若菜摘む
今年も若菜摘みの時期となった。幼いわが子も召し使う人々や童らと一緒になって、野原で雪の間から青い姿を覗かせた若菜を見つけては、夢中になって摘み取っている。春とはいえまだまだ正月が明けたばかりの早春だ。空からは清らかな雪がずっと振り落ちていて、人々の衣の袖口を濡らす。そんな中で雪の冷たさに手を真っ赤に染めながらも息子は、
「父上。こんなにたくさん摘みました!」
と青い菜を見せる。
「本当だ。たくさん摘めたなあ」
そう言って褒めると息子は、
「これで父上も母上もたくさん長生きできますよ。僕も仙人のように長生きできるかなあ?」
と、嬉しそうにしている。誰でも若菜摘みに込める思いは同じだ。自分の大切な人が、長く健やかに生きられますようにとの切ない願いが込められている。それはこの幼い者でも変わりは無い。
かつて私も心から大切な人の寿命が長くあるようにと祈りながら若菜を摘んだ。幼いころは両親のために。そしてその後は愛する女人のために。
だがその女人はもうこの世にいない。私の願いは叶えられなかった。だが今も新たな妻と愛おしい息子のためにこうして若菜を摘んでいる。そこに込める心はあの頃と同じだ。
私には今の妻の前に、ごく若い時に結ばれた妻がいた。もともと病弱で、見るからに儚げな妻だった。
そうだ。その妻のことを知ったのは、私の召し使っていた童舎人が、息子ぐらいの年頃だった時の事だった。私は元服したての少年で、まだまだ人に使われてばかりいたのだが、我が乳母の子の乳兄弟の弟である、自分よりずっと幼い子供を童舎人としてたまに使うようになっていた。使うと言っても自分で行ってもよいような些細な用事ばかりだが、若かったものだからそうやって大人ぶって見せたかったのだ。
だが幼い子供の事。ある日私に大納言殿の邸の使用人に伝言を言いつけられたその童は、用事ついでにその邸の子と庭で遊んでいたらしい。やんちゃ盛りの事なのでこっそり庭の木に登り、そこから近くの築山に飛び移ろうとして怪我をした。もちろん邸の下男に見つかり怒鳴られた。
主人の用事の途中で遊びに夢中になってその邸に迷惑をかけ、帰りが遅れているのだ。この話は当然主人である私の所にも伝わって、さらに私に叱られるだろうとその子は泣きだした。怪我も痛んだし、自分が主人の面目を潰していることを、幼いながらにも理解していたのだろう。
ところがその時、邸の中から女童が現れた。そして女主人の言葉を伝えた。
「怪我をして泣いている幼い子供を容赦なく怒鳴る声に、姫君様がお心を痛めておいでです。枝を折ったりしたわけでもないのですから、ここは許してあげなさいと姫君がおっしゃっています。何よりこれ以上庭で騒ぐと姫君様のお身体に障りますから」
そう言われた下男は御殿の方に向かって深々と頭を下げ、「申し訳ございませんでした」と告げてその場から離れていった。すると女童は私の童舎人の傷をぬぐい、布の端切れをまいて手当てをしてくれた。そして主人に後れを問われたら、大納言の姫の大君(長女)に呼びとめられたと言えば、叱られることは無いと教えてくれたそうだ。
知恵浅く幼い童舎人は一部始終をすべて私に伝えた。彼が手当てを受けた端切れからは芳しい高貴な香りが漂って来た。おそらく姫君の移り香であろう。
当時、大納言殿の長女が病弱だというのは噂に聞いていた。大納言殿も姫君を大切にしていらっしゃるが、何しろお身体が弱くて長く生きられそうも無いので、良い婿を取る御期待などはその下の妹姫や、北の方とは違う、他の方との間に儲けられた姫君達にかけられていると言う話だった。
だが私はその姫君の優しさに心惹かれ、憧れた。御容姿や御教養も妹姫の方が優れられていて、何より大納言殿の御愛情も妹姫の方に深く傾けられているとの評判ではあったが、私はそんな中で寂しい思いをされている姉姫の方に心強く惹かれたのだった。私の周りは、
「同じ大納言殿の姫君なら、御評判の良い妹姫を求められればいいのに」
などと言っていたが私は気にしなかった。少しばかりの出世をしたところで私は姫に縁談を申し込み、その方を妻とした。
妻はやはりとても心優しい人だった。病弱ゆえに教養などはままならぬ事もあるようだが、周りの人への心配りが行き届く、細やかな性質の方だった。さほど練習する事も出来ずにいるというのに、その人のかき鳴らす琴の音はとてもとても優しい音色がして私の心を安らげてくれた。
確かにその身は大人の女性とは思えないほど細く、髪も細くあまり潤いがあるようには思えず、肌の色も白いというよりは青いくらいではあったが、その儚さが時には人と言うよりは天女のように神々しく思える事もあった。触れれば壊れてしまいそうな姿で、それでいて包み込まずにはいられないような危うさがあった。普通に言う美人とは違うのかもしれないが、私にとっては十分満足のいく美しさであった。
しかし女人である妻は私の目に映る自分の容姿を気にしていた。あまりに細すぎて骨ばった肩の線などを気にした。目の下を窪ませる青い隈なども気に病んだ。
私のために懸命に多くの衣を身にまとって、肩が軟らかく見えるように気を使った。顔にもおしろいを多くぬろうとした。しかし多くの重い衣や厚い化粧は、容赦なく彼女から体力を奪ってしまう。彼女は無理をしては臥せってしまい、またその事さえ気に病んだ。
私は妻のそんな女らしさを何より愛した。妻のために滋養に良いと言われる食べ物を、なんとか地方から取り寄せようと腐心した。衣も軽くて上質な物を探しては贈った。そういう物はやはりどれも高価だったが、私にとっては妻が健やかな笑顔を見せてくれるならば、それだけの価値があるように思えていた。妻も私に応えようと常に笑顔を絶やさずにいてくれた。そんな人だから邸の人々にも愛されていて、先々を気にする大納言殿も妹姫に力を注ぎながらも、姉姫の事も気に留めずにはいられなくなるほどだった。
ある年の新春の若菜摘みの頃を迎えた時、その日は久しぶりに妻の体調が良かった。妻は幼いころから庭に出る機会も無く、普段もめったに御簾を上げる事さえ無かった。秋冬の寒さが身に堪えるのはもちろん、春夏の日差しさえもが彼女の身体を苦しめるからだった。そんな妻が春浅い早春の庭に出て私と共に若菜を摘むことを望んだ。
「外は見た目よりずっと寒い。せっかく体調が良いのだから無理はしない方がいい」
私はそう言ったが妻は、
「せっかく若菜摘みの日に具合が良いのですもの。ぜひあなたと共に菜を摘みたいわ。あなたと外で何かをした事が、まだ一度も無いんですもの」
と、我儘を言う。妹姫を始め、いつも人々に気を使って遠慮ばかりしている妻の我儘は、何を置いても叶えたいと思わされてしまう。私達は人払いをし、共に庭に下りて若菜を摘んだ。妻は、
「雪はこんなにも白く冷たくて、若菜の青さはこんなにも美しいのね。だから初春の若菜は長寿の御利益があるんだわ」
と、感慨深そうに言った。
「そうさ。私はこの若菜を出来るだけ多く摘もう。これを毎年たくさん食せば、あなたはきっと元気になって下さる。そして二人で長生きして、人生を楽しむんだ」
私がそう答えると妻は、
「今日は私も少しでも多く若菜を摘みましょう。あなたに長生きしていただけるように」
そう言って嬉しそうに雪をかきわけて菜を摘んだ。晴れてはいるが積った雪が風に舞いあげられて衣の袖に舞落ちて来る。その風はまだ冷たい。珍しく頬を赤らめて、白雪に降り注いだ春の薄日に照らされながら微笑む妻の顔は、まぎれも無く誰よりも美しかった。
こんなに優しく美しい人を、神仏が私から奪い去るはずがない。
私はその時そう考えたが、神仏はそれを私に許してはくださらなかった。妻のその美しい姿と心は、神仏さえも魅了したのかもしれない。私は夏が近づく頃に、御仏が我が妻をかき抱くようにしてどこかへ連れ去って行く夢を見た。そしてその夏の暑さに妻の身体は耐えられず、この世を去った。妻は苦しむ息の下からこう言っていた。
「年の初めに、あなたに若菜を摘んで差し上げられた事が、わたくしは嬉しいわ。毎年わたくしのためにあんなに冷たい雪の下から多くの菜を摘んで下さっていた事が分かったんですもの。あの日、私はあなたにどれほど愛されていたのか良く分かったの。こんなに優しいあなたですもの。きっと長生きして良い人生を送って下さるわね……」
それは違う。私が優しいのではなく、あなたが誰にも優しかったのだ。世の人々に振りかえられずとも、ご自分の身近な人々をすべてあますことなく慈しまれる清らかなあなたに接していると、自然と周りの人があなたに優しくなってしまう。あなたはそんな特別な人だったのに。大納言殿の姫君として称賛を得ずとも、私達は穏やかで幸せな日々を過ごす事が出来たのに。
その妻との日々は短いものであったが、とても幸せな美しい日々であった。私は後にその妻の最も身近に使えていた女房(侍女)を新たに妻として迎えた。もっと良い家柄の妻を迎えればよいのにと人々は言うが、そんな事はかまわない。たとえそういう人を迎えることになろうとも、私は今の妻のもとに多く通う事になるだろう。前の妻の素晴らしい思い出を分かち合えるこの人ほど、私の心に近い所にいる人はいないのだから。
翌日、朝の粥の中には昨日摘んだ若菜を刻んだ物が入っていた。息子は
「僕が摘んだ若菜だ」
と、得意そうにしている。それを見て妻は愛おしそうに微笑みながらも、
「食の細いお方様も、あなたがお摘みになった若菜のお粥だけは、残すことなく召しあがっておられましたわ……」
と、懐かしそうに話す。私も頷きながら粥を口に運ぶと、若菜のほろ苦さと早春の香りが口の中に広がった。
君がため春の野に出でて若菜摘む
我が衣手に雪は降りつつ 光孝天皇
(あなたのために、早春の野に出かけて若菜を摘む私の袖に
雪がひたすら振り続けています)




