恋ぞつもりて
「恋の道で君に後れを取るとは。俺もまだまだだな」
そう言って友人は難しい顔をして見せる。私は驚きが先立って戸惑うばかりだ。
「本当は後からこっそり、別の文を贈っていたんじゃないか?」
私と恋文の返事を競っていたつもりの友人は疑わしそうに聞くが、私にそんな器用なまねが出来ないことは友人の方がよく知っている。悔し紛れに言っているだけなのだろう。
事の起こりは数日前。友人が私に「恋文を書け」と言って来たことが始まりだった。
相手は恐れ多くも帝の末の内親王様。なんでも殿上人の子息達は誰もがこの方に恋文を贈ろうとしているらしい。なぜなら帝がこの内親王様の御降嫁を検討しておられるという話が広まったからだ。
帝には幾人かの内親王様がおられるが、その中の容姿や才智に大変優れた方は帝の弟である東宮(皇太子)の妃となられた。やはり御容姿の優れた他の方は帝の片腕のような大臣のもとに御降嫁された。中には斎院の斎宮を務められていて、ご本人も世の人と同じように暮らすことを拒まれ、母君の女御(帝の妻)様の後ろ盾を頼りに独身を貫いていらしゃられる内親王様もいる。
だが、この末の内親王様は幼くして母君を亡くされていた。そして当時その母君の後ろ盾となっておられた大臣だった方も、今はもう亡くなっている。つまりこの末の内親王様は大変高い身分ではあるが、頼りになさっているのは父君である帝ただお一人と言う境遇なのだ。
帝は内親王様のその境遇を憂いておられる。帝が今上の地位に居られる今は良いが、先々御退位なさった時には内親王様のお立場は少々心もとない。皇女と言う地位は本来とても尊いものなので斎宮様のように未婚でいらっしゃることも少なくは無いのだが、帝は後ろ盾のない末姫様の先々を大変心配しておられた。そこで内親王様の御降嫁を考えているというのだ。
内親王様はまだご成人なされたばかりで大変にお若い。あまりお歳が離れすぎるのもお気の毒だろうという事で、殿上人の子息の中から先々出世の見込める者を選んでおいでだという。だから有力者の子息たちは内親王様に文を贈ろうと躍起になっているのだ。
「それなら、大臣の長男で舞なども帝に認められていて、口説き上手の好き者として名を知られている君は、なんとしてでも文を贈りたいだろうね。昔から『北の方にする女人は最上の人を手に入れたい』と言っていたんだし」
そう言って私は友人の言葉を聞き流そうとした。
「何を人ごとのように言っているんだ? 君だって東宮様の後ろ盾でいらっしゃる、今をときめく内大臣殿のお気に入りの学者の息子で、祖父殿は大臣だったじゃないか。君だって十分に資格がある」
「私は今は恋どころじゃない。父のような立派な博士になるために、学問漬けの毎日さ」
「それそれ。君のそういう堅物過ぎる所がいけない。いくら博士を目指すと言っても、貴族と言うのは世間知らずではやって行けないぞ。君の父上だって学問ばかりではない。ちゃんと社交術にも長けているから、学識豊かな内大臣殿のお気に入りでいられるんだ」
「君の場合の社交術は、女人専門じゃないか」
「何を言う。気まぐれな女達を喜ばせるのは大変なんだぞ。細やかな気配りや優雅さ。時には何があっても押し通すだけの腹の据わりも必要だ。これは殿上の社交にも通じる事だ。女を口説くのはそのための訓練だよ。どうだい、ここで俺と競ってみようじゃないか?」
「競う?」
「俺は人を通じて内親王様に文を届ける許可をもらってある。ついでに朴念仁の君の許可も取り付けた。俺と君、どちらが色良い返事をもらえるか競ってみようじゃないか」
その時私は何度も「ばかばかしい」と断ったが、あまりに友人がしつこいので仕方なく文を書いた。友人が面白がっているのは明白だったので、わざと、
「ご成人なされた内親王様のこれからの人生が、お健やかでありますよう」
と言うようなことを、固い言葉で書いて贈った。返事なんてまったく期待していなかった。
やがて友人は返事を受け取り、私の分と共に持ってきた。友人は自分への文を開いたが、お付きの女房(侍女)の筆跡でありきたりな返事が書かれているのを見てがっかりしていた。そして私の文を失礼にも覗き見すると、
「君には御言葉が別で添えられているな。噂通りの真面目な人柄が好もしく思える? 良い返事じゃないか! しかも、この筆跡。これほどの文字を書く女房などめったにいるもんじゃあるまい。ひょっとしたら内親王様の御真筆(直筆)なんじゃないか?」
と、興奮気味に言う。
「まさか。私のような者にそこまでして下さるもんか。もしそうだとしても、きっと内親王様の気まぐれさ」
「そうは言っても帝の内親王様からこんなお返事を頂いたんだ。ちゃんとした返事を書くんだぞ。癪に障るが今回は俺の負けを認める。皇女様を手に入れた暁には俺の出世も頼んだぞ」
友人はそうおどけて笑い、私も笑った。そんな事本気で考えてはいなかったが、何か、私の心に一滴の雫が、波を立てた気がした。
それをきっかけに私は内親王様と文を交わし合うようになった。友人は興味シンシンで私の文使いの真似事をした。そして文が本当に内親王様ご自身で書かれた物で、しかも今も文を交わして下さっているのは、私しかいないことを突き止めてきた。
「おい……。これは、ひょっとするかもしれないぞ」
友人にそう言われると私の心の中に落ちた水は、いつの間にか早い流れを伴って音を立てるようになった。私はその音が聞こえないふりをした。
都から遠い常陸の国にある「筑波」の山は、昔から「付く場」と呼ばれ男女が山の神に祈りを捧げて契りを結びあう場所とされている。その山の峰は男山と女山に別れていて、それぞれの山頂から落ちた水がやがて一つとなって男女川の流れになるのだという。これはそんな恋の川の流れる音なのだろうか?
いいや。所詮こんなことは高貴な方の気まぐれだろう。文に書かれているのも季節の便りや時候の挨拶だ。この水音も、流れが速いだけで決して深い心と言う訳じゃない。私はまだまだ多くを学ぶ身の上。友人にあおられて心惑わせてはならない。
そのうち文の内容が、学問にはげむ私を気づかい励ます物に変わってきた。そこには内親王様の人柄や、優しさがあふれていた。時には宮中深く住まう内親王様の父帝に対する感謝や愛情、そして母君のいない内親王様には、孤独を噛みしめる夜がある事も書かれていた。その中で宮中の外に暮らす年の近い私との文のやり取りが、とても慰めになっていることを知った。そして私は内親王様の御文に、自分の心の泉が満たされ始めていることに気づいた。
ところがそんな時に帝が病に罹られてしまった。さまざまな祈祷や治療が行われたが、その病は重く、長引いた。内親王様のご心痛は大変深く、出来る事なら私が内親王様を直接お慰めして差し上げたいと思った。今や内親王様の苦痛は私の苦痛であり、私の悲しみでもあった。私は心に落ちた一滴の雫が恋の始まりであり、今やその水は深い深い淵となって、わが身が溺れそうなほどになっていることに気がついた。私は本当に本気で内親王様に恋していたのだ。
ある日、友人が暗い顔をしてやってきた。
「帝は、御退位を考えていらっしゃるらしい。最近は御公務も滞りがちになられているからな」
帝の病は重いのか。私は内親王様の御心を想って苦しかった。
「それで末の内親王様を東宮の後ろ盾をなさっておられる、内大臣殿のもとに御降嫁させることを考え始めたようだ。御年はかなり離れていらっしゃるが、皇女様にご不自由をおかけしたくないという思いがお強いらしい」
そうであろう。帝が御退位すれば内親王様を守って下さる後ろ盾は宮中にはいなくなる。今、誰よりも内親王様をお守りできる方は御権威が高まっておられる内大臣様であろう。時は私が成長するのを待ってはくれなかった。私はまだ若すぎた。内親王様に相応しい男になる事が出来なかったのだ。
「あきらめるな。内親王様は内大臣殿と結ばれることを望んでいない」
私の顔色を読んで友人は言った。
「いいか? 今度、帝の御病気の平癒を願って、臨時の賀茂の祭りが開かれることになった。そこで君は俺と共に舞人に選ばれた。君は今までの努力の甲斐あって、ずっと年上の方々よりも学識が優れている。それは高貴な方々もよく御存じだ。しかし君は若い。地位も低ければ経験もまだない。君は若さに似合わぬ腹の据わりを人々に示さなくてはならない」
「腹の据わり?」
「舞の奉納の席には帝はもちろん、内親王様も内大臣殿もいらっしゃる。そこで君は舞の名手と言われる私よりも、美しく舞うんだ。どんな厳しい状況でも内親王様をお守りできる強さがあることを、帝にお見せしろ」
祭の日、私は帝に向かってかしこまっていた。緊張のあまり胸が苦しく、気が遠くなりそうになるのを懸命にこらえた。そして演舞の前に挨拶の言葉に続いてこう申し上げた。
「この舞が誰の目から見ても素晴らしく、帝の御心に届いた時には失礼ながら御褒美をいただきたく存じます」
「どのような褒美を望んでいる?」
帝の問いに勇気を振り絞って答える。
「帝が最も御心をこめてお育てした、一番の若い美しい花を一輪頂戴したく思います」
「美しい花」とは内親王様の事。人々が「おおう」と声を上げ、帝が目を丸められた。内大臣殿の視線が厳しく突き刺さり、その向こうに内親王様の気配が感じられた。
私は舞った。堂々と、臆することなく。手の動き、足の動きの一つ一つに想いを込めた。
私は臆しない。どのような人に挑戦されても受けて立つ。
学者である父を越え、権力者である内大臣殿をも越えて見せる。
たとえ今はまだ若くとも、東宮様をお支えし、何かあれば勇気を持って立ち向かう。
どのような批判にも、好奇の目にも、耐え抜く自信がある。私はこの国の要になる。
私は内親王様に相応しい男になる事が出来る。この恋に溺れたりはしない。想いの深さを堂々と示し、認めていただくために舞っているのだ。
舞が終わるとその場はシンと静まりかえった。誰もが帝の御言葉を待っている。
「そなたは若くして学を身につけ、人柄も良いと聞いている。だが、それ以上に素晴らしい心と勇気にも恵まれているようだ。素晴らしく美しい舞であった。よろしい。私の最も愛する、若く美しい花を積み取ることを許そう」
帝はそうおっしゃって下さった。私は帝に認められたのだ……!
私の隣で友人は視線を送ってきた。そして、
「恋の道と言うのは、想像以上に奥深いものだろう?」
そう言ってにこりと笑って見せた。
筑波嶺の峰より落つる男女川
恋ぞつもりて淵となりぬる 陽成院
(筑波の山頂から流れ落ちる男女川の浅かった流れが
徐々に水かさを増し深い淵となるように、恋心もつもり深くなっていた)




