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短編集  百歌繚乱  作者: 貫雪(つらゆき)
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つれなく見えし 

 まったく世の中は二言目には「和歌」だ「和歌」だと。人は真剣に官人としての務めを行う事を、軽んじ始めているのではないか?

 私はいつものそんな愚痴をいつものように自分の妻に漏らしていた。それなのに妻までもが、


「でも、今度の内親王様の御歌。とても評判になっていますわね。あの歌合わせの御歌をあなたの妹君が手に入れたんですって? 私にも貸して頂けないか、聞いてもらえませんか?」


 などと聞いてくる。


「そんな事、妹に文で聞けばいいだろう。女の事は女同士で勝手にやってくれ」


 と、煩わしい思いで答える。妻は小さくなって、


「申し訳ございません」


 と言っているが、どこまで本気で言っているやら。私が和歌を疎ましく思っているのに、気の効かない妻はすぐにこんなことを言って来る。


 私だって歌を詠む事もあれば、もののあわれが理解できないわけでもない。むしろ私は歌が得意である。だが、官職に勤めるものにとって仕事に必要な知識は他にたくさんある。そして官人が身につけるべき教養はそもそも漢詩であったはず。今でも公式文書も学問も、男の世界で重要なのは「真名まな文字」と呼ばれる「漢字」だ。完全に省略されて文字の意味も失っている「仮名かな文字」は、女のための物。漢字を使う男に必要な教養は漢詩であるべきだと私は思っている。


 そもそも昔、世の中の和歌はすたれ気味だったと言う。和歌というのは女が男に媚びるための言葉や、子供が手習いや習字をするために存在するものだった。男の和歌など私的な文や低俗な余興、女を口説く手段にしか使われていなかった。

 それが異国の政情が変わり混乱すると遣唐使が廃止され、外交が途絶え、異国の地からのきらびやかな文化が入ってこなくなった。文化学問に刺激が少なくなり、まつりごとなども我が国に合わせたやり方が出来上がっていく。


 だがこれまで我が国は唐国の文化を尊重し、見習って来た筈だ。私の家系はその文化を重んじ、大切にしてきた。漢詩、漢字は我が国の文化の基礎だったはず。いくら人気があっても女子供の和歌や、かな文字などに太刀打ち出来るものではなかったはずなのだ。

 それが昔の帝が和歌集など作らせてからというもの、本来何より尊ばれる身分や位さえも及ばぬところで、和歌や歌人を特別扱いする風潮が出来上がってしまった。中には、


「良い和歌を詠む歌人こそが優れた文化人」


 などと言うものまで現れている。嘆かわしい事である。


 女も昔はもっと奥ゆかしかった。歌などは人に知られぬように、男に後朝の歌を贈ったり、邸の中で通って来た男にそっと、その男だけのために囁いて歌ったものだ。歌というのは男女が秘めて贈り合うのにふさわしいのであって、華やかな場での献上歌以外では、表に出さないのが奥ゆかしいというものだ。


 それが今では男も平然と歌会で披露した歌を世に広め、女の歌まで褒めそやされる。それどころか女が競って邸勤めや宮仕えをしたがる始末。女というのはもっとたおやかで、歩くどころか立つこともままならぬほど儚く、弱いはずのものであろう。その美しさは夫のために大切に捧げるものであり、間違っても他の男に見せるためのものではない。それなのに他人に顔を見せる必要に迫られる邸勤めを望むなど、最近の女どものはしたなさにはあきれて言葉も無いほどだ。


 もちろん多くの男は、そんな女達を陰で嗤っている。女は世間が狭いから、女という存在はそこにいるだけで男を誘惑してしまうのだと言う事を分かっていない。だから仏の教えは「女は罪な存在」だと諭していたのに、今ではその教えさえも「女成仏」に代わってしまっている。女でさえも信仰によって救われると言われているのだ。

 女達は愚かにもそれを真に受けているらしい。そんな愚かな女だからこそ、古来から男達は女を守ってきた。邸の奥に隠し、人目に触れぬように、女が余計な苦しみを味わう事のないように、男がそんなことで恥をかかぬように、上手くやってきたのだ。


 それなのに今では朝廷でさえどうかすれば歌の話が出る。時には女の歌まで持ち出される。有名な歌人を褒め、良い禄を与えられる。我々は先祖代々が多くの文化や学問を学び、今の地位や身分を守ってきたと言うのに、大した身分や地位も無い歌人が、ほんの一時の歌の席で詠んだ和歌により、我々よりも世の人々に持ち上げられているのだ。

 その上、我が妻までもが歌の話を持ち出し、寺詣でがしたいなどと下らないことを言って来る。もちろん私はそんなことは認められない。そういう女が外で男達にどれほど嗤われるか妻などには知る余地も無いのだ。


 まあ、その愚かしさが妻の可愛らしさだとも思っているのだが。



 ところがある日、私は意外な話を人から聞かせられた。


「あなたの妻はとても良い歌が詠めるそうですな。女どもの間でちょっとした話題になっているそうじゃありませんか」


 我が妻が歌を詠んで、人の話題となっている?

 そんな……そんな話、私は知らんぞ! 


 いや、こんな事妻が私に話すわけがない。人の噂になるなど、皆陰で勝手な事を言っているのだろう。これも妻が文で歌のやり取りなど始めたせいだ。最近の女はどうして文など平気で交わすのか。私は慌てて妻のもとに向かった。


「お前の歌が世間に広がっているそうじゃないか。もう、どこにも文など出すな! 何と言うみっともない真似をしてくれたのだ!」


 私は妻の顔を見るなり怒鳴り散らした。当世風を気取る輩の妻ならばともかく、なぜ、私の妻がこんな馬鹿な真似をしているのか、私には見当もつかなかった。


「文を出さない訳には行きませんわ。私、内親王様から歌を書いて贈るようにと仰せつかっているの。私の歌が気に入ったので、もっと詠んで欲しいとお文をいただいているんです」


「内親王様? 気に入られた? お前のような女の歌をか?」


「ええ。これを贈って差し上げるつもりです」


 私は妻の手で書かれた歌を目にした。いくつかの歌が書かれていたが、どれも驚くほど表現豊かな歌だった。


「お前、いつの間にこんな歌を」


「あなたはずっと、歌の事ではとても神経質になっていたでしょう? だからあなたに歌の話はできなかったんです。だから私はあなたの妹君やその御友人達と歌をやり取りしていたの。その中のお一人の方が内親王様のもとに仕えていらっしゃって、私の歌をお見せしたの。私、自分の歌がこうして人々に喜ばれるなんて思っていなかったわ」


「お前、女が人に自分のことを知られるなど、みっともないとは思わないのか!」


「思わないわ。それどころか素晴らしい事だと気がついたの。多くの人と心分かち合うことが」


 妻は怒りに震える私にかまわず、落ち着いて話しだした。


「ねえ。あなたも昔は私に正面から向き合って下さっていた。少し考えが古くて頭の固い所はあっても、自分の信念を持ち、仕事に真面目で、漢詩を大切になさっていた。私の事もとても大切にしてくれて、世の悪人の多さ、噂話の汚さなどが私の耳には入らないように気を使って下さっていた。私、あなたの妹君とお文のやり取りをするまで、あなたがどれほど私を守っているか知らないほどだったわ」


「そんな事は女が知らなくていい事だ」


「あなたはそう思うのでしょうね。でもそれじゃ、私は寂しかった。あなたは私に何も話してくれない。昔はたわいない話をしたり、歌を贈ってくれたり、私の歌を聞いてくれたりしたわ。でも今は逢うなり愚痴ばかり。それでいて私に邸の建物から一歩も外に出るなという。そして人と文のやり取りもするなという。あなたは私の歌も話も聞いてはくれないのに」


 話なら聞いてやる……と口にしようとして気がついた。そう言えば妻の話にまともな返事をしたのはいつのことであったか。ここに来ると私はとにかく世の中が漢詩を軽んじていることへの不満をまくしたてていた。

 そう、私も結局は官職を預かる身の上。世に逆らっては生きては行けぬ。世の流れが和歌に傾くことが気に入らずとも、それに逆らう訳にも、外で愚痴をこぼすわけにもいかない。私ははけ口のすべてをいつの間にか妻に求めていた。


「わかった。これからはお前の話を聞いてやる。歌も聞こう」


 これで妻は納得すると私は思っていたが、妻はひどく悲しげな顔をした。


「いいえ。私達はもう元には戻れないわ。私が変わってしまったから」


「どういう事だ。まさか他の男の恋文でも受取って、浮かれた気持ちになっているのか?」


 妻は首を横に振る。


「恋文なんて受取ってないわ。でももっと困ったことなの。私、人々と歌を交わし合う事が本当に好きだと知ってしまったの。もう、人と歌を詠み会えなければ生きていけないほど。あなたが何よりも漢詩を大切に思っているように、私は歌が大切なの。今は知識や文化は一部の男君だけのものじゃない。誰もが歌という文化を分かち合うのが世の流れなのよ」


「世がどうあろうと、私は歌よりも漢詩だ」


「ええ、分かってる。そしてあなたは私を邸に閉じ込めておきたい事も。あなたは真面目な人よ。そこがあなたの一番いいところだわ。でも私はあなたの信念に合わせていたら、幸せになれないの。邸の屋根の奥深くで、人生の喜びや悲しみを歌に込める事も、人と分かち合う事も出来ずに、信念ゆえに苦しむあなたの愚痴を聞くだけの人生になってしまう。歌を詠み交わす喜びを知ってしまった以上、私はもうその生き方に耐えられないの」


「何を馬鹿な事を言っているのだ! 今まで歌など詠み交わさずとも生きてきたではないか。私に守られていたではないか! お前は私がいなければ生きていけないはずだ!」


 私がそう言った時、妻の表情が変わった。それまでは私に話を聞かせようと、懇願するような目をしていた。だが、


「ごめんなさい。私、内親王様から宮仕えに上がるようにと言われているの」


 そういう妻の目は、私を憐れんでいた。



 私はその夜、一晩中妻を説得した。宮仕えの大変さ、男達の視線、世の中の厳しさ。しかし妻は一言も口を利かなかった。怒っているのならまだやりようがある。その瞳は冷たくも私への憐れみを表していた。すでに妻の決意は固まっていたのだ。悔しいが私が古くからの漢詩にこだわるように、妻は歌を詠むために宮仕えという新たな世界へのこだわりを持ってしまったらしい。


 確かに私達は、もう元には戻れない。


 妻は冷たい憐れみを帯びた目をしたまま、私を見送る事も無く別れを告げた。私は邸を出て空を見上げる。そこには妻の目を思わせるような、冷たい色の有明の月が浮かんでいた。


 実に癪だが、こんな時はもともとが異国の言葉である漢詩では、我が心を言い表せない。昔から男女のことわりに歌は付き物だった。この悲しみは私も、やまとことばの三十一文字みそひともじで表すしかなさそうだ……。


 


  有明のつれなく見えし別れより

  あかつきばかりきものはなし  壬生忠岑みぶのただみね  


(有明の月の下でつれなく見えるそぶりで別れたあの時から

暁の頃ほど憂鬱な時は無くなってしまった)




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