逢坂の関
「都人と言うのは、何とも寂しいものなのですなあ」
いつも私に寄り添い、修行している見習いの僧はそう言って都路を振り返った。
「まあ、そういうものであろう。ああいう方々は自分の思うような人と結ばれると言う訳にはなかなか行かぬ。上手くいかない家族があるのも仕方あるまいて。そういう人々の心をお救い下さる御仏のお手伝いをするのも、我々の役目なのだ」
修行を重ねた身とはいえ、弟子の心と同じ感慨を持っていた私は自身を言い聞かせる事も兼ねて、そう答えた。
我々は都からほんの少し離れた寺に暮らす僧である。普段は自分の暮らす寺の近くの者たちに病魔退散を頼まれては祈祷などを行っている。幸い私の法力は決して弱くは無いらしく、たいていの病魔には討ち勝つことが出来ていた。
それを都の高貴な方が聞きつけて、重い病に伏せられた方からぜひにと祈祷を頼まれた。
めったに都などに行くことのない我が身ではあったが、随身の者の懸命な頼み様に心動かされ、その方の祈祷のために都を訪れたのだ。
邸の中でなるほど病人はいかにも弱々しげに床に臥せっておられた。食欲がないために身も細られておいでのようだ。お顔の色もよくは無かった。
しかしその方はお身体のご様子以上にお心が弱られているようだった。聞けばその方がご病気になられてからと言うもの、この邸のたった一人の姫君に病魔の災いが降りかかってはならぬと、北の方が姫を連れてお里の父親の邸に行ってしまわれたという。
病人を放って正妻の方が一人娘と共に邸を出てしまわれるとは何とも冷たく思えるが、その北の方も主人に劣らず大変身分の良い身の上でいらしたので、昔から帝の女御様となられるか、それが叶わずとも相応の御身分の方と御結婚される事が初めから決まっていて、その時最も年齢のつりあう方の中では身分が高かったその方と御結婚されたらしい。
だがこの夫婦はそもそもあまり相性が良いとは言えなかったようで、互いが自分の地位と立場を守るための契りを結んだものだから、夫はよその女君達のもとへばかり通い、北の方も正妻として邸を任されながらも、愛情薄い生活に嫌気がさしていたらしかった。
そんな所へ夫が病気にかかった途端に、それまであまり構いもしなかった妻を頼り出した。何より夫は妻よりも一粒種である姫の顔を見たかったようだ。それに反発した北の方が邸を出て行ってしまわれた。心くじかれた夫はますます病をこじらせてしまったらしい。
幸いその病魔はそれほど激しいものではなかった。私は病魔をそこにいた女童(小間使いの少女)に「よりまし」として取り憑かせ、退治してやった。そして、
「この病魔となった物の怪は、昔自分の夫と冷たい関係に疲れ果てて食欲を失い、そのまま儚くなった女の魂が病となった霊である。それがあなたの北の方に同情して、あなたに取り憑いていたのだ。病魔はすでに退治したので、後は原因となった北の方への態度を改め、謝罪などすれば体力も回復することでしょう」
と言って病人を安心させた。病その物は去ったと言う事で病人も不安が和らいだらしく、だいぶ顔色も良くなったので、滋養に良いものを用意させ、北の方への謝罪の文なども書かせた。
これを受け取って北の方が戻られるかどうかは分からないが、自分が出来るのはここまで。後は夫婦の問題であろう。
もともとの相性などもあるから、この先夫婦がどうなるかは分からない。だが、貴族達は大なり少なりこのような問題を抱えているものである。そんな人の世の侘びしさを垣間見て都を後にし、帰路に向かう途中の道のりであった。
関寺に近づいてきた『逢坂の関』の坂の途中。徒歩で歩く人々が道のわきに避け始めていた。すると坂の上から、
「しいー、しいー」
と、前駆けの者の声が聞こえてきた。どうやらどなたかの行列が通るようだ。
「これからここを先の常陸の介様とその御家族が通られる。皆、道を開けよ」
前駆けの従者はそう言って道を開けさせている。今坂を上って来たばかりの母と娘も慌てて端に寄り、控えた。するとその十歳にも満たないような娘が、
「おっ母さん。聞いた? これから通るのは常陸の介様の御一行だって。御家族って事は姫君様も通られるって事よね?」
と、嬉しげに母親に話しかけた。
「そうだね。確か姫君様がいらっしゃるって話だからね」
「素敵! きっと美しい御装束を身にまとっているんでしょうね。ああ、一目でいいから御姿を見られないかしら?」
「とんでもないことを言うんじゃないよ。あたしらみたいな者が高貴な方の御姿を見たりしたら、一体どんな目に遭う事か。それに高貴な方々は決して車から出たり、覗かれたりするような真似はしないんだよ。行列に近づいたりしたら、きっと馬に踏みつぶされてしまうよ」
母親は驚きながら娘をたしなめた。母親の言い分は至極もっともな事。御仏から見れば我々人間など他の生き物同様に等しくこの世にある存在だが、彼ら貴族にとって下衆や大衆は自分達とは別次元の存在である。身分の無い娘が近づいたりしようものなら、たちまち追い払おうと乱暴な態度に出るであろう。
娘はまだ、そういう事を知らずにいるようだ。不満そうに頬を膨らませて、
「御車をちょっと見るだけだから」
などとわがままを言い、母親を困らせている。その瞳はまだ美しい姫への憧れに輝く、無垢なままの色を宿らせていた。
厳しく叱ろうとする母親を私は制して、娘を自分の傍に呼び寄せた。そして、
「私の横に並んで行列を見るといい。こちらの方が見通しが良いから車の姿が良く見えるだろうし、御仏の使いである僧侶に、そうそう乱暴な真似などなさるまい。私のそばならこの娘も安全だろう。高貴な方々の御姿は見れなくても、車からこぼれる衣装くらいは見る事が出来るから」
そう言って娘を自分の横に座らせ、興奮して飛び出したりしないように連れの僧に娘の肩を押さえさせた。
「まあ。ありがたい御坊様に気遣いさせて。すいませんねえ」
母親は恐縮して頭を下げる。
「大した事ではありません。この娘にとってこんな機会はそうないことでしょう。幼い心の憧れの良い思い出になることでしょう。この逢坂の関を越えられると言う事は都を出るようだが、どちらに行かれるのです?」
「ええ。この娘の父親がちょっとした病にかかりましてね。いえ、大した男じゃありませんし、そんなに稼ぎがいい人でもないんですが、そんな男でもこの娘にはたった一人の父親ですからね。早く病が治るように、石山寺にお参りしようと思い立ったんですよ。そうしたら娘も一緒に行きたいと言い出して。それなのに御覧の通りわがままばかりで。育ちが悪くてすいませんねえ」
口では言いたい放題に言っているが、女が娘を連れての旅など大変な危険を承知しての覚悟がいる。夫の病は重いのであろうか? 母娘の心配の深さがうかがえる。
都での情けの冷たさを見て来たばかりだけに、この母娘の心情が心にしみる。娘にとっても決して楽な旅ではあるまい。ささやかな憧れを無碍に壊す必要もないだろう。
そして行列がやってきた。都入りと言う事で常陸の介も相応に気を張ったようで、なかなか立派な車で良い装束を身にまとった従者たちを連れていた。女車は華やかにこれでもかと言うほど衣のすそをこぼして見せている。娘はその美しさに我を忘れたように見入っていた。
そう言えばあの『源氏物語』と言う流行りの物語にも、常陸の介がこの逢坂の関の途中で、石山参りの源氏の一行を見送る場面があったはず。もし、この少女に文字を読む事が出来たならば、その夢は一層心に膨らんでいたことであろう。いや、文字を読めぬこのような少女でさえも、この世の美しさをこうして知っている。これも御仏が我々人間に下さった、素晴らしい心の一つなのだろう。
行列が通り過ぎると、娘は感慨深そうにため息をつくと、
「お坊様、ありがとう。すっごく綺麗だったわ。あたし、今日の事を一生忘れない」
そう言ってぺこりと頭を下げた。そして駆けだすように坂を上りだすと、
「おっ母さん、早く石山寺に行こう。お父っあんに早く元気になってもらって、このことを聞いてもらわなくっちゃ!」
と、母親をせかした。母親は慌てて我々に頭を下げると、娘の後を追って行く。
「良い、母娘でございますね」
連れの僧もほほえましげにそう言って母娘を見送った。
「こういう良い出会いに恵まれるのも、旅人が行きかうこの逢坂の関ならではであろうな。我々の旅は急ぐ事もない。関寺に寄って、あの母娘の旅の無事と、父親の病気平癒を祈ってやろうではないか」
「それはよろしゅうございますね」
我々は少しばかり温かい気持ちとなって坂を登って行く。
逢坂の関は、多くの出会いと別れの関である。
これやこの行くもかへるも別れては
知るも知らぬも逢坂の関 蝉丸
(これがあの、都へ行く人帰る人それぞれが行き交い別れても
またここを通る時には、知人も見知らぬ人も繰り返し出会うと言う、逢坂の関なのだ)




