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短編集  百歌繚乱  作者: 貫雪(つらゆき)
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三笠の山に

 三笠山みかさやまが見えてきた。

 京の都を離れて丸一日歩き通し、古い都の奈良に向かう途中の道である。昔の人々は古い都を見守るようにそびえる山々を、大変愛していたのだと言う。この三笠山もその山の一つだ。私が三笠山の方を見ていると、わが師である僧が足を止めた。


「三笠山か。この山を見ると奈良に来たのだと実感が湧くな」


 師もそう言って感慨深そうに山を仰いだ。


「私はこれからこの山の姿を故郷と思って修行することになるでしょう」


 私はこれから始まるであろう修験者としての厳しい道のりを想い、身の引き締まる思いでそう言った。


「お前の故郷は京の都であろう。お前は都を捨てたつもりであろうが、故郷と言うのはそう簡単に心から捨て去ることが出来るものではない。修行への覚悟は無論必要だが、心を殺すことは無い。都への思いも修行の励みとするのが良いであろう」


 いかにも荒々しげな修験者らしい容貌の師であるが、人の心に寄り添う時の言葉は実に優しい人だ。ただし、人の悪意や物の怪、病魔に対しては容赦が無い。


「心を殺してなどおりません。私は都を故郷などと思っていないのです。生まれ育った地への感謝はありますが」


 そういいながらも私の心には苦いものが広がる。私は都に良い思い出など持ってはいない。出来る事なら都での日々など綺麗に忘れてしまいたいのが本音だった。



 私の父は貴族の中でも中流で、そこそこの良国の受領ずりょう(地方の国主)になるなど、それなりに裕福で安定した地位を持っていた。母も父と結ばれる前はそれなりのやしきに女房(侍女)として勤め、そこの主人に信頼されていたと言う。おかげで長男の私は父に自分以上の出世を期待されていた。

 幼い時から父に漢学を習い、母からは歌の手ほどきを受けた。父の従者の中で最も武に優れた者に、馬も弓も、太刀の振い方も教わった。楽は琵琶を懸命にこなし、蹴鞠けまりや舞なども優美にこなせるように鍛錬した。


 人に褒められるのはやはり嬉しかった。こうした色々な事を覚え、上達するのは喜びも感じられた。人に褒めそやされるうちに私の周りには友人たちも集まるようになり、女達の視線も集められるようになった。私はこの世の春を満喫し、このまま元服して輝かしい人生を歩むつもりでいた。未来には希望しか見えていなかった。


 そんな折に私は都の路地裏に多くの人々が病み、苦しんでいるのを見た。その時都には流行り病が入り込んで来ていた。それは私達貴族にとっては滋養の良いものを食し、病魔平癒びょうまへいゆ祈祷きとうをきちんとすれば恐れる必要のないような軽い病と言って良かったが。

 しかしそんな軽い病でも路地裏の人々にとっては命を脅かす脅威であるらしかった。彼らは病にかかると都のそうした者に手を差し伸べる「悲田院ひでんいん」と言う所に収容されていた。それを知った私は父に彼らのために祈祷を行ってくれるように頼んだ。父はそれを受け入れて私の心の崇高さを褒め称えてくれた。少なくともその時はそうしてくれた。母や周りの人々も私の行為を褒めてくれていた。


 しかしそれから僅かのうちに、父は祈祷を頼むのをやめていた。それを知った私は祈祷を続け、悲田院に寄付をするように言った。すると父は今度は手のひらを返すように私を責めた。


「そんなくだらない下賤のために、心を砕いてばかりいてはならない。お前は元服後に早く官人として高貴な方々のお役に立てるようにならなくてはいけない。余計な事を考えている暇は無いはずだ」


 すると、味方をしてくれていたはずの母や、周りの者も私への視線を冷たいものに変えた。私は文も武も芸も決して疎かにしたつもりはなかったが、誰も私の心を認めてくれはしなかった。友人たちなど私を異質なものでも見るような目をして離れて行った。誰も私の話に耳を傾けてはくれなくなった。

 誰に問うても私は間違っていないと言う。しかし私の言うことは認めてもらえない。私は知った。貴族にとって私の行動は綺麗事でしか無かった。多くの人々の病に慈悲をかけるのは、実は高貴な貴族達にその病の害が及ぶ事を恐れての事であり、本気で悲田院の人々を漏れなく助けたいと思う人は、決して多くは無かったのだ。


 私は自分の立場や地位に疑問を持った。父や母の考え方にも不満を感じ出した。私は様々な事への意欲を失って行った。


 気づけば私は元服を言い渡されても髪を結いあげる事もせず、鍛えた弓や太刀の腕に物を言わせ、人々のいう事を聞かず、髪を童のように振り乱し、派手な衣を翻し悪童の姿のままに集団で都を闊歩する『京わらんべ』と呼ばれる悪党になった。貴族の世界に真など無いと思った。あるのは虚構だけ。本当の世界は路地裏や場末にこそ広がっていると思えた。


 私は人々を脅し、物を奪い、それを仲間や貧しい人々と分けあった。初めはそれで満足していたが、それは奪った人々から仕事を奪うばかりだと気が着いた。結局は仕事を奪われた者が貧しくなって、また立場の弱いものが増えるばかり。私は世の悪を広めているだけであった。私は自らの力の無さに絶望していた。

 父や母のもとにはとっくに寄りつかなくなっていた。友人はすべて悪友だった。私は人生の目的を見失っていた。だが、そこで師と出会った。


 師はどれほど厳しい状況になっても悲田院に通い、役人達に指示を出し続けていた。悲田院が焼失した時も懸命に寄付を募って再建を働きかけた人の一人だった。師は、


「人は皆、仏弟子ぶつでし。仏の慈悲に何の区別もありはしない。人の道に間違いはあっても、仏はそのすべてを救って下さる。私はその手伝いを仏弟子としてしているだけだ」


 と言った。人の世界に真は無くとも、仏の世界には真があるのだと言う。


 私は師の弟子となるべく仏門へ入ることを望んだ。長男の私が出家することに当然父も母も反対したが、私は気に留めなかった。私にとって父母はもう不要な人物に思えた。私のこれからの人生は仏と共にあればいい。都にも貴族にも父母にも、未練など無い。そういう人の情はとうの昔に捨てていた。私はすべてを捨てて師の弟子となり、都を離れて奈良の山寺で山伏となり、これから厳しい修行の日々を送ることになっている。



「故郷とは簡単に忘れられるものではない。お前は都の水を飲み、物を食べ、人々に物を教えられ、生きることを学んだ。お前がどれほど否定しようともそのことは変えられぬ。それがお前人生の出発点なのだから」


 師は私に向かって厳しい表情の中に優しい瞳で語る。


「この奈良の地が都であった昔、安部仲麿あべのなかまろと言う人がこの地を離れて遣唐使として唐へ渡った。仲麿は大変才長けた人で唐の皇帝に大変気に入られ、唐の都で大切に扱われながら皇帝に仕えたそうだ。それほどの栄誉にあっても仲麿は遠い奈良の都を恋しく思っておった。唐の地で月を見ながら、その月は奈良の都から見る三笠山の月と同じなのだと歌を詠んだのだ」


 そこまで話すと師は私の表情を読む。


「知っている顔だな。安部仲麿は有名だからな。その話は父上に聞いたのか?」


「まあ、幼い時分に。三笠の山の歌は母から教わりましたが」


 すると師はにっと笑う。


「知識としては知っておろうな。唐の文化の素晴らしさを知るため、命懸けで祖国を離れた仲麿の事も、戻れなかった祖国を想って詠んだ歌の事も。だが、仲麿の心が理解できたのは今が初めてなのではないか?」


 仲麿の心。

 確かに今なら私にも理解わかる。長く暮らした地を離れる心も、それでもなお求めたいものがある希望の心も。彼が唐の文化を求めたように、私は師の教えと修行を求めていた。


「だが、その心の土台となる知識を教えてくれたのはお前の父と母だ。お前を育んだ都と言う所だ。お前がどんなに否定しようとも時を戻すことはできない。この土台を修行に生かすも生かさぬもお前次第。お前の心の中には確かに都が息づいているのだ」


「私の、土台。人生の出発点……」


 そうだ。確かに私は父から教えを請い、学ぶ事を教わった。母からは歌を理解し、その心を読みとるすべを教わった。それは確かに私が都で身につけた心。これが無ければ仲麿の心に感慨を持つことは無かったであろう。


 都に良い思い出など無いつもりでいたが、都は確かに私を育んだ場所であった。父と母がいたからこそ、都で暮らしていたからこそ、今私は師と出会い、この地に来ている。

 私は初めて都に……父と母に感謝する心が芽生えた気がした。


「自分を受け入れ、生まれ育った地を大切に思うが良い。その心あってこそ、これからの修行も生きるであろう。これはお前が仏弟子として学ぶ最初の事になった。これからこうしてさまざまな事を一つ一つ学んで行くのだ」


 私は師の言葉に頷いた。

 今夜、三笠山に昇る月を見て、私はどのような思いを抱くのであろうか?

 そう思いながら私は再び歩き出した師の後をしっかりとした足取りでついて行った。




  あまはらふりさけ見れば春日かすがなる

  三笠の山にでし月かも     安部仲麿あべのなかまろ


 (天の大空を仰ぎ見ると美しい月が昇っている

  あの月は懐かしい祖国の都にある春日かすがの三笠山に昇っているのと同じ月なのだろう)




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