表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
短編集  百歌繚乱  作者: 貫雪(つらゆき)
14/32

乱れそめにし

 私は間違った恋をした。 この恋はお互いを傷つけ合うばかりだった。

 私は乱れ模様の染め衣があの女人ひとの涙で一層乱れた模様となったらしい衣を見ながらため息をついた。この陸奥みちのくの地では「信夫しのぶ」と言う所で、「もぢずり」と呼ばれる石で草花などを潰しながらりつけて布を染めるという、とても素朴な染め方をする織物がある。その「しのぶもぢずり」の衣を私は手にしている。


 私はあの女人(ひと)を傷つけ続けてしまった。そして私も……。


 私はその年、兄を失った。人様に自慢するような特別優れた兄だったとは言えないかもしれないが、真面目で温厚な人柄の、誰からも好かれるような優しい兄であった。だが都中を襲うようなひどい流行り病に、兄の命はあっけなく奪い去られてしまった。


 兄はまだ結婚したばかりであった。本当なら兄の身分に釣り合う家柄の姫からの縁談があったにもかかわらず、優しくお人好しな兄は、両親を亡くし頼りなげな暮らしをしている姫のもとへと通っていた。結局縁談のあった姫とは弟の私が結ばれた。おかげで私はその邸の婿として大変良い待遇を受けていた。本当なら兄が受けられる待遇であったのにと私が言っても、兄は、


「私は人が良すぎて出世には向かないだろうから、婿として待遇を受けるのはお前の方が相応しい。結婚なんて前世からの縁で決まるものなのだ。私は自分に相応しい女人と結ばれたのだ」


 と言って納得していた。そしてとても幸せそうにしていた。こんな兄に愛されていたのだから兄の妻も幸せであったことだろう。


 しかしその兄が急に亡くなったのだから、兄の妻は途方に暮れているに違いない。兄が愛した女人ひとをみすみす困窮させるのも気の毒なのでとりあえずは私が使用人を使い、兄の妻のやしきの面倒などを見ることにした。この女人はなかなかの美人だとも聞いているので、そう遠くない内に再婚の話なども出るだろうと思っていた。


 兄の喪に服していた私達は、みそぎをして喪服を脱ぐ頃となった。これから先は兄の妻とも縁遠くなるだろう。最後にきちんと挨拶をしなくてはと思い、御簾と几帳越しではあったが直接言葉を交わすことにした。


 ところが私が声をかけると、兄の妻が息をのむ気配がした。どうしたのかと尋ねると、


「お声が……。あまりにあの人に似ていたので」


 と、驚いたように答えた。


 そうなのだ。私と兄は同母腹のせいか、声が実によく似ていた。自分では実感がないが、低く太い声でゆっくりとした口調で話す所が兄弟そっくりだとよく言われる。それまで直接私の声を聞いたことがなかったので驚いたのだろう。

 その後は故人の思い出と、決まりきったお悔やみの言葉しか話さずにいたのだが、几帳の向こうで明らかに兄の妻が動揺していることは声の調子で分かった。私はささやかな好奇心をそそられた。今だったらこの女人は美しいと言われるその姿を、ちらりと見せるのではないだろうか?


「実は今日は兄の形見の笛をお持ちしています。あなたに差し上げようと持ってきたものなのですが、大切な笛ですので出来れば直接お渡ししたい。御簾の近くに寄って来てはいただけませんか?」


 そう言うと兄の妻は少し戸惑ったようだが、それでも几帳の陰からいざり出て、御簾の近くに寄ってきた。私も御簾に近づいて下から笛を差し入れようとする。


 私はその一瞬の隙に、御簾をかき上げた。そしてその女人の姿を見た。

 噂通りに美しい人だった。そして儚げな風情が男の保護欲をかきたてるのもよく分かった。

 だが、その目は。


 その女人が私を見た瞬間。彼女の瞳には驚きよりも失望の色が濃く現れていた。その目は私の心に深く傷つけられてしまう。そして、傷が深い分、その目は私に焼きつけられてしまった。

 その目は語っていた。彼女は私の声を聞いて兄を思い出していたのだと。そして御簾がかきあげられた瞬間、その向こうにいる人物が兄であることを期待していたのだと。


 もちろんそんな事があり得ないのは彼女も分かっているだろう。しかし彼女は兄そっくりな私の声を聞きながら、その声を愛し堪能していたのだ。そしてその向こうに死んだはずの兄の姿を思い描いていたのだ。私が御簾をかきあげたりしなければ、それは美しい夢として彼女の心に残す事が出来たのだろう。しかし私の姿を見てしまったばかりに、現実に引き戻されてしまった。

 彼女はそれほどまでに、まだ兄を愛し続けているのだ。


 それをこうもまざまざと見せつけられた私は、深く傷ついた。自分が取った行動が原因だと分かっていても、私は彼女の事が忘れられなくなってしまった。

 見なければ良かった。互いがそう思わずにはいられない二人の出会いだった。


 私の心は乱れに乱れた。私は彼女に恋をしたが、彼女の美しさに恋したのではない。彼女の失望の思いに……兄亡き今になっても、兄の事を恋慕うその瞳に恋をしてしまったのだ。

 私を私として愛さない、失望の中に恋をしてしまうとは。こんな残酷な恋の形がこの世にあって良いのだろうか? 彼女は私を愛してくれていない。だが、私の中にある兄と同じ声を愛している。あの時私の声に耳をそばだてていた彼女の風情を思い出すと、私は居てもたってもいられなくなる。あの失望深い瞳を見せたという事は、私の声を聞いている間、彼女はそれほどその声に惹かれていたという事だ。


 それならこの声で彼女の心を開かせたい。私自身を愛してもらえるようになりたい。そうでなければあの時心に刻まれた傷と恋心を癒やすことなど出来ない。私はそう考えた。

 しかし彼女にはすぐに再婚話が持ち上がった。それを勧めたのは私の父であった。兄亡き後の彼女の暮らしを考えての事だ。彼女はそれを受け入れるより他になかった。


 私には婿として通う妻がいる。そしてそこでは大変優遇されている。あの人は亡くなった兄の妻であり、今は他の男のものだ。私がこんな愚かな恋に落ちていると知られたら、世の人は何と言うだろうか? 妻の邸ではどれほど憤るだろうか? 兄亡き今、唯一の頼みとして私に期待をかけている両親は、どれほど嘆き悲しむだろう? この恋心は誰にも知られるわけにはいかなかった。愛する彼女を除いては。忍ばねばならぬ恋は、一層私の心に燃え上がる。


 私がどんなに文を贈っても、彼女からの返事は無い。だが、夫の留守に強引に忍んで行くと、私の声を聞きつけた彼女は、懸命にその声を聞きもらすまいと耳をそばだてる。その時の彼女の喜びがこちらに伝わってきて、私は一時の幸福を得る。

 彼女は私を拒む。拒みながらもこの声を受け入れずにはいられずにいる。私達は至福と絶望を味わっている。


「この柄は『もぢずり』ですね。まるで私の心のようだ」


 御簾の裾からこぼれた乱れ模様の彼女の衣を見て、私はそういいながらその衣へ手を伸ばそうとする。しかし彼女はその身を奥へと引いてしまう。


「お願いです。このような真似はおやめ下さい」


 彼女は声をひそめて私を追い返そうとする。


「本気でそうお思いなら、今すぐ大声を上げて私を追い出せばいい。でもあなたはそれが出来ずにいる。私の中に兄を捜しているあなたは、私を追い返せないのだ」


「それを知っていらっしゃるのなら、どうかお帰り下さい」


「嫌だ。あなたが私の中の兄の思い出を愛しているのは知っている。それならそのまま私の事も愛して欲しい。この声が愛おしいと思うなら、いっそ目を瞑って、兄だと思って身を任せて欲しい」


「いいえ。そんな事をすれば、私はあなたをまったく愛せなくなります。確かに私はこの声を愛おしいと思うけど、それだけに声以外のあの人との違いがはっきりわかりますの。たとえ目を瞑ろうとも、ちょっとした仕草、言葉づかいが優しかったあの人とは違います。それをまざまざと思い知らされては、私は傷つくばかり。あなたも傷を深めるばかりではありませんか」


「たしかに私は兄とは違う。兄と同じようにあなたを優しさで愛する事が出来ずにいる。だが、あなたは私の持つ激しい恋情を、本当に受け入れてはくれないのですか?」


 私は知っている。恋は心地良いばかりではないことを。私が彼女を失望させる苦しみに恋をしたように、彼女にも私の激しい想いに恋心を抱いて欲しいと願うのだ。


「……! お帰り下さい」


 そう言って彼女が払うように振った手の袖口。それは『もぢずり』の模様が一層乱れていた。おそらく彼女の涙で模様がにじんでいるのだろう。それはただの苦悩か、私への想いか、兄への懺悔の涙なのか。


 彼女は答えてくれなかった。そして受け入れてもくれなければ、嫌ってくれることもない。私は苦しみを胸に立ち去るばかりだ。




 ところが世の流れと言うのは、時として心憎いことをしてくれる。私は春の司召し(人事)で国司に任命された。任国は都から遠く離れた陸奥みちのくの地であった。

 これが私の本格的な出世の第一歩と言う事で、両親も舅もとても喜んでくれた。妻は私一人を遠い北の地にはやれないと、共について行くことを望んだ。

 今も忘れられない、深く刻まれた恋の傷。遠い地で新しい暮らしに没頭していれば、その傷もいつかは癒やされる日が来るのであろうか? これは亡き兄が私と彼女のために記してくれた道しるべなのかもしれない。


 それでも私は都を旅立つ前に、彼女に衣を贈った。任地となる陸奥の地にちなんだ、『しのぶもぢずり』と呼ばれる素朴な乱れ模様に染め上げられた衣である。こんなにも心乱れたままで旅立っていく私の事を、少しでも思い出して欲しくての事だ。つまりはこの恋に終止符を告げる意思表示でもあった。これまで苦しめて申し訳なかったと文を添えた。


 そして私は旅立った。彼女からの返事は無かった。



 それから一年の時が流れた。ある日私の手元に『しのぶもぢずり』の衣が届けられた。見覚えのある柄だったが、何かが少し違う。

 それは私が旅立つ時に彼女に贈った衣だと気がついた。衣には文が添えられていて、


「この衣を受け取った時には、わたくしも心乱れて幾度も涙を流しておりました。その涙のせいで、色落ちしやすい『もぢずり』の柄がにじんでしまい、このように模様を一層乱れたものにしてしまいました。でも、今となっては美しい思い出だと思っております。今は夫に愛されて、幸せに暮らしておりますので、この衣も乾いて色が落ちる事も無くなりました。この衣はゆかりのそちらの地にお返しします。どうぞ、お好きなように御処分下さいませ」


 と、落ち着いた文字で書かれていた。確かにその衣は涙でにじんで一度色が落ちたらしく、余計に乱れた模様となってしまっていた。

 あの頃は彼女から一度も文をもらえず、彼女がどんな字を書く人なのかも知らなかった。

 私は間違った恋をして、彼女を傷つけ続けた。それでも彼女は幸せになって、落ち着いた美しい文字で今の幸せを伝えてくれた。


 今は私も落ち着いた幸せな生活を営んでいる。そして今なら分かる。あの頃の私は何かと亡くなった兄の代わりであることを意識していた。この陸奥の地でその呪縛から解放されて、妻とも改めて向き合った時、ようやくそれに気がつく事が出来たのだ。私の我儘な情熱で傷つけ続けた彼女が、こうして落ち着いた幸せをつかんでくれたことが、いまはただ、嬉しかった。


 衣はゆかりの地に返すというのだから、この地の天に返すのがいいだろう。私は衣をこの地で燃やすことにした。熱い恋の残り火のような炎が、最後にパチリとはじけた音を立てながら、衣を綺麗に燃やしつくすのを私はじっと見守った。



  陸奥みちのくのしのぶもぢずりたれゆゑに

  乱れそめにし我ならなくに             河原左大臣かわらのさだいじん


 (陸奥で織られる「しのぶもじずり」でめた乱れ模様のように

  私の心は誰のせいで乱れめているのでしょう

  私のせいではないはずですが)


 



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ