我が衣手は
秋風が吹く。
空にはすでに秋の気配が色濃くなり、その青さも夏とは違う色となっていた。
そこに挿す日差しに夏の強さは無い。ゆるやかで穏やかな秋の日差しが辺りを包みこんでいる。
そこに「すうっ」と秋風が吹く。日向のぬくもりを払いのけて行くような風が、頬を掠めて心を和らげる。それがどことなく寂しげな風情を漂わせていた。
目の前の田の稲も風にそよいでいた。夕暮れ時などには穂の色が夕日に照らされ、温かな色を映し出している。そして確かにその穂先は頭を垂れ始めている。農夫たちはその穂先の実り具合を確認して、満足そうな表情を見せる。季節は秋を告げていた。
ある公達(若い公家の男子)がそんな田舎の景色を眺めながら牛車を進めていた。刻々と日が暮れて行く中、行列が田を抜け、山近くに差し掛かると木立の間から田舎めいた作りの大きな別荘が見えて来る。
もしかしたら、ここに泊まるのは最後かもしれない……。
公達は慣れた様子で車から降り、顔なじみの女房(侍女)に案内されて恋人のもとに向かう。
相手の女は秋に相応しく月草の襲ねの装束をまとい、いつものように行儀よく待っていた。
長い髪は太くつややかで、女が盛りの美しさに彩られていることを示していた。その白い肌の顔や首筋に、黒い髪がハラハラとこぼれるようにかかる様子は実に妖艶である。しかし女の表情はさえず、目は伏し目がちで、公達と視線を合わせようとはしなかった。
公達の方の顔も決して和やかとはいいかねる。その女の艶な姿に胸の奥が締め付けられるように痛み、焼けつくような心地がする。
公達は最近になって女が別の男をこの別荘に通わせていることを知った。高貴なその男と自分ではまるで身分が違う。女を盗まれてしまった時点で、公達には一切勝ち目がなかった。
「こんな遠い場所ですから、自然と通う足が遠のいてはおりましたが、このような見限られ方をするとは思いもよらぬ事でした」
公達は自然と女を責める口調でそう言ってしまった。
「今夜は、お直衣姿でいらっしゃいますのね」
女が話をそらすと、公達は一層心に苦い思いを味わった。このような田舎道を通うので、いつもは気軽な狩衣姿で別荘に通っていた。だが今夜は重厚な雰囲気のある深い色の萩襲ねの直衣姿。若い自分には似つかわしくないのかもしれないが、恋盗人に見劣りするような姿をさらしたくないとどうしても考えてしまったのだ。
そして気付いた。この女のもとに直衣姿でやってきたのは今夜が初めてであったと。
こんな田舎の別荘に引っ込んでいる女である。身分はそれほどのものではない。親の後ろ盾もはかばかしいとは言えず、公達にとってもこの女は数ある恋人の一人だった。
しかしこの女は美しかった。都の女のような華やかな美しさではない。大人しく、つつましやかで、それでいて仕草などには匂うような色香を漂わせる、男心をくすぐるような美しさだ。
だが華やかさに欠ける。このような田舎だからこそ気にかけずにはいられないのであって、都で冴えない暮らしなどをしていたならば、おそらく自分はこの女になど関心を示さなかった。この女はそういう女なのだと公達は思っていた。
だからこそここにはくつろいだ姿で田舎の風情を楽しみたい時に頻繁に通い、少し遠出が辛くなると適当な歌をいくつか贈り、しばらく会わない日が続けば思い出したように顔を見に行く。そんなことが出来る実に気楽な女だった。身の程をわきまえているから恨み事なども可愛いもので、華が無いから別の男に見つけられる心配もない……そう思いこんでいたのだ。
「そのような御立派な身なりでいらっしゃれると、わたくしのような女は我が身が恥ずかしくて消え入りたいような気持になりますわ」
そういう女が目を伏せたまま袖で口元を隠し、身を伏せかけるようによじると、何とも言えない色っぽさが辺りに漂う。公達はそれまでこの色気を田舎の女の無防備さが現れているのだろうと思っていた。もしかしたら女の方でもそう思っていたのかもしれない。
しかし公達は気がついた。これはそんな無防備な妖艶さではない。この女は艶やかな時も決して品を失う事がなかった。身分の高い女人が匂わせる気品とは、まったく違う品を身につけているのだ。
「それは私の言葉です。今夜のあなたは美しい」
気が狂わんばかりの嫉妬の中でそう答えた。身分高い男に見染められ、抱かれ続ければ田舎の女にも品が身について行くのだろう。やはりこの女とはこれきりにしよう。このような男に染まりやすい女にこだわっては、自分の心はどこまで痛めつけられるか分からない。こんな辺鄙なところにいる女に気がついた恋敵の方に運があったのだろう。都にも美しい女人は沢山いる。別れればこれ以上傷つく事もない。
「もうお逢いする事がないから、そう見えるだけですわ」
そう言って女は初めて公達の目を見た。その目は思慮深く親しげだが、どこか決然としていた。
公達は気がついた。なぜこの女がこれほど色香を漂わせても品良く見えるのか。この目のせいだ。仕草は頼りなく、しどけなく優しげだが、その瞳に媚びの色が無い。
これは男の色に染まった女の眼ではあるまい。この女はもとから自分と言う物を持っていたのだ。なよやかに見えて実は慣れ切ってしまうことなく、それでいてやってくる運命を覚悟を持って受け入れる心を持っていた。
慣れ切ってしまったのは自分の方であった。そんな自分にこの女は誠意で応え続けた。その誠意でさえ自分は慣れてしまった。そして彼女は愛を教えられてしまった。私以外の男によって。だから今夜の彼女はこんなにも美しいのだ。
公達は今知った。この女が数多い恋人の中でも、特別光り輝く存在であったことを。どんな華やかな女人にも劣らぬ輝きを放っていた事を。
だがもう遅い。女の目の中にはすでに愛は無かった。その目に宿るのは自分を憐れむ同情の影だった。公達の心に後悔の嵐が吹き荒れる。
「嫌だ……! これ切りなどとは言わせない。私と共について来てくれ。車に乗ってどこかに逃げよう。あなたは誰にも渡さない」
公達は女を抱きしめた。しかし女は、
「無理でございます。わたくしの身をお預けしても、心はあなたについて行くことが出来ません」
と言って身を離す。
「それともあなたは、心を無くした空っぽの私を連れて行くと言うのですか?」
女は憐れみの目でそう言った。
「あなたを失いたくない。恨み事ならいくらでも聞く。だから……」
公達はすがろうとしたが、女はその身を避けると、
「恨みなど少しもございませんわ。もう、お帰り下さいまし」
そう言って奥へ引っ込んで行こうとする。
「それなら私はすべてを捨てる! 私はこの地の田守となろう。草で庵を編んで、そこであなたの事を待とう。あなたに本当の愛を見せるから」
言ってしまってから公達は、今の言葉がその場の勢いでしか無いことを痛感した。本当にそんな覚悟があったならこんなことにはなっていないし、これ見よがしに直衣姿で訪れたりはしなかったはずだ。
しかし女は一瞬だけ振り返り、
「お帰り下さい」
とだけ言い残してその場を離れた。その表情は公達の心をすべて知っているかのようだった。
公達はすべてが終わったことを悟った。牛車に乗り、それでも別れの言葉の代わりに古い歌を書き、二度とは会えない恋人に贈った。
秋の田のかりほの庵の苫を荒み
我衣手は露にぬれつつ 天智天皇
(秋の田の刈り入れに使う草庵は苫が荒いので
田守をしている私は一人の悲しみに袖を濡らし、夜露にまで濡れ続けています)




