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短編集  百歌繚乱  作者: 貫雪(つらゆき)
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名にし負はば

「この度は、大納言への任官。おめでとうございます」


「さすがは御権勢高いあなた様だけあって、帝の御信頼も厚い物が御有りですな」


「これからはこの家もますます繁栄なさることでしょう。まったく羨ましい限りです」


 殿上人達は口々にそう言って、私の任官を褒め称えてくれる。


「いや。私自身は大した人間とは言えないが、これも帝の御好意と御導きあってのことです。微力ながら帝の御期待に少しでも応えねばと身を引き締めているところですよ」


 私を口々に褒めそやしながら取り巻く人々に、機嫌良くそう答える。それほどまでに正三位の高い地位は価値がある。


「御謙遜を。あなたはお若い時から前の帝であらせられた院様にも目をかけられておいででした。しかも絶世の美女と言われた院様の御娘であらせられる内親王様を妻に頂いているではありませんか。奥ゆかしく、人の目につくようなことはなさらず、決して人に姿をお見せにならない、女らしい宮様でいらっしゃるとか。まったくもってお羨ましい事です」


「それほどの方を妻にもっておられれば、このご出世も当然のこと。いずれは内大臣の位に立たれるのも間違いございませんでしょう」


 ……また、妻の話か。私は心の中でそう舌打ちするが、顔には出さない。


「確かに私などにはもったいない妻ではありますが、内親王様を賜わったのも深い縁あっての事と思い、精一杯の御世話をさせていただいてはおります」


 内心の引っ掛かりはおくびにも出さず、私はにこやかにそう言う。


「大変な御世話のなさりようで、北の方(正妻)の御姿どころか、御気配さえも誰も感じ取ることが出来ないほどだそうですな。いやいや、お気持ちは分かります。北の方の身の重さはもちろんのこと、そのような美しい方なら、どなたにも気配すら感じさせたくないのが夫の心情でございましょう。本当に素晴らしい北の方なのでしょうなあ」


「我が妻をそんな風に褒めていただいては、面映おもはゆい思いです。私が妻を頂いてから、もう十年以上の時が流れました。皆様が思うほどの事でもありませんよ」


「またまた、御謙遜を! あなたと北の方の間に儲けられた姫君も、幼いながらにたいそう美しいと聞いております。当然その母上である北の方の御美しさは、素晴らしいに決まっておりましょう。まったく大納言殿は羨ましいお方です」


 取り巻く人の一人がそう言うと、皆も賛同して頷いている。



 その向こうでこの会話を漏れ聞いた若い人達が小声で、


「絶世の美女と言われた方だ。さぞかし今はいい女になられているんだろうなあ」


「昔は名のある恋の名手達がこぞって文を贈られたと聞くものな。今頃なら、しっとりと匂うような貴婦人でいらっしゃるのだろう」


「ああ、そんな貴婦人と一度でいいから一夜の夢を見てみたいものだなあ」


 などと人の妻の事だと思って、勝手な想像を駆り立てている。取り巻きの相手に疲れた私は、「ちょっと失礼する」と言って場を離れ、若い人たちの話している近くにある屏風の裏に身を隠して聞き耳を立てる。


「ろうたけた貴婦人との一夜の恋か。確かに昔語りのようで魅力的だが、実際にはそんな事は無理だろう? 位高い大納言殿の北の方となれば、我ら若造など鼻にもかけられまい」


「いやいや、そう嘆くものでもないぞ。過去には例もある。以前、老いた大納言の甥が若くして大臣になり、年賀のあいさつに大納言を訪ねてしたたかに酒を飲ませたそうだ。そして酔いの勢いで自分の自慢の妻を引き出物に献上すると言わせて、まんまとその妻を連れ帰ってしまったそうだ。大臣は酒と巧みな話術で大納言の妻を一夜どころか永遠に手に入れたってわけだ」


「なるほど。若い身内でも身分が上では連れ出されたら手は出ないか。身内の体裁もあるしなあ」


「そうさ。だから我々も必死で出世を目指して知恵を磨けば、貴婦人との恋も夢じゃないかもしれないぞ。連れ出すまではいかなくとも、貴婦人に近づける身となれば、一夜の逢瀬ぐらいなら……」


「そうだな。身分も血筋も良い人妻。憧れるよなあ」


 彼らの憧れの妄想を聞いて、私はため息をつく。若い時の憧れと言うのはいいものだ。

 私は重い足を励ますようにして、自分の北の方の所へ向かう。



「北の方はいかがお過ごしでいらっしゃいますか?」


 私は北の方の傍付き女房に妻の機嫌を聞く。


「あの、それが、まあ……お元気で」


 確かに妻は元気なようだ。私の訪問は先に伝えてあったのだが、北の方は私の事などお構いなしに真剣な表情をしている。視線の先にあるのは双六の盤だった。


「殿? ちょっと、お待ちください。今大事なところなんですから」


 そういう手の中にあるのはさいを振るための筒。


「大きな目……大きな目……」


 妻はそういいながら目を瞑って、筒に大きな数の賽の出目を念じている。


「いいえ! 少賽しょうさい、少賽!」


 双六の相手をしている妻の乳母めのとは、妻同様に真剣な顔で盤を睨み、少ない目を願っているらしい。


「そおれ! 出なさい!」


 妻は眼をぎらぎらさせながら筒から賽を振りだす。ころりと転がった賽は妻の満足にたる目が出たらしく、妻は誇らしげな笑顔を見せる。


「また、わたくしの勝ちですわ。では聞きます。『雨も降らなんびつつも……』この歌の上の句は?」


「は? え、えーと。『かき曇り』の前だから……あら? なんだったかしら?」


 急に問われた乳母はうろたえてしどろもどろになる。


「駄目ねえ。『月夜には来ぬ人待たる』よ。古今集をわたくしに教えてくれたのは乳母のあなたなのに」


 そういいながらも妻は脇息(寄りかかる道具)に肘をつき、夫の私がいることなどお構いなしに大あくびをする。


「申し訳ございません。よく覚えておきます」


 乳母はしょんぼりとして肩を落とすが、これは乳母の勉強不足のせいではない。本当ならこの乳母も古今集はすべてそらんじているはずだ。妻は双六で相手を翻弄させて、負かされた悔しさに冷静さを失っている時を図って、わざと質問を浴びせているのである。相手はすっかり妻の良いように振り回されて、良く覚えている歌でさえもとっさに出なくなってしまうのだ。


「では、次の人がわたくしに勝つまで、あなたがわたくしの身代わりね。殿の話を聞いておいて」


「待て! 『聞いておいて』ではない! あなたは夫の私の言葉を聞く気がないのか!」


「あら、もちろんあります。あるから乳母に代わりをお願いしているんじゃありませんか。後でちゃんと聞きますわ」


「目の前にあなたがいるのに、何故、乳母を通して話さなければならないのだっ!」


「だって、今日はわたくし、とってもツキがあるんですもの。これで三連勝していますのよ。そうだ! 久しぶりに殿がお相手をして下さいません? 負けても御歌は問いませんから」


 私は頭を抱える。


「あなたはどうしてこんなに双六にばかりのめり込んでしまわれたのだろう?」


「どうしてそんなに悩まれるのです? この楽しい遊びを教えて下さったのは、ほかならぬ殿ではありませんか」


 そうだ。それこそがまったくの間違いだった。


 この北の方も宮中の奥深くから御降嫁ごこうかされたばかりの時は、それはそれはつつましい、気品ある内親王であられたのだ。仕草も愛らしく、大人しやかで、従順で、古歌や物語の知識も豊富で、教養あふれる皇女様だった。たまさかに宮中よりお持ちになられた絵巻物などをご覧になる以外は、いつも琴ばかりをお相手になさるような、内気な少女でいらした。


 お生まれになった時から宮中でお暮しになられていた方が、不慣れな私の邸に暮らしているのである。いくら華やかなお支度で多くの人々にかしづかれているとはいえ、心寂しく、物足りぬ事もあるであろう。私は細々とこの姫宮様に気を使った。妻と言っても恐れ多くも皇女様だ。御位を降りられたとはいえ前の帝の御娘君。間違っても我が手もとで心もとない思いをされているなどと人々に思われるわけにはいかない。


 と言っても、私も常にこの妻に寄り添ってばかりいるわけにもいかない。そこで私は妻に遊びを教えて差し上げた。碁の打ち方を教え、貝の道具を共に合せて楽しみ、物語を人に読ませ、この双六も私が用意して一から教えて差し上げたのだ。

 内気で世間知らずであった皇女様なので、私が教えることはすべてが面白おかしいらしかったが、とくにこの双六遊びは夢中になられた。


 それに御運も強くて、私もすぐに次々負かされてしまうようになった。勝負事に勝ち癖がつくと止まらないものらしく、妻はますます双六にのめり込んだ。ついには周りの人々すべてに勝負を挑み、負けると自らの教養を利用して罰として質問を浴びせかけるようになった。困ったことに妻の記憶力は抜群で、双六勝負に熱くなった人々は良い様に手玉に取られてしまう。

 御降嫁から十数年。妻のつつましさはすっかり失われ、双六の盤を前にすると鼻息も荒く、雅やかだった教養は人々をやりこめる道具のようになっている。


 もちろんこんな事を御位を降りられた前の帝の院様に知られるわけにはいかない。その前に邸の外の人間に知られるだけでも大変だ。私は細心の注意を払って妻を隠す。邸の寝殿のもっとも奥深いところ、北の奥まったところの妻の居所は、決して誰にも垣間見られたりなどしないように、御簾をかけめぐらせるだけでは足りず、分厚い織物の布まで覆い、いくつもの几帳を立てまわし、屏風なども数多くおいて妻の気配さえも消してしまう。さらに妻の傍付きの人々に、妻の振りまでさせる始末。それなのに妻は調子に乗ってその人々の順番まで双六で決めるようになっていた。


 人目も仕草も気を使う必要の無くなった妻は、のんびりと手足を伸ばしながら、


「あーあ。本当に結婚して良かったわ。こんなにのんびりできて、思う存分楽しい遊びをして。気楽にのびのび出来るって良いわねえ。宮中の窮屈な暮らしが嘘のよう。皇女の地位なんて、双六遊びに比べたら何の価値も感じないわ。ただ人の妻って、良いものだわ」


 いや! 普通の公家の妻はもっと奥ゆかしいぞ! 足を投げ出して袖をまくりあげて、賽を振ったりなど絶対にしない! 夫が必死になって妻の気配を消しまわるなんてことは、断じてないはずだ!


「殿? 何をそんなに難しい顔をしておいでなのです? わたくしの父院のおかげで大納言になれたのでしょう? もっと嬉しそうな顔をなさって下さいな」


 ……そうなのだ。この妻の父院のおかげで私は今の地位にいる。いつかは内大臣の地位にもつけるかもしれない。父院はすこぶるこの妻に甘いのである。だが父院は御自分の娘がこうも俗世に染まり、勝負事に夢中になっているとは露ほども御存じない。私がどれほど心血注いで、このことを隠し通しているのかも。


 若い男が憧れる「身分も血筋も良い人妻」の十年後の姿がこれだとは、誰も想像することはあるまい。このことを世間から一切隠し通してくれるなら、一夜の夢どころかこちらこそ妻を連れだしてもらって、双六の相手でもして機嫌を取り続けて欲しい物である。

 憧れは夢、幻こそ美しいものなのだ……。




  名にしはば逢坂山あふさかやまのさねかづら

  人に知られで来るよしもがな              三条右大臣さんじょうのうだいじん


 (名前を背負った身でなければ、恋しい人に逢える逢坂山で一緒にひと夜を過ごせる小寝葛

 (さねかずら)をたぐり寄せるように

  誰にも知られずあなたを連れ出す方法が欲しいものだ)




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