秋は悲しき
牡鹿が鳴いている。秋風の吹き下ろす山奥から聞こえるのだろう。この里の野趣あふれる山荘からも、その声ははっきりと聞こえていた。
牡鹿は秋の紅葉が色づく頃に恋する雌を呼んで鳴き続けるのだと言う。紅葉は色づいてから葉を落とすまでの期間がそう長くは無い。だから牡鹿は散り落ちた美しい葉を踏み分けながら、恋しい雌鹿のために恋鳴きをする。その時に美しい葉を踏みにじっていることなど、牡鹿は気づきもしないのだろう。ほんの少し前の私と同じように。
紅葉は散りゆくのが運命。しかしそれゆえに一時の美しさは何にも勝るほどに輝かしい。だが美しい雌鹿に心奪われた牡鹿には、その儚い輝きは目に届かない。
牡鹿は失ってからその美しさに気付き、心の奥に苦い思いを味わうのだろう。自分の足元には目指す雌鹿の魅力に勝るとも劣らぬ錦のような色どりが敷き詰められていた事を、すべてを失ってから知るのだ。
「鹿が鳴いているな」
一緒に山荘に来ていた友人が外を眺めながら言った。本当に山の森に近いので、目前は見事な紅葉の錦が広がっている。私と友人はそこで酒を酌み交わしている。
「鹿の恋鳴きは心にしみるな。男の愚かさを聞かされているかのようだ」
私は苦い思いでそう言った。
「そうぼやくな。今日はお前の気晴らしに来たんだ。良い景色だと楽しめばいいじゃないか。本当ならお前は都中の男達から羨ましがられている、幸運な男のはずなんだぞ」
「……分かっている」
そう言いながらもため息が漏れる私に友人は、
「まあ、気持ちはわからないでもないが。どんなに幸運でも親しかった女を失う事は堪えるものだ。幸せを手にするためにはそれ相応の物を失う。世の中には良くあることさ。そう割り切って早く忘れることだ」
そう言って友人は私に杯を手渡す。その慰めの仕草を私は素直に受け取った。
最近私は一つの恋を手に入れた。と同時に一つの恋を失っていた。
私は妻を持っていた。私の親と同じくらいの身分の親を持った姫で、和歌や筆跡もまずまず良くて、時折琴もたしなむと言う割りと平凡な妻だった。
性格はつつましやかなのだが少し流行り物に弱いのが玉に傷で、話題になった物詣でに行きたがったり、物語の噂を聞きつけたりすると、すぐに欲しがって口やかましくねだってきた。そういう時だけはちょっと人妻としては軽々しく思えて困ったものだと思えたが、それはそれで可愛げのある女だとも思っていた。妻にも私にはそれなりに不満もあっただろうから、その辺はお互い様の、世間によくある夫婦だったのだろう。
そんな中、世の中ではひとりの姫の事が話題になっていた。その姫は大変身分の高い、大臣などと呼ばれる方の姫君で、自分のような身分の男にはまったく手の届かない姫君だった。その姫は大変器量がよく、黒髪は太くつややかな髪が滝のように背に流れるほど長いと言う。肌の色は夏の暑い盛りでさえ赤らむことなく、美しい白さを保っているそうだ。その白さは細く長い首筋や、衣から僅かに覗く繊細そうな指先にまで及ぶと言う。
さらにその身は大変に小さくて、見事な絹の装束の中に埋もれるようだと言う。白い顔はふっくらとして愛らしく、大人であってもいわゆる「子めく」と言われる幼子を思わせるようなあどけなさを残した美人だそうだ。これだけ良い噂が聞こえれば、この姫に憧れない男などこの世にはいない。誰もがこの姫は宮中に入内なさるものだと思っていたし、おそらく本人もそう思っていた事だろう。
しかし姫には不幸が降りかかった。姫の母親が下の子の出産で亡くなられてしまった。しかも父親の大臣まで流行り病で亡くした。姫君は女宮であられる祖母のもとに引き取られた。しかし年老いた女宮様の後ろ盾だけでは心もとなく、御入内はあきらめられた。
正直これを機に姫君のご家系は没落気味となり、姫君のお立場は大変心もとなくなった。そのため高貴な方からの良縁は聞こえなくなっておられた。
だがこれに普通の貴族達は色めき立った。政治的なうまみは薄くなったとはいえ、宮様に繋がる高貴な血を継がれた姫を我が妻にできる、めったに無いような好機である。しかも姫は評判の美人。誰もが姫を我が手にしようとつてを求めた。
もちろん私もその一人だ。世の男達と同じように姫君に恋焦がれた。山奥に隠された雌鹿に向かって恋鳴きを一斉にする牡鹿達のように、私も姫君を求めていた。
しかし正直なところ私は自分が姫君を手に入れられるとは、本気で考えてはいなかった。それは貴族の男がうっとりと夢想する世界が、ちょっとばかり現実味を帯びて見えるようなものだった。熾烈な恋の競争も、本音は皆そんなところだったかもしれない。
私も姫君に求婚しながらも、自分の妻を放って置いたりはしなかった。姫君に工夫を凝らした和歌を贈りながらも、妻のために欲しがっていた物語を手に入れ、美しい装束や道具類などを贈り、時には物詣でに行くことさえ許した。妻も私が姫に求婚していることは知っていただろうが、私も妻も本気で私が姫を手に入れられるとは思っていなかったから、わざわざそのことについて話などをしたことなど無かった。少なくとも私はそう思っていた。
ただ、私はほんの少しだけ他の者より運が良かった。姫君の乳母を務めている人が私の遠縁に当たる人だったのだ。私は彼女の持つ繋がりに思い切って人生をかけて見ることにした。何としてでも他も者達より抜きん出て見せたいとその時は思っていた。それほど姫君の存在は男達を熱くさせていた。そんな風に競い合えば必死にならずにはいられないのが貴族の男なのだろう。本気ではないといいながらも、競争心にあおられて他の者に負けまいと姫のもとに足繁く通う。少しでも他の者の方に良い噂など聞こえようものなら、負けてたまるかと闘争心が湧く。私は様々な手段で姫の乳母に訴え続けた。競う間、男として熱く、快い時間が過ぎて行った。
意外にも私は勝った。数ある他の求婚者達を押しのけ、姫君を手に入れてしまった。私は踊りだしたいほどに嬉しかった。この世の名誉のすべてを手にしたような気がした。無論、本当に身分高い人々などとは比べるべくもないのだが、それでもその時夢中になって競った男達の中では、自分は確実に抜きん出た存在となったのだ。私は世の中がすべて私に祝福しているような気にさえなった。
そして、その陰で私の妻が袖口を涙で濡らし続け、朽ち落ちらんばかりであったことに気付かずにいた。
私は栄誉を手にしていた。だが、それはそれだけでしか無かった。姫君は噂通りの美女で、さすがは良いお血筋の生まれだと日々感心させられ続ける。
あまりにも素晴らし過ぎて、こっちは明らかに気恥しかった。姫の筆跡を見ると自分の筆跡と比べることなど出来なくて、姫の文を手本に練習せずにはいられない有様。装束や身なり、香の種類などにも気を配らなくてはならなくなった。何より姫君の持つ気品に気おされてしまい、夫と言うより従者の気分になってしまう。
疲れ果ててしばらくぶりに向かった妻のもとでは、妻はすでに心を閉ざしていた。以前の見る影もなくやせ衰え、涙を流すばかりだった。私は少しも別れるつもりなど無かったが、妻もその親も離婚の意思を固めていた。妻は言った。
「高貴な方を正妻になさったあなたを、これから待ち続ける自信はありませんの」
悲しみと絶望を目に宿し、そんな風に言われては別れるより他になかった。そして私は悲しみに暮れ、姫君への気遣いも失ってしまった。あどけなさを残す姫君はそんな私を慰めようとしてくれる。……私はよけいに自分が情けなくなった。
そんな中、心配した友人が私を秋の山荘に誘った。そしてこうして酒を酌み交わしているのだ。
「幸運か。私は本当に幸運だったのだろうか?」
杯を空けると私はそうつぶやいた。
「本当かどうかはこれから分かるだろう。お前次第だよ。姫君は本当に良い妻なのだろう?」
そうなのだ。
姫君は本当に良い妻となった。
なぜ私の心がすぐれずにいるのかも分からずに、それでも私の心に寄り添おうと懸命になってくれる。優しい琴の音を爪弾き、美しい絵を見せ、私が気後れしないように優しい言葉をかけてくれる。親を亡くして運命の流転を見た姫君は、ただの姫君ではなかった。人にあおられて愚かな過ちを犯す私よりも、ずっと素晴らしい人だった。その心配りが前の妻を思い出させてよけいに悲しく思われたりもするが、今度はこの姫を悲しませるわけにはいかないと思ってしまう。
「お前と姫君が心から幸せになれれば、お前は幸運だったのだ。いや、お前だけじゃない。お前と姫君の二人が幸運だったことになるだろう。すべてはお前次第なんだよ」
そう。私次第。牡鹿のような私が素晴らしい雌鹿に目を奪われ、散り落ちた紅葉の錦を踏みにじっていることにも気付かなかったが、その美しさに気づいていれば別の人生を選んだのかもしれない。
「牡鹿は山で紅葉の美しさに恋をする。だが、恋鳴きは雌に向かって鳴き続けるんだろう。紅葉も雌も美しさには変わりない。美しいものと言うのは罪なものだ」
惑わすのが罪なのか。惑わされる安易な心が罪なのか。
いずれにしても秋は悲しい。
それでも世の人々は私を幸運な男と言うのだろう……。
奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の
声きく時ぞ 秋は悲しき 猿丸太夫
(人里離れた奥山で散り敷かれた紅葉を踏み分けて、雌鹿に恋鳴きしている雄鹿の
声を聞くときこそ、秋は悲しいものだと感じられる)




