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短編集  百歌繚乱  作者: 貫雪(つらゆき)
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有明の月

 私はくしけずる手を止めて、意を決して暗い夜空を見上げた。そこには夜明けの有明の月が浮かんでいた。とうとう夜が明けてしまったようだ。


「何よ。お待たせする間もなく来るからなんて、調子のいい事を言った癖に。真面目な顔で人をからかうなって言うの」


 私は不機嫌を隠しもせずにそうつぶやいた。眠い目をこすりながらも気の毒そうな視線をよこす使用人の顔も今は気に入らない。私が睨むと身を縮めて奥へ引っ込んで行く。


 長月(九月)の夜は長い。早々と陽が落ちたかと思うといつまでも秋の虫達が賑やかなほど鳴き続けている。ようやくその声も落ちついてきたかと思っても、まだまだ夜明けには遠い。天に高く上った月はとてもゆっくりと山裾へと傾いて行く。そうしてやっと夜明け頃の有明の月となるのである。


 私の父はしがない五位の中流貴族で、世渡り下手と来ていた。出世からは殆んど見はなされている。その父の影響か父の使用人も意気地が弱いピリッとしない人が多く、私の乳母めのとも私の縁談を求めに知り人のもとへ行っても、良い縁は他の姫の乳母にもっていかれてしまう始末。業を煮やした母が、私を上流貴族のやしきに勤めに出すことにした。こんな父だから世間の男親のように、


「女は邸の奥から出る物ではない」


 なんて、古い事をやかましくは言わない。私は実家の覇気のなさにややうんざりしていたので、喜んで勤めに出た。華やかな邸勤めは刺激的で、私は平凡な結婚生活より満足していた。邸勤めも結構長くなったが、私にはこの生活があっているようなので、出来るだけ長くこのまま勤めを続けていきたいと願っている。とにかく今は充実しているのだ。


 私はその勤め先の邸で男に声をかけられ、良くある口説き文句を一通り聞かされた後に夜に二人きりで逢えないかと問いかけられた。邸につぼね(侍女部屋)をもらう身ではあるが、局は薄い戸板一枚で仕切られていて物音などは隣同士に筒抜けである。そこに男を通わせる人も多いけれど、噂好きな女同士の事だから皆が面白がって聞き耳を立てているのを私も知っている。

 むしろそれを楽しむ人もいるのだろうけれど、私はそういう趣味を持ってはいない。だから男と逢う時は里下がり(実家に戻る休暇)に母から受け継いだ自分の邸で逢う事にしている。その男は言葉の選び方も、とっさの歌も悪くは無い感じだった。私は邸で逢ってもいいと思い、この日、この場所を告げた。


 ところが待てども待てども男は来なかった。来れないなら来れないで使いに文の一つも持たせればいい物を、まったくのなしのつぶて。私は待ちぼうけを食わされてしまった。

 こういう事はこれまでにも無かったわけじゃない。邸勤めの女など男にとっては行きずりの関係にすぎない事も多い。そこを見抜けるかどうかも邸勤めをする女の心得ってものである。

 私もそういう事に少しは慣れてそれなりに勘が働くようになったと思っていたが、今度は珍しく外したらしい。まあ時にはこういう事もある。口説いてくる男は多いのだから、こんなことを気にしていたらきりがない。


 それでも不愉快であることに変わりは無い。一晩中期待して眠らずに……と言うか、眠れずに待っていたのである。疲れと、期待してしまった自分自身の浅はかさに癪な思いが募っている。

 せっかく何度も直した化粧や一晩中梳った髪も、これではまったくの無駄である。これで腹を立てるなと言う方が無理だろう。

 外はまだまだ暗い。人の目につく事も無いだろうと思い、私は気持ちを落ち着けるために外の空気を求めた。衣擦れの音も立てずにそっと庭に出る。


 ふと、門が目に入った。客を入れるつもりだったので、物騒だからと門を閉めたがる人々を留めてまで開けさせてあったのが、今となっては憎らしい。本当ならこの門から帰る男をこんな風に見送っていたかもしれないのにと思いながら門の前に佇んでみる。

 すると人気ひとけの無かった通りに牛車の音が聞こえた。誰か男君が早々と女のもとから帰る所なのだろうか? 

 私は袖で顔を隠し、中に引っ込もうとした。すると、


「おや、これは懐かしい人をお見かけする。 どなたかのお見送りかい?」


 牛車の中から気軽に声をかけて来たのは、少し昔に私がこの邸に通わせていた男だった。


「一夜明けてのお見送りにしては、随分身綺麗にしているね。その髪などたった今まで櫛を通していたかのようじゃないか」


 彼はそうニヤニヤしながら車を降りてきて言う。浅くは無い仲だっただけに鋭い。すっぽかされた見当はついているのだろう。


「身分が良い分、身づくろいにはうるさい人なのよ。見送るにも化粧を直すように言われるの」


 素直に認めるのが悔しくて、私は見栄を張った。


「そのわりには門前まで見送らせるんだな。身分が良い男は女を隠したがると思ったよ」


 嘘が通じないのが癪で、私も言い返す。


「あなたこそどなたのもとからのお帰りか知らないけれど、髪のほつれ一つなく、帯もずいぶん固く結ばれているのね」


 私の方でも彼がこんなに早くすごすごと帰り道を行かねばならない理由は察していた。おそらく彼も女に相手にしてもらえなかったのだろう。何か余計な事でも言って女を怒らせたか、彼が女に不満を持ったかは知らないが、帯を解く間もないまま一晩中喧嘩でもした揚句、さっさと邸を出て来るしか無かったのだろう。


「世話焼きな女でね。見栄えがいいようにと出かける前に髪や帯をきつく締めあげるんだ」


 口ではそういいながらも顔には「いい当てられた」とはっきり書いてあるような表情。こんな所はちっとも変っていない。私も若い時は彼のそういう顔に出る幼稚さが頼りなく思えて、結局そこが気に入らずに何となく彼とは自然消滅してしまっていた。

 だが今になってはそういう所が男の可愛さに思えて来る。思えば私は彼のこの素直さに惹かれていたのかもしれない。


 そんな心の動きを読まれたのか、彼がつと、私に近づいてきた。


「なんだ。妬いてるのかい?」


 そういいながら身をすり寄せて来る。


「妬いてるのは、あなたの方じゃなくて?」


 そういいながらも、懐かしい薫香たきものの香りと囁く声に目がくらむ。寝不足のせいかしら?


「ああ、妬ける。本当の事を言うと、あんまり綺麗な人が佇んでいるんで、思わず牛車を止めたんだ。いつの間に君はこんなに美しくなっていたんだい? おかげで私は熱を出して、倒れてしまいそうだ。このまま奥で休ませて欲しいな」


「私の介抱が必要なほどなの?」


 返事の代わりに強く肩を抱き寄せられる。からの牛車に寄り添っていた彼の従者と牛飼いが、心得顔で帰って行く。


「……嫌だわ。あなたの熱がうつってしまいそう」


 そういいながら彼を門に通すと彼は、


「私の恋心の熱がうつったら、今度は喜んで私が介抱するよ」


 と、私に囁き続ける。


「もう夜が明けるわ。明るくなってからあなたを帰すなんて恥ずかしい……」


「帰らないさ。明日の有明の月を見るまで一緒だ」


 私達は朝の光でさえ届かぬほど奥へと入って行く。



 待ちぼうけも、今度ばかりは悪くないわ。

 こんな風に懐かしい恋を再び手に入れる事が出来たのだから。




  今来むと言ひしばかりに長月ながつき

  有明ありあけの月を待ちでつるかな  素性法師そせいほうし


 (今すぐにでも来ますとあなたが言ったばかりに、

  九月の秋の夜長を眠ることもなく、

  夜明けの有明の月が出るまで待ち続けてしまいました)





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