喫茶店の紅茶 後半
疲労とストレスのピークで私は心身ともに疲れていた。
仕事はいつも通り終わった。だが、その後上司に呼び出され説教されてしまったのだ。
現場を知らない人間にそのようなことを言われて心外だ。と思いながら、私は言葉を重ね必死に頭を下げた。
やっと終わったと思ったら、今度は部下から疑問の声が飛んでくる。それも終わった頃には退勤時間を2時間も超過していた。
しかし、残業には付けられない。上司いわく「仕事をしていた訳じゃないだろ」ということだ。
そんな訳で疲れきっていた私は、帰りがてら紅茶を飲みに行くことに決めた。私にとって紅茶こそ最高のストレス解消法なのだ。
幸いにも、今の所空腹感は感じていなかった。腹が減りきった所に一気に水分を摂ると腹に響くような気持ち悪さがあり、もし空腹であるなら少しは口に入れておかなければならない。
さて、今日はどこに行こうか。この辺りにある喫茶店はまだ半数しか制覇していない。やはり、まだ行ったことのない所に行く方が楽しいだろうか?
私は喫茶店通りと呼んでいる通りを歩きながらどこに入ろうかと考えていた。
この辺りは恋人のデートスポットと労働者の通り道になっていて、昼に恋人と入るような洒落た店と、労働者が朝食を手軽に食べるような安い早い旨いという店が入り乱れている。
珈琲と食事なら労働者向けの店の方がいいのだが、今日は紅茶だ。ならば少し洒落た店の方が美味しいことが多い。
一番いいのは職人気質の主人がやっている喫茶店を見つけることだが、それはなかなか難しいだろう。
そうして喫茶店通りを歩いていると、ふと星と掌と焼き菓子の看板が目についた。その看板は階段の壁にかけてあった。
占い喫茶。そう書いてあった。占いなどには興味はないが、こういう怪しげな雰囲気が漂う店はそれだけで地雷原だ。こんな店で絶品の紅茶など出されれば意外にも程があるだろう。
そう思い、私は階段に足を進めた。店舗は2階にあるようで、大した苦労をせずに上りきることができた。
よし、入るぞ。そう思っていた私の気持ちは扉を開いた瞬間に萎んでいった。
頭蓋骨や水晶など、素人が入るには気後れするような物が目に入ったからだ。
今ならまだ店員に見付かっていないのだから帰ってしまおうか。どうせここ以外にも喫茶店はある。そういう気持ちを私は抱いた。
だが。それでもここの紅茶がどんな味か、それが気になって仕方がなかった。怪しげな薬が入っていてもおかしくないがそれでも気になってしまった。
足を扉の先に踏み出し、私は店内に入った。
店員に案内された先は意外や意外、少女趣味の塊のような場所だった。
机や椅子はとても華奢で全体的に小さめに作られている。可愛らしい小物がそこかしこに置かれていた。
店内は赤に桃色、黄色という色に染められており、女性同伴でも男性が入るには気恥ずかしいような店だった。
女性ならある意味、誰もが憧れるようなとても可愛らしい店だった。
ならば、何故入ってすぐの所だけ、あのような恐ろしい見た目にしたのだろうか。私はそう思って気が抜けた。
この調子ならば魔女も出てこないだろうし、怪しい薬も出てこないだろう。安心という物は何にも代えがたい素晴らしさがあるのだと実感してしまった。
とりあえず、店員に案内された席に座り、菜譜も見ずにホットのミルクティーを頼む。今日はこれだけの為に来たのだ。これ以外を頼む必要はない。
ミルクティーが来るまでの間、私は店内を見回した。占い喫茶とあるだけに、入り口以外にも怪しい物があるんじゃないかと思ったからだ。
しかし、奇怪な雰囲気の物は見当たらなかった。お姫様でフリフリで可愛らしいだけだ。精々が机の上にあった「手相・水晶・タロット、その他占いやります」の文字ぐらいだ。
私は自分が安堵しているのだか残念がっているのかわからない、中途半端な感情を抱いているのに気が付いた。
初手があれだった為、少し期待していたのだろう。
そんな気持ちを振り切るように、首を左右に軽く振り、目を閉じた。
厨房の方からくつくつと沸騰しかけている音が聞こえる。どうやら汲み置きの水を使わずにちゃんと水から沸かしているようだ。
美味しい紅茶沸かすにはまず、しっかりと空気を含んだ水を沸かすことが必要だ。そして、沸騰直前で火を止めて暖めてあるポットに注いで茶葉を踊らせる。
これが出来なければ薄くて香りもない、美味しいとは決して言えないような物しか出来やしない。
少なくともここの店主は、空気を含んだ水と沸騰寸前で止めるということを知っているようで、とても期待できる。
そう考えているととぽとぽという湯を注ぐ音とカツンという何かを置く音が聞こえた。きっと砂時計だろう。
それから、またしばらく静かになり、空白の時間が流れた。
戸棚を開けるような音がして、薄い陶器のカチャカチャという音が聞こえる。
茶葉が踊り終わったのか、葉を引き上げる音が聞こえてきた。そして、食器のカチャカチャと鳴り、足音が迫ってきた。
もうすぐか、と私は目を開けた。
「お待たせいたしました。ミルクティーでございます」
そう言ってやって来た店員の持つトレイの上には、ミルクピッチャーとポット、ティーカップに砂糖壺が乗っていた。
当たりかもしれない。私の胸の鼓動は早鐘のように鳴っていた。
カップとポットからはほんのりと湯気が立っていて、見るからに暖かそうだ。
机に置かれたカップを私はついつい触ってしまう。本当に暖かい。素晴らしい。
逸る気持ちを押さえきれずに私はポットから、紅茶を少しだけ注いだ。深い深い紅薔薇のような華やかな色が落ちていく。
白く口の広いカップの底が薔薇に染まり、香りがふんわりと広がっていった。とても濃く香りの強い、いい紅茶だ。
このカップの選び方も素晴らしい。この紅茶であれば、白の方がよく映えるだろうし、香りが強いので口が広くとも問題ない。
店主の紅茶への愛を感じながらストレートで一口だけ飲む。芳醇だ。舌を熱い紅茶の渋味と旨味が走っていく。
この渋味がミルクと溶けたとき、深みに変わっていくのだ。これが弱い紅茶はミルクティーには向かない。
カップに注いだ一口分の紅茶を飲みきってからミルクピッチャーからミルクを注ぐ。ピッチャーは冷えてなく、中のミルクも常温に保たれているようだ。
ますます良い。ミルクがカップの温度に馴染むまで少しの間放置する。
これはミルクインファーストと呼ばれる方法だ。そうすると熱い紅茶を入れてもミルクの風味を損なう事なく美味しく頂ける。
暖まったところでポットから紅茶を注ぐ。紅薔薇がクリーム色に変わっていった。
それと同時に紅茶とミルクの全く違う香りが一つに溶け合って、ミルクティーの香りに変わっていく。私はいつも、この瞬間を花が開くようだと思っている。
蕾の時の可憐で華奢な香りとはまったく違う。深く全てを抱き止めるような女性的な香りだ。私はそこに砂糖壺から角砂糖を2つ取り出して、ぽちゃんと落とし、混ぜていった。
そうすることで花は満開に開いた。ただの女性ではない。恋人のような甘さを持った、成熟した女性になったのだ。
もう私は我慢ならなかった。
カップを持ち、一口分だけ口に含んだ。
暖かさと甘さが一緒に口の中へやって来た。渋味はミルクと共に深みとコクになって踊っている。鼻へと芳醇な香りが抜けていって酒はまったく入っていないというのに私を酔わせた。
恍惚とした表情をしているのだろうが、そんなことは気にしていられない。どんどん口の奥へと進めていく。
嚥下してしまうのがもったいない。ずっとここに留めていたい。だが飲み込んでしまう。幸せだが苦しい。
寂しくなってしまったのでまた口へ運ぶ。再度の幸福感が身体中を満たしていく。幸せすぎてくらくらしてきてしまう。そしてまた空虚感がやってくる。
気が付いたら、カップにはもう雫しか残っていなかった。
残念だが、もう終わりか。私は恍惚感も抜けきらずにそう思った。
怪しい薬でも入っていたのかと疑うほど美味な紅茶だった。本当に店は見た目によらない。
こんな店があるから地雷原は突入する価値がある。これからしばらくは幸せに過ごせそうだ。
すっかりと仕事の疲れも抜けて私は帰路についた。
作者はロンネフェルト社のイングリッシュブレックファーストのミルクティーを飲んだときは本当に幸せすぎて気を失いそうになりました。