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短編集  百歌繚乱  作者: 貫雪(つらゆき)
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天つ風

 俺は彼女がいるはずの所を、目で追っていた。

 今日は豊明節会とよのあかりのせちえの日。昨日行われた新嘗祭にいなめさいを祝う宴が宮中で行われている。宮中は華やかな雰囲気に包まれていた。

 俺たち若い公達きんだち(公家の男子)は宴もそこそこにそわそわしている。もうすぐ五節ごせちの舞が行われるからだ。五節の舞は貴族の子女の中でも特に美しいとされる五人の姫達が勤めるので、その舞を見るのをとても楽しみにしているのだ。


 無論彼女達は普段は良家の姫君として、やしきの奥に隠すように住まわされている。御簾が降ろされ、その中に幾重にも几帳が立てられて、多くの人々にかしづかれながらひっそりと暮らしている。だから俺達のような若い公達はその姿をちらりと垣間見るのも難しい。

 それでも位の高い方の子息なら、結婚相手の候補にでも上がれば姫君の姿をこっそりと見る機会もあるかもしれないが、平凡な従者の息子達にはそんな可能性は欠片も無い。それが分かっているので多少遠目でも美しい姫を見る事ができる数少ないこの機会は、男達にとって大変楽しみな事だった。


 去年までは俺も仲間達と共に五人の姫を好奇の目で眺めながら、どの姫君が好もしく思えるかなどと面白おかしく興じあっていた。だが今年は事情が違う。五人の舞姫の一人を、俺は良く知っていたからだ。


 彼女が舞姫に選ばれたのは大抜擢だった。父親の身分からすれば本来彼女が舞姫に選ばれるのは難しい。だが、彼女の父親の主人はこのところ大変な出世を遂げていて、権勢が高まっておられた。彼女の父親はその主人の一番のお気に入りの従者なので、何かと位の高い方々にも目にかけていただけている。おかげで彼女の父親の出世も近いと噂されていた。

 そんな従者の娘であり、他の身分高い姫君達に見劣ることのない美貌を持った彼女は、この晴れがましい舞姫の一人として選ばれた。両親の喜びようは計り知れないほどだ。


 舞姫に選ばれると彼女は高貴な姫君同様に邸の奥に隠された。俺は彼女を赤ん坊の時から良く知っていたが、彼女はごく幼い時から美しい少女だった。

 俺は父親同士が知人だった縁で、成人前の彼女の面倒を良く見ていた。彼女が赤ん坊の時は俺も幼いながらもぐずり泣く彼女をあやし、少し大きくなると人形遊びの相手をしてやった。

 俺が元服する頃には彼女も成長してきて共に駆け回るようになり、俺にまつわりつくようになっていた。俺は彼女を子猫のようだと思っていた。そんな彼女と時たま草花を摘んだりして過ごすのは楽しい事だった。


 その頃から俺は彼女が幼くとも美しい少女であることに気がついていた。頭の形が整っているので、まだ伸びる途中の黒髪でもその肩に揺れる様子は美しいと思った。そこから覗く細い首筋もふとした時に目を引いた。

 優しげな目は瞳を輝かせ、唇はとても愛らしい形をしていた。何かを見ようと目を伏せた時の表情などは、これから彼女がいかに美しく育っていくかを暗示しているようだった。


 彼女が十歳を過ぎると彼女は邸の外にめったに現れなくなった。俺はそれをとても寂しく感じていた。たぶんすでに俺は彼女に好意を寄せていたのだと思う。だが俺は彼女がまだ幼い事や幼馴染の照れくささを言い訳にして、彼女に想いを伝えられずにいた。

 そう、それは言い訳でしか無かった。なぜなら俺は彼女が成人しても自分の想いを伝える事が出来なかったのだから。俺は単純に勇気がなかった。大人になった彼女に自分を拒絶されるのがとても怖かったのだ。


 そして彼女は五節の舞姫に選ばれてしまった。これでいままで噂でしか無かった彼女の美貌を、誰もが知ることになるだろう。身分高き方々が皆、彼女の美しさを知ることになる。

 彼女の両親は彼女に高い期待を抱いているらしい。もし、どなたか高貴な方の子息が彼女の舞を見て興味を持っていただけた時には、その方を婿君にお迎えしたいとか、彼女を見た宮中の女御にょうご(帝の妻)様などが彼女を気に入って下さるのであれば、その方にお仕えする宮仕えに出してやりたいとか、そんな事を話しているらしい。彼女ならきっとそれは叶えられると俺も思った。

 どっちにしても彼女は俺から遠のいてしまう。彼女は雲の上の人となって、俺には手の届かない世界へと行ってしまうのだ。


 俺は庭から、彼女がいる場所を眺めていた。もちろん建物にはすべてに御簾がかけ回され、中の様子を見ることはできない。それでも俺は彼女が座っているであろう辺りに視線を向けていた。そうせずにはいられなかったからだ。

 五節の舞の時刻は刻々と迫ってきた。彼女は舞姫達が控える場所へと移動しようと立ち上がったようだ。……そんな気配がした。そして、さらさらと衣擦れの音を立てて歩きだす。俺はその音を頼りに彼女が歩いている辺りを目で追った。


 するとその時、天に俺の心が届いたのか、突然突風が吹き荒れた。かけめぐらされた御簾が急に舞いあがり、彼女や周りに付き添う人々の姿が露わとなった。

 彼女は想像以上に美しかった。優しげな目、輝く瞳、愛らしい唇は昔のまま。細く白い首筋はなだらかさを増していて、邸の奥深くで暮らすうちにその肌は輝かんばかりに白くなっていた。


 もしも天が俺に情けをかけてこの風を吹かせてくれたのならば、どうかこのままこの強い風で彼女のこれから行く道さえも吹き飛ばしてしまって欲しい。これから彼女が昇ろうとしている雲の上のような世界への、俺の手の届かぬ女人ひとへの道を、すべて吹き飛ばしてしまってくれ!


 俺は心の中でそう願っていた。何としてでも彼女をこの地上に……自分の手の届く所にとどめておきたいと願った。しかし風は次第に止んでしまい、彼女達の姿は御簾の向こうに再び隠されてしまった。天はこれ以上願いを叶えてはくださらない。


 だが本当にこの風が吹き荒れたのは、彼女を隠す御簾などではなかった。俺の心はまだ激しく風が吹き荒れていた。これは俺にとって初めての恋だ。初恋はもう二度とやってくることも無ければ、同じ思いを味わう事もない。二度め、三度目の恋は決して初恋と同じではないだろう。


 俺はそんな特別な恋を、想いを一言も告げずに終えてしまうのか? 

 生まれて初めて強く抱いたこの想いを、ただあきらめるだけで終えてしまっていいのか?

 俺はこれから男として自信を持って生きて行くことが出来るのだろうか?

 

 御簾の向こうで歩きはじめた彼女に、俺は意を決して叫んだ。


「待ってくれ!」


 周りの者が一斉に俺に注目した。彼女の衣擦れの音が止まる。彼女は立ち止ってくれたのだ。


「私はあなたを慕っています。もうずっと昔からです。あなたがどんなに遠くに行こうとも、どんなに手の届かない女人ひととなっても、私はあなたの事を想い続けています!」


 彼女はきっと俺の言葉に耳を傾けてくれている。俺は彼女の言葉が聞きたくて、彼女のそばに駆け寄ろうとした。すると目の前に誰かが立ちふさがり、行く手を阻んだ。


 俺の前に姿を現したのは、彼女の父親だった。その目には静かな怒りが燃えている。


「下がれ。娘は今高貴な方々の前で五節の舞を舞うという、大役を控えている身だ。今日の舞には娘の人生がかかっている。そなたもそれが分からぬわけではあるまい。そなたが娘を本当に想っているのなら、今すぐここから立ち去ってもらいたい。これ以上娘を動揺させないでくれ」


 彼女の父はそう言って俺を睨みつけた。そこには娘を守ろうとする父親の威厳が漂っていた。

 そうだ。今日は彼女の人生がかかった日なのだ。本当に彼女を想うなら、俺は黙って彼女を見送ってやるべきだった。それがほんの僅かな風に心吹き惑わされて、自分の想いを告げる事だけに頭をいっぱいにしてしまった。彼女を守ろうとするこの人と比べて、なんて俺は心が弱いのだろう?


 俺には彼女に想いを告げる資格すらなかったのかもしれない。俺はその場から立ち去った。そして彼女が動揺しないことを祈った。どうか無事に彼女が舞を舞い遂げる事が出来ますようにと天に願った。


 俺は見ていなかったが、彼女の舞は素晴らしかったという。彼女は高貴な方々から称賛を浴びていた。俺は心から安堵し、大役を終えた彼女を誇らしく思っていた。

 そして彼女の父親に感謝していた。おかげで大切な初恋の人の人生を壊さずに済んだのだ。俺は後日改めて彼女の父親に詫びるために、彼女の邸を訪れた。


 彼女の両親に拒絶されるのではないかと思ったが、俺は邸に入れてもらえた。俺はあらためて彼女の両親に謝った。


「まったく、若気の至りであなたの大切な姫君の人生を穢してしまう所でした。申し訳ございませんでした」


 すると彼女の父親が私に尋ねた。


「あの時娘に向かって言った言葉は、そなたの本心か?」


「恥ずかしながら本心でございました。私は姫君が幼いころからお慕い申し上げておりました。そんな私に天のいたずらか、姫のまばゆいばかりの美しい姿を目にしてしまい、思わずあのようなことを口走ってしまったのでございます」


「それなら私から話したい事がある。実は姫が自分のような身分の者が高貴な方と結ばれて、他の身分の高い妻たちと比べられたり、才長けた良家の子女達のそろう宮仕えで、身分ある人々の中に立ち交じるのは心細くてならないと言い出したのだ。自分にはこの身に相応しい生き方があると。そう言われると私も考え直す心が生まれてきた。姫の本当の幸せは何なのかと」


 そう言って彼女の父は私に杯を持たせた。


「あの時娘に誓った言葉を、生涯守り通せるのなら……。本当に娘の願うような幸せを与えてくれるというのなら、この杯を受けてもらいたい。このようなおろかな舅のいる邸で良ければ、婿として通って来ては下さらぬか? どうやら我が娘はそなたと連れ添うことを望んでいるようなので」


 俺は喜びのあまり言葉も発せられずに、震える手で杯を受け取る。涙で滲んだ彼女の父の顔は、確かに目に光る物があった。俺は天女を地上にとどめる事が出来たのだ。


「父親とは、娘に弱いものよ。なあ? 婿殿」


 それでも彼女の父は俺にそう言って笑顔を向けてくれた。



  あまかぜ雲の通ひ吹きぢよ

  をとめの姿しばしとどめむ            僧正遍照そうじょうへんじょう


 (天に吹く風よ。天女が通う雲の上への通り道のあの雲を、吹き閉ざしておくれ

  乙女たちが美しく舞う姿を、もうしばらく地上にとどめておきたいから)





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