春過ぎて
牛車がゆっくりと止まると、付き添っていた従者が中にいらっしゃる高貴な女人に声をかけた。
「ここで川を渡りますので、お支度を」
「分かりました。今、降ります」
高貴な女人に代わって、傍にいる女房(侍女)がそう返事をする。そして仕える女君に市女笠を差し上げたり、広げた扇を手にしていない方の御手を取ったりしてかいがいしくお世話する。
声をかけた従者は用意した「さし几帳」を広げ、女君に差しかけてその御姿を御隠しする。その横でさっきの女房が女君のお顔の辺りを自分の袖で隠すようにして寄りそった。
その女房に従者は親しげに声をかけた。心安い仲なのだろう。
「車の中は暑かったんじゃないか? ここは川風が吹きぬけて快適だから、舟に乗る前にお方様を休ませて差し上げたらどうだろう?」
「いいえ。車の中は日差しが遮られていたから大丈夫。それにこの日差しではお方様のお肌が焼けてしまうかもしれないわ。早く渡り終えてしまわないと」
「渡り終えたら木陰に入るといい。まだ木の影は涼しいから」
すると女君が小声で女房に話しかけた。周りに従者がいるのでお声を聞かせられないからだ。
「木陰に入ったらあなたもゆっくりするといいわ。あの従者はこの旅の間にあなたを口説きたくて仕方がないようよ」
「そんな事お気になさらないでくださいませ。御父上様の病のご回復を御祈念するための寺詣でなのに、あの者は不謹慎ですわ」
逆に女房は声を張って、わざと従者に聞こえるように非難した。
「そんな風にムキになると、あなたもあの者に好意があると周りに吹聴しているようなものですよ。素直におなりなさい」
そう言って女君はおっとりと笑う。女房は恥ずかしさと女君の笑顔の眩しさにあてられて、顔を赤らめていた。
「だって、不謹慎……」
「彼が不謹慎なら、私はもっと不謹慎よ。父上の病と言っても、ほんの軽い病。この寺詣ではそれにかこつけて私が気晴らしに旅に出るためのいい訳ですもの」
そう言って女君はさし几帳と女房の袖几帳の間から周りの景観を見渡した。桜が散ると季節は一気に進んだかのように若葉が茂り、景色も降り注ぐ日差しも夏の物へ変わっていた。
「待って」
女君が珍しく声を出して立ち止まった。かしづく付き人達が一斉に足を止める。
「あの沢山干している白い布は何?」
また声をひそめられて女房に聞いた。
「さあ。あの白い布は何か、知っている人はいますか?」
するとさっきの従者が、
「あそこに布の染め場がございます。あの布は染める前の布を風に晒しているのでございましょう」
と、いい所を見せようと自慢げに答えた。女房は「フン」と鼻を鳴らしたが、その前に感心した表情を見せたのを従者はもちろん見逃さない。女君はまたゆっくりと歩き出した。
「青い山と若葉に映えて、美しゅうございますね」
歩きながら女房は従者から顔をそらして女君に語りかけた。良く晴れた青空に青い山並みが遠くに見えて、川の周りを取り囲む木立には美しい新緑が彩っている。そこに白い布が川風の中にはためく姿は、河原の日差しの中でとても爽やかだ。
「ええ。あれこそが『天の香具山』で見られたような景色なのでしょう」
女君は布の隙間から見える景色に、うっとりと見入りながら小声でつぶやく。
「天の香具山……。古い昔の都を取り囲む、懐かしいと言われる山々の一つですね?」
「ええ。その懐かしい山々の中でも、香具山は天上から降りてきたとても神々しい山と言われているの。だからその山では夏が来ると清浄な真っ白い衣を干していたの。古い都の人々は、その衣が翻る様子を見て『夏が来た』と感じたそうよ」
「昔の人は季節を感じるにも、情緒深かったんですね」
「わたくし達だって、あわれの心は持っていますよ。この青い景色の頃に翻る真っ白な衣。衣の白さが普段以上に妙なる美しさを際立たせるわ。『白妙』とは良く言ったものね」
そんな話をしているうちに舟の乗り場に着く。女達が舟に乗り、従者たちは自分達の船に乗るために一旦下がった。
船を下りて木陰に身を落ち着けると川向うの「白妙の衣」が遠くに見える。離れて見るとさっきよりも空や山の青さが見渡せる分、衣の白さが一層眩しく思えた。
女君は人に言って白い布を用意させると、それを女房に渡した。
「これはさっきの従者に禄(褒美)として与えるものです。あなたが持って行っておやりなさい」
「いえ、わたくしが持って行くと、あの者は調子に乗りますから」
女房がそう言うと女君は小さく首を横に振った。
「あなたが渡すのです。いつまで春の日差しの中で子供が戯れるようにふざけ合っているつもりですか? あなたもあの者をよく想っているのでしょう? もう季節は夏なのです。そろそろ恋の熱さを語っても良いのではありませんか?」
「お方様……」
「ほら、きちんと身なりを整えて。その卯花襲ねの装束、良く似合っていますよ」
「ありがとうございます。お方様」
女房はほんのりと頬を染めて礼を言うと、従者のもとへと向かって行った。女君はその姿を「白妙の衣」と共に眺めていた。そして、
「彼女の心は、これからどんな素晴らしい恋の色に染まって行くのかしら」
と、興深く思って見ていた。
春過ぎて夏来にけらし白妙の
衣ほすてふ天の香具山 持統天皇
(いつの間にか春も過ぎて夏が来ていたようです
天の香具山には夏が来ると白い衣を干すと言いますから)




