みをつくしても
「お方様! 殿がお戻りでございます。ああ、どうしたらいいのでしょう?」
命婦の切羽詰まった声に私達はハッとした。そう言えばさっき僅かに牛車の入る音が聞こえた気がする。私に寄り添っていた美しい女人の顔がみるみる青ざめて行く。
「そんな。殿は確かに今夜は寺に泊まってくると言ったのに。これはいったいどういう事なのでしょう?」
我が美しい恋人はそう言ってうろたえている。
「そんな事を気にしている場合ではございませんわ。この方を早く御隠ししなくては!」
そう言って命婦は彼女と私を引きはがし私の衣の袖を引こうとしたが、私はその手を振り払う。もうすべて手遅れだ。この邸の主で高貴なお立場の大臣は、すべてを知った上で私達を謀ったのだろう。私達が逢っている所を直接踏みこんで、動かぬ証拠として私達を断罪するおつもりだ。
「逃げるわけにはいかぬ。私はお詫び申し上げなくてはならない」
私は急いで身なりを整えた。すると顔を真っ赤に染めて憤怒の表情をした大臣が私の前に現れた。私はそのまま跪き、額突いた。
「そなた、若い男の身で何故私の留守中に、我が妻の寝所の中にこうしておるのだ」
分かっていて踏み込んだのだろうが、それでも現実に我々が逢瀬をしているのを目の前で見て邸の主は怒りのあまりに全身を震わせていた。
「これは私の恋心がさせたことでございます。私は強引にこの邸に忍び込んで、自分の想いを果たしに参りました。あなたの妻であるこの方には、何の落ち度もないことです。お怒りは私めにお向け下さいますよう」
「ふざけたことを申すな! お前達の事はすでに世の噂となっている。これが私にとってどれほどの屈辱かお前などには分かるまい。このような位の低い、何も知らない若造にこのような目に遭わせられて黙っておったら私は恥をかくばかりだ。この者にはたった今から謹慎を申し渡す。自分の邸から一歩も出ることを許さぬ!」
それを聞いて優しい恋人は自分の夫にすがりついた。
「待って! それでは世の噂をあなたが御認めになるのと同じです。あなたにもお立場があるはずですわ。どうかこの方を罰したりしないでください」
「だからこその謹慎なのだ! 本当ならこのような者、たった今にでも官位も身分も剥奪し、この都から追い出してやりたいところだ。だが、そんな事をすれば都の噂好きな雀たちはそれを面白おかしく広め回ることだろう。あること無い事好き勝手に想像し、話に尾ひれをつけて回るに違いない。だから人の噂が落ち着くまでの謹慎で、目をつぶってやると言っているのだ」
この方はまだ貴族としての体面は守ろうとなさっている。ならば、
「では、この女君を離婚なさったりはしないのですね? 今後も北の方(正妻)として尊重して下さるという事ですね?」
私は思わず顔を上げて聞いた。
「仕方あるまい。忌々しいのは確かだが、これ以上事を荒立てては恥の上塗りだ」
ああ良かった。せめて愛する人の立場だけは守られると知って、私はまた深く頭を下げる。
私はこの大臣の妻である恋人と、まだ本当にごく若い時から仲が続いていた。私はこの恋人と結ばれることを望んでいたが、身分低い私は恋人の親に認めてもらう事が出来なかった。そして親はとても高貴な御身分のこの邸の主と、私の恋人を結婚させてしまったのだ。
一度はあきらめかけた恋だったが、高貴な身の上の人の妻となった恋人は、すべてが幸せと言う訳にはいかなかった。大臣は身分がら他の妻も通う先も数多かった。恋人自身の身分はそれほど高くはないのだが、妻の中では一番の美女と言う事で彼女が正妻として夫の邸奥深くに北の方として据えられた。そのために恋人は何かと気苦労の多い暮しをしていた。
そんな噂を耳にする度に私の胸は焼けるように痛み、ついに私は邸に忍び込んで逢瀬を遂げるようになった。恋人も私への想いを捨てきれていたわけではなく、命婦を通じて上手く私を忍ばせてくれるようになった。夫の留守にその目を盗んで僅かな逢瀬を繰り返す。私達はそんな危険な恋の罪を犯していた。
「だが、そなたに容赦は無いぞ。もし私の許しを得ぬうちに自分の邸から一歩でも動こうものならば、今度こそお前は身の破滅だ。官位も身分も失って、都を追放されると心得て置くがいい」
主はそういいながら私を縁のすのこへと突き飛ばし、倒れた所をさらに庭へと突き落とした。
するといつの間にか控えていた屈強な侍が私を引っ立てて行き、邸の外へと放り出した。
私は謹慎を言い渡されたことや事が露見したことよりも、もう二度と恋人に会えなくなってしまったという現実の方が受け入れ難かった。いつかはこうなることを覚悟しながらの逢瀬だったはずだが、いざそうなってみると恋人に逢えない事が信じられずにいるのだ。
それでも日は過ぎていく。謹慎は解ける様子がない。当然だ。私達の事はどこから漏れたか、都中の噂となってしまっていた。これでは恋人の夫の怒りが解ける筈がなかった。それどころか恋しいあの人には都中に「恋に浅はかな女」という不名誉な噂が流れるようになっていた。そして、そういう女人を北の方としてしまった大臣の事も好きなように噂される。たいして身分も無い私の事など誰も眼中にないのだ。そんな私に名誉を傷付けられた大臣ははらわたが煮えくりかえる思いでいるだろう。そして愛するあの人は針の筵のような思いでいるに違いない。私はあの人をこんなにも不幸にしてしまった。
それなのに私の心はあの人をいまだに求めている。どうにかしてあの人に逢いたいと願っている。私はあの人を不幸にしておきながら、あの人を慰めるために一目逢いたいと思ってしまう。
そんな事をすれば、間違いなく私はこの身を滅ぼしてしまうと分かっているのに。
そんな中で私はあの命婦が里下がりすることを知った。私の恋人のお付きの女房(侍女)である彼女は、女主人のもとを離れずにひしと寄り添っていたが、親の病でどうしても邸を出なくてはならないらしい。恋人の様子を知るにはこの人から話を聞くしかない。私は居ても立ってもいられず、命婦を自分の邸に呼び出した。命婦もなんとか時間を作って来てくれた。
「お方様は毎日殿の視線に脅えて暮らしておられます。都の噂ではお方様が殿に御不満をお持ちで、腹いせにあなたを邸に忍び込ませたと言われています。あなたとの事は殿との御結婚前からの事ですのに」
「そうだ。私とあの人とはずっと昔からの……もしかしたら前世からの因縁でこのような仲になったのかもしれないのだ。今でも私はあの人に逢えずにいる自分が信じられない。このままでは私はとても生きて行けそうもない。だが、あの人は今も私を恋しく思って下さっているのだろうか?」
「それはもちろんですわ。身分低い女、不貞な女と殿にさげすまされているより、あなたに心から愛されていた方がお方様もお幸せなはず。わたくしもあなた方の宿命の深さをこれまで見て居りましたもの」
「そう思っていてくれるのなら、命婦よ。私を今一度あの人の寝所に入れてくれ!」
私の言葉を聞いて命婦は真っ青になった。
「もちろん人に知られればお前も邸を追い出されてしまう。主人思いのお前にこんなことを頼むのは心苦しいが、私達の味方はお前しかいない。あの人が肩身狭く辛い思いをしていると知った以上、私は余計にあの人に逢わずにはいられないのだ。無理を承知で頼んでいる。お願いだ、命婦」
「いいえ。わたくしは良いのです。お方様のためならどんな罰も受ける覚悟が最初からありますから。それにわたくしは所詮女一人の身の上の事。でも、あなた様には御両親も御一族の方々もいらっしゃる。人に知られれば間違いなくあなたは身の破滅を招かれますわ!」
「それでも良い! 家や親を捨て置いてでも、今となっては私はあの人に逢わずにはいられないのだ!」
私のあまりの激しい情熱に、命婦はついに折れた。私の文を受け取ったあの人は幾度も、
「来てはなりません。わたくしの事はお忘れ下さい」
と返事をよこしたが、そんな事では私はもう止められない。むしろ涙で震えるあの人の文字を見ると、私の我慢は限界に達してしまった。
私達は再び逢った。命懸けの最後の逢瀬だった。
夢のような時を過ごし、そのまま二人で駆け落ちを試みようとした。
しかし厳重な警戒の中、命婦の機転でかろうじて寝所に入れただけでも奇跡のようなものだった。当然私達は邸の門にたどり着くことすら叶わずに、捕えられてしまった。
私は都を追放され、この世の果てのような島国に渡った。舟で都から島に向かう時、難波で朽ち果てそうになっている澪標(船のための標識)の姿が、私達の事を表しているようで心に染みた。
あの人もすぐに髪を下ろし、尼姿となられた。そしてわびしい寺住まいながらも、穏やかに日々を暮らされているという。
私も後悔は無かった。私はこの都から遠く離れた地で、あの人の心の平穏を願っている。
人々は破滅した私達を愚か者と嘲笑うかもしれない。だが私には共に身を滅ぼす覚悟で恋してくれたあの人との素晴らしい思い出がある。きっとあの人もそうなのだろう。
愚か者にはそれに相応しい幸せの形がある。私達は、人々が思うよりはずっと幸せな人生を歩んでいると思う。
わびぬれば今はた同じ難波なる
みをつくしても逢はむとぞ思ふ 元良親王
(事が露見してわびしく思い悩んでしまった以上、今はどうなっても同じ事。
難波の海で海水を浴び続け、いずれは朽ち果てる澪漂ではないが
この身を滅ぼしてもあなたに逢いたいと思う)




