婚約破棄された悪役令嬢は、冷徹スパダリ公爵様を溺愛する
「ベアトリス・アルブレーヌ! 貴様のような汚らわしい女、顔を見るのも反吐が出る! 今この瞬間をもって、婚約の破棄を宣言する!」
豪奢なシャンデリアの光の下、金髪を振り乱しながら叫んでいる男がいる。
男はパーティー会場の中央で、私に人差し指を突きつけてきた。周囲にずらりと並ぶ燕尾服とドレスたちは下品な笑いを漏らしながら、こちらを眺めていた。
(あ。これ、由紀が病室で見せてきたアニメだ)
水面から浮かび上がるように意識がはっきりしてきた瞬間、私はすべてを理解した。
◇
私は安曇莉奈。十八歳で、病室のベッドの上で死んだはずだ。
物心ついた頃から体が弱かった。学校に通えた時期もあったけれど、思春期を境に病状は悪化する一方で、最後の三年間は入院生活だった。
でも、私はそれほど不幸ではなかったと思う。友達もいて、お父さんもお母さんもお兄ちゃんも、忙しい中で毎日のように見舞いに来てくれた。
私はミステリーが好きで、病室ではいつも刑事ドラマやサスペンス映画を観ていた。その一方で、アニメや漫画には疎かった。
唯一ちゃんと観た深夜アニメが、親友の由紀が持ち込んできた『悪役令嬢はイケメン公爵様の愛に溺れる』だった。
毎回必ず人が死ぬドラマを観る私に、「たまには恋愛もののアニメとかどう? ミステリーっぽいのもあるし!」と持ち込んだタブレットの再生ボタンを押したのだ。
物語の主人公は、ベアトリス・アルブレーヌという公爵令嬢。公爵の隠し子として生まれ、正妻の公爵夫人や腹違いのきょうだいたちに疎まれながら育った薄幸の令嬢だ。
婚約者の王子には繰り返し浮気され、暴力を振るわれ、挙げ句の果てに濡れ衣を着せられ、大勢の前で婚約破棄を宣告される。そんな、散々な目に遭い続けるドアマットヒロインだった。
しかしそこから物語は動く。
婚約破棄されたベアトリスは、冷徹公爵と恐れられているランベール・グロブリー公爵の妻となる。白い結婚のはずが、ランベールはやがてベアトリスを深く愛するようになる。
笑わないと噂の公爵が、彼女だけのために甘く変貌していくのだ。
「なんで泣いてるの、莉奈」
「……なんか、じわっときたかも」
「ね? 言ったでしょ」
由紀に得意顔をされながら、私は目元を拭った。
それが、私の記憶している最後の幸せな夜だったと思う。その後、私の容体は急速に悪化した。
◇
前世の記憶が正しければ、ここはフィブリス王国。地球ではないどこかの異世界だ。
そして私は今、物語の冒頭にいる。
目の前で唾を飛ばしながら婚約破棄を叫んでいる金髪の男は、第三王子のルイ・フィブリス。
度重なる不祥事で王位継承権を剥奪されているにもかかわらず、王子に婚約者がいないのは体裁が悪いという理由だけで、公爵令嬢の私に婚約を押しつけてきた男だ。
普通の貴族令嬢なら親が断って当然の縁談だが、ベアトリスの場合は、厄介払いしたいという両親の思惑により成立してしまった。
そのルイが今、でっち上げの醜聞を並べ立てている。不貞行為。横領。その他もろもろ。
(全部嘘だけど、どうせ誰も信じてくれないのよね)
アニメのとおりだと、ここで言い訳をしても無駄で、言い訳をすればするほど状況が悪化するだけだった。
「……分かりました、ルイ殿下。どうぞお幸せに」
私はドレスの裾を優雅に掴み、深々と頭を下げた。お嬢様キャラがよくある挨拶だ。
顔を上げると、ルイが拍子抜けしたような顔をしていた。もっと取り乱すと思っていたのだろうか。
(ふふ、残念でしたね)
私はゆっくりと踵を返し、広間を出た。重厚な扉が閉まると同時に、廊下を駆け出す。冷たい夜風を気にするよりも、とにかく走りたかった。
(久しぶりに全力疾走した! ドレス超重いけど!)
ふわふわのスカートをまくり上げながら、人気のない廊下を突き進む。ベアトリスの体は細くて、すぐに息が上がった。
けれど前世では病院の廊下を歩くのも一苦労だった私にとっては、こんなに走れるなんて奇跡のようだ。
石造りの回廊を抜け、テラスへ続く扉を押し開ける。一際強い夜風が、私の頬を撫でた。
◇
馬車に揺られて実家に戻った私を待っていたのは、玄関ホールに勢揃いしたベアトリスの家族だった。父ゴート、公爵夫人アマン、そして腹違いの兄ラルフと妹のキャシーだ。
「一族の恥さらしめ……! よくもノコノコとこの家の敷居を跨げたものね。みっともない」
公爵夫人が扇を握りしめたまま一歩踏み出した。美しい顔が怒りで歪み、扇はもうすぐ折れそうだ。
「お前のせいで、私は社交界で指を差されて笑いものよ!」
「俺の完璧なキャリアに傷がついた。お前のような妹を持ったことが、人生最大の汚点だ。どう責任を取ってくれる」
兄は眉間に皺を寄せ、心底うんざりした顔で言った。妹も、ここぞとばかりに私を罵っている。
「あの第三王子に婚約破棄されるなんて、女としておしまいよ。なんて哀れなの」
(うわー。アニメ通りのセリフだ)
全員一致でアニメに忠実なのが、かえって清々しい。私はドレスの皺を軽く直しながら、全員の顔を順に眺めた。
本当の家族でないから当然だが、怒るとか悲しむとか、その気は一つも湧かない。私にとって家族はいつも互いを思いやって、支え合う存在だった。
家族にこんな風に酷くあたる人間がいるということが、ただただ驚きだった。
場が静まり返ったところで、玄関の隅でおずおずと立っていたアースが口を開いた。
「……ベアトリス。お前には、新しい縁談がある」
「はい」
「グロブリー公爵、ランベールどのとの婚姻だ。先方は了承している。準備が整い次第、嫁いでもらう」
(でしょうね)
内心で頷きながら、私は父を見た。この男は事なかれ主義で、この家のごたごたをずっと見て見ぬふりをしてきた人だ。愛人との間にできたベアトリスを引き取りながら、守ることもしなかった。
「まあ、グロブリー公爵ですって」
「本当に可哀想ね、ベアトリスったら」
「それを言うならあの男もだろう。こんな出来損ないが妻だなんて」
アマンたちは、互いに顔を見合わせて笑っていた。
ランベール・グロブリー。
またの名を冷徹公爵。北方の氷の城に住む社交界の嫌われ者。笑わない男。
社交界には滅多に姿を現さず、邸宅で人体実験をしているだとかの噂もある。けれど、私はその本当の姿を知っている。
「承知しました。謹んでお受け致します」
私はドレスの裾を持ち、深く礼をした。顔を上げると、全員が拍子抜けしたような表情をしていた。ルイといいこの家族といい、私が泣いて嫌がると当然のように思っているのはどうしてだろう。
(ありがとうございます。おかげで超イケメンな旦那様に会いに行けます)
私は彼らに悟られないよう、心の中でにっこりと笑った。
◇
一週間後。
私は「氷の城」と呼ばれるグロブリー公爵邸の前に立っていた。
馬車の窓から眺めた時から分かっていたけれど、近くで見ると更に圧がある。灰色の石造りの屋敷は、北方らしい曇り空の下でそびえ立っていた。あまりにも殺風景で、生き物のいる気配があまりない。
(確かにこれはちょっと怖いな)
執事に通された応接室は、大きな暖炉とソファーだけがあるシンプルな部屋だった。
その扉が再び開いたのは、それから少ししてのことだった。
「ベアトリス嬢」
低い声が部屋に落ちた。私が振り返ると、扉のそばに男が立っていた。
黒に近い深紺の髪。光を吸い込むような灰色の目。整った顔は感情を削ぎ落したみたいに無表情で、纏う空気を冷やしていた。
アニメで見た通りだ。いや、本物はその百倍は美しい。
ランベール・グロブリー公爵は、圧倒される私を静かに見下ろした。
「君との婚姻は、形式上のものだ。愛し合うことも、寝所を共にすることもない。ほとぼりが冷めたら離縁してやる。それまで、この屋敷で静かにしていろ」
歓迎の言葉一つもない。アニメでは、ここでベアトリスが俯いてぼろぼろと涙をこぼすのだ。
でも私は、泣かなかった。泣く理由なんて、一つもない。
「閣下」
一歩距離を詰めると、ランベールがかすかに眉を動かす。
私には、何もない。ベアトリスが得意だった家事は長い入院生活でしたことがないし、女性らしい特技も、ほとんど人並み以下だろう。
でも、私には最強のマニュアルがある。
このランベール・グロブリー自身だ。アニメの中で彼がベアトリスに施していた溺愛の、全セリフ全シーン。
(幸せになるためには、アニメのランベールがベアトリスにしていた“溺愛”ってやつを、私もしよう)
アニメでは話が進むにつれてランベールの溺愛が加速していった。彼はベアトリスに甘い言葉を囁き、ベアトリスも彼のことを愛するようになって、二人は幸せになった。
溺愛というものに詳しくはないけれど、幸せになるために必要な要素だということは分かる。
私がランベールの大きな手をそっと包み込むと、彼の体が僅かに固まった。そのまま彼を見上げて、記憶の限りのとびきり甘い声を作った。
「貴方は、私に静かにしていろとおっしゃいましたが……それは不可能です」
「何だと?」
私は、ゆっくりと微笑んだ。
「私の心は今……貴方のその気高さに、完全に射抜かれてしまいましたので」
一瞬の沈黙の後、ランベールの眉がぴくりと動いた。
これはアニメ第五話にて、ランベールがベアトリスを初めて抱き寄せた回の、視聴者の語り草になったという名台詞だ。由紀が「この台詞でオタクは全員死んだ」と言っていた。
(本当に死んだのは私なんだけど)
「今日から、貴方の孤独は私のものです」
「おい、何を言って……」
「貴方が眠れない夜は、私が夜明けまで貴方の手を握り、その悪夢をすべて食べて差し上げます」
私はランベールの手をきゅっと握った。自由に動く身体のおかげで、脳内シミュレーション通りに全て上手くいく。
「約束ですよ、旦那様?」
「なっ……」
あの無表情の顔に、見る見るうちに朱が差していく。耳の先まで赤く、目は泳いでいる。
ランベールは私の手を振り払おうとした。が、すっかり健康体になったこの体は存外頑丈で、私は全力でしがみついた。
「ちょっ、離せ……」
「どうされたのですか? 顔が赤いです」
「赤くない」
「赤いです。まさか、これほど情熱的に愛されるのが初めてだとでも?」
「き、貴様……正気か!?」
「はい」
私は背伸びをして、ランベールに顔を近づけた。
「貴方はただ、愛し方を知らないだけです。……私が教えて差し上げますわ。まずは、今夜から一緒に温かいスープを飲みましょう。私が注ぎますから」
(作るのは料理人さんにお任せするけど)
入院生活の長かった私が持っているのは、ドナーを待ち続ける忍耐力と「人を愛したい」という気持ちだけだ。
前世で、私はたくさん愛してもらった。由紀も、友達も、家族も、皆が私のそばにいてくれた。なのに私は、愛を返せないまま死んでいった。
今度は違う。健康で、好きに動かせる身体もある。つまり、最強だ。
「ランベール様。私、死ぬまで貴方を離しませんから。覚悟してくださいね?」
「……勝手にしろ」
どうやら、溺愛の逆輸入は効果てきめんのようだ。絞り出すような彼の声は、ちっとも冷たくなんてなかった。
ランベールは顔を隠しながら応接室を出て行った。
外で控えていた女性が、私と、出て行ったランベールを交互に見て、慌てて私に頭を下げた。
「奥様。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。私、奥様の傍付きの侍女、アンナと申します」
侍女のアンナ。アニメでは、最初にベアトリスの味方になるキャラクターだ。とても有能で、頼れる存在。
「ベアトリス、です。よろしくお願いします」
アンナと同じように頭を下げた私に、彼女は困惑の色を浮かべたが、「あっ」と思い出したように声を上げた。
「先だって、奥様にお荷物とお手紙が届いております。ご実家からの贈り物のようですが、お部屋にお運びしましょうか」
手渡された上質そうな紙の封筒を開けると、甘い香りがした。
『親愛なる我が娘、ベアトリス。
結婚おめでとう。公爵家一同、幸せを祈っています。
さて、結婚祝いに、貴女宛の贈り物を届けさせました。必ず開封し、ぜひ使ってください。ランベール様もきっと貴女を愛してくれるはずですよ』
アンナの後ろに控えているメイドが持っている箱は、過剰なまでに包装されていた。派手な色の包装紙とリボンが、シンプルな部屋で異彩を放っていた。
中身は知っている。最先端のデザインのアクセサリーと髪飾りに、緩衝材の紙だ。
「いいえ。その箱は金庫室に入れて、誰も触れないよう保管してちょうだい」
◇
数日後。
私は意気揚々と、ランベールの執務室の扉を蹴り破らんばかりの勢いで開けた。そんなに勢いをつけるつもりはなかったのだけれど、よく動く身体の力加減は難しい。
「ランベール様! 休憩の時間ですわ!」
デスクで書類の山に埋もれていたランベールがこちらを見た。心底嫌そうな、それでいてほんの少し怯えたような目だった。
「……君か」
彼は眉間に皺を寄せたが、目の前の書類の山を横にずらしてくれた。
「言ったはずだ、執務中は入るなと。……それに、それはなんだ」
「お茶のセットですわ」
私はワゴンを執務室押し込みながら、彼に詰め寄った。
「そういうことを言っているんじゃない。何故、君がそんなものを」
「聞きましたよ。休憩を一切取らず、昼食も抜いているそうじゃないですか。過重労働は万病の元ですよ、閣下」
茶葉の選定も、お湯の温度管理も、全部侍女のアンナにお任せした。でも最後の一工程、運ぶことだけは絶対に譲らなかった。
「さあ、閣下。このお茶を飲んで、私との甘いひとときを過ごしましょう?」
「……昨日も言ったが、俺は忙しい。それにその台詞、どこかで聞いたことがあるような」
「気のせいですわ」
本当はアニメ第八話、湖畔でのピクニックでランベールが放った台詞の引用だ。私は彼の手から強引に羽根ペンを奪い取り、デスクの端にティーカップを置いた。
そしてアニメ第五話にて、雑務に追われるベアトリスにランベールがしていた”溺愛”を、そのまま実行に移すことにした。
椅子の背後に回り込み、公爵の首筋に腕を回した。そして、耳元で囁く。
「……ランベール様。貴方の瞳の隈は、私の心に深く突き刺さる棘のようです」
「っ!?」
「貴方が自分を痛めつけるなら、私は貴方の代わりに、自分の指を噛み切ってしまいそう」
「な、何を……何を言っているんだ君は!!」
ランベールが跳ね上がるように椅子ごと回り、私の肩を掴んだ。顔が茹で上がったように赤い。冷徹公爵の威厳はどこへやら、今の彼はただの動揺した青年だ。
そう。ランベールは案外、普通の青年なのだ。冷たく見えるのは生まれつきではない。彼の心の傷と痛みが、時間をかけて作り上げたものだ。
「そんなに私を求めてくださるなんて……嬉しいですわ」
「求めてなどいない! 君の言動があまりにも、その……破廉恥というか、突拍子もないというか」
「あら、嫌なのですか?」
私は彼の手を自分の頬へと寄せ、うっとりと目を細めた。これも彼がよくやっていた仕草だ。
「私は貴方のすべてを肯定したいのです。貴方の指先から、その冷徹な思考回路に至るまで、すべて私のものにしたい……。それとも、もっと強引にされたいのですか?」
「っ……!!」
アニメで観ていた当時は、由紀と「キザすぎ! やば!!」と笑っていたけれど、いざ自分でやってみると意外と楽しい。
(ランベール自身が言える言葉なら、言われたとして嫌ではないよね)
頬へ寄せたランベールの手は固まり、彼は顔を真っ赤にさせ口をぱくぱくさせていた。だがその瞳にふと、深い陰が差した。
「……君は、怖くないのか。俺の過去を知れば、誰もが離れていく。俺は愛される資格などない男だ。手を引くなら今だぞ」
俺の過去、というのはアニメ後半で明かされる、彼の壮絶な幼少期と孤独だ。実の父親を信頼していた執事に暗殺され、彼の周りからは次々と人が離れていった。でも、私にはそんなの関係ない。
「資格なんて誰が決めるんですか。少なくとも、私は貴方に救われたいわけじゃない。ただ愛したいだけです」
私は私の過去を思い出していた。身体に傷を負った私と、心に傷を負った彼。そういう点で見れば、私たちは似た物同士なのかもしれない。
「……私ね、ずっと一人で戦ってきた時期があったんです。だからなんとなく分かるんです。貴方のその冷たさは、誰かを傷つけるためじゃなくて、自分が傷つかないための盾だってこと」
私は、彼の強張った体を力いっぱい抱きしめた。
似た者同士の私たちの間で決定的に違うのは、周囲に支えてくれる、愛を与えてくれる人がいたかどうかだ。些細な違いだけれど、きっと影響は大きいのだろう。
溺愛が必要なのは、悪役令嬢の私ではなく冷徹公爵の方だ。
「大丈夫。私が貴方を甘やかして、骨抜きにして、氷なんて全部溶かしてあげますからね」
ランベールはしばらく呆然としていた。やがて彼は大きく息をつくと、震える手がそっと私の背中に添えられた。
「……仕方がないな。茶を淹れてくれ。毒消しが必要だ」
「毒だなんて! 愛の特効薬ですよ! あ、でもお砂糖は三個入れますね、脳の栄養ですから」
溺愛作戦、第一段階クリア。私は心の中でガッツポーズを決めながら、由紀に感謝した。
(ねえ由紀。私、こっちで"溺愛"ってやつ、やってるよ!)
由紀から盛大なツッコミが入りそうな気がしたけれど、私は気にしないことにした。
◇
王宮で開催される夜会の招待状が届いたのは、結婚から一か月が経った、ある朝のことだった。
差し出された封筒の封蝋を、彼は眉一つ動かさずに切る。相変わらず表情に乏しい人だ。
「結婚してから、初めて二人で公の場に出ることになる。いつものように欠席しても良いが」
その一言を聞いた瞬間、頭の奥で何かが弾けるように蘇った。
物語の中盤、夜会の会場で、ランベールの叔父であり大公爵のアース・プロトロビクスが、「先代グロブリー公爵を暗殺した真犯人は、ランベール自身である」と告発する。彼が用意した証言は捏造されたものだった。
告発はそれだけではなく、「ランベールとベアトリスが結託し、国王暗殺を企てている」という根も葉もない嫌疑までかけられた。
会場は騒然となり、二人はその場で拘束される。物語はそこから、真犯人を追うミステリーへと転がり込む。最終的に濡れ衣は晴れるけれど、ランベールの心の傷をさらにえぐることになる
(冗談じゃない)
「出席しましょう。ランベール様」
この夜会を欠席したとしても、大公爵は告発を決行するだろう。だったら、正々堂々と出席して、あんな展開なかったことにしてやる。
「それなら……ドレスとアクセサリーを、新しく仕立てよう。懇意にしている店がある」
考え込んでいた私は、その声に顔を上げた。ランベールは涼しい顔で紅茶のカップを置いている。
(きた! 最初の確定演出ね)
由紀が言っていた。このタイプの恋愛もののヒーローは、主人公に対する好感度が高いと、高価なドレスやアクセサリーを買ってくれると。
「ドレスは……お任せします。何でも構いませんので」
「任せる、というのは困る。もう少し着飾ったらどうだ」
生真面目な返事に、頬が緩みそうになるのをこらえる。正直なところ、この世界の貴族女性が着ているドレスは綺麗で可愛いけれど、重い。せっかく自由に動けるようになったのだから、私はもっと動きたい。
「では、一つだけ。……化粧品を。アイシャドウを、多めにいただけますか。できれば、色々な色を揃えて」
ランベールが片眉を上げた。
「ドレスより化粧品を選ぶのか」
「はい。今の私には、そちらの方が必要なので」
夜会の当日、私にはやるべきことがある。そのために、多めのアイシャドウが要るのだ。ランベールはしばらく私を見つめていたけれど、やがて小さく頷いた。
「お前が望むなら、いくらでも」
◇
その日の午後、私は自室にアンナを呼んだ。
「アンナ、一つ頼みたいことがあるの」
「なんなりと、奥様」
この世界に来てから、彼女にはずいぶん助けられていた。貴族のマナーを根気よく教えてくれるし、多少突飛な頼み事をしても顔色一つ変えずにやり遂げてくれる、頼もしい味方だ。
「化学……物質の成分や構造、反応に関する本を用意してくれないかしら。できるだけ専門のものを」
アンナは瞬き一つせず、手元の帳面にペンを走らせている。傍から見れば、貴族の女性が何に使うつもりなのか見当もつかない組み合わせだろう。
それでも彼女は「かしこまりました」とだけ答え、それ以上は尋ねてこなかった。
◇
化学の本の手配と並行して、私はもう一つ、調べていることがあった。ランベールにまつわる、いくつもの不穏な噂の出所だ。
冷酷。非情。婚約者を人質同然に迎えた男。その手の噂の多くは、そばにいればすぐに、彼の無愛想な態度が誤解を招いているだけだと分かる。けれどその中に一つだけ、看過できないものが混じっていた。
人体実験をしている、という噂だ。
もし本当なら、アニメでは描かれなかった、私の知らない彼の一面ということになる。もし嘘なら、誰かが意図的に流した悪意ということになる。どちらにせよ、放ってはおけない。
アンナに噂について尋ねていると、事実は私の想定外のところにあった。
ランベールは、国内の科学者たちを陰から支えていたのだ。医学、薬学、機械工学。分野を問わず、有望な研究に資金を出し、設備を整え、時には政治的な圧力から研究者たちを守ってさえいた。
恩着せがましいことを嫌う性分なのか、彼はそのことを誰にも語らなかった。それが、悪意ある噂につけ入る隙を与えてしまったのだろう。
「変わった人ね……」
誤解されるくらいなら、少しは自分の功績を誇ればいいのに。氷の公爵と呼ばれることにさえ、彼は反論の一つもしない。
けれど今の私には、その沈黙の理由が、少しだけ分かる気がした。誰かに期待することも、期待されることも、彼はきっと、心のどこかで恐れている。父を殺され、味方だと思っていた人に裏切られたのだから。
私は、その科学者たちを束ねているという研究院の院長に宛てて、手紙をしたためることにした。ランベールへの支援に対する感謝の言葉と、そして、いくつかの頼み事を添えて。
「アンナ、この手紙を、王立研究院の院長に届けてちょうだい。できるだけ内密にね」
「かしこまりました」
封をした手紙を託しながら、私は窓の外に目をやった。夜会まで、あと少し。
◇
国王陛下主催の夜会は、想像していた以上に華やかだった。
会場に足を踏み入れた瞬間、あちこちの視線が一斉にこちらへ向くのを感じた。無理もない。氷の公爵と、王子に婚約破棄されたばかりの妻なのだから。
視線の中には、見知った顔もあった。会場の隅、扇の陰からこちらを窺っているのは私の父、アルブレーヌ公爵と、夫人。兄と妹の姿もある。
ルイの姿は、どこにもない。
婚約を破棄した本人がその相手の結婚後初めての夜会に、のこのこ姿を見せるほど図太くはないらしい。
好奇の視線が集まっているなら、それを利用しない手はない。ここで溺愛パートを挟んでおこう。アニメの展開とかけ離れすぎると、この後に支障が出るかもしれない。
私はランベールの腕に、そっと自分の腕を絡めた。
「今夜のあなた、とても素敵です。その紺色の衣装、瞳の色によく映えていて」
周囲に届きつつも控えめな声で囁く。ランベールが微かに息を呑む気配がした。
「……そうか」
「ええ。誰より、素敵」
背伸びをして、乱れてもいない彼の襟元を、そっと直す仕草をする。指先が触れた瞬間、ランベールの喉がわずかに動いた。
周囲がざわめくのが分かった。
「氷の公爵が、こんな風に妻に触れられて、振り払いもしないなんて」
「一体、どうなっているの……?」
戸惑いの声が、扇の陰から漏れ聞こえてくる。構わない。もっと見せつけてやればいい。
給仕から受け取ったグラスを、私は彼の口元へと運んだ。
「どうぞ」
「……自分で持てる」
「知っています。でも、こうする方が楽しいので」
わずかに眉を寄せながらも、ランベールはグラスに口をつけた。その耳が、また赤く染まっている。
周囲の視線が、驚愕から困惑、そして微かな羨望へと変わっていくのを感じる。氷の公爵夫妻の睦まじい様子は、格好の噂の種になるだろう。
これもアニメであった展開だ。している人間が違うだけで。結局のところ、“溺愛”というものは主人公がしても、ヒーローがしても同じことなんだと思う。
けれど、その穏やかな空気は長くは続かなかった。
「皆、静粛に……!」
朗々とした声が、会場に響き渡った。声の主が誰か分かった瞬間、隣に立つランベールの体が、目に見えて強張った。
プロトロビクス大公爵だ。
人々の視線が、一斉に彼へと集まる。彼は悲痛の表情を作りながら、ゆっくりと会場の中央へと進み出た。アニメ通りの展開だ。
「今宵、心苦しいことだが、皆の前で明かさねばならぬことがある」
大公爵は、そこで一度言葉を切った。会場中の視線を十分に集めたことを確認すると、
「我が兄、先代グロブリー公爵の暗殺の真犯人は長らく不明だった。だが、その真犯人が判明した」
彼の指が、まっすぐにランベールを指した。
「ランベール。お前だ」
会場が、静まり返る。次の瞬間、どよめきが波のように広がった。
「まさか……」
「氷の公爵が、実の父君を……?」
「そういえば、あの事件以来、様子が変わられたと……」
囁き声が、次々と耳に届く。恐ろしいものを見るような視線が、ランベールに突き刺さる。彼はその一つ一つを、表情一つ変えずに受け止めていた。けれど、私の腕に絡めた指先は、いつもより冷たい。
大公爵は、満足げに頷くと、さらに言葉を重ねた。
「そして、罪はそれだけではない」
彼が手を上げると、会場の入り口から一人の男が進み出た。
「この者は、ランベール邸に潜入させていた調査員だ」
男は恭しく一礼すると、よく通る声で告げた。
「私が調査した限り、ランベール様とベアトリス様は、国王陛下の暗殺を企てておられます。両者の間には、計画の詳細を記した書面での契約が交わされております」
会場が、再びどよめく。今度の視線には、明確な恐怖と敵意が混じっていた。国王暗殺。それは、単なる家門の醜聞では済まされない、国家への反逆だ。
「陛下」
大公爵が、玉座近くに立つ国王へと向き直る。
「今すぐ、ランベールの邸宅を捜索すべきかと。証拠となる書面が、必ずや見つかるはずです」
国王が重々しく頷こうとする。その瞬間、私は一歩前に進み出た。
「お待ちください、陛下」
隣で、ランベールが小さく息を呑む気配がした。
ドレスの隠しから白い手袋を取り出し、ゆっくりと両手にはめる。周囲の視線が、その所作に集まるのが分かった。
続いて取り出したのは、一枚の紙。何も書かれていない、ただの白紙だ。
「その書面というのは、もしかして、これのことでしょうか?」
紙を掲げて見せると、大公爵の顔に、一瞬、隠しきれない動揺が走った。
私は紙を手にしたまま、近くの燭台へと歩み寄る。そして、蝋燭の炎に、そっと近づけた。
しばらくすると、白紙だったはずの表面に、褐色の文字が滲むように浮かび上がってくる。会場中が、息を呑んでその光景を見つめていた。
浮かび上がった文は、国王陛下の暗殺計画だった。日付、手順、そして“ランベール”と“ベアトリス“と二人の署名らしきものがある。
「これが……!」
大公爵が、驚きを隠しきれない声を上げる。けれどすぐに、その顔に勝ち誇った笑みが戻った。
「それこそが証拠だ! 二人が結託し、陛下の暗殺を企てていた動かぬ証だ!」
「証拠、ですか」
私は静かに笑った。
「では、一つ教えていただけますか。この紙が、いつ、どこで見つかったものか」
大公爵が、僅かに言葉を詰まらせる。答えられるはずがない。この紙の出所を知っているのは私だけなのだから。
「この紙は、私が嫁いでから、実家であるアルブレーヌ公爵家から邸宅宛に贈られた荷物の中に、緩衝材として使われていた紙の中に紛れていたものです」
会場の空気が、明らかに変わった。
「ですよね?」
視線を、国王の側近として壇上近くに控えていた騎士へと向ける。彼とは、数日前に顔を合わせていた。
「はい」
騎士は、迷いのない声で応じた。
「ベアトリス様より『実家から届いた荷物の中に、不審な物が紛れているようだ』とのお申し出があり、私の立会いのもと、荷物を開封いたしました。その際、今ベアトリス様がお持ちのものと同様の、国王陛下の暗殺計画が記された複数枚の書面が見つかっております」
会場中の視線が、今度はアルブレーヌ公爵家の面々へと集まった。扇の陰に隠れていた公爵夫人の顔から、みるみる血の気が引いていくのが見える。
沈黙を破ったのは、兄だった。
「そんな……! 届いた荷物を一度開封し、お前が紛れ込ませたんだろう! 自作自演で、我が家に罪をなすりつけるつもりか!」
声を荒らげる兄を、私は静かに見つめ返した。
「それはあり得ません」
「アンナ」
私が名を呼ぶと、会場の入り口から、アンナがもう一人のメイドを伴って進み出た。二人とも、私と同じように白い手袋をはめている。
「今、私が手にしているのは、証拠のうちのたった一枚です」
アンナの手には、もう一枚の文字の浮かび上がった紙がある。そしてメイドの手には、その紙が入っていた木箱だ。どちらの表面にも、うっすらと粉のようなものが付着している。
「これは、先ほどの書面が入っていた箱です。表面に付いているのは指紋を採取するために使った、アイシャドウです」
会場がざわめく。指紋、という言葉に、聞き覚えのある顔はほとんどいないだろう。
「人の指先には、一人ひとり異なる紋様があります。物に触れれば、皮膚の脂と共に、その紋様がうっすらと残ります。目には見えにくくとも、細かな粉をまぶせば、こうして浮かび上がらせることができるのです」
本来なら、これは物語のずっと先で、二人が幾つもの苦難を乗り越えた末にようやく辿り着く、無実の証明のはずだった。けれど、待つ必要なんてどこにもない。使えるものは、今すぐ使えばいい。
幸いにも、刑事ドラマばかり見ていた私にとって、指紋採取は朝飯前だ。
「大公爵様、お母様、お兄様の指紋は、以前いただいたお手紙や贈り物から、あらかじめ採取させていただいておりました。念のため、というつもりでしたのに」
私は箱を示しながら、続けた。
「この箱についていた指紋を、配送業者と我が家の使用人のものを除いて調べたところ、お母様、お兄様、そしてプロトロビクス大公爵様のものと一致しました」
息を呑む音が、あちこちから聞こえた。
「そして同じ指紋が、この書面にも残されています」
アンナが掲げる、暗殺計画の書かれた紙を指し示すと沈黙が会場を包んだ。
荷物を用意したのはアルブレーヌ公爵家。その荷物にも、暗殺計画書にも、同じ人物たちの指紋が残っている。それが意味することは、一つしかない。
「な……」
大公爵の顔から、血の気が引いていく。余裕に満ちていた表情は跡形もなく消え、代わりに浮かんでいるのは、明確な焦りだった。
「そ、そのような技術、聞いたこともない! でたらめだ、証拠として認められるはずが」
「でしたら」
私は微笑んだ。今度は、挑発するような笑みをかましてやった。
「大公爵様の指紋と、この箱、この書面についた指紋を、もう一度並べて確認していただいても構いません。この場に、王立研究院の方もいらしています」
会場の後方から、一人の初老の男性が進み出た。数日前、手紙で協力を頼んでおいた、研究院の院長だ。彼は淡々と、指紋という技術の仕組みと照合の結果を告げていく。
反論の余地はどこにもなかった。
公爵夫人は、顔面蒼白のままその場に崩れ落ちそうになっている。父はただ呆然と立ち尽くしている。自分の知らないところで何が起きていたのか、初めて理解したようだった。
◇
混乱の収まらない会場を見渡し、私は静かに息を整えた。ランベールの手をそっと離し、もう一歩、前へ出る。
「陛下。もう一つ、お耳に入れたいことがございます」
国王が、僅かに眉を上げてこちらを見た。促されるまま、私は続けた。
「先ほど大公爵様が言及なさった、先代公爵様を手にかけた真犯人について、私からもご報告いたします。まず、我が夫ランベールは犯人ではありません」
会場が、再びどよめいた。
「大公爵が狂言を……?」
「まさか」
「いや、ランベール様は当時まだ幼かった。真犯人というのは無理がある」
「だとしても、犯人はもう捕まったじゃないか」
困惑の声が、あちこちから上がる。無理もない。長らく解決済みとされていた事件だ。今この瞬間に真相が語られるなど、誰も予想していなかったはずだ。
私は、研究院の院長へと目を向けた。
「院長。例の報告を、お願いいたします」
院長が、一歩前へと進み出る。緊張のためか、その足取りはどこかぎこちなかった。
「はい。……我々は先日、長らく研究を続けていた、画期的な物質を作り出すことに成功いたしました」
彼は、懐から小さな硝子瓶を取り出して掲げた。
「拭き取られた血の痕であっても、この薬液を吹きかければ、青白い光として浮かび上がらせることができるのです」
会場が、大きくざわめいた。
「血の痕が、光る……?」
「そんな馬鹿げた話があるものか」
国王暗殺計画の疑惑は、指紋の証拠によって晴れた。
アニメの中でも、同じ形でアルブレーヌ公爵家とプロトロビクス大公爵の企みが暴かれていたけれど、先代公爵様を手にかけた真犯人については、アニメでは有耶無耶なままだった。
由紀が言うには、『悪役令嬢はイケメン公爵様の愛に溺れる』には元々原作漫画があって、アニメ化されていない先のストーリーもあるうえに、漫画の連載はまだ続いているらしい。
ランベールが科学者たちを支えてきたという事実。この物語の随所に散りばめられたミステリー要素。指紋の概念を登場させたなら、ルミノール反応も登場したっておかしくない。
ランベールの実父の暗殺という伏線を回収として、原作ですら描かれていない未来に、この技術の発見と真犯人の特定が待っているはずだ。
そう推理した私は、賭けに出た。
幸いにも、ルミノールについての知識はあった。
長い入院生活の中で、私はミステリーに夢中だった。刑事ものから科学捜査ものまで、手当たり次第に。けれど狭い病室での毎日はそれだけでは退屈で、暇を持て余すたびに、担当医や薬剤師をつかまえては、ドラマに出てきたことをあれこれ質問したものだ。
「先生、人が死んでから体が硬くなるまでって、実際どのくらいなんですか?」
「また新しいドラマの影響かい……? 個人差が大きいから、一概には言えないんだよ」
困った顔をしながらも、根気強く付き合ってくれた先生たちには、感謝してもしきれない。
他にも「青酸カリで人が死ぬのはどうしてですか?」だとか「切腹が意外と難しいって、本当ですか?」など、行き当たりばったりに集めた知識の一つに、ルミノールの生成方法もあった。
担当医の先生から病理医の先生を紹介してもらって、詳しく教えてもらった。
私はその知識を元にルミノールの製法を書き記した。元の世界と物質の名前や化学反応を示す式の書き方が違っていたから、対応する物質を探し、化学反応式の書き方を調べて書いた。
私の推理は当たっていたらしく、科学者たちも血痕に反応する化合物の生成まであと一歩のところまで来ていた。私が何もしなくとも、遅かれ早かれ同じ方法で真犯人は特定されただろう。
ランベールが濡れ衣を着せられようとしていることを知った科学者たちは、彼への恩に報いるため、寝る間も惜しんで研究と生成を急いでくれたのだという。
「この薬液によって、真犯人が明らかになったのです」
半信半疑の声が広がる中、一人の年配の貴族が、鋭い声を上げた。確か、プロトロビクス大公爵と長年懇意にしている人物だ。
「待たれよ。そのような都合の良い発明が、よりにもよってこの夜に間に合うとは。あまりに出来すぎてはいないか?」
視線が、一斉に私へと集まる。
(痛いところを突いてくるなあ)
もっともな疑問だ。けれど、この発明のきっかけが前世の記憶にあるなどと、口が裂けても言えない。
「報告があったのです」
私は、静かに微笑んで見せた。
「プロトロビクス大公爵様が、私やランベールに対する虚偽の告発を、今日この夜会ですると。それは、先ほどの大公爵様ご自身が証明なさっているでしょう?」
年配の貴族は毒気を抜かれたように黙り込んだ。
私は、大公爵へと向き直った。
「大公爵様。あなたには、近くの壁や机に手をついて、体重をかける癖がおありですね」
その言葉に、大きなテーブルに手をついていた大公爵が、弾かれたように手を離した。
「そ、そのような些細な癖が、一体何の証拠になるというのだ。言っておくが、私は我が兄の死を、誰よりも悲しんでいる身だぞ!」
周囲から、小さくざわめきが起こる。
「では、癖の話は一旦置いておきましょう。我が邸宅の、先代公爵様が命を落とされた部屋には当然、大量の血痕反応が検出されましたわ。その中にあったんですよね」
私は、一つ一つの言葉を、ゆっくりと会場に染み渡らせるように紡いだ。
「窓枠に、大公爵様の手形の血痕が。先ほどと同様に、指紋もくっきりと残っていましたわ。あなたは先代公爵様の返り血を浴びたまま、窓枠に手をつき体重をかけた。そうでしょう?」
会場が、ざわめきで大きく揺れた。
「馬鹿な! 私がそんな部屋に立ち入ったことなど、一度もない!」
大公爵の声が、初めて明確な焦りを帯びた。
「そもそも、指紋とやらが本当に個人を特定できる代物だという証拠が、どこにある? つい先ほど、お前が言い出しただけの、根も葉もない理論ではないか! そのような不確かなものを証拠として扱うこと自体、おかしいと思わないのか!」
その反論に、周囲の空気が再び揺れる。その空気を後押しするように、公爵夫人が声を上げた。
「そ、そもそも……! 実家からの贈り物を不審だと思い、騎士を呼んだということ自体がおかしいのですわ! 実家から届いた荷物を、怪しむだなんて!」
「怪しんで、何がおかしいのでしょう」
私は、静かに公爵夫人を見つめ返した。
「今まで、誕生日ですら、お母様やお兄様から贈り物をいただいたことは、一度もございませんでした。それなのに、あの荷物の時だけ、わざわざお手紙まで添えて『必ず受け取るように』と念を押される。……怪しまない方が、どうかしているでしょう」
会場がしん、と静まり返る中、私は苦々しい表情を作りながらため息を吐いた。
「アルブレーヌ公爵家を騙った何者かが、危険物を仕込んでいるのではないかと。そう思い、念のため、お母様たちの指紋と照らし合わせておいたのです。……まさか、本当に実家からの品だったとは、思いもしませんでしたけれど」
その一言に、会場は再びどよめいた。今度のどよめきは、先ほどまでとは、明らかに質が違う。
「おいおい。娘に一度も贈り物をしなかっただと……?」
「誕生日にすら、何も……? なんてこと」
軽蔑の入り混じった視線が公爵夫人と、その隣に立つ父へと突き刺さる。父は、ただ気まずそうに視線を逸らすばかりだった。
もう、味方をする声は上がらなかった。先ほどまで大公爵に同情的だった貴族たちの視線にも、次第に疑念の色が濃くなっていく。
追い詰められた大公爵の額に、玉のような汗が浮かんでいた。
「大公爵様は先ほど、我が邸宅を捜索すべきだと仰いましたね。ええ、ぜひとも。そうしていただきましょう。あなたこそが、先代公爵様暗殺の真犯人だという証拠が、揃っておりますわ」
「ば……ばかな」
大公爵の声が、掠れる。
「あれは……あれは、拭き取らせたはずだ。たかが薬液ごときでいまさら……」
その一言に、会場中がどよめいた。
「今のはどういうことだ……?」
「拭き取らせた、というのは……」
自分が口にした言葉の意味に、大公爵自身が気づいたのは、その直後だった。顔から完全に血の気が引き、口をぱくぱくと動かすばかりで言葉にならない。
「大公爵アース・プロトロビクス。並びに、アルブレーヌ公爵家の者を拘束せよ」
静まり返った会場に国王陛下の重々しい声が響くと、衛兵たちが真っ直ぐに進み出る。
「そんな、私は何も知らない……!」
「どうして私たちまで! 大公爵が勝手にしたことでしょう!!」
父は呆然としたまま、夫人たちは人目も気にせず抵抗を続けながら、全員が衛兵に連れられ、広間の外へと引き摺られるように出ていった。
彼らの姿が見えなくなってから、ランベールが隣で小さく息を吐いた。彼は何とも言えない表情で私を見つめていた。
「……まさか、全部知っていたのか。最初から」
「ええ、まあ。ある程度は。言ったでしょう? 私はただあなたを愛したいだけ。あなたを害する者は、私が排除するだけですわ」
アニメのランベールですら言わなかった言葉が、すらりと出てきた。そんな私に、彼は小さく笑った。今まで見た中で一番自然な笑い方をしていて、私まで嬉しくなった。
「礼を言う。……何と言えばいいのか、分からないが」
「いえ。私がそうしたかっただけのことですから」
私が行動しなくても、私とランベールの無実は証明されただろうし、大公爵とアルブレーヌ公爵家は断罪されただろう。でも私は、その長くて辛い試練はショートカットさせてもらった。
心にも身体にも、傷なんて負わない方がいい。その時間は、大切な人と楽しく過ごすことに使った方がきっと良い。
人生は、思っているよりも短いのだから。
◇
「ランベール様! どこですの、私の愛しい旦那様!」
私はドレスの裾を持ち上げながら、廊下を堂々と進む。あの夜会から、一か月が経った。大公爵とアルブレーヌ公爵家の面々の陰謀が明らかになった。
一連の陰謀の動機は、私とランベールを断罪し、グロブリー公爵家の持つ領地を奪うことだった。それを大公爵、アルブレーヌ公爵夫人、兄で山分けする予定だったらしい。ここまではアニメで描写されていたこと。
その時から、私は疑問だった。どうして絡みのない大公爵とアルブレーヌ公爵夫人が手を組んだのか。
アンナに調査してもらったところによると、大公爵とアルブレーヌ公爵夫人は不倫関係にあったらしい。計画が成功すれば一緒になるつもりだったそうだ。
そこまで聞いて、私は思った。兄の実の父は、大公爵なのかもしれない、と。もしかしたら妹も。
(あー、DNA鑑定の仕組みも聞いておけば良かったなあ……昼ドラも観ておけば)
断罪についてはおおむねアニメ通りだけれど、大公爵アース・プロトロビクス大公爵には先代グロブリー公爵暗殺の罪も加わり、終身刑となった。
父のゴート・アルブレーヌは、直接の関係はないものの公爵夫人と令息の監督不行き届きの責任が追及され、当面の間、王宮の監視下に置かれることとなった。
公爵夫人アマン・アルブレーヌ、兄ラルフ・アルブレーヌ両名は、手口が悪質だったことで、十年の拘禁刑が下された。
妹のキャシー・アルブレーヌは、隣国の公爵令息との婚約が破談になった。代わりに、あの第三王子ルイがあてがわれるそうだ。
意外にも一連の陰謀に、ルイは何も関わっていなかった。これはアニメでも同じことだったけれど、どうやら『ルイは間抜けすぎて計画を外部に漏らしそうだったから』という理由だったらしい。
何だかんだ新しい婚約者もできたのだから、ルイは中々しぶとい。一度この邸宅に突撃してきたことがあったそうだが、私の知らない所でランベールが追い返したらしい。
溺愛力が彼に追い越されないよう、私は毎日必死だ。
「奥様。あまり大股でお歩きにならないでくださいませ」
「あらいけない」
アンナに言われて、慌てて小股になおす。この世界での生活はすっかり身体に馴染み、力のコントロールもできるようになった。今では、重いドレスを着たまま走り回ることだってできる。
「ランベール様!」
私は執務室の扉を勢いよく開けた。
以前なら眉間に皺を寄せていたはずのランベールは、顔を上げた瞬間にペンを置いた。
「……今日は随分と早いお出ましだな」
「ええ! 溺愛のコツは『隙を与えないこと』だと聞いたことがありますので!」
私は迷わず、彼の膝の上にどっさりと座り込んだ。普通の令嬢なら気絶するほどはしたない行動だが、溺愛の使命を帯びた私に躊躇いはない。
「見てください、このクッキー。自信作です!」
差し出したのは、お世辞にも綺麗とは言えない、少し歪な星型のクッキーだ。アンナの指導のもとで私が担当したのは、形を整えるという最後の工程だけ。私にとっては、粘土を捏ねるようなあの作業ですら大冒険だった。
ランベールは宝石でも扱うような手つきでそれを受け取ると、躊躇なく口に運んだ。
「……甘いな」
「まあ、それは良かったです! 貴方の人生から苦味をすべて消し去るのが、私の使命ですから」
私は彼の頬に両手を添えて、ぐいっと顔を近づけた。
「ランベール様。貴方の心にある傷跡は、私が一生かけて塞いで差し上げますからね」
ランベールの顔が見る見るうちに赤くなり、彼は片手で顔を覆った。
「ベアトリス……君というやつは」
顔を赤くしているが、今までのランベールとは少し雰囲気が違った。最近、段々とアニメのランベールに近づいているような気がする。
「そんなことを言われて、黙っていられるほど俺は聖人ではないぞ」
「あら、受けて立ちますわよ? どんと来いです!」
私が胸を張ると、ランベールが僅かに笑みを浮かべた。
そして彼は私の腰をそっと抱き寄せ、耳元で低く囁いた。
「君が俺を愛するように……俺も君を、壊してしまいそうなほど愛しているんだ」
(やばい)
頬が熱を持つのを感じながら、私は内心で焦った。ここで黙り込んでしまえば、今日の勝敗は完全にランベールのものになってしまう。やっぱり本家は強い。
私は動揺を悟られる前に、最愛の夫にキスを贈った。
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