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dusk

作者: 碧 真白
掲載日:2026/07/20

 残暑の逢魔が時。不意に響き渡るその音に、私は立ち止まった。

 カン、カン、カン。聞き慣れた踏切の音だ。私が通うこの道の、もっと進んだ先にある踏切の警報音。


 そんなはずは無い、と思った。今までこの距離で聞こえたことなど無かったのだ。俯いていた顔を上げ、辺りを見渡す。

 空は深い紫とオレンジのグラデーション。等間隔に置かれた街灯は、その光に誘われた小さな虫たちを弱々しく照らしていた。

 大通りから外れた閑静な住宅街。風はなく、じっとりとした暑さが不快感を煽る。鼻につくのは、割れたコンクリートから生えている雑草の匂い。

 自分以外に人が居ない粛然とした世界。ここまでは、いつもの帰り道と同じだった。


  ただ一つだけ、見慣れない景色があった。今立っている自分の真横、家と家の間の細い小道から、ぼんやりと赤い光が見える。それは一定のリズムで点滅し、先の音も相まって踏切の警報灯を連想させた。

「こんな道、あったかな……」

  思わず呟く。整然と並ぶ住宅の間に、ひっそりと存在する隙間。ちかちかと点滅する薄ら明かりが、アスファルトを照らす。

 その道は、人一人通れる分の幅しかなく、どこに繋がっているのかも想像できなかった。

 このような不自然な抜け道、以前から気づいていてもおかしくはない。なぜ今まで素通りできていたのか。いや、そもそも元から存在していたのだろうか。次々と思考が駆け巡り、私はその場から動けずにいた。

 数分経っても踏切の音と光は止まない。今の状況が非日常だという感覚はとうにあった。

 これを見なかったことにして、前を向き直し、通常のルートで帰宅する。おそらくこれが最適解だろう。


 そう頭で理解していた。それなのに私は、唐突に現れた非現実に、なぜか惹かれてしまったのだ。

 じわり、と暑さで滲んだ汗が一粒地面に落ちた。私はその赤い光と脳内で反響している音に誘われ、見知らぬ細道へと歩き出した。


 警報灯の灯りを道標に、薄暗い中まっすぐに進む。

 十分程歩いても、紫とオレンジの空は変わることなく、風も全くない。周囲の人影もなく、まるで時間が止まっているようだった。

 ジメジメとした暑さが纏わりつき、次第に呼吸が荒くなる。

 私は、この空間は疲労困憊している自分が見せている幻なのだと思った。額の汗を拭いながら、自身の苦悩を思い返す。


 今年四月、無事社会人デビューできたのも束の間。膨大な仕事量と求められるスキルに体は追いつかず、常に気を張って奮闘する日々を過ごしていた。

 積極性を持った周りの同期達はぐんぐん伸びていき、すでに自分よりも優秀な成果を残している。

 そんな環境に尻込みし、自分の能力もうまく活かせず、ストレスばかりが蓄積していた。

 気合を入れて選んだ新品のシャツは、まだヨレることなく綺麗に形を保っている。いつかシワになるのも気にしないくらい、自分も仕事に熱中できる日が来るのだろうか。

 好きで選んだはずなのに、理想と現実のギャップに戸惑い、自身のキャパシティは早々に崩れていく。自己嫌悪と他責思考が交互に押し寄せ、それは数ヶ月で心身ともに限界へ追い込んだ。


 そしてついに、自分は現実逃避として幻覚を見始めてしまったのだ。

 そんな結論に至った私は、妙に納得して歩みを進める。


 緩いカーブを越えると、もう片方の点滅灯も見え始め、じきに広い道へと繋がった。

 カン、カン、カン。徐々に大きさを増すその音にもすっかり慣れた頃、ついに現れた。

「あぁ、やはり」

 目の前にあるのは、いつも通る踏切だ。車同士がスレスレで通れる程のスペースに、さらに狭い歩道。独特な錆び方をした警標、所々塗装が剥がれている遮断機。

 長い年月、同じ場所で己の役目を果たし続けるその姿を、見間違うはずは無かった。

 なぜここへ繋がっているのかという不思議な気持ちと、見知った物に出会えた安心感が混ざり、私は複雑な感情になった。


 そのとき、右側から白い光が見え始める。どうやら、ようやく電車が来るようだ。それは私の到着を待っていたかのように、タイミング良く向かって来た。

 私はゴクリ、と生唾を飲む。静寂に響く警報音と、電車の走行音。聴覚はその二種の音に縛られ、自分の喉音は掻き消された。

 ならば通過するまで見届けようと、私は踏切の傍で仁王立ちした。徐々に近づいてくる電車は見慣れた車両で、不意に現実に戻ってきたような気にさせた。

 電車の轟音が警報音を上回り、鼓膜を思い切りつんざいた。赤と白の光が一瞬混ざり、直後に私の視界は白で包まれる。眼前を通過した電車によって、やっと体は生ぬるい風を浴びることができた。


 しかし、そんなことなど、どうでも良かった。たった今、私は衝撃的な光景を目の当たりにしたからだ。


 光に目が眩み、瞬きを数回した後、その車内の様子を捉える。五両ほどの車両には全て人が乗っていた。何十人も、老若男女乗っていた。

 その全員が、私を見ていた。皆、こちら側の車窓に正面を向け、直立したまま私だけを見つめていた。

 そして、誰もが青白い生気のない顔で、微かに笑いながら拍手をしていたのだ。それも普通の拍手ではない。手の甲を使って叩く、裏拍手をしていたのだった。

 私はほんの数秒という短い時間で、車内全ての人と目が合ったような気がした。あの、まるで誘うような、慈しみのある眼差したち全てと。

 その視線に縛られ、瞬きすらできず、ただ見つめ返す。目の前の異様な出来事に、私は呆然と、電車が通り過ぎるまで立ち尽くしていた。


 遮断機が上がり、それまで喧しいと感じていた音と光がぴたりと止まった。

 辺りは静寂へと変化する。私は放心状態のまま動けずにいた。


 どれ程時間が経ったのだろうか。空はまだ変わらず、私もどうすることもできず途方に暮れていた。

 やがて全身の汗がシャツに張り付き始めた頃、それは再度やってきた。


 カン、カン、カン。突如鳴り始めた警報音にビクッと身体を震わせる。耳にこびりついているこの音は、決して幻聴では無かった。同時に目の前で赤い光が交互に点滅を始める。

「まさか、また……」

 先程の記憶が蘇る。目に焼き付いたあの光景。不気味に笑いながら私を誘う人々。ゾクリと悪寒がした。首を伝う汗は、今度は暑さのせいではないと、はっきり分かっていた。

 とにかく逃げなければ、次は無いと直感した。何かに駆り立てられるように、必死に足を動かす。

 遮断機がゆっくりと降りてくる。一歩、二歩。かろうじて足は少しずつ動き始める。私は踏切を渡ろうと線路の先を見据えた。

 この場所を越えたところで、何があるのかは分からない。その先はただ真っ黒な空間があることしか確認できなかった。

 しかし、一刻も早くここから離れたい。そんな思いが先行して、体は自然と前のめりになる。


 もしかしたら、現実に戻れるかもしれない。そのまま進んでいけば、家に帰れるかもしれない。根拠のない僅かな期待を胸に、私は息を荒げながら前進する。

 また右から、先ほどと同じように電車が迫ってきた。カンカンカン、ゴオオオ。二つの音がまたもや混ざり合う。

 私は遮断機を乗り越え、線路の中心へ向かう。足は徐々に感覚を取り戻し、前へ向かって駆け出していた。しかし、一生懸命進んでも、なぜか線路を抜けることができない。

 私の体感が狂ったのだろうか。それとも、私を閉じ込めるように、線路自体が伸び続けているのだろうか。予想もしていなかった現象に、頭はパニックになる。

 しかし、線路内で立ち往生しているうちに、電車はすぐ近くまで来ていたようだ。焦りと絶望で狼狽えていると、じきに白い光が全身を照らした。


 あっ、とその瞬間、最期を悟った。夢か幻だと思っていたはずなのに、死を前にして急に現実味が帯びる。これまでの短い人生が走馬灯となって頭を巡った。


 こんなところで終わってしまうのか。私は突如襲われた理不尽な出来事に、心底辟易した。だが、それと同時になぜか吹っ切れたような感覚もした。

 きっと、それは諦めに近いものだったのかもしれない。


 目を閉じ、死を覚悟した。その瞬間、急に強い力で後ろへと引っ張られる。

「……痛っ!」

 どしん、と後ろ向きに倒れ、思い切り尻餅をつく。

 突然のことで、何が起きたのか分からなかった。……だが今、誰かに腕を掴まれたような気がした。

 ハッと気づくと電車は通り過ぎ、遮断機が元の場所へ戻っていくところだった。それを理解したと同時に、自分はなんて危険なことをしようとしていたのか、と全身で恐怖した。

 意識が朦朧としていたのだろうか。焦っていたとはいえ、なぜ私は先へ進もうとしてしまったのだろう。

 深く呼吸し体を落ち着ける。しかし、どうやら間一髪で助かったみたいだ。私は痛めた臀部をさすりながら後ろを振り返る。


 しかしそこには何もなく、ただ薄暗い闇の中に、来た道が静寂のまま存在しているだけだった。


 不意に吹いた風が頬を撫でる。立ち上がり空を見ると、先ほどよりも暗く、すっかり紺色に変わっていた。

 前方から向かってくる一台の車が見え、後方から複数人の笑い声が聞こえ始めた。周囲の様子に、やっと私は日常が戻ってきたことを実感した。その安堵によって緊張が一気に解かれる。

 脱力し、再び地面にへたれそうになる。そこをぐっと踏ん張り、再度深呼吸をした。


 やはり、幻だったのだろうか。あまりにも非現実的な体験に自分を疑う。しかし、この臀部の痛みはしっかりと残っている。

 どうして私がこの魔に取り込まれたのか、私を助けたのは誰だったのか、全てが謎だった。しばし、その場で考え込む。

 すれ違う人々が、立ち尽くす私を不思議そうに一瞥していく。いつまでもここに留まるわけにはいかない。私は歩きながら思考を続けた。

 しかし、いくら考えたところで答えが出るわけでもない。それに、こんなことを誰かに話してもにわかには信じられないだろう。

 私はこの不思議な体験は自分の中だけに留めようと決めた。

 そして、きっとすぐに消えるこの痛みと共に家路についた。


 それから数年後。

 今では仕事も板につき、落ち込むことも少なくなった。最近は業績も順調で、継続した努力の成果を日々噛み締めていた。


 そんなとある残暑の夕暮れ。

 帰宅しようと通い慣れた道へ進もうとした時、私は不意に聞こえた音に立ち止まった。

 今日は風もなく、蒸し暑い。じわりと滲んだ汗を吸い込んだ、シワのついたシャツが背中に張り付く。

 私は落ち着いて目を閉じ、耳を澄ました。微かに、でも確かに聞こえてくる。あの日、嫌という程繰り返し刻まれたノイズ。

 カン、カン、カン。もう関わってはいけない。そんな私の意思とは裏腹に、足は踏切へ向かって方角を変えた。

 横に目をやると、いつかと同じように家と家の間に細い小道が存在した。

 なぜそうしたのかは分からない。自分ではない何かに操られるように体は勝手に動く。

 やがて、あの時の音と光が近づいてくる。


 例の踏切が見えたと同時に、私は息を呑んだ。たった一つ、前回と違う事が起きていた。

「誰だ……?」

 踏切の手前にじっと佇んでいる人影が見える。なんと、この異常な空間に自分以外の人が居たのだ。

 私は目を凝らしてどんな人物かを確認する。薄暗い中、点滅する灯りを頼りにヒントを探る。赤い光が照らす、その一瞬一瞬を見逃さず大体の背格好を捉える。

 そして直後に響いた轟音と眩い光に全身が照らされたことで、私はようやくその正体に気がついた。


 音と光がぴたっと止み、遮断機が上がるのが見えた。

 この後起こることを知っていた私は、どれほどの時間経過があるのか調べようとした。

 しかし、その静寂は束の間。すぐにけたたましい警報音が鳴り響いた。

 きっとあの異様な空間での体感時間など、正常なものではなかったのだ。一つ答え合わせを済ませた私は、冷静に状況を分析する。


 直後、踏切前に立ち尽くしていた人物が、ゆっくりと歩を進め始めた。私は走り出し、咄嗟にその人の腕を掴む。

 着慣れていないパリパリのワイシャツが、やけに手に馴染んだ。その懐かしい感触に思わず目を細める。

 そして、グッと力を込め、そのまま思い切り後ろに引っ張った。不意を突かれたその人は、思い切り地面に尻餅をつく。


 私は上空を見上げ、空の色が変わっていることを確認した。そして彼が振り向く前に、こっそりと後ろへ引き返す。

 見慣れた道へ戻ってから、後ろを振り向く。小道はいつの間にか消えていて、自分が来た形跡はなくなっていた。


 自分が、なぜここへ迷い込んだのかは分からないままだ。おそらくそれは、解明されることなく、知らないまま終わるのだろう。

 ただ一つだけ分かったことはある。ここまで生き続けてこれたのは紛れもなく、自分自身の意志だったのだ。

 そう確信し、私は再び前を向いて歩く決心をした。


 それ以降、あの異界の音を聞くことは無くなった。

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