婚約破棄された悪役令嬢は、冷徹スパダリ公爵様を溺愛する
「ベアトリス・アルブレーヌ! 貴様のような汚らわしい女、顔を見るのも反吐が出る! 今この瞬間をもって、婚約の破棄を宣言する!」
豪奢なシャンデリアの光の下、金髪を振り乱しながら叫んでいる男がいる。
パーティー会場の中央で、指を突きつけて。周囲の貴族たちは下品な笑いを漏らしながら、こちらを眺めていた。
(あ。これ、由紀が病室で見せてきたアニメだ)
水面から浮かび上がるように意識がはっきりしてきた瞬間、私はすべてを理解した。
◇
私は安曇莉奈。十八歳で、病室のベッドの上で死んだはずだ。
物心ついた頃から体が弱かった。学校に通えた時期もあったけれど、思春期を境に病状は悪化する一方で、最後の三年間はほぼ入院生活だった。
でも、私はそれほど不幸ではなかったと思う。友達はちゃんといたし、お父さんもお母さんもお兄ちゃんも、忙しい中で毎日のように見舞いに来てくれた。
私はアニメや漫画には疎かった。病院食みたいに、何でも薄味で楽しんでいた気がする。
唯一ちゃんと観た深夜アニメが、親友の由紀が持ち込んできた『悪役令嬢はイケメン公爵様の愛に溺れる』だった。
由紀はあの手この手で私を退屈させないようにしてくれていて、ある日タブレットを病室に持ち込んで「莉奈、これ絶対好きだから!」と半ば強引に再生ボタンを押したのだ。
物語の主人公は、ベアトリス・アルブレーヌという公爵令嬢。公爵の隠し子として生まれ、正妻の公爵夫人や腹違いのきょうだいたちに疎まれながら育った薄幸の令嬢だ。
婚約者の王子には繰り返し浮気され、暴力を振るわれ、挙げ句の果てに濡れ衣を着せられて大勢の前で婚約破棄を宣告される。そんな、散々な目に遭い続けるドアマットヒロインだった。
しかしそこから物語は動く。
婚約破棄されたベアトリスは、冷徹公爵と恐れられているランベール・グロブリー公爵の妻となる。政略的な白い結婚のはずが、ランベールはやがてベアトリスを深く愛するようになる。
笑わないと噂の公爵が、彼女だけのために甘く変貌していく。
「なんで泣いてるの、莉奈」
「……なんか、じわっときた」
「ね? 言ったでしょ」
由紀に得意顔をされながら、私は目を拭った。病院の窓から夜空が見えていた。
それが、私の記憶している最後の幸せな夜だったと思う。その後、私の容体は急速に悪化した。
◇
前世の記憶が正しければ、ここはフィブリス王国。地球ではない異世界だ。
そして私は今、物語の冒頭にいる。
目の前で唾を飛ばしながら婚約破棄を叫んでいる金髪の男は、第三王子のルイ・フィブリス。
度重なる不祥事で王位継承権を剥奪されているにもかかわらず、王子に婚約者がいないのは体裁が悪いという理由だけで、公爵令嬢の私に婚約を押しつけてきた男だ。
普通の貴族令嬢なら親が断って当然の縁談だが、ベアトリスの場合は曰く付きのため成立してしまった。
そのルイが今、でっち上げの醜聞を並べ立てている。不貞行為。横領。その他もろもろ。
(全部嘘だけど、どうせ誰も信じてくれない)
アニメのとおりだと、ここで言い訳をしても無駄で、言い訳をすればするほど状況が悪化するだけ。
「……分かりました、ルイ殿下」
私はドレスの裾を優雅に掴み、深々と頭を下げた。
「どうぞ、お幸せに」
顔を上げると、ルイが拍子抜けしたような顔をしていた。もっと取り乱すと思っていたのだろう。
(ふふ、残念でしたね)
私はゆっくりと踵を返し、広間を出た。扉が閉まると同時に、廊下を駆け出す。
(久しぶりに全力疾走した! ドレス超重いけど!)
ふわふわのスカートをまくり上げながら、人気のない廊下を突き進む。ベアトリスの体は細くて、すぐに息が上がった。前世では病院の廊下を歩くのも一苦労だったのに、こんなに走れるなんて。
それだけで少し嬉しかった。
石造りの回廊を抜け、テラスへ続く扉を押し開ける。夜風が頬を撫でた。
◇
馬車に揺られて実家に戻った私を待っていたのは、玄関ホールに勢揃いしたベアトリスの家族だった。父、公爵夫人、そして腹違いの兄と姉と妹。
全員の顔に「ほら来た」と書いてある。
「一族の恥さらしめ……! よくもノコノコとこの家の敷居を跨げたものね。みっともない」
公爵夫人が、扇を握りしめたまま一歩踏み出した。美しい顔が怒りで歪んでいる。
「お前のせいで、私は社交界で指を差されて笑いものよ!」
姉がヒステリックに続く。
「私の完璧なキャリアに傷がついた。お前のような妹を持ったことが、人生最大の汚点だ」
「あの第三王子に振られるなんて、女としておしまいよ。哀れ」
兄は眉間に皺を寄せ、心底うんざりした顔で言った。妹も、ここぞとばかりに私を罵っている。
(うわー。アニメ通りのセリフだ)
全員一致でセリフに忠実なのが、かえって清々しい。私はドレスの皺を軽く直しながら、全員の顔を順に眺めた。
本当の家族でないから当然だが、怒るとか悲しむとか、その気力が湧かない。ただただ、「本当にアニメ通りだな」という感想だけがある。
場が静まり返ったところで、隅でおずおずと立っていた父が口を開いた。
「……ベアトリス。お前には、新しい縁談がある」
「はい」
「グロブリー公爵、ランベールどのとの婚姻だ。先方は了承している。準備が整い次第、嫁いでもらう」
(でしょうね)
内心で頷きながら、私は父を見た。事なかれ主義で、この家のごたごたをずっと見て見ぬふりをしてきた人。愛人との間にできたベアトリスを引き取りながら、守ることもできなかった人。複雑な感情がないわけではないが、今は置いておく。
夫人と兄妹たちは、互いに顔を見合わせて笑っていた。
冷徹公爵。北方の氷の城。社交界の嫌われ者。笑わない男。そういうイメージが、彼らの頭にはあるのだろう。厄介払いできた、いい気味だ。そんな顔だ。
「承知しました」
私はドレスの裾を持ち、深く礼をした。
「謹んで、お受け致します」
顔を上げると、全員が拍子抜けしたような表情をしていた。
(ありがとうございます。おかげで超イケメンな旦那様に会いに行けます)
私は心の中でにっこり笑った。
◇
一週間後。
私は「氷の城」と呼ばれるグロブリー公爵邸の前に立っていた。
馬車の窓から眺めた時から分かっていたけれど、近くで見ると更に圧がある。灰色の石造りの屋敷は、北方の曇り空の下で黙々とそびえ立っていた。蔦が絡まり、噴水は静止している。生き物の気配が薄い。
執事に通された応接室は、余計な装飾のない、質実とした部屋だった。暖炉だけが静かに燃えている。
扉が開いたのは、それから少ししてのことだった。
「……ベアトリス嬢」
低い声が部屋に落ちた。
私が振り返ると、扉のそばに男が立っていた。
黒に近い深紺の髪。光を吸い込むような灰色の目。整った顔は感情を彫り落としたみたいに無表情で、纏う空気ごと冷えていた。
アニメで見た通りだ。いや、本物はその百倍も冷たくて、美しかった。
ランベール・グロブリー公爵が、私を見下ろした。
「君との婚姻は、形式上のものだ」
椅子に座ることも勧めず、彼は淡々と告げた。
「愛し合うことも、寝所を共にすることもない。ほとぼりが冷めたら離縁してやる。それまで、この屋敷の隅で静かにしていろ」
歓迎の言葉一つすらない。
アニメでは、ここでベアトリスが俯いてぼろぼろと涙をこぼすのだ。
でも私は、泣かなかった。
「閣下」
一歩、距離を詰めると、ランベールがかすかに眉を動かす。
私には、何もない。長い入院生活で家事はできないし、知識も特技も、ほとんど人並み以下だろう。
でも、私には最強のマニュアルがある。
このランベール・グロブリー自身が、アニメの中でベアトリスに施していた溺愛の、全台詞全シーンだ。
(幸せになるためには、アニメのランベールがベアトリスにしていた“溺愛”ってやつを、私もしよう)
私がランベールの大きな手をそっと包み込むと、彼の体が僅かに固まった。そのまま彼を見上げて、記憶の限りのとびきり甘い声を作った。
「貴方は、私に静かにしていろとおっしゃいました」
「……ああ」
「それは、不可能です」
「……何?」
私は、ゆっくりと微笑んだ。
「私の心は今……貴方のその気高さに、完全に射抜かれてしまいましたので」
一瞬の沈黙の後、ランベールの眉がぴくりと動いた。
これはアニメ第五話にて、ランベールがベアトリスを初めて抱き寄せた回の、視聴者の語り草になった名台詞だ。由紀が「この台詞でオタクは全員死んだ」と言っていた。
「今日から、貴方の孤独は私のものです」
「……は?」
「貴方が眠れない夜は、私が夜明けまで貴方の手を握り、その悪夢をすべて食べて差し上げます」
私はランベールの手をきゅっと握った。
「……約束ですよ、旦那様?」
「なっ……」
あの無表情の顔に、見る見るうちに朱が差していく。耳の先まで赤い。目が泳いでいる。完全に、動揺していた。
ランベールは私の手を振り払おうとした。が、転生してすっかり健康体になったこの体は存外頑丈で、私は全力でしがみついた。
「ちょっ、離せ……」
「どうされたのですか? 顔が赤いです」
「赤くない」
「赤いです。まさか、これほど情熱的に愛されるのが初めてだとでも?」
「き、貴様……正気か!? 俺にとって利用価値のない君は疎ましいだけだ。そのような言葉は……」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「貴方はただ、愛し方を知らないだけです。……だから、私が教えます」
ランベールが息を呑んだ。
「まずは、今夜から一緒に温かいスープを飲みましょう。私が注ぎますから」
(作るのは料理人さんにお任せするけど。)
入院生活の長かった私が持っているのは、ドナーを待ち続ける忍耐力と「人を愛したい」という気持ちだけだ。
前世で、私はたくさん愛してもらった。由紀も、友達も、家族も、皆が私のそばにいてくれた。なのに私は、愛を返せないまま死んでいった。
今度は違う。健康で、好きに動かせる健康な身体もある。
「……ランベール様」
私は彼を、まっすぐに見上げた。
「私、死ぬまで貴方を離しませんから。覚悟してくださいね?」
「……勝手にしろ」
どうやら、溺愛の逆輸入は効果てきめんのようだ。
絞り出すような彼の声は、ちっとも冷たくなかった。
◇
数日後。
私は意気揚々と、ランベールの執務室の扉を蹴り破らんばかりの勢いで開けた。
「ランベール様! 休憩の時間ですわ!」
デスクで書類の山に埋もれていたランベールが、こちらを見た。心底嫌そうな、それでいてほんの少し怯えたような目だった。
「……ベアトリスか」
彼は眉間に皺を寄せた。
「言ったはずだ、執務中は入るなと。……それに、その手にあるものは何だ」
「お茶のセットですわ!」
私はワゴンを押し込みながら、彼に詰め寄った。
「聞きましたよ。休憩を一切取らず、昼食も抜いているそうじゃないですか。過重労働は万病の元ですよ、閣下」
茶葉の選定も、お湯の温度管理も、全部侍女のアンナに丸投げした。でも最後の一工程、運ぶことだけは、絶対に譲らなかった。
「さあ、閣下。このお茶を飲んで、私との甘いひとときを過ごしましょう?」
ランベールの眉がわずかに動いた。
「……昨日も言ったが、俺は忙しい。それにその台詞、どこかで聞いたことがあるような」
「気のせいですわ」
本当はアニメ第八話、湖畔のピクニックシーンでランベールが放った台詞の引用だ。私は彼の手から強引に羽根ペンを奪い取り、デスクの端にティーカップを置いた。
そしてアニメ第五話にて、雑務に追われるベアトリスにランベールがしていた”溺愛”を、そのまま実行に移すことにした。
椅子の背後に回り込み、公爵の首筋に腕を回した。そして、耳元で囁く。
「……ランベール様。貴方の瞳の隈は、私の心に深く突き刺さる棘のようです」
「っ!?」
「貴方が自分を痛めつけるなら、私は貴方の代わりに、自分の指を噛み切ってしまいそう」
「な、何を……何を言っているんだ君は!!」
ランベールが跳ね上がるように椅子を回し、私の肩を掴んだ。顔が茹で上がったように赤い。冷徹公爵の威厳はどこへやら、今の彼はただの動揺した青年だ。
そう。ランベールは案外、普通の青年なのだ。冷たく見えるのは、生まれつきではない。傷と痛みが、時間をかけて作り上げたものだ。
「そんなに私を求めてくださるなんて……嬉しいですわ」
「求めてなどいない! 君の言動があまりにも、その……破廉恥というか、突拍子もないというか!」
「あら、嫌ですか?」
私は彼の手を自分の頬へと寄せ、うっとりと目を細めた。
「私は貴方のすべてを肯定したいのです。貴方の指先から、その冷徹な思考回路に至るまで、すべて私のものにしたい……。それとも、もっと強引にされたいのですか?」
「っ……!!」
これもアニメで彼がやっていたことだ。当時は由紀と「キザすぎ! やば!!」と笑っていたけれど、いざ自分でやってみると意外と楽しい。
自分が言える言葉なら、言われても嫌ではないだろう。そんな目算だったが、効果は想定以上だった。
ランベールは真っ赤になって口をぱくぱくさせていた。
やがてその瞳に、ふと、深い陰が差した。
「……君は、怖くないのか」
彼の声は低く静かになった。
「俺の過去を知れば、誰もが離れていく。俺は愛される資格などない男だ」
アニメ後半で明かされる、彼の壮絶な孤独。裏切られ、利用され、誰も信じられなくなった男の、本物の、拒絶の言葉だ。
私は彼を見た。
「資格なんて、誰が決めるんですか」
ランベールが、静かにこちらを見た。
「少なくとも、私は貴方に救われたいわけじゃない。ただ愛したいだけです」
私はゆっくりと、言葉を探した。
「……私ね、ずっと一人で戦ってきた時期があったんです。だから分かるんです。貴方のその氷は、誰かを傷つけるためじゃなくて、自分が傷つかないための盾だってこと」
私は、彼の強張った体を力いっぱい抱きしめた。
溺愛が必要なのは、悪役令嬢の私ではなく、冷徹公爵の方だ。最初から、ずっとそうだったのだ。
「大丈夫。私が貴方を甘やかして、骨抜きにして、氷なんて全部溶かしてあげますから」
ランベールはしばらく呆然としていた。
やがて彼は大きく息をつくと、震える手がそっと私の背中に添えられた。
「……仕方がないな」
掠れた声だった。
「……茶を淹れてくれ。毒消しが必要だ」
「毒だなんて! 愛の特効薬ですよ! あ、でもお砂糖は三個入れますね、脳の栄養ですから」
「……多すぎる。一個でいい」
口元が、ほんの少しだけ、綻んだ。
逆溺愛作戦、第一段階クリア。
私は心の中でガッツポーズを決めながら、由紀に感謝した。
(見てる、由紀? 私、こっちで"溺愛"ってやつ、やってるよ!)
◇
結婚後、初めての夜会。
王宮のきらびやかなシャンデリアの下、ランベールと並んで立っていると、会場のあちこちから視線が刺さるのが分かった。冷徹公爵の隣に、婚約破棄されたばかりの令嬢。それだけで格好の噂の種だ。
少し離れた場所に、アルブレーヌ公爵家の面々が見えた。ベアトリスの父、公爵夫人、姉、兄、妹。全員が、こちらを見て目を丸くしている。私が想定外に幸せそうにしているのが、よほど意外らしかった。
(ふふ。残念でしたね)
そんなことを思っていた矢先、会場の空気が変わった。
「ランベール・グロブリー!」
会場の中央から、野太い声が響いた。
人垣が割れ、がっしりとした体格の老人が進み出てくる。ランベールの叔父であり大公爵だ。
アニメで何度も見た顔だった。彼はランベールの持つ広大な農園を狙い、彼の失脚の機会を虎視眈々と伺っている男だ。
「貴様が先代公爵の毒殺を指示した証拠が見つかったぞ」
広間がざわめいた。
「この薄汚い裏切り者め! 父の愛を踏みにじり、その地位を奪った罪を償え!」
(やっぱり、この展開か)
私はランベールをちらりと見た。
彼の顔から、血の気が引いていた。いつも泰然としているその指先が、微かに震えている。
ランベールの父、先代グロブリー公爵は、ランベールが十歳の時に暗殺された。実行犯として処罰されたのは、ランベールが最も信頼していた執事だった。当時、彼は周囲の全員から疑われた。実の母ですら遠ざかり、使用人は次々と去っていった。
「……違う」
ランベールの声が掠れていた。
「俺は、父上を……」
反論しようとする声に、絶望が滲んでいる。
アニメ第十話。『氷の仮面が剥がれる時』。ここで彼はすべてを諦め、一人で捕まってしまう。
(——させない……!)
私は震える彼の大きな手を、両手で力いっぱい握りしめ、大公に向かって叫んだ。
「黙りなさい、この古狸!!」
広間が、しんと静まり返った。
ランベールも、大公も、周囲の貴族たちも、一斉に私を見ていた。
「ベアトリス……?」
ランベールが、掠れた声で言った。
「下がれ。これは君に関係のない」
「関係ありますわ!」
私は背中で庇うように彼の前に立った。
「私のランベール様が、そんなことをするはずがありません!」
私は、アニメ第十二話でランベールが見せた冷徹な論破の表情を、完璧にコピーした。口元に冷たい笑みを浮かべ、大公を指差す。
「私は公爵夫人です。……貴方が提示したその『証拠』、日付が矛盾していますわ」
「なっ……」
「その日、ランベール様は熱を出して寝込んでいらした。当時の屋敷の日誌に、はっきりと記されています」
アニメではこの男に苦戦を強いられていたが、私は解決法も含め全てを既に知っているので、恐れず突き進むのみだ。
「な、なんだと……! 貴様のような小娘が何を」
「小娘ではありません、公爵夫人です。……ね? ランベール様」
私は、凍りついたように動けないランベールを一度だけ振り返り、微笑んだ。
それから懐に手を入れ、あらかじめアンナに調べさせておいた書類を取り出し、大公の足元に叩きつけた。
家事はできないし、ヒロインらしいことは何もできない。でも、アニメの知識をヒントに先手を打つことくらいは、私にだってできる。
「これが真実です。大公が仕組んだ偽装工作の、証拠一式です……さあ、衛兵。捕らえるべきはどちらか、もうお分かりですね?」
形勢は逆転した。
大公は顔を真っ青にして、衛兵に両腕を掴まれ会場の外に引きずられていった。
私が駆けつけた監査官に証拠物品を渡すと、ようやく会場の緊張が解かれていった。
安堵した瞬間、私は膝から力が抜けそうになった。だがそれよりも早く、背後から力強い腕が私を引き寄せた。
「ランベール、様?」
ランベールの顔が私の肩に埋められた。広間の真ん中で、衆人環視の中で、あの冷徹公爵が。
伝わってくる体温が、驚くほど熱かった。
「……ベアトリス」
掠れた声だった。
「……怖かった。また、誰も信じてくれないのではないかと……。君まで、俺を汚らわしいと思うのではないかと……」
「思うわけないでしょう」
私は彼の髪をゆっくりと撫でた。
「私は、貴方の味方だって……最初から、ずっとそう言っていますわ」
これは、アニメにはなかった展開だ。
守られる側だったヒロインが、ヒーローを守った。絶望を溺愛で叩き潰した。
ランベールが長い息をつくと、私の肩に押しつけた顔を少しだけ持ち上げる。その瞳は赤くなっていた。
「……君は」
「なんですか?」
「……本当に、変な女だ」
私は思わず笑ってしまった。これが由紀の言っていた「おもしれえ女」という確定演出だろうか。
「ランベール様。さ、家に帰って、甘いココアを飲みましょう。私が注ぎますからね」
◇
数日後、公爵邸の静寂を破るように、招かれざる客がやってきた。
元婚約者で第三王子のルイだ。彼は護衛を引き連れ、勝ち誇ったような薄汚い笑みを浮かべながら、応接間にどっかりと居座っていた。
「やあ、ベアトリス」
ルイは足を組み、湿度の高い目で私を眺めた。
「公爵に冷遇されて泣きっ面を晒している頃だと思って、見に来てやったぞ。どうだ、この陰気な屋敷での生活は? 惨めか?」
彼は先日の夜会での出来事を知らないらしい。
アニメではここで、ランベールが震えるベアトリスを颯爽と助けに来る名シーンだったはずだ。
でも今の私の頭にあるのは、アニメ第十二話でランベールが不逞な輩を黙らせた時の、最強のスパダリムーブだ。
「……ルイ殿下。お久しぶりですわね」
私はゆっくりと一歩、前に出た。
逃げるどころか、獲物を追い詰めるような足取りに、ルイがたじろいだ。
「な、なんだ、その目は……!」
「殿下」
私は扇をパチンと閉じた。
「貴方は相変わらず、ご自分の足元に咲く美しい花に気づけない、愚かなお方なのですね」
アニメのランベールのように、スッと目を細めて見下ろす。実際には背が足りないので、気持ちだけで見下ろした。
「……ベアトリス? 何を言って……」
「貴方が私を捨ててくださったおかげで、私は真実の愛……ランベール様という至宝を手に入れましたの。心から感謝していますわ」
私は一歩、また一歩と詰め寄った。
「でも、これ以上私の愛しい人の屋敷を汚すなら」
ルイの胸ぐらを掴む勢いで顔を近づけ、低く囁く。
「貴方のその醜い口が、二度と誰かを傷つけられないようにして差し上げてもよろしいのですよ? ……私のランベール様を侮辱することは、何があっても許しません」
「ひっ……!」
ルイが情けない声を上げ、椅子ごと後退った。
病室で静かに過ごしていた頃の私には出せなかった声だ。愛する人を守るための威圧感というのは、こんなにも自然に湧いてくるものらしい。アニメのランベール直伝のドSモード、効果は絶大だった。
「な、なんだこの女……! 以前の、あの大人しいベアトリスじゃない……! バ、バケモノかぁ!!」
ルイは護衛を引き連れ、逃げるように応接間を出ていった。
その背中に、私は追い打ちをかけた。
「さようなら、殿下! 次回いらっしゃる時は、もっとマシな台詞を練習してきてくださいね!」
応接間に、静寂が戻った。
「……ベアトリス」
振り返ると、扉の影にランベールが立っていた。彼は呆然と私を見つめている。
「あ、ランベール様! 見ておりましたか? 私、貴方を守りましたわ!」
「……守る?」
ランベールは複雑な表情で、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「君が、私を?」
「ええ! 私は貴方を守れる人間になりたいと、以前から思っておりましたので!」
ランベールは私の肩を掴み、今までにない真剣な眼差しで私を射抜いた。
「……あんな無茶をするな。君に何かあったら、私は……」
「ランベール様?」
彼は一度、言葉を飲み込んだ。そして、少しだけ躊躇うように、続けた。
「……君が言った、『愛しい人』という言葉。あれは……その、本心なのか?」
声がほんの少し震えていた。鉄壁の無表情の奥から本物の感情が滲み出ていることが分かって、私の胸がきゅ、と締まった。
「ええ」
私はまっすぐに彼を見た。
「あれは、私の本心です。……ランベール様。私、貴方のことが大好きなんです」
ランベールは、長い間黙っていた。それから私を引き寄せ、額を私の額にそっと押しつけた。
「……そうか」
◇
第三王子を粉砕してから、数ヶ月が経った。
グロブリー公爵邸には、以前のような冷たい空気は微塵もない。使用人たちの顔には笑顔が増え、廊下に花が飾られるようになった。侍女のアンナが「奥様のおかげです」と言うたびに、私は照れた。
「ランベール様! どこですの、私の愛しい旦那様!」
私は廊下を堂々と進み、執務室の扉を勢いよく開けた。
以前なら眉間に皺を寄せていたはずのランベールが、顔を上げた瞬間、「待っていた」と言わんばかりにペンを置いた。
「ここにいる、ベアトリス。……今日は随分と早いお出ましだな」
「ええ! 最高の溺愛は『隙を与えないこと』だと聞いたことがありますので!」
私は迷わず、彼の膝の上にどっさりと座り込んだ。普通の令嬢なら気絶するほどはしたない行動だが、逆溺愛の使命を帯びた私に躊躇いはない。
「見てください、このクッキー! 私が頑張った自信作ですわ!」
差し出したのは、お世辞にも綺麗とは言えない、少し歪な星型のクッキーだ。アンナの指導のもとで私が担当したのは、形を整えるという最後の工程だけ。入院生活が長かった私にとって、粘土を捏ねるようなあの作業ですら、大冒険だった。
ランベールは、宝石でも扱うような手つきでそれを受け取ると、躊躇なく口に運んだ。
「……甘いな」
「……まあ! それは良かったです! 貴方の人生から苦味をすべて消し去るのが、私の目標ですから」
私は彼の頬に両手を添えて、ぐいっと顔を近づけた。
「ランベール様。貴方の心にある傷跡は、私が一生かけて塞いで差し上げます。貴方が自分を嫌いになっても、私は世界で一番貴方を愛し続けますわ」
「…………っ」
ランベールの顔が見る見るうちに赤くなり、彼は片手で顔を覆った。
「ベアトリス……君というやつは」
くぐもった声で言った。
「そんなことを言われて、黙っていられるほど俺は聖人ではないぞ」
「あら、受けて立ちますわよ? どんと来いです!」
私が胸を張ると、ランベールが僅かに笑みを浮かべた。
声には出なかったけれど、確かに笑った。これ以上ないほど優しく、柔らかく笑った。出会った頃の彫刻のような顔が、今はこんなにも温かい。
そして彼は私の腰をそっと抱き寄せ、耳元で低く囁いた。
「……ベアトリス。ただ、俺のそばで笑っていてくれ」
「ランベール様……!」
「君が俺を愛するように……俺も君を、壊してしまいそうなほど愛しているんだ」
それはアニメのどの台詞よりも甘く、そしてどんな言葉よりも深く、莉奈としての私の心に染み渡った。
私は目を細めた。
(ねえ、由紀。溺愛されるのもいいけど、溺愛するのって、こんなに幸せなことだったんだね)
窓から差し込む柔らかな光の中で、私は最愛の夫にキスを贈った。
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