まつとし聞かば
あいつとはいつの間にか長い付き合いになっていた。
あいつは宮中に長く勤める女官で、帝や宮中を訪れる高貴な方々の細かな御世話をして差し上げるのを仕事としている。普段は御髪を結いあげたり、お召しかえをして差し上げたり、お食事を運んで差し上げたりといった仕事をしている。
時には楽を奏でたり、和歌を詠んで高貴な方々の御心を慰めたりもする。もちろん訪れた人々を楽しませる社交も行う。気の効いた、冗談の一つも雅やかに返さなくてはならない。
あいつはそういう事が得意で、いつも人々に褒められ、帝からも認められている。
一方俺はと言うと、そういう雅な事がとんと苦手な性分と来ている。
俺の家は普通の中流貴族で、親も先祖も「和歌」だの「漢詩」だの「雅楽」だのを受け継いできた官職の家系だ。当然俺も幼いころからそういう事を仕込まれた。
ところがどういう訳か俺はそっちの方面にはまったくさえがなく、変わりにやたらと弓だの馬だの太刀使いだのの方が、得意となってしまった。自分の邸に盗賊が入って来た時も、侍所(従者の待機所)に控えていた従者よりも真っ先に飛び出して、賊たちを追っ払ってしまった事もあった。はっきり言って俺は生まれた家を間違ってしまったようだ。都ではなく東国の武士にでも生まれていれば良かったのかもしれない。
そんな俺なのにあいつを宮中で侵入者から助けたのが縁で、あいつと長い付き合いとなってしまっている。
内裏と言う場所は意外と不用心だ。大内裏の各門は衛門府の役人によって当然厳重に守られているし、中も近衛府の役人が警備をしている。
ところが乞食坊主や浮浪者などは案外中に入り込んでしまう。そして高貴な方々にすり寄っては物乞いなどをしているのが実態だ。そういう者は追い払っても追い払っても数が多くてきりが無いので、いつしか放って置かれてしまうらしい。
内裏には鬼が住んでいて、時折女子供が食われてしまうという話を聞くが、実は半分くらいはそういう得体のしれない人間が襲って殺したのではないかと俺は思っている。
内裏とは帝が住まわれる場所で、帝は神同然の存在。現人神であらせられる。そんな帝のおられる雲の上の世界を襲う人間などいる筈がないというのが都人の理屈である。
こういう理にかなわぬ感覚も俺の性分には合わぬのだが、それが都なのだから仕方がない。
出世の遅い俺がようやく蔵人(宮中での雑務や連絡係)となって殿中で仕事をするようになった時、深夜に近くで悲鳴が聞こえた。慌てて駆けつけると浮浪者らしい男が女官を襲って首を絞めていた。俺は驚いて浮浪者を女官から引きはがし、突き飛ばすと太刀を抜いた。暗い中だったが月光に刃が光るのが見えると、浮浪者は慌てて逃げていった。その時助けたのがあいつだったのだ。
「鬼が! 鬼が襲って来ました! ああ、恐ろしい。早く払っていただかないと!」
「落ちつけ。あれは鬼ではない。人だ。浮浪者だ」
「そんな筈はございません。ここは内裏深い宮中でございます」
「それでもあれは人だった。私は見たのだ」
「そんな! あのような者がまた襲ってきたら、どうしたらよいのです? ここは私がいつも自分の局(侍女部屋)に帰る通り道ですのに」
脅えるあいつを落ちつかせ、俺はこの辺りにはいつも人がいるように手配をした。そしてあいつのことをいつも気にかけて、姿が見えると目で追うようにした。そうするうちに向こうも俺を気にかけていたらしく、いつしかあいつと「良い仲」になってしまっていた。
と言っても、あいつとはずっと仲が続いていたわけでもない。あいつは宮中の人気者で何かと対面にこだわった。あいつには俺の粗雑さや無神経さが気に障って仕方がないらしかった。
俺は俺であいつの女のくせに気の強い所や、俺の武骨さを指摘する所が気に入らなかった。あいつは二言目には、
「私に恥をかかせるようなことをしないで!」
と文句を言ってはふくれていた。俺もあいつの言う「雅なやり方」に付き合う気はないから、そんな時はあいつの局からさっさと出て行って文も贈らない。
だがあいつが里下がり(実家に戻る休暇)すると気になって仕方なくなってしまう。あいつは口で言うほど本当は気が強くは無いのだ。宮中ではあいつが高貴な「なにがしの君」を上手に手玉に取ったと称賛しても、本人は気に病んで里下がりの休みを取って落ち込んでいる。俺が訪ねると、
「私……あの方を本気で怒らせてはいないかしら? あの方は帝の片腕のような方なのに。宮中に戻ったらあることない事言いふらされて、私の居場所なんて無くなっているんじゃないかしら?」
と、おろおろして泣きごとを言っている。人々がどんなに称賛しようとも、あいつは目の前で接している人間の心の動きの方を気にする。あれで結構小心者なのだ。
「大丈夫さ。あの君はちゃんと計算している。お前のような評判の才女に言い負かされても対面に問題は無いし、それを優雅に笑ってみせる余裕を人々に示して、いかに自分の心が広いか知らしめる気でいるのだろう。お前もその辺が分かっていて、ほどほどにやりこめたのだろう?」
「ええ。そのつもりなのだけど。でも、宮中を下がってみると、なんだか空々しい気がして」
内裏の中は虚の世界。女の世界ではなおさらだろう。だがそこから離れた時に正常な感覚に戻るまっとうな神経があいつにはある。俺はあいつのそういう所を好み、信頼している。
「なあに。本当に居場所に困ったら、俺の妻に収まればいいさ。俺達結構上手くやって行けるだろう?」
気位の高いあいつにこんな言葉をかけるのは俺しかいないと思うと、なかなかいい気分になって俺はあいつを放っておけなくなる。世間じゃあいつに俺は不釣り合いだと思っているだろうが、結構俺はあいつに頼られているのだ。
だが、どうかするといつもの「恥をかかせないで!」が始まって俺達は疎遠になる。そしていつの間にかまた、もとのさやに収まっている。そんな風にしてあいつとの長い付き合いは続いていた。
ところが武骨で社交下手と言われる俺にも出世の機会が巡ってきた。国の国司(地方の国主)として赴任できることになったのだ。
任国は因幡の国。俺の兄弟は俺と違って社交上手で皆とっくに出世を果たしている。俺は遅れに遅れていたが周りがそうとう気を使って俺にも国司の仕事が回ってきたという訳だ。地方なら都のような窮屈さが無いから、俺も相応に力が出せるかもしれないという配慮もあったようだ。
俺も都で宮仕えしているよりも、地方で一国の国司としてやっていく方があっているような気がする。少なくとも俺の武骨さを軽んじる者はいないはずだ。あっちの暮らしはきっと快適だろう。
あいつが俺について来るとは思えない。宮中の華であるあいつについて来いとも言えない。俺達はしばらく離れ離れになってしまう。
……いや。しばらくですむだろうか?
あいつはいつだって自由に生きてきた。完全に誰かの物になって生きた事など無かった。
あいつは俺が身近にいることに甘えていたはずだ。俺もあいつに甘えていた。都は性分に合わないと言っても、やはり俺も都育ちで本当の地方の事情など分からない。都では武に勝っているつもりでも、向こうに行ったらそんな事は当たり前で、自分のこれまでの理屈が通用する保証なんて無いだろう。俺はこれまでそういう事に目を瞑って、都の象徴のような女のあいつを近くに置くことで、安心していたのかもしれない。
しかし、俺とあいつが離れて暮らせば、あいつは俺に頼れなくなる。どんなに不安でも、心細くても、宮中の華としての役割を貫いて、耐えて生きることを学ぶだろう。
俺は俺で任を終えれば再び都で生きていかなくてはならない。たとえ生まれた家が間違っていたとしても、俺は結局は官人として生きなくてはならない宿命なのだ。どこに行こうとも俺は最後は都人でなくてはならない。
これまで都を否定した俺が、都を離れ、再び都に戻った時、誰が俺を温かく迎えてくれるだろうか? いくらなんでも親は歓迎してくれるだろう。同胞の兄弟も無視はするまい。しかし同時に出世競争の相手としても見るだろう。友人知人はもっとあからさまになるだろう。
そして、他に待っていてくれる女などは居ないだろう。俺は自由に生きるあいつを否定したくない。だから「待っていて欲しい」とは言えない。本音はこんな俺でも都で迎え入れてくれる女がいて欲しいとは思うが、それをあいつに求めることはできない。
あいつは……俺なんかを待つ気持ちが、少しでもあるだろうか?
「そうなの。なら、しばらくはお別れね」
あいつはそっけなくそう言った。
「おいおい。長い付き合いなのに、寂しいとか、行かないで欲しいとかという言葉は出ないのか?」
「あんただって、私について来いとは言わないじゃない」
「お前が男のために今の地位を捨てる女じゃないって事は分かっているさ」
「それなら私だって知ってるわ。あんたが女のために地方での自由な暮らしを捨てるような男じゃないって事くらい」
そう言ってあいつは俺に蒔絵の箱を差しだした。
「中に硯が入ってるわ。田舎の硯じゃ質が悪くて嫌な音を立てるんじゃない? 気が向いた時にそれで文でも書いてよ。こっちも気が向いたら返事を書くから」
気が向いたら……か。それでも「これで終わり」と言わないだけましか。
ふたを開けるとなかなか上質な硯が入っている。この箱も結構物が良い。
「良く見たらこいつはお前が使っている硯箱と同じ箱じゃないか? どれ、ちょっとそっちも見せてみろよ」
そう言ってあいつの文机の上にある硯箱を、俺はさっと取ってしまう。あいつは「あっ」と小さく声をあげたが、かまわず箱を開けてみた。
やはり作りも蒔絵の柄も同じものだ。なかなか可愛い事をするじゃないかと思っていたら、箱の蓋の裏に何かが書かれているのに気がついた。
「まつとし聞かば」
これは有名な古歌の一部分で、この古歌は大切な物を無くした時、あるいは大事な人がどこかに旅立った時に、我がもとに戻ってくるようにとの「まじない」に使われる歌である。
気がつけば俺はあいつを抱きしめていた。
「俺を……待っていてくれるのか?」
「行く先が『いなば』……どうしても行かなくてはならない所なら、本当はあんたも都が恋しいんでしょう? せめて私くらいは待っていてあげないと」
「おまえこそ、本当は俺にすぐに帰ってきて欲しいんだろう?」
帰る場所があれば、任地での暮らしなどあっという間かもしれない。
俺達の仲は、まだまだ続きそうである。
たち別れいなばの山の峰に生ふる
まつとし聞かば今帰り来む 在原行平
(別れてわたしが因幡の国へ『往なば』……行ってしまったならば
その因幡にある稲羽山の峰に生える松のように
あなたが私の帰りを待っていてくれると聞いたなら、すぐにも帰って参りましょう)
※この和歌は今でも「待ち人」「探しもの」が無事に戻ってくる「おまじない」として信じられているそうです。特に迷い猫が帰るおまじないとして有名です。




