貴ちゃんからメールが届いた。それで今日の夜に食事をすることになったんだけど……遅い。何をしているんだアイツ。


 約束の時間は20分を過ぎていた。待つことより、空腹に耐えられない。国道沿いのファミリーレストランの前で僕は夜空を眺めた。星の宝石がキラキラしていたけど、今はそんなことどうでもいい。早く御飯を食べたい。


 約束した時間から30分が過ぎると、スクーターに乗った貴ちゃんがヒーローのように現れた。

「遅い、遅い、遅いよ」

「悪い、長湯しすぎた」

 貴ちゃんはバイクのキーを回して、うるさいエンジンに止めを刺した。

「いいよ。行こう。お腹すいた」

 僕は空腹で怒る気力もなかった。

「おう。ちょっとバイクを停めてくる」


 貴ちゃんが1階の駐輪場にバイクを停めると、僕たちはファミリーレストランの階段を上がって店内に入った。飯時ということもあり、かなり混雑していた。大学が近くにあるせいか若い人が多い。食事の音や、話し声があちこちで飛び交っている。


 忙しそうな女性の店員に窓側の喫煙席を案内された。僕たちは向かい合って座り、さっそくメニューを開いた。僕は少し迷い、ハンバーグとチキンのミックス和食セットに決めた。

「貴ちゃん、決まった?」

 自分が早く食べたいせいで、まだ選びきれていない貴ちゃんを急かした。

「ステーキの和食セットで」


 僕はテーブルに置いてある呼び出しボタンを押した。どこかでチャイム音が鳴り、数分後に男性の店員が駆けつけた。僕たちはメニューを指差しながら、それぞれ注文を頼んだ。


 注文を済ませると、僕はセルフサービスのお水をつぎに席を離れ、貴ちゃんの分もついで席へと戻った。

「サンキュ」

 貴ちゃんはタバコを吸っていた。貴ちゃんの吐き出すタバコの煙がテーブルの周囲を濁らし、貴ちゃんの姿を薄くした。僕は姿の薄くなった貴ちゃんに話しかけた。

「どう? 実家の住み心地は?」

 貴ちゃんが実家へ移ってから、1ヶ月ほど経っていた。

「最悪だよ。アイツらと一緒に住むなんて。また県外に働きに行こうと思ってる」


 僕も仲のいい家族じゃなかった。自分の家で何度も孤独を感じた。貴ちゃんもきっと感じているんだと思う。それでも僕は訊いた。

「うまくいってないの?」

「いってないね」

 貴ちゃんの表情は曇っていた。僕はソファーにもたれて、水を飲んだ。

「そういう時もあるよ」

「そういう時ばっかりなんだけど」貴ちゃんは小さく息を吐いて続けた。「健二は? 今の職場で一生働くつもり?」

「それはわかんない。働くかもしれないし、独立するかもしれない」

「そうか。独立したら、オイラを雇ってくれ」貴ちゃんは冗談っぽく言った。

「すっごく、コキ使うよ」

 僕のは本気だった。

「ひでえ奴だ」

「給料も他の人の半分」

「訴えるぞ」

「いいよ、その前にリストラするから」

 貴ちゃんのいじけた顔がたまらなく面白かった。僕は空になったコップを取り、立ち上がった。

「いる?」

 念のために訊いた。貴ちゃんはタバコをくわえたまま、細かく手を振った。


 3人組の女性にしばらく待たされた後、コップに水をついで席へ戻った。食事はまだ届いていなかった。念願の食事が来たのは映画の話で盛り上がっている時だった。やっと食べれる。

「いただきます」

 僕は目の前のミックス和食セットに手を合わせた。貴ちゃんはすでにかぶりついている。貴ちゃんは痩せているくせによく食べる。


 僕たちは無言のまま、肉や御飯を口に運んだ。貴ちゃんと食事をする時はいつも余裕がない。もっと落ち着いて食べればいいのに。僕は御飯をほおばったまま訊いた。

「食べてる時って、あんまり会話ないよね?」

 貴ちゃんは水を飲んで答えた。

「当たり前。集中して食べないと」

 会話終了。

「ごちそうさまでした」

 御飯を胃袋に収めるとだいぶ元気がでた。貴ちゃんも元気を取り戻したように見える。僕は安心した。


 貴ちゃんが水をつぎにいくと、僕は窓から見える国道に視線を移した。車のヘッドライトが頼りない直線を描いている。お腹が一杯になったせいで少し眠い。


「どうぞ」

 声のした方を向くと、貴ちゃんが席に戻って来ていた。

「ありがとう」

 置かれたコップに僕は手を添えた。掌が冷たい感触を伝えた。僕は食事をした後のゆったりとした時間が好きだった。力を抜いて、余裕のある贅沢な時間に身を任せる。幸せを感じる。

「そろそろ行くか」

 貴ちゃんはそう言って、あっさり席を立った。

「はやっ! 贅沢な時間は?」

「ここで時間を潰しててもなあ」

 贅沢な時間終了。

 僕たちはファミレスをあとにすると、1階の駐輪場で今後の予定を話し合った。

「健二の家に寄っていこうかな」

「構わないよ。ゲームでもしますか?」

「健二は弱いからな」

「なに言ってんの。僕の『スーパー吸い込み投げ』は半端じゃないよ」

 予定は決まった。僕はヘルメットを被って、バイクに跨がった。

「じゃあ、行きますか?」

 貴ちゃんも準備は整っていた。

「おう」

 僕たちは道路に出るとお互い抜かれないように走った。夜の道路を2人で駆け抜けた。


     


 僕はみんなに黙っていたことがある。自分の心を埋めようと、閉塞的な状況を打破しようと、考えていた計画がある。臆病な僕はそれを実行できなかった。今の生活を捨てるのが怖かった。だけど僕にも時間は限られている。

 社長ありがとうございます。僕みたいな奴を拾ってくれて。


 僕は11月いっぱいで仕事を辞めることが決まっていた。来年から知人の手伝いをすることになっていた。あと半年。給料は下がるけど、時間は増える。僕は時間が欲しかった。


 貴ちゃんには嘘をついていた。独立するなんて。そんな気なんてなかったのに。今の僕の貯金は160万円くらい。物凄く切り詰めれば、あと半年で40万は貯めれる。全部で200万は都合できる。貴ちゃんはそのお金で絵の学校に行く。卒業するにはまだ足りないけれど、残りのお金はそれまでに貯めればいい。お金なんて、どうにかなる。県外になんか行かせない。行っても連れ戻す。


 貴ちゃん、何も心配しなくていい。貴ちゃんには才能がある。貴ちゃんはただ絵に集中してればいい。絵を嫌いにならなければいい。僕がスポンサーになる。すぐ倒産しそうだけど……。


 それと、あともうひとつ。

 僕の本に絵を描いて欲しい。貴ちゃんの絵に手がだせなくなる前に。ただ僕がそうしたいだけ。貴ちゃんは僕のわがままに付き合うだけ。きっと人生を楽しく過ごせる。


 まずは仕事を辞めるまでに作品を完成させることが今後の最重要課題。貴ちゃんに笑ってもらうために、最高に下品でエロ満載の馬鹿な作品を書こう。

 もちろん秘密にして。半年後が楽しみ。貴ちゃん、びっくりするだろうな。


     


「なんで、こんなことやってるんだ!」

 僕はノートとペンを放り投げた。面白くない。本を書くのって全然面白くない。7月に入り、仕事が忙しくなると完全に休みがなくった。友達と遊べない欲求不満ストレスと、お金を使えない我慢ストレスと、本を書かないといけない強迫ストレスにとり憑かれていた。少しも進んでいなかった。


 テレビつけたい、映画観たい、マンガ読みたい、ゲームしたい、花火見たい、買い物したい、合コンしたい、子作りの作りだけしたい。

「よし、やーめた」

 僕は計画を放棄した。レベルが違った。今まで僕が書いていたのは本当に子供の日記だった。わかってはいたけど簡単に考え過ぎていた。今ならまだ間に合う。普通の生活に戻れる。社長に謝れば許してもらえる。お金は自分の好きなことに使えばいい。うん、そうしよう。


 僕は畳に仰向けになって、リモコンの再生ボタンを押した。黙りこんでいたMDコンポから、僕の気持ちも知らない軽快な音楽が流れだした。


 僕は天井に右手をかざし、蛍光灯の光を遮った。小さな手。僕の手から蛍光灯がはみ出している。

 そんなに難しくないはずなのに。

『貴ちゃんと2人で好きなことをしたい』

 それだけなのに、なんでこんなに遠く感じるのだろう。いつか自分の成長が止まって、限界を感じるのが怖い。僕は溜め息をついて、右手を下ろした。


 貴ちゃんとは食事をして以来会っていない。仕事が忙しくなると、連絡をするのが億劫になってしまった。貴ちゃんからも連絡はなかった。


 僕は畳の上に転がっている携帯電話を捕まえて、貴ちゃんに電話をかけてみた。繋がらない。繋がらないというか、解約している。お金がないから解約するかもしれないとは言っていたけど。

「はあ、なんかいいことないかな」

 僕は起き上がって、ノートとペンを拾った。




 11月。友達が鍋料理屋で僕の誕生日会を開いてくれた。全員顔見知りで、男は僕を入れて4人。それに女の子が3人。やっと僕も24歳になった。目標の92歳まであと68年。そこまで生き残れるかな。


 座敷には8人掛けの長いテーブルがあり、女の子たちは全員壁側に、男性陣は自由気ままに座った。僕は通路側の真ん中からひとつズレた席に座った。僕たちの座敷は出入口のそばにあり、人が出入りするたびに冷たい風が流れてくる。


 鍋の準備はもうできていて、あとは料理と飲み物を注文するだけだった。僕は海老とビールがあればよかったので、他の注文は友達に任せた。テーブルの端に座った豪快な男友達が、店員に海鮮鍋と全員の飲み物を注文した。もちろん僕はビールを頼んでいた。飲み物が届くとみんなで乾杯をした。グラスやジョッキの重なる音が店内に響いた。


 僕はごくごくとビールを喉に通し、ジョッキの3分の1ほど飲んだ。久しぶりに飲むビールが、僕の溜まったストレスを吹き飛ばしてくれた。店員が運んできた海老やホタテ、はまぐりなどの海の幸をみんなで鍋に放り込んでいく。


 蓋をして煮込む間、それぞれの近況を話し合った。仕事を辞める話はまだ友達にはしていなかった。時期が来て、準備が整えばきちんと話そうと思う。


 灰汁を取り、白菜、長ネギなどの野菜を鍋に入れて、さらに数分間煮込むと、豪華な海鮮鍋が出来上がった。みんなの拍手が沸き起こった。鍋に近い小柄な女の子がほんわりとなった食材を取り分けてくれた。


 僕はまず汁から飲んだ。アサリの出汁が効いていて、あっさりしていた。美味しい。僕は食べるより、汁ばかり飲んでいた。僕の正面に座っている和服の似合いそうな女の子がそれを見ていて、僕の取り皿に野菜や貝を装ってくれた。男はやっぱりガツガツ豪快に食べる方がいいらしい。僕は灼熱のホタテを口に放り込んだ。


 締めは雑炊だった。店員が汁だけになった鍋を見事な雑炊に変えてくれた。僕はすでにお腹が一杯で苦しかったけど、気合いで胃袋に整理した。でも、まだデザートがあるらしい。


 空になった鍋がテーブルから去っていくと、それと交代するように今度はデザートが現れた。デザートは大きな誕生日ケーキだった。しかもこの寒い季節にアイスケーキ。友達は僕の生クリーム嫌いを知っていた。それで僕の好きなアイスケーキにしてくれていた。嬉しくて僕が言葉に詰まっていると、みんなは隠していた誕生日プレゼントを一斉に取り出した。僕はびっくりして、戸惑ってしまった。

「あ、ありがとう」

 プレゼントを受け取り、ぎこちなくお礼を言った。幸せ者だと思う。こんなどうしようもない奴にここまでしてくれて。


 時間は午後9時を過ぎていた。僕もみんなも、まだまだ元気だった。ケーキを完食した僕たちは、2次会にカラオケを選んだ。


 路地裏にあるカラオケボックスはネオンの光をあたりに撒き散らしていた。受付を済ませ、ミラーボールの回転する部屋でみんなで騒いだ。ちょくちょくタンバリンが回ってくるけど、絶対僕の叩くリズムはおかしい。自分でもどう叩けばいいのかわからない。ごまかしごまかし、やっている。でも、みんな気づいているだろうな。


 3時間ほど歌って満足すると、外に出た。時刻は午前1時。いつものようにその場で解散することに決まった。帰る方向が同じ女の子を男が送って行く。僕はイカツイ男友達と女の子2人を送っていくことになった。


 他のメンバーに手を振って、僕たち4人は夜の道を歩きだした。この時間はもう市電も走っていない。川沿いの公園を歩いて、夜の橋を渡った。川から冷たい風が吹きつける。


 僕と一緒に歩いている小柄な女の子は、白いセーターを可愛く着こなしていた。僕のつまらない話を真剣に聞いて、笑ってくれる。夜の道は暗いけれど、彼女の笑顔はよく見えていた。


 無事に女の子2人を送り届け、イカツイ男友達とも適当なところで別れた。

 マンションに着くと、僕はプレゼントの入った紙袋を両手に提げたまま、階段を2段ずつ上がった。このマンションはエレベーターがついてない上に、夜は節電されているため、階段や廊下が薄暗い。


 ふらついた足どりで部屋に戻り、ちゃぶ台の上にプレゼントを置いた。楽しかったし、嬉しかった。そして11月に入ってもうひとつ嬉しいことがあった。書いていた物語をなんとか完成させた。これであとは12月を待つだけ。やった。


 僕はパジャマに着替えて、ちゃぶ台に顔を伏せた。将来に対しては不安や心配しかない。それでもひとつ証を残せた。形は不細工でも、やり遂げたことが嬉しかった。下品で下ネタ満載の馬鹿な話。あとは貴ちゃんに読んでもらおう。笑ってくれたらいいな。


 僕はみんなからもらったプレゼントに意識を移した。誰もいない部屋にこのギャップは辛い。僕はみんなにお礼のメールを打って、洗面所に向かった。




 12月3日、午後3時26分。

 ついに僕の計画を貴ちゃんに話す時がきた。部屋の掃除も済ませた。お風呂も入った。職場の人に挨拶回りもした。お金も200万円貯まった。あとは貴ちゃんと話をするだけ。


 胡座を組んだ足の前に、携帯電話を供えるように置いた。深呼吸をしてイメージトレーニングを始める。目を閉じ、心を鎮め、意識を深くしていく。光と共に僕と貴ちゃんの映像が見えてきた。


 僕は光の中で携帯電話を手に取り、貴ちゃんに電話をかけた。貴ちゃんの声が聞こえた。

『はい、もしもし、山本です』

『貴ちゃん? 健二だけど』

『おう、健二。久しぶり』

『よかった、まだいてくれて。携帯電話も繋がらないし、連絡もないから、もう働きに出たのかと思ってた』

『まだこっちにいるよ。オイラもいろいろと忙しくて、電話をかけるタイミングがなくてさ。健二も忙しそうだったし』

『そうなんだ。いや、今日は貴ちゃんに大事な話があって』

『話? なんだよ、珍しいな』

『うん。いや、実は僕、先月で仕事を辞めたんだ』

『辞めたの? なんでまた。セクハラでもした?』

『してないよ! うん、その、僕もいろいろとあって。でも、来年からまた頑張るから全然問題ないよ。それで聞いて欲しい話はまだあって、実はさ、その……本を、本をね、言いにくいんだけど……本を書いてみたんだ。よければ読んで感想聞かせてよ』

『健二、本なんか書いてたっけ?』

『うん、まあ、少しだけね。それで、もし貴ちゃんが僕の本を気に入ってくれたら、僕の本に絵を描いてもらいたいなあと思って』

『オイラが健二の本に絵を描く? またいろいろ話が急だな。どうしたんだよ』

『どうもしないよ。本を書くのって意外と楽しいし、貴ちゃんにも絵を描いていてもらいたいから』

『そりゃあ、絵を描くぐらい、いいけどさ』

『それともうひとつあるんだ』

『まだあるのかよ』

『うん、貴ちゃん、よく聞いて。今、僕の貯金が200万円あるから、それで絵の学校に行って欲しい。もし足りなくても、どうにかしてお金は作るから。あっ、これは投資だから返さなくてもいいよ。心配なら誓約書を書いてもいいし』

『何を言ってるんだよ。なんで、オイラが健二のお金で学校に行くんだよ。しかもこの歳から』

『まだ24歳じゃん。2、3年で卒業しても余裕だよ。それに年齢なんか関係ないよ。人間は諦めない限り、ずっーと成長できるんだから。大丈夫、貴ちゃんならやれる。それが僕のためでもあるし。さっきも言ったけど、僕は貴ちゃんに投資をするの』

『プレッシャーになるだけだって、それに考えが甘すぎ。子供じゃないんだから』

『わかってる。だけど、失敗や間違いを怖がっていたら、なんにもできないよ。もし転んだとしてもまた起き上がればいい。貴ちゃんは絵を諦めて生きていける?』

『もう諦めてるよ』

『貴ちゃん。あのね、僕は絵って凄いと思ってる。何百年、何千年も昔の絵が今でも残ってる。そういうのってなんか憧れるし、凄く羨ましい。僕が一生をかけても手に入れられないものだから。心配しないで情熱を持ち続けて欲しい。貴ちゃんはきっと凄くなる。貴ちゃんは僕なんかより、すんごい才能があるんだから』

『ねえよ。オイラにそんなもん』

『あるよ。だから、弱音を吐くのはやってみてからにしようよ。とにかく、これが最後だから。僕は本を書く。貴ちゃんは学校に行く。そして僕の本に絵を書く。これはもう強制で決定してるの』

『健二は昔から変なところで頑固だな。……別にいいけど、オイラどうなっても知らないよ』

『うん、大丈夫。じゃあ、決まりね』

 貴ちゃん、約束したからね。2人で最高に馬鹿な世界を完成させよう。

 僕はゆっくり意識を引き上げ、目を開いた。よし、イメージトレーニング完了。


 さっそく僕は携帯電話を手にして、貴ちゃんの実家に電話をかけ……ようとしたけど貴ちゃんの実家の電話番号を知らないことに気づいた。こんな大切なことを忘れるなんて。


 僕は押し入れから高校の卒業アルバムを引っ張り出して、卒業名簿のページを開いた。実家の電話番号を指でなぞりながら、携帯電話に数字を打ち込み、今度こそ本当に電話をかけた。


 貴ちゃんの家族とはあまり面識がないせいか、変な緊張を感じる。できれば貴ちゃんがでますように。一定のリズムで鳴る呼び出し音が、貴ちゃんのお母さんに変わった。


 僕は落ち着かなく言った。

「すみません。貴志くんの友達の杉浦ですけど、貴志くんはいますか?」




 貴ちゃんの実家に電話をかけて、1時間ほどが経った。電話を切った僕は携帯電話のスケジュール帳を開いて、12月14日の日付に『貴ちゃんの実家』と短いメモを入力した。


 外から射す光に誘われるように僕はベランダに近づき、ガラス戸を開けた。冷たい風が部屋の温度と僕の体温を急激に下げた。僕は寒さをしのぐように腕を組み、ベランダから外を見渡した。視界を塞ぐ大きな公社ビル、マンション、黄色い屋根の写真屋、民家、コンビニ。


 僕は畳みの上に座り、狭いベランダに両足を放り出した。U字型に削られたコンクリートの壁に、4本の鉄の手摺が転落防止用についている。


 僕は一番下の手摺を右足の踵で蹴ってみた。お寺の鐘を突いたような音がベランダに響いた。音が消えそうになると、僕はまた手摺に蹴りを入れた。消えそうになれば蹴り、消えそうになればまた蹴る。それを何度も何度も、しつこいくらい繰り返した。手摺に蹴りを入れると、その回数に比例して持っていると吐いてしまいそうな感情が、僕の心に蓄積されていった。それでも僕は手摺を蹴られずにはいられなかった。吐き気を催そうが、意識をなくそうが、今の僕には手摺を蹴る理由があった。


 僕はいつも話題を探していた。

 面白いことがあると1番に貴ちゃんに話した。貴ちゃんが好きそうな話題を無意識に探していた。貴ちゃんを笑わせたかった。だけど、もうその必要はなくなった。貴ちゃんは首を吊って死んでいた。


 別にいい。どうってことない。たくさんいる友達の1人が死んだだけ。貴ちゃんの代わりなんていくらでもいる。お金もやらなくてすんだ。とりあえず僕は冷えきった両足を部屋の中に引っ込めた。



 約束をした日になると、僕は不慣れなスーツを着て、貴ちゃんの実家を訪ねた。玄関で貴ちゃんのお姉さんが僕を迎えてくれた。貴ちゃんの実家には3回ほど来たことがある。


 田舎の一軒家で、家も庭も広い。庭の隅には納屋があり、鍬や一輪車などの農工具が詰まっていた。貴ちゃんはこの納屋で死んだ。


 僕はお姉さんに家の中を案内され、居間に通された。8畳ほどの居間に仏壇があり、鴨居の上に貴ちゃんの遺影が飾ってあった。僕は仏壇の前に座り、線香をあげて、写真になった貴ちゃんに手を合わせた。


 貴ちゃんのお父さんは応接間にいた。僕はお父さんに香典を渡し、短い話を済ませると、お姉さんにお墓を案内してもらった。高台にあるお墓は海も近かった。墓碑に刻まれた貴ちゃんの名前はなぜか白く、年齢も僕より1歳年上になっていた。日付は6月14日。半年も前に貴ちゃんは死んでいた。それを知らなかった僕は1人で舞い上がっていた。馬鹿だと思う。


 お墓参りを済ませ、貴ちゃんの家族に別れの挨拶をすると、僕は車に乗り込んだ。あまり長くはいたくなかった。借りた車を返すために、僕は重たいハンドルをきった。

 


 貴ちゃんの家族に対してはなんの感情も湧かなかった。励ます気持ちも、責める気持ちも、友達として申し訳ないという気持ちもなかった。ただ、漠然とした疑問だけがあった。貴ちゃんの家族はどうなるのだろうと。これから死ぬまで貴ちゃんを引きずるのか、それとも時間と共に忘れていくのか。貴ちゃんのことが嫌いで死んでよかったのなら、僕は何も言わない。別にいい。だけど、もし残されて苦しむのであれば、僕はそれを望まない。

『貴ちゃんに関わった人全員が幸せになる』

 僕は想いを言葉に乗せた。




 知人の仕事を手伝いながら、僕は毎日を過ごしていた。平穏な毎日を過ごしている内に冬も終わり、貴ちゃんのいない初めての春が訪れた。


 水曜日が休みになり、僕は1人でゲームセンターに向かった。目指すゲームセンターは陸上競技場のそばにある。1階は駐車場と階段になっており、地下と2階がゲームセンターになっている。僕は地下への階段を下りてゲームセンターに入った。空気が悪い。むせかえりそうな空気がその場にじっとうずくまっていた。


 店内にはゲームセンターらしく、筐体ゲームやメダルゲームが多数揃っていた。CGの馬が大画面の中を走り、改造されたパチンコ台やスロット台が店の奥に並んでいる。対戦台にはまばらに人がついていた。僕はクレーンゲームを探したけれど、地下には見当たらなかった。クレーンゲームは得意でもないし、もし取れたとしても荷物になるからあまり好きではないのだけど、なぜかどうしてもやりたくなり、僕は2階へ上がった。


 2階は音楽ゲームが大音量で鳴っていた。レースゲームやガンシューティングゲームもあり、お目当てのクレーンゲームは2階の中央付近にあった。クレーンゲームを覗き、掌に収まりそうな小さなクマのぬいぐるみを見つけ、硬貨投入口に100円を入れた。細かい位置調整をして、アームを動かし、ボタンを離す。2本の鉄の指がクマのぬいぐるみめがけて下りていった。


 鉄の指がクマのぬいぐるみをすくい上げ、僕は取れたと思ったけれど、そんな僕の期待をあざ笑うかのように、クマのぬいぐるみはするりと鉄の指から逃げていった。


 もう一回。僕はまた微調整をしてボタンを離した。今度はクマのぬいぐるみの体を挟んだ。だけど、結構ぎりぎりだった。予想通りクマのぬいぐるみは空中でバンジージャンプ。そのまま、戻ってこなかった。バンジージャンプじゃなくて、ただの飛び降りだった。死なないで。


 もう一回。僕はさらに100円を投入した。次は絶対取る。狙いを定めた鉄の指が、クマのぬいぐるみの首にヒットした。絞殺攻撃。飛び降りVS絞殺。どっちが勝つか。逃がしはしない。僕はやっとクマのぬいぐるみを勝ち取った。


 クマのぬいぐるみをポケットにしまうと、他のクレーンゲームを簡単に見て回った。欲しい物がなかったので地下へと戻り、改造されたパチンコ台に座った。100円を入れて、パチンコ台のハンドルを回した。


 カシャン、カシャン。

 一定のリズムで銀の玉が飛んでいく。カシャン、カシャン。スタートチャッカーに玉が入り、デジタルの数字が回り始めた。

 ハズレ、ハズレ、ハズレ、ハズレ、ハズレ、ハズレ、ハズレ、ハズレ、ハズレ、ハズレ、ハズレ、ハズレ、ハズレ、ハズレ、ハズレ、ハズレ、ハズレ、リーチ、ハズレ、ハズレ、僕の人生も、ハズレ、ハズレ、ハズレ、ハズレ、ハズレ、ハズレ……。面白くない。


 僕は玉を全部打ち切り、ゲームセンターを出た。コンビニでお茶とおにぎりを買って、陸上競技場へ向かった。陸上競技場の門柱にはプレートがはめ込まれていた。


『県立総合競技場北門』


 僕は車止めのチェーンを跨いで、敷地内に入った。

 入り口から左手には陸上やサッカーなどをする総合競技場があり、右手には野球場とピッチング場がある。正面には列立したヤシの木が広い道を作り、その道の突き当たりには、五人の男女が大きな掌に乗っているモニュメントがある。僕はヤシの木の道を歩いて、モニュメントを目指した。


 スポーツ関係のイベントがないせいで、あたりは閑散としていた。関係者らしいスーツを着た男性が車に乗って競技場から出ていく。僕がモニュメントに辿り着くまでに目撃した人物はその人だけだった。


 モニュメントの前には石囲いの噴水がある。噴水なのに水は噴出しておらず、溜まった水が黄緑色に変色していた。噴水は周囲より2段ほど高くなっていて、僕はその段差に腰を下ろした。レジ袋からお茶とおにぎりを取り出し、すっぱい梅のおにぎりを頬張りながら、陸上競技場を一瞥した。


 競技場、野球場、ピッチング場、ヤシの木、それらの短い影、青い空。


 構図がよかった。僕はおにぎりを口に詰め込み、買い替えた携帯電話で何枚か写真を撮った。ゴミをレジ袋にまとめ、ポケットにねじ込んだ。お茶を飲んで一息つくと、後ろへ倒れ込んだ。


 人の手の形をした雲が僕の真上に浮かんでいた。さっき遊んだクレーンゲームを思い出す。この雲が僕のところへ下りてきて、僕の心臓をもぎとってくれないかな。そんな雲任せなことを考える。


 それにしてもひどい。まさかこんな結末は予想していなかった。まだ24年しか生きていない自分の人生に組み込むほどの大切な友達が、首を吊って自殺するなんてさすがに予想していなかった。


『貴ちゃんと二人で好きなことをしたい』

 難しい理想なんかじゃなかった。実現可能な範囲だった。だけどもうそれは、どんなに手を伸ばしても届かない遠い夢になってしまった。


 ああ、こんなはずじゃなかった。もっと楽な人生がいい。楽しく過ごせる人生がいい。ボウリングのピンに憧れる。自分からは一切行動を起こさず、ボールが当たった時にだけ適当なリアクションをする。そんなちょろい人生がいい。


 僕は青い空を見ながら、深い溜め息をついた。伸びた前髪が風に揺れた。僕はクマのぬいぐるみを思い出し、ポケットから掘り起こした。クマのぬいぐるみと真剣に見つめ合う。黒いつぶらな瞳が潤んでいるように見えた。


「クマ助。僕は……」

 ぬいぐるみの名前をなんとなく決め、言いかけた言葉を飲み込み、僕はまた溜め息をついた。ぬいぐるみを相手に何をしているのだろう。僕は冷静になり、クマ助を噴水に放り投げた。


 友達が死んだくらいで自分を見失うなんて、僕らしくない。帰ろう。僕は立ち上がって、お尻と背中をはたき、陸上競技場を後にした。


 時間にして10分ほど、道路を跨ぐ陸橋を過ぎたあたりで僕は放り投げたクマ助が気になり、また陸上競技場へ戻った。




 言葉が突然消えた。

 貴ちゃんとたくさん話そうと思っていた。我慢して、苦しみを乗り越えて、たくさん話す予定だった。


 多くなるほど、価値が低くなる。僕の言葉もそうなってしまった。貴ちゃんに対して言いたいことがたくさんあって、だけど貴ちゃんはいなくなって、そうして行き場所をなくした言葉が増え続け、過剰に余り、次第に価値を薄め、弾けるように僕の中から消えた。

 それは本当に奇妙で苦しい、初めての感覚だった。言葉が大量にあるのに存在を感じない。

 僕の言葉の価値は、道端に落ちている小石ぐらいになっていた。



 5月。僕は運転手に料金を支払い、タクシーを降りた。

 長袖の白いシャツにジーンズを合わせ、買ったばかりのスニーカーを試すように街を歩いた。


 冷静な友達からメールが届いたのは、昼前のワイドショーを観ていた時だった。醤油味の煎餅をかじりながら、冷静な友達と数回メールを交わした結果、僕は午後7時に『rain』へ行くことになった。


 『rain』に着いたのは午後6時51分だった。店内には先客が3人いた。テーブルに恋人らしき男女が2人、カウンターに若い男性が1人。カウンターの男性は冷静な友達と話をしていた。


 僕はその男性から離れて座り、冷静な友達に挨拶をして、モスコミュールとヴォンゴレ・ビアンコを頼んだ。注文を受けた冷静な友達は手早くモスコミュールを作り、調理場へと消えた。僕はモスコミュールを飲みながら、料理が出来上がるのを待った。


 貴ちゃんのことは誰にも話していなかった。絵のことも本のことも話していなかった。完全にタイミングを失ってしまった。誰にも話せなかった。嫌いな言い方をすれば、どうすればいいのかわからなかった。誰かに話すべきなのか、やめておくべきなのか。自分の気持ちを整理して、細分化して、冷静になって分析しても、どうしてもわからなかった。


 10分も経たない内に、冷静な友達がヴォンゴレ・ビアンコを持って、カウンターに戻ってきた。僕は美味しそうに出てきたヴォンゴレ・ビアンコをフォークに絡め、口に運んだ。食べながら冷静な友達と話をした。カウンターに座っている若い男性は冷静な友達の後輩らしく、僕より2歳年下だった。


 ヴォンゴレ・ビアンコを食べ終わり、2杯目のモスコミュールをちびちびやりながら、3人で会話をしていると、以前とは若干メンバーの違う、中学校の同級生が店に入ってきた。


 まさかこの店は友達でもっているのか? そんな疑問が頭を横切った。

 同級生に簡単な挨拶をして、僕はまたモスコミュールを飲み始めた。今度は1人でモスコミュールを飲んでいたら、有難いことにみんなが飲んでいる席に誘われた。

 でも、まったくその気がないわがままな僕は「もう帰る」と言ってお金を払い、火事場から逃げるように『rain』を出た。しかし、出るのが早すぎた。まだ9時にもなっていなかった。晩御飯を食べて出てきただけだった。まあいい、別に。


 外の世界はネオンと人で溢れていて、すっかり夜の街になっていた。

 ファッションビルの前で信号が変わるのを待っていると、派手な服装をした女性に声をかけられた。キャバクラの勧誘かと思ったけれど、メンズエステの勧誘だった。


 信号が青になったので、僕は「ごめんなさい」と言って、停留場へ駆けた。数分後に市役所方面から、市電が走ってきた。


 僕は市電に乗り込むと、前の方の席に座った。正面には髪の長いOLらしき女性がいた。髪の長い女性は目を閉じ、首を傾けて座っている。市電が走り出すと、僕は彼女の後ろを流れる風景を目で追った。


 派手なネオンのゲームセンターが流れた。ひっそりとした商工会議所が流れた。バス停とその奥の本屋がずれて流れた。交差点を左に曲がると、角にあるコンビニが流れた。鏡で建てられたような保険会社のビルが流れた。市立病院の前で市電が停まった。乗客が6人降りた。髪の長い女性はまだ目を閉じている。彼女の背景がまた流れ始めた。


 陸橋が流れた。もう閉まっているバイクショップが流れた。夜の公園が流れた。交通局前で市電が停まり、運転手が代わった。建設中のマンションが流れた。またコンビニが流れた。潰れそうなレンタルビデオショップが流れた。僕は後ろを向いて、降車ボタンを押し、ガソリンスタンド前の停留場で降りた。


 ほろ酔いにもなっていない僕は、コンビニで缶酎ハイを買って、母校の小学校へ歩いた。夜の学校はちょっと怖い。僕は鉄扉を越えて小学校に忍び込み、暗い校舎のそばを通って校庭に出た。校庭は道路からの灯りを受けていたので、校舎や体育館よりは幾分明るかった。校庭の隅にうっすらと平均台が見える。


 僕は平均台に近づき、缶酎ハイを開けた。平均台の端をつま先で2回こずき、慎重に右足から入った。缶酎ハイを飲みながら、平均台を渡っていく。平均台はそんなに細くはないので、集中していれば落ちることはない。


 僕は何か辛いことがあると、こうして平均台を求める癖があった。理由は、自分が当事者になりたくなかったから。自分が当事者になっていることを忘れたかったから。僕は常に物事の境界線に立っていて、右にも左にも落ちずにただ真っ直ぐ渡るだけ。そうすれば、世の中も上手に渡っていける。いろいろな物事に関わらないで中立でいられる。巻き込まれたくない。そんな思いが僕を平均台へ向かわせていた。


 大人になって悪知恵を覚えたせいか、暗闇だろうと、缶酎ハイを飲んでいようと、僕が平均台から落ちることはなかった。平均台を何度も渡り、体と感覚が疲れてくると、お尻を平均台に乗せて休憩をした。悪知恵は覚えたけれど、体力は落ちていた。僕は缶酎ハイを飲み干し、休憩を済ませて、また平均台を渡った。


 来月は貴ちゃんの1周忌。とはいっても、僕からすればまだ半年しか経ってない。1周忌じゃなくて、半周忌だった。

 6月14日。0614。クレジットカードの暗証番号のように覚えてしまった。




 僕にはふたつ心配事があった。

 ひとつは、貴ちゃんが未来に絶望して、人生を憎んで死んでいったこと。

 そして、もうひとつは僕がその感情を引き継いでしまっていること。

 決着をつけないといけない。

 僕と貴ちゃんが過ごした大切な時間や思い出を、そんな感情に汚させはしない。



 2004年6月14日、午後1時30分。

 僕は貴ちゃんに読んでもらうはずだったノートを2冊とカモミールの線香と100円ライターをバイクに積んだ。40分ほど海岸に向かって走り、貴ちゃんが眠る墓地の坂道を上った。お墓の前でバイクを停めて、積んでいた線香とライターを取り出した。


 お墓にはユリの花が供えてあった。僕は線香に火をつけて、お墓に供え、そして静かに両手を合わせた。貴ちゃんのお墓を前にすると、複雑な感情が消えてなくなってしまう。会えない寂しさ、悲しみ、置き去りにされた怒り、やりようのない悔しさ、謝る気持ちや感謝の気持ちさえなくなってしまう。貴ちゃんのいない現実に比べたら、そんな感情は些細なものだった。


 ただひとつ確かに言えることは、僕は貴ちゃんを必要としていた。貴ちゃんがいない現実の中でも、それだけは決して消えることはなかった。

「必要としてたよ、ずっと」


 お墓の隅に竹箒があった。ついでだから掃除をしていこうかと思い、墓石の周りを見渡した。だけど、木の葉一枚さえ落ちていなかった。僕は速やかに撤収することにした。 


 帰りにお墓の裏手にある海に寄った。海水浴場の駐車場にバイクを停め、100円ライターと2冊のノートを持って、砂浜に向かった。人は少なかった。遠くで米粒ぐらいの人影が何粒か見えただけだった。持ってきたノートは砂浜で燃やそうと思っていたけれど、海の家のそばに金網のゴミ箱があったので2冊ともそこに捨てた。


 僕は人気のない砂浜に座り、海を眺めた。波は穏やかだった。さりげなく砂浜に寄せていた。僕は海を眺めながら、体をバタンと左に倒した。ざらついた砂が頬にくっついてきた。海の風が強く吹かないことを祈った。


 去年のこの日に貴ちゃんは死んだ。そんな当たり前のことを思ってしまう。もうその現実は変えられないのだから、無理にでも受け入れて、やれることを少しずつやっていくしかなかった。


 柔らかい波の音が僕を癒してくれる。鼻の付け根と左の目尻が濡れていた。今頃になって泣くなんて。しかも、こんな場所で。もっと考えて泣けばいいのに。僕は涙を押し出すようにぎゅっと目を瞑った。


 しばらく目を瞑っていると、2匹の蝿が僕の体にたかってきた。ついに僕の死臭を嗅ぎつけたか。蝿は僕の生死を確かめるように飛び回り、朽ちていく僕の体に卵を植えつけようとしていた。きっと僕はもう死んでいるだ。だから、こいつらは僕を狙っているんだ。


 僕は勢いをつけて上半身を起こし、両手をブンブン振り回し、まとわりつく蝿共を追い払った。

「僕はまだ死なない」

 両手で砂を掴み、そこら中に撒き散らした。

 蝿たちとそんな馬鹿なことをしていたら、ふと、人の気配を感じた。


 顔を右に向けると犬を連れた20歳くらいの女性がいた。彼女と気まずく目が合ってしまい、慌てた僕は左の頬についた砂を急いで払って、なぜか軽く会釈をした。彼女も軽く会釈をした。そして、こっちに近づいてきた。彼女の連れている犬が僕の近くで止まり、高い声で数回吠えた。


 僕は両手の砂を払い落として、犬を撫でようとしたけれど、犬は吠えるばかりで僕の射程距離には入ってこなかった。

「なんていう種類の犬ですか?」

 その場しのぎになんとなく訊いてはみたものの、彼女のカタカナらしき答えは全然僕の記憶に残らなかった。ただ、小型で耳がピンと張っていて、滑らかな茶色い毛で覆われていて、これからの季節は暑そうだな、としか思わなかった。

 彼女と犬が去っていくと、僕は息を深く吐いて、また海を眺めた。




 翌週の木曜日。僕は小さなトートバッグに、ノートとペンとお茶とクリームパンを詰め込み、それを持ってマンションの屋上に向かった。軽快な足取りで階段を駆け上がり、屋上のドアに手をかけた……けれど、鍵が閉まっていて開かなかった。


 しょうがないので隣のビルに侵入して、ビルの五階からマンションの屋上へ飛び移った。フェンスをよじ登り、マンションの屋上に華麗な着地を決めた。


 空は雲ひとつある快晴で、風は心地よく吹いていた。屋上には塔屋があり、さっき僕の邪魔をしたドアは4階へ下りる階段に続いている。塔屋の隣には大きな貯水槽もあった。


 僕は屋上に張り巡らされたフェンスに近寄り、下を覗いた。僕の住んでいる部屋からは南西の方角は見えないので、なかなか新鮮な景色だった。学習塾があり、2階の教室の窓際がかろうじて見えた。夕方以降なら、勉学に勤しむ中学生の姿も見えるかもしれない。


 立ち疲れた僕は塔屋の前に座り、分厚いコンクリートの壁を背もたれにした。太陽がほぼ真上にあるせいで、ほとんど影がなかった。直射日光を全身で受けていた。僕はトートバッグからお茶を取り出し、一口だけ飲んだ。


 膝を立てて、ノートとペンを手にした。相変わらずまったく書けない。依然として言葉は消えていた。

「こりゃ、何年かかるかわかりませんな」

 それまで死に捕まらなければいいけど。

 僕は座ったまま、青い空に向かって背筋を伸ばした。


 『フィルター』 終




『ウツワ』

 

 顔をあげると空に伸びる山が見えた。見慣れた田圃が広がった。蝉の声はまだ聞こえない。学校の授業は昼過ぎに終わり、少年は家路についていた。あと3週間もすれば夏休みが始まる。その現実が夏の蒸し暑さを和らげてくれた。


 少年はランドセルを背負い直し、被っている帽子を上げて、額の汗を手で払った。2本に別れた道を左に曲がると、少年の家が見えてきた。少年は嬉しくなった。漫画にテレビにゲーム。家には楽しいことがいっぱい待っていた。したいことがたくさんあった。


 少年は芝生の庭を通って、家の前に立った。家の鍵を開けるのは少年の役目だった。ランドセルから鍵を取り出して、鍵穴に差し込んだ。手首の回転に合わせて、鍵の外れる音がした。

 汗で蒸れた運動靴を玄関に脱ぎ捨て、ランドセルと帽子を部屋に放り込んだ。洗面所でシャツと靴下を脱ぎ、洗濯かごに入れた。

 ノドガ、カワイタ。

 少年は暑さで大量の水分を失っていた。学校からここまで何も飲んでいない。水分の補給が急務だった。


 台所の中は午後の光で満ちていた。食器棚の隣で冷蔵庫が犬のように唸っている。少年は冷蔵庫を開けて、飲み物を探した。牛乳、オレンジジュース、麦茶があった。牛乳とオレンジジュースは喉にまとわりつきそうなので、今回は見送ることにした。


 少年はテーブルの中央で逆さまになっているコップをひっくり返し、麦茶をついだ。

 ヤット、ノメル。

 麦茶の入ったコップを掴み、口元に運んだ。熱くなった体に冷たい麦茶が染み渡っていくのを感じた。それでも、

 マダ、タリナイ。

 熱で暴走した体を鎮めるには不十分な量だった。空にしたコップをテーブルに置いて、2杯目をつぎ始めた。薄茶色の麦茶が再びコップに満たされていく。


 少年はそうして日常を繰り返していた。いつもの週末だった。そういえば、昨日もこうして麦茶を飲んだ。何気なく過ごす毎日を少年は変わらないと思っていた。でも、それは違った。日々は変化していた。そして、少年も絶えず変化していた。だから、気づけた。昨日まで、いや、数秒前までの少年では気がつかなかった。少年は変わったことで、それまでとの些細な違いに気づき始めていた。


 2杯目もすっかり飲み干すと、潤った体はだいぶ軽くなっていた。あと少し飲めば、空さえ飛べそうな気がした。手に持った紙パックの麦茶もだいぶ軽くなっていた。

 どうせだからと、残っている麦茶を全部飲むことに決め、紙パックの口をコップの縁にあてた。


 麦茶で満たされたコップを見て、少年は何かを感じた。さっき2杯目をついだ時に自分の中から湧き出てきた感情だった。しかし、それは決して良い感情ではなかった。哀しみや切なさに近い感情だった。


 少年は迷った。この自分の感情に関わらずに、そのままやり過ごすこともできる。部屋に戻れば、楽しいことがいっぱい待っている。わざわざ自分から、こんな感情を呼び覚ますことはない。やめよう、忘れよう。忘れて、また変わらない日常を過ごそう。でも、

 タシカメタイ。

 確かめてみたい。濁った感情のまま、このあとの時間を過ごすことは不可能だった。未来で待つ感情が辛いものだとしても、確かめてみたい。少年は踏み出す決意を固めた。


 感情は不透明でも、原因ははっきりしていた。少年はそれを見つめた。

 コップが麦茶で満たされている。

 きっかけはいつもそばにあった。もうほとんど重さを感じない紙パックの麦茶を満杯のコップに近づけて、少しづつ傾けていった。一滴一滴をコップにつぎ足していく。


 限界はもう近い。時間が進むだけで、それは必ず起こる。溢れそうな麦茶の表面が収縮を起こし、面積を小さくとろうとしていた。少年は気にすることなく、その力を越える量の麦茶をコップに与えた。

 そして時間は進み、それは起こった。麦茶がコップから溢れた。溢れた麦茶はコップの側面をつたい、テーブルの上に小さな池を作った。


 ドン!


 心臓が1回だけ、強く鳴った。少年は思わず胸を抑えた。今度は自分の感情が体から溢れていきそうだった。少年はそれを防ごうと、必死で胸を抑えた。やっと理解した。コップと自分。少年は強く否定した。そうした自分の感情に抵抗する純粋な心が、より少年の感情を膨らませ、ウツワとなる体を満たそうとしていた。それは少年に良い結果をもたらすことはなかった。強すぎる感情が自分の力の及ばない場所へ進んでいる。このままでは自分の感情に殺される。


 少年はまだ残っている麦茶を投げ捨て、冷蔵庫を乱暴に開けた。中から紙パックのオレンジジュースを取り出し、抱き抱え、裸足のまま家を飛び出した。庭の門を過ぎると、目の前に田園風景が広がった。植えられた苗が夏の日射しを浴びている。


 心臓の鼓動が何度も少年を叩いた。その危険を察知するように少年の意志が、少年の行動に直接訴えた。

『ハヤク、ハヤク、トマルナ、ハシレ!』

 少年は走った。道を右へ折れて、古い一軒家の並ぶ通りに入った。長い直線に入ると少年はさらにスピードを上げた。感情はまだ膨らみ続けている。流れる景色が直線になり、少年の横を通り過ぎていった。正面の景色だけがはっきりと見えた。丁字路で待ち構えているカーブミラー。塀を歩く猫。路上で停車している乗用車。突き当たりを右に曲がる。横切る自転車専用の道路。連絡先の書かれた不審船注意の看板。緩やかな下り坂を抜けた。小さな鮮魚店。その前で番をしている赤い自動販売機。ガラガラに空いた駐車場に出ると、少年の目が霞んだ。自分の力の無さを恨んだ。否定し、膨らみ続ける感情に対抗する力を持っていなかった。悔しくて、泣いてしまった。涙で視界が悪くなっても、少年は立ち止まらなかった。抱えたオレンジジュースを落とさないように、涙を拭きながら走った。停泊中の小型船、遊泳時の注意事項の看板。公衆トイレの方に駆けた。茂みに囲まれた小さな川に小さな橋。その小さな橋を渡ると、少年の足の裏が砂を感じた。砂には雑草も混じっていた。少年は走るのを緩め、歩きながら、息を整えた。次第に雑草はなくなり、温かかった砂が熱砂に変わった。


 少年は立ち止まり、目を閉じた。呼吸を整え、風に身を委ねた。まだ濡れている目をゆっくりと開けた。青い色が見えた。少年は確かめるように何度か瞬きをした。そこには青い海が広がっていた。波の音が少年を包んだ。潮風が少年の頬に触れた。涙を手で払い、空を見た。仲間に置いていかれた雲が、気にする様子もなく漂っていた。少年は抱えているオレンジジュースの口を開けて、海に近づいた。波の音が強さを増した。寄せる波に両足が触れた。

 ココナラ、キット。

 少年はオレンジジュースを海へと注いだ。


 『ウツワ』 終





 『扇風機』


 遼太郎は環境に気を使う高校生だった。地球温暖化を食い止める使命に燃えていた。リビングにクーラーはあるが使う気はなかった。クーラーを使わずにこの熱帯夜を乗り切る。そのためには、どうしても目の前にある扇風機が必要だった。だが、扇風機には働く気がなかった。やる気の欠片さえ感じられなかった。


(回らない扇風機は先生のいない学校と同じだ)


 遼太郎は扇風機を窺いながら、スイッチに手を伸ばした。扇風機の丸い目がキラリと光った。


(見つかった!?)


 遼太郎は危険を感じ、直ぐに手を引いた。


(危ない。もう少しでやられるところだった。戦法を変えよう)


 遼太郎はテレビをつけて、気のないそぶりをみせた。音楽番組を観ているフリをして、横目でチラチラと扇風機を見る。


(大人しい……僕を騙そうとしているのか?)


 不信に思った遼太郎は扇風機にばれないように、慎重に行動を進めた。フローリングに体を横たえ、番組から流れる曲に鼻歌を合わせた。くつろいでいる小芝居を扇風機に見せながら、少しずつ右足を伸ばしていく。


(これならうまくいく)


 そして遼太郎の足の指が扇風機のスイッチをロックオンした。


(今だ!)


 扇風機をつけようとしたその瞬間、伸ばした右足に激痛が走った。

「痛い!」遼太郎は思わず叫んだ。


(やられた! 罠か!)


 遼太郎はつった足を必死にさすった。


(まさかこんな簡単なトラップに引っかかるとは……。仕切り直す必要があ

る。こいつには意地でも、現実の厳しさを教えてやる)


 このまま引き下がれない遼太郎は、立ち上がって扇風機を威圧した。扇風機も攻撃の姿勢は崩していない。遼太郎と扇風機の間に砂塵が舞った。


 そのまま10分ほど扇風機と睨み合っていたら、父親のロバートが仕事から帰ってきた。

「お前、なんでこんな暑いのにクーラー切っちょっとよ」

 ロバートは遼太郎も扇風機も通り越して、クーラーのスイッチを押した。

「ピピッ」という電子音がリビングに虚しく響いた。


 『扇風機』 終





 『閉じられた本S』


 ポテトとベーコンのピザを完食した僕は、紙ナプキンで口の周りを拭いた。水を飲んで一呼吸して、あたりを見渡した。夕食時にも関わらず、僕以外に客はいなかった。僕がそう決めていた。絵の中にいるタキシードを着た男性は、休むことなく僕を睨んでいる。外はすっかり暗くなり、太陽を反射していた海も黒く染められていた。


 女性の店員が食後のアイスレモンティーを運んできた。僕がお礼を言うと、彼女は一礼してピザのお皿をさげていった。僕はアイスレモンティーを飲みながら、携帯電話をいじった。ダウンロードしていた電子書籍がまだ読みかけだった。僕は女性の作家を好んで読んだ。


 電子書籍を読了すると、画面を待受に戻して時間を確認した。10時47分になっていた。読むのが遅いせいで、だいぶ時間が経っていた。僕は隣の椅子に置いていたバッグを漁り、ドアの絵が描かれた1冊の本を取り出した。表紙を2回はたき、テーブルの上に置いた。

 この本の時間を感じる。僕は祈るように両手を合わせ、本におまじないをかけた。


『人の憎しみ、恨み、妬み、苦しみ、悲しみ、痛み、絶望、闇は、すべてこの本に集まる』


 ありがとう、力を貸してくれて。信じていたからこの本を書けた。そして、これからも信じ続ける。感じて欲しい。いつもそばにある。


『集まった感情は浄化され、解き放たれる』


 最後の仕上げはもうすぐ。


 僕はふと、夜の海が見たい衝動にかられ、窓ガラスに近づいた。黒い海がうねうねとうごめき、月の光を奪い合っているように見えた。僕は窓ガラスに両手を張りつけ、おでこを寄せた。月の光の奪い合いは朝まで終わりそうになかった。


 夜の海を見ながら、僕は死んでいった1人の友を想った。不思議な気持ちだった。絶対に認められないという思いと、その友の考えや意志を受け入れている自分がいた。現実の恐さを僕なりに感じているのだと思う。


 突然、背後から足音が聞こえた。僕はどうせ女性の店員だろうと思い、気にせずに黒い海を見続けた。窓ガラスが黒い海をスクリーンにして、店内を鏡のように映していた。不完全な鏡に映った人の姿は女性の店員ではなかった。僕が座っていた席の近くにスーツを着た男性の姿が映り込んだ。


 予想に反して現れた男性の姿にさすがに少し驚いたが、僕はその男性が誰であるか直ぐにわかった。僕は女性の店員しか決めていない。彼女以外の人間がここに存在することはできない。僕は振り向かずに言った。

「何か用ですか? 今度は別に呼び出してはいませんけど」

 鏡になった窓ガラスの中で、席に座る彼の姿が見えた。

「あんまり調子に乗るなよ。友達1人助けられない男が。苦しむ人間を見殺しにしたことを君はそろそろ自覚した方がいい」

 彼の言葉は荒くはなかった。静かな物言いで僕を否定してきた。僕は彼の方を振り向いて言った。

「信念のある死なら、僕は否定しません」

 彼はテーブルの上に置いてある本を手にして、見下すように笑った。

「ははっ、彼らに信念なんかあるものか。現実と死を天秤にかけただけだ。だから君は駄目なんだ。理解が足りないんだ。暗く狭い部屋で孤独な一生を過ごすことになれば、君だってそうする。君はそれに気づかずに慢心していたんだ。時間が永遠にあると思っていた。彼を見ていなかった。君は簡単なことさえしなかった。『行こう。外は明るい。広い世界がある』この言葉だけでよかったんだ。君はそれさえも怠った。結果、彼は自分の力を知り、暗い部屋の中で現実と死を天秤にかけた。君は彼のそばにいた。自分の間違いを知ったはずだ。よくそんな信念などと言う言葉で塗り変えれるな。そもそも最初から腑に落ちなかった。なぜそんな平気な顔をしている? なぜそんな素直に彼の死を受け入れる。ああ、そうか、やっとわかった。本当は彼が邪魔だったんだ。必要なんてしていなかった。彼の死を望み、わざと彼を見捨てたんだ。だから、平然としていられるんだ。それは楽になっただろう。もう彼に関わらなくていいのだから。君を認めることにしたよ。何も後ろめたいことはない。自ら苦しむ必要もない。人生は楽しむべきだ。それでいい。時間は限られている。そのまま残りの人生を楽しく過ごせばいい」


 怒りはなかった。わざと挑発しているように感じた。多少不愉快にはなったが、充分制御できた。

「あなたがどう思おうと勝手ですけど、僕には必要な人でした。拒まれたのは僕の方です。もういいでしょう。僕を責めても疲れるだけですよ」

 彼は手にしていた本をテーブルに置いた。

「君には本当にイライラさせられるな。彼が死んだのも頷ける。このままだと君はまた同じことを繰り返す。これがどういう意味かわかるか? 君と関わる人間は不幸になるという意味だ。それは友達の死を無駄にしている。馬鹿な君でも少しの学習能力はあるはずだ。君の心配はしていない。君に関わる人が不憫だからだ。それとも君は1人で生きていくつもりか? いや、1人の生き方は君には無理だな。思い出すんだ。他人事ではないだろう。友達が死んだ時、何が1番怖かった? 君は何に1番怯えた? 『残された時間の少なさ』違うな。『もう叶わない夢』これも違う。『友達が死んだ現実』違う。『希望のない未来』違う!」

 彼はテーブルを叩き、立っている僕に向かって指を差した。

「そんなものではない! 孤独だ! 圧倒的な孤独に君は怯えた! 覚えているだろう! 人生から疎外された毎日を! そんな君が人を避けて生きていけるものか!」

 彼はそう言って僕に向けた指を落とし、椅子にもたれた。

「だから、君は求めなければいけないんだ。理想はひとつだけではない。思い描く現実を、耐えきれない現実の中で求め続けるんだ。他人を不幸にしないために。自分を孤独にしないために」


 あの時、僕は確かに恐怖を感じた。現実よりも遥かに恐い孤独があった。僕自身の弱さを知った。1人ではなんの意味もない。僕は椅子に座って彼の目を見つめた。

「まるで疫病神扱いですね。でも、ここへ戻ってきたことで、あなたは充分僕に関わっていますよ」

「君の失礼な態度に頭にきてね。言いたいことを我慢できない性格なんだ。それに」

 彼は言葉を止めた。その止まった時間が思っていたより長く、気になった僕の方が先に口を開いた。

「なんですか?」

 彼は僕から目を逸らし、くぐもった声で言った。

「君は周りが見えていないからな。そんな人間を放って置くのは危険だと決まっているんだ」

 僕は笑ってしまった。

「余計なお世話です」

「それならいいがね。君に死なれても気分が悪いだけだしな」

 僕はまた笑った。

「ご心配なく。僕はあなたより長く生きて、あなたのお墓に蹴りをいれますよ」


 彼は僕から視線を外したままだった。彼の視線の先にはタキシードを着た男性の絵があった。彼は言った。

「先輩に対して失礼だとは思わないのかね?」

「あなたは特別です」

 彼の横顔から笑顔が溢れた。2人の間にゆっくりとした時間が流れると、やがて静寂が訪れた。僕は静寂の中で彼の横顔を見続けた。彼は鼻で溜め息をつくと、静かに席を立った。

「すまないが、もう失礼させてもらうよ。気分を害した」

 彼はそう言うと、何も持たずに喫茶店から出ていった。彼が喫茶店から出ていくと、僕はまた1人になった。時間を確認するために携帯電話を開いた。もう11時を過ぎていた。


 しばらく1人でいると、女性の店員がオーダーストップを告げにきた。どうせ客は僕しかいなかったし、追加の注文をする気もなかったので、お金を払うことにした。

「すみません。先に支払いを済ませます」

 僕は財布からお札を取り出して、勘定書と一緒に渡そうとした。

「さきほど帰られた方から、もう頂いておりますが」

 女性の店員はそう言うと、僕を優しく見つめた。見つめられた僕は細かく瞬きをした。そして、手に持っている勘定書とにらめっこをした。

「この分の料金をですか?」

 僕は女性の店員に勘定書を見せた。女性の店員は丁寧に確認して、

「はい、頂いております」と、にっこり笑って答えた。もうそれ以上言うことはなかった。


 女性の店員が去っていくと、僕はお金をズボンのポケットにねじ込んだ。本とアイスレモンティーをテーブルの隅へ寄せて、空いたスペースに顔を伏せた。


 彼の言葉を思い出す。

『行こう、外は明るい。広い世界がある』

 こんな決まりきった言葉が役に立たないことは、彼が一番知っているはずなのに。僕はテーブルに伏せたまま、考えを巡らせた。


 いつもすべてが僕を混乱させる。彼の言葉だけではなく、自分の考えも、死んでいった友も、人の意識も、魂の行方も、僕が伏せているこのテーブルでさえ、僕を不必要に混乱させる。僕は自分の置かれている複雑な状況を頭の中で整理しようとした。しかし、それは失敗に終わった。僕にとって必要な定規や基準が、僕の中に備わっていなかった。僕はまた彼の言葉を思い出した。

『行こう、外は明るい。広い世界がある』

 彼がどういう意味で言ったのか、馬鹿な僕にはわからない。ただ僕は、失ったものを取り戻す。書き換えられない過去、澄みきった感情、自分の半身、もういない友。


 準備は整っていた。

 行こう、きっとよくなる、もっとよくなる。

 僕はテーブルの隅に寄せていた本を掴むと、椅子から立ち上がり、意識を集中した。  



 世界を変える



 空間が歪み、軋んだ音を立てた。僕はさらに強く、意識を集中した。

 女性の店員を消し、喫茶店の天井を吹き飛ばし、閉鎖的な煉瓦壁を取り払った。バッグ、椅子、テーブル、駐車場、ガードレール、舗道、防波堤、自動販売機、山、海、月。あらゆるものを消した。手にしていた本が霧となって消失し、広大な闇が僕を覆い尽くした。


 僕はその闇の中を歩き始めた。広大な闇の中で、僕の足音だけが響いた。方向もわからないまま歩いていると、闇の奥にぼんやりとした光が見えた。僕はそのわずかな光を目指して歩いた。黄緑色の光を発したドアが周囲を弱々しく照らしていた。そのドアの正面に友が膝を抱えて座っていた。僕はドアのそばで足を止めた。


 友の足元に2冊のノートが落ちていた。僕はそれを拾い、表紙をドアの光に当てた。見覚えのある水色のノートだった。表紙には『路地裏』と書かれていた。僕はページをペラペラとめくり、ノートを後ろに放り投げた。僕の後ろでノートの落ちる音がした。

「なんの役にも立たない。全然面白くないし」

 僕がそう言っても、友は黙っていた。黙ったまま、膝を抱えていた。

『行こう、外は明るい。広い世界がある』

 僕はその言葉をかけることも、友に手を差しのべることもしなかった。

『だから君は駄目なんだ』

 頭をよぎる彼の言葉を無視して、僕は友に話しかけた。

「今度ここを掃除しないと。まずは電気だね。こう暗くちゃ何もできない。芳香剤も持ってくる。なんかカビ臭いよ、ここ。あとはデッキブラシで床を磨いて、乾拭きして、ワックスでもかけてみるか。ここの床の材質はなんだろう。ツヤはでるかな。まあ、とりあえず床を綺麗にして、その後はガスコンロがいるね。お腹が空いたら、気力がなくなるから。そして電子炊飯器に冷蔵庫。電子レンジにトースター。いいね、なんか夢がある。僕が御飯を作る。何がいい? うーん、よし、僕が決める。中華にしよう。麻婆豆腐に炒飯、餃子はなんとか作れるかな。でも餃子は面倒くさいから、買ってきて電子レンジで温めよう。僕が作るよりそっちの方が美味しいし。それでお腹が一杯になったら、うん、音楽を聴こう。オーディオ機器を持ってくる。ここなら大音量で聴いても苦情はないよ。目の前にオーケストラを再現しよう。それから何をしようか? 何でもいいよ。車はどう? 車に乗ってここを飛ばしてみようか。だけど、風景が変わらないからつまらなそう。却下。テレビとか、携帯電話とか、インターネットはどうなるんだろう。ちょっと待って。あっ! ダメだ。圏外になってる。テレビとかインターネットはケーブルをひけばいいけど、携帯電話はさすがに無理か。まあ、いいね、別に。それからどうする? いっそのこと家でも建てようか。木材を持ってきて、トンカントンカンするのはどう? なんか寝ている間に屋根が崩れて落ちてきそう。まあ、そんな緊張感満点の家もいいね。あとは何? あとはやっぱり女の子かな。女の子を連れてきて、楽しくお酒でも飲もうか? どんな子がタイプだったっけ。意外と元気のある女の子が好きだったよね? うん、連れてくる。落ち着いたらそうしよう。でも、こんな辛気臭いところに来てくれる子いるかな。しかも、緊張感満点の家だし。変わった女の子に期待するしかないね。それからは? 欲しい物を手に入れて、楽しいことをして、好きな女の子もできて、それからはどうする? うーん、なんだろう。何も思いつかないな。そうだ! 絵はどう? 嫌じゃないなら、スケッチブックを持ってくるよ。ダメ? いい思い出ないもんね。いいよ、嫌なら別に。そういえば絵で思い出したんだけど、僕また本を書いてるんだ。馬鹿だね、本当に。懲りてない。読んでくれる人なんていないんだから、1人になった時に止めておけばよかったのに。ほんと自分の馬鹿さに呆れるよ。うわっ! びっくりしたあ。ごめん、携帯電話のアラーム。もうこんな時間か。また今日も終わり。なんか、僕ばっかり喋ってる。僕に話すことはない? 持ってきて欲しい物とか。ない? 本当に? いいの? もう帰るよ? じゃあ、あと10秒だけ待つ。10……9……8……7……6。ブー! もうダメ」

 僕は携帯電話をズボンにしまった。友は座ったままだった。何も言わず、立てた膝に顔をうずめていた。

 僕はしゃがんで、友を抱きしめた。


(暗く狭い部屋で孤独な一生を過ごすことになれば、僕もそうする)


 僕はもっと強く、ぎゅっと友を抱きしめた。

「やっと、ここまでこれた。会いたかった。もう僕はなんの後悔もないよ。すべてを捨てれる」

 僕は友に嫌がられる前に立ち上がった。

「もう行くね。あっちで用事を済ませたら、また戻ってくる。蛍光灯とか電気スタンドとか漫画とか映画とかゲームとかお菓子とかたくさん持ってくるよ。じゃあね、バイバイ」


 僕は仄かに光るドアを開けた。外の光が暗闇に入り込んできた。僕は後ろを振り返り、また友に手を振った。


 『閉じられた本S』 終


 『感謝』

ご指導して下さった先輩方。

わがままを許してくれた、家族、友人。

知恵と知識を授けてくれた、言葉、多くの本、人の考え。

我慢強い読者の皆様。

本当にありがとうございました。

                          

 2007年9月 英星

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