我が身一つの
秋を古来から人々は悲しみの季節として伝えてきた。秋は誰もが悲しみを感じる季節。 秋の悲しみは平等に訪れる。頼りない身の上となった女のわたくしにさえも。
この秋、わたくしは大切な人を失った。傍仕えの女房(侍女)の侍従の君だ。
侍従の君の亡くなった母親はもともと私の乳母で、侍従の君は私の乳姉妹にあたる人だった。同じ人の乳を飲み、ともに遊び、共に学び、いつでも私に寄り添って支えてくれた人。もちろん父上や母上の愛情には敵わないのだろうけれど、同じ邸とはいえ暮らす対屋も別々の同じ母を持つ兄上や姉上よりも、私にとってはとても身近で安心できる人だった。
侍従の君はどんな時でもわたくしを支えてくれた。我が兄上は元服なさった後、多くの姫のもとに通っていた。だが、どこか一つに通う先を決めて邸の婿として迎えられることを煩わしがり、いつまでも父上の後ろ盾にばかりすがっていた。だから姉君を帝の女御(帝の妻)に入内させんと父上が必死だった時は、後々自分も女御様の身内となれることを期待して、自分の官職の出世に父上から気をまわして頂けなくても黙っていた。しかし中の君(二女)のわたくしが裳着(成人式)を迎えた時は、
「中の君は正直、大君(長女)ほど御容姿が優れているとは言い難い。世の人はあれこれ綺麗ごとを言いますが、男と言うのはやはり美しい女人に心惹かれるものです。あまり無理に背伸びをされてもご本人も返ってお辛い事があるかもしれない。御入内を目指されたり、今をときめくような公達(公家の子息)を、あまたいる姫君達と競われるよりは、御年かさの落ちついた大人の方に御世話された方がいいんじゃありませんか?」
と、父上に訴えられたのだそうだ。それを人づてに耳にした侍従の君はとても憤慨して、
「姫様の兄上様を悪く言うのは心苦しいですけれど、兄上様は姫様のことなど少しも考えていらっしゃれるとは思えません。あの方は学問もあまりなさらず、かといって楽や舞を鍛錬なさるご様子もない。御父上様の御威光をかさに着て、御婚儀もせずに浮名を流すことを楽しんでおられるばかりじゃありませんか。姫様の御縁談に口をはさむのも、御自分が御父上様から早く出世の面倒を見て頂きたいだけですわ」
と、私に文句を言って来た。そんな兄でもわたくしにとっては同じ母から生まれた兄なので、私は兄をかばう言葉しか言えない。けれどもこの優しい乳姉妹は、父や母の手前口に出せないわたくしの心を代弁してくれていた。侍従の君に同意した他の女房や使用人達も父母に仕える人々に訴えてくれた。
その甲斐あって父上は私の縁談にも御心を砕いて下さり、とある大臣の御子息に通っていただけるようになった。そして滞りなく婚儀もすますことが出来た。
ところがそれからわずかの間に、突然父上が亡くなられてしまった。帝の女御様となった姉上の後ろ盾となられ、わたくしの婚儀に心を配り、これから兄の行く末を導こうとしていた父上をわたくし達は失ってしまった。
母上は悲しみに暮れ、姉上は後ろ盾を失った不安を抱え、もちろんわたくしも涙に袖を濡らし、兄上は自分の先々を悲観し、途方にくれた。
これを機に我が家の家運は落ちてきてしまった。
私達の喪も明けぬうちに、帝のもとに新たな女御様が御入内なさった。我が父亡き今、この女御様の御父上は御権勢が大変高まっておられた。新たに上られた女御様は入内の御式も豪華で、大変華やかにときめいておられた。そのためか喪が明けて姉上が宮中に戻られても、帝からのお召しはあまりかからなくなってしまった。母上だけの後ろ盾ではそのきらびやかさには歯が立たなかったようだ。
帝の姉上への御寵愛が途切れ出すと、私の婿君も我が邸へ通う足も途切れがちになってきた。
侍従の君はわたくしに、
「姫様。これからは習字の手習いや、琴の練習をなさいませ」
と、勧めてくれた。そして誰よりも熱心にわたくしの稽古に付き合ってくれた。色々な人たちから聞き尋ねて、良い御手(筆跡)の手本を手に入れてくれたり、より美しい琴の鳴らし方を考えてくれたりした。
それは確かに婿殿を我がもとに引き留めるための手段であったかもしれないけれど、彼女がそういう事をわたくしに勧めたのはそれだけではないと思う。
父上を失い、姉上の立場が揺らぎ、母上がそれをお悩みになる中で、わたくしの心が暗くふさぎこまぬよう、少しでも前向きに物事を考えられるようにと、心細やかに考えてくれていたのだと思う。私にもその心が痛いほど伝わっていたので、色々な事を覚えたり励んだりすること以上に、そういう事に付き合ってくれる侍従の君の思いやりにこそ、心慰められていた。
しかし世の中は……事に男女の仲と言うのは、時に無情な物である。それから婿殿の足はすっかり、わたくしのもとから遠ざかってしまった。父も亡く、女御様からの御支援も期待できないとなれば、婿君はわたくしのもとに通っても出世に繋がる御縁は何も得られない。
それでもわたくしは短いながらも心を寄せ合った婿君を信じて、来る日も来る日も婿君がいらっしゃることを期待した。身を整え、数々のもてなしの支度をして待ち焦がれる日々が続く。眠れぬ夜が増え、このまま捨てられてしまうのかと不安が募る。
母上はこのことに責任を感じておられた。女の身で娘達の立場を守るのはとても難しいことだと思うのに、母上は、
「わたくしが至らないばかりに姉妹そろってこのような境遇にしてしまった」
と気に病み、とうとう倒れられて床に臥されてしまった。そして家族の懸命の祈りも空しく、母上まで他界されてしまった。それでも婿君は我がもとを訪れることは無かった。どうやら権勢のある姫君のもとに通うようになっているらしい。両親を失った悲しみ、しかも自分の境遇が母を死に追いやった一因だと思うと、その悲しみは父上の時を上回った。頼りにしていた夫と産みの母を失ったわたくしを、傍で支えてくれたのは侍従の君だった。姉上は自分が後ろ盾もないままに宮中で生きるだけで精いっぱい。兄は自分の出世の道が閉ざされたことを嘆くばかりだ。
もう、尼になるしかない。わたくしはなすすべもなくそう思った。兄上は邸から一歩も動けぬ女のわたくしを庇護してくれるどころか、次の生き方を指示してくれる事さえなかった。兄にとって私はただのお荷物でしか無かった。女御様の妹であるわたくしが、どなたかの下について女房(侍女)として仕えるわけにもいかない。そんな事をすれば姉上の御権威に関わる。妹の私が姉上の御迷惑になるわけにはいかないのだ。
私が髪を下ろして尼になりたいと侍従の君に伝えると、侍従の君は、
「何をおっしゃられるのですか! 御母上様は最後まで姫様方のお幸せを望んでおられたのですよ。御自分の御命をすり減らされてまでも御娘方の幸せをお望みになられた御母上様の御心を、どうして姫様はくみ取って下さらないのですか?」
と、頑として私が尼になることに反対した。
「そうは言っても、もうわたくしには他に生きる方法がありません」
「いいえ。私が何としてでも姫様に良い再婚の御縁を持って参ります。姉姫様の御威光が弱くていらっしゃると言っても、帝の御寵愛を受けていらっしゃる女御様もまだ正式な中宮(正妃)宣旨を受けておられません。姉姫様が先に帝の皇子様を儲けられて、いずれ国母にでもなられれば、この家のご威勢も変わります。姫様はそういう方の妹君であらせられるのです。弱気になってはいけませんわ」
侍従の君はそう言って里(実家)に下がった。わたくしはいつ尼になってもよい気持ちでいたが、長年わたくしの傍で、肉親よりも、親よりもわたくしの事を心配してくれた彼女を裏切るような形での出家など望んではいなかった。
わたくしは侍従の君の休みが明けるまでは、待っていることにした。侍従の君本人がどうにもならぬことだと納得したら、その時は共に尼となってもらうつもりでいた。どんな運命の流転を見ようとも、わたくし達二人は決して離れることは無いと思っていた。
ところが驚いたことにわたくしに縁談が来た。昔父上が懇意にしていた方の息子で、まだ位こそ低い物の将来性のある上流貴族の御子息だった。
突然のことに驚いているうちに、さっそくその方が兄の許可を得たと言って忍んできて下さった。まだ侍従の君も戻っていないのにとは思ったが、周りの人々にせかされるようにその方を迎え入れた。位は低くても育ちは良く、身のこなしも優雅で上品な方で、わたくしにも優しく接して下さった。男君になだめられ、これまでの辛さをねぎらってもらえることは、とてもわたくしの心を落ち着かせてくれた。いいえ。この方の伸びやかな御気性がわたくしをくつろがせてくれたのだ。このような方は初めてで、わたくしはこの縁を心から喜ぶ事が出来た。
月の美しい夜、三日夜の所顕し(正式な結婚として婿を披露する宴)で、わたくしはようやく侍従の君と会う事が出来た。ところが彼女は驚くほど青い顔をし、動きもふらふらと頼りなげだった。今にも倒れそうな彼女を見てわたくしは仰天した。
「侍従の君! これはいったいどうしたことなの?」
「なんでもありませんわ。ちょっとした軽い病にかかっただけです。まだ里にいるつもりだったのですが、ぜひ、姫様の晴れの御姿を拝見したくて」
「とても軽いようには見えないわ。どうして? どうしてこんなことに……」
「お気になさらないでください。わたくし里に戻ります。どうか姫様、お幸せに」
そう言って侍従の君は用意させていたらしい車に乗り、そのまま邸を出て行ってしまった。わたくしはまさかお客様や正式に結ばれたばかりの夫を置いて彼女を追う訳にも行かず、気もそぞろのまま夫となった人に事情を説明した。すると、
「そんなにひどいことになっていたのか。あの女房は私の邸に来て、いきなりあなたと私の縁組をしてくれるようにと、父に頼みに来たのです。もちろん初めは門前払いされたようですが、いくら追い払われても門から離れず、昔母親が知り合いだったという父の女房に伝言を頼み続け、門を入っても良い返事をいただくまで動かないと言って、幾日も庭に座っていたのです。秋風が強く吹きつけても、明け方に冷たい雨が降ってもそのままでいて、あれでは体を壊すのではないかと心配はしていたのです。とうとう私の父が折れてこの縁は私に一任すると言ったので、これほどまでに傍付きの女房に慕われる姫ならば、きっと良い姫だろうと思って私は承諾したのです」
と、それまでのいきさつを教えて下さった。
ああ、侍従の君。あなたはそうまでしてわたくしを幸せにしようとしてくれたなんて。
でも、あなたと共でなければわたくしは本当の幸せになんてきっとなれない。あなたはなぜそこに気付いてくれないの? あなたはわたくしにとって、ただの女房ではないのに。
胸が張り裂けんばかりの思いで流れるわたくしの涙をよそに、残酷にも侍従の君が亡くなったと夜明けと共に知らせが届いた。 私はこれまでで一番つらい悲しみを味わった。庭には侍従の君の命のように、美しい紅葉がその葉を散り落していた。
私はこの悲しみをどうすればよいのだろう? これでは尼になる事も叶わない。夫となったこのお優しい方でも、私と侍従の絆は理解することはできないだろう。秋は誰もが悲しみを感じる季節と言うが、これほどの悲しみに襲われているのは、わたくし一人だけなのではないかしら……?
私はそう思ってただ、ただ、落涙していたのだが、気づけばわたくしの周りの女房や使用人達が、皆、身を揉んで声を上げて泣き臥していた。
「侍従の君が亡くなったなんて、信じられません。私達はもちろん姫様をお慕いしておりますけれど、姫様を誰よりも大切に思う侍従の君の心のありように自分もこうありたいと憧れて、姫様にお仕えしていたのでございます。それほどあの人は素晴らしい人でした。私達にもいつも優しくて、親切にしてくれていたんです。それなのに……」
女房の一人がそう言って、他の女房や女童(小間使いの少女)達と共に号泣していた。ああ、侍従の君はこんなにも人々に慕われていたんだわ。私と同じ悲しみを持った人たちが、ここでこんなにも彼女の死を悼んでいる。
わたくしには、共に悲しみを分かち合える人々がいた。これは我が身一つの悲しみではなかった。
それでもやはり、この先もわたくしにとってこの秋ほど悲しい秋は無いだろうと思う。
今宵からわたくしは、秋の月夜を見るたびに、千々(ちぢ)に乱れた想いを抱えることになるだろう。
たとえ自分ひとりの悲しみではないと分かっていても。
月みればちぢにものこそ悲しけれ
わが身一つの秋にはあらねど 大江千里
(月を見れば、さまざまな物事が悲しく思われるものだ
秋は私だけに訪れる訳ではないというのに)




