人には告げよ
目の前には「わたの原」と言えるような大海原が広がっている。そして海には「八十」もありそうな多くの島々が浮かんでいた。男はようやくここまで追手を逃れながら辿り着く事が出来た。
これで俺はあの女にとって真実になる事が出来る。男は心の中の重荷の中でも、最も重い罪悪感から解放されて、とても心安らぐことが出来た。
男の立つ浜辺では「海人」と呼ばれる漁師達が海から帰って来ては舟を浜に引き上げている。漁はそれなりに成果があったらしく、海人たちの顔は一様に明るかった。舟には活きの良い魚が積まれているのだろう。
あの中には塩漬けや干し魚にして都に運ばれる物もあるのだろうか?
そしてその魚を都へ運ぶ者もこの浜にはいるのだろうか……?
男は都で暮らしていた。親の身分も大した事はなく、男自身もそれほど飛び抜けた才智に恵まれたわけでもなかった。だが相応には人にも恵まれ仕事ぶりも悪くは無かったのだから、自分の身の程をわきまえてさえいれば、人並みの良い人生が送れた事だったろう。
しかし男は身分不相応に気位が高かった。何か事あるごとに人に見栄を張りたがった。他人が何かに秀でていると面白くなく、しかし男自身は人々に高く評価されるほどの優れた事が出来るわけでもない。そうなると人目を引くために出来る事と言えば豪華な物、立派な物を持つことぐらいしか無いので、男は何かと無理をしてはそうした物を手に入れて、常々人に見せびらかすようになっていった。
そんな見栄張りな男にも恋人が出来て、毎夜女のもとに通うようになった。仲間内にも見栄を張るような男なのだから、恋する女には一層良い所を見せたがった。
男はほんの僅かな隙さえ無いようなほど豪華な装束を身にまとい、女のもとに通った。そして沢山の美しい衣や贈り物を贈り続けた。その頃男はそれなりに自分の主人の信頼を得るようになり、主人の邸の家司(執事)を勤めるようになっていた。華やかな邸の切り盛りは見栄っ張りな男の気性に合っていたらしく、男はなかなかの仕事ぶりを見せていた。
おかげで多少は羽振りも良くなったために、男はますます女に見栄を張るようになった。通う先の女は世間を知らない。父親の後ろ盾などもろくに無い、母親とひっそりと暮らしているような女で、立派な身なりの男を通わせていることを素直に喜んでいた。
男の事をこの世でも稀な高貴な大臣でも見るような目で見上げ、贈られた物は何でも大切に、愛おしそうに受取った。女のそんな純粋な喜びようを見ると男は満足した。女をもっと喜ばせたい、尊敬されたいと、男は女に物を贈り続けた。
だが、そんな事がいつまでも続く訳もなく、男は一年分の自分の収益や受取った禄(褒美)などを二ヶ月ほどで使い果した。今更身分相応な姿を女に見せたくなどは無い。男は仕方なく女のもとに通うのをやめた。このまま関係が途切れてしまうのも仕方がないことだと思っていた。
しばらくすると女の母親から切実な文が届いた。何の別れの言葉もなく夜がれてしまうのはあまりにも娘が不憫なので、もう一度会ってやって欲しい。娘はあなたが忘れられず、他に男を通わせる事もなくひたすらあなたのおいでを待っている。援助の無い自分達は油も米も尽きてしまいそうな暮らしをしている。別れると言うのなら娘を説得して欲しいとのことだった。
男は驚いた。女がそんなに一途に自分を待っているとは思っていなかった。てっきり女も自分の羽振りの良さに惹かれていたものだとばかり思っていたのだ。それにこれまで自分が贈った豪華な品々を手放せば、女の邸がしばらくは立ち行かなくなることなど無いはずだ。そう思って文にしたため母親に問うと、
「娘はあなたから頂いた物はすべてあなたとの思い出の品だと言って、帯紐の一つ、銀の毛抜きでさえも手放そうとはしないのです」との返事だった。
男は困った。実は男の方こそ女への未練が強くて、女の姿をまた見てしまえば、女のもとに通わずにはいられなくなるのが分かっていたからだ。だが、どうしても女に自分の真実の姿を見せる勇気がない。しかし突然自分が裕福になるあてもなかった。
自分は確かに飛び抜けた才智などもってはいない。人に認められなくては出世は叶わない。
それを言うなら高貴な方々の子息などはどうだと言うのだ。中にはそれほど芸にも学にも、武でさえも良いとは言えないのに、親の位の高さに合わせて若くして高い地位を得ている人もいるではないか。彼らと自分とどれほどの違いがあると言うのだろう。そう考えると世の中のすべてが理不尽に思えてならなかった。
そんな不満と、女への想いを抱えている中で、男はふと思った。
この邸の主人は自分の事をとても信頼して下さっている。最近は邸の事は殆んどすべて自分に任されている。邸の北の方(正妻)も育ちが良いのはいいが、そういうことには疎くていらっしゃる。邸の女房(侍女)の長なども、細かい事まですべて私の指示を頼っている。もしかしたら少しくらいの米や絹をごまかしても、誰も気づくことは無いんじゃないだろうか?
思い浮かんだ考えは頭の中から追い払おうとしても出来なくなってしまった。上手くやればまた女に逢う事が出来る。あの、愛と尊敬に満ちたまなざしで自分を見つめてもらう事が出来る。そう思うと居ても立ってもいられなくなってしまった。
男はとうとう誘惑に負けた。ほんの少しならと邸の財に手をつけた。
一度手をつけると歯車が壊れたかのように男は罪を犯し続けた。どこかで感覚がおかしくなってしまったのだろう。気づけばとてもごまかしがきくような範囲ではなくなってしまっていた。
もう手遅れだ。どうする事も出来ない。これは必ず主人に知られて、自分の罪が暴かれるだろう。自分のような従者程度に役人を使う事など考えられない。こんなことは主人も世間に知られたくなど無いだろう。きっとこの邸の侍達に私を罰するように命じる筈だ。役人なら罪人の中に宿った罪の魂を払うだけで許すだろうが、主人の命を受けた侍達は私を痛めつけ、命を奪う事だろう。そして私は罪人として闇に葬られてしまうのだ。
男は観念した。すべては自分が招いたことなのだ。それでも男は女の事が心残りだった。女は男の事を信じ切っていた。何処までもまっすぐに、純粋に、男の地位と愛を疑わずにいた。
男は女が男への信頼を失い、幻滅することは仕方がないと思った。しかし、これまで無垢な心で男に抱いていた夢のすべてを砕く事はせめて避けたかった。
嘘と見栄で固めた男の人生だったが、女への愛情だけは真実本物だったのだ。
男は決心して女のもとを訪れた。そして自分は遠い、遠い、西の果ての小さな島々にある国へ、正妻を連れて下らなくてはならなくなったと告げた。どうしても女とは別れなくてはならないと。女は、
「あなたの御帰りを、いつまでもお待ちします。どうかお別れだけはしないでください」
とすがったが、男は、
「あなたが幸せにならないと、私も遠い世界で幸せになる事が出来ません。私のために他の方と結ばれて下さい」
と説得した。女は泣き続けたが男は許さなかった。無理やりにでも女をうなずかせた。
こうして男は行方をくらませた。当然主人の邸からは追手がかかったが、男は死に物狂いで逃れ続けた。女に話が伝わる可能性がある都の近くで、罪人として捕まるわけにはいかなかった。男は愛した女にとって夢のような男のままで消える覚悟をしたのだ。
そして男はこの浜辺に辿り着いた。ここから見えるあの島々があの女にとって、恋人が幸せに旅立っていったはずの場所になるだろう。
ああ、浜辺の漁師たちよ。出来るなら風の噂に乗せて伝えて欲しい。あなたが愛した男は広く美しい海原へと舟を漕ぎ出して、多くの島々を渡った先で幸せに暮らしていると。だからあなたも幸せになって欲しいと。
男がその後どうなったのかは分からない。逃げ切れぬと思って入水したのかもしれないし、本当に別の暮らしを求めてどこかの名も知らぬ島へと渡って行ったのかもしれない。
都人がその男の行方を知ることは、なかったと言う。
わたの原 八十島かけて漕ぎ出でぬと
人には告げよ海人の釣り舟 参議篁
(あの者は大海原を、多くの島々を目指して漕ぎ出して行ったよと
都にいる人々には告げておくれ、漁師の釣り船よ)




