第一話 マウントの食卓
空はどんよりとした鉛色をしていて、今にも雨が降り出しそうだった。二月の寒空の下、私はコートの襟をかき合わせながら、夫の健太の半歩後ろを歩いていた。住宅街の角を曲がると、見慣れた二階建ての一軒家が見えてくる。健太の実家だ。
月に一度の義実家への訪問。それは私、相原真希にとって、忍耐と演技力が試される定期試験のようなものだった。
「ごめんな、真希。仕事帰りなのに付き合わせちゃって」
玄関の前で足を止め、健太が申し訳なさそうに眉を下げる。彼は優しい夫だ。私が昼間、駅前の書店でパートとして働いていることを気遣ってくれている。書店の仕事は立ちっぱなしで、重い書籍の入った段ボールを運ぶことも多く、肉体的な疲労はそれなりにある。けれど、私が今感じている重圧は、身体的な疲れとは別のところにあった。
「ううん、大丈夫よ。お義母さんも楽しみにしてくれてるみたいだし」
私は努めて明るい声で返し、口角を上げた。嘘ではない。義母は私たち……というより、息子の健太が来ることを楽しみにしている。そして、もう一人、この家には厄介な住人がいる。
「姉ちゃんもいるのかな」
「さっきお義母さんからLINEがあったわ。『玲子もいるから、早く来て手伝って』って」
「……そっか。まあ、適当に流せばいいからさ」
健太がインターホンを押すと、間髪入れずに「はーい」という義母の声が響き、ドアが開いた。
「あら、いらっしゃい。寒かったでしょう」
出迎えてくれた義母の良子さんは、満面の笑みを健太に向けた。その視線が私に移ると、ふっと温度が数度下がるのを肌で感じる。
「こんにちは、お義母さん。お邪魔します」
「ええ、上がって。ちょうど今、すき焼きの準備をしてたのよ。真希さん、悪いけどすぐにエプロンつけて台所に来てくれる? 野菜切るのが追いつかなくて」
「はい、分かりました。すぐに着替えます」
コートをハンガーにかける間もなく、私は持参したエプロンを取り出す。健太が「母さん、俺も手伝うよ」と声を上げたが、義母は手を振ってそれを制した。
「男の人は座ってテレビでも見てなさい。久しぶりに帰ってきたんだから、ゆっくりしててよ。台所は女の仕事なんだから」
時代錯誤も甚だしい発言だが、ここで反論しても空気が悪くなるだけだ。私は健太に「いいから、休んでて」と目配せをし、義母の後を追ってキッチンへと向かった。
キッチンには、すき焼き特有の甘辛い香りが漂っていたが、それ以上に鼻につく香水の匂いが充満していた。ダイニングテーブルに座り、スマートフォンをいじりながら優雅にワイングラスを傾けている女性。義姉の玲子さんだ。
「あら、いらっしゃい真希さん。遅かったわね」
彼女は視線をスマホから上げることなく、気怠げに声をかけてきた。あでやかな巻き髪に、仕立ての良さそうなカシミアのニット。テーブルの上には、これ見よがしにブランドロゴの入ったバッグが置かれている。
「ご無沙汰しております、玲子さん。お元気でしたか?」
「ええ、おかげさまで。まあ、仕事が忙しくて目が回りそうだけどね。正社員って本当に責任が重くて大変なのよ。気楽なパート勤めの人には分からないでしょうけど」
挨拶代わりの先制パンチ。私は「そうですね、大変ですね」と当たり障りのない相槌を打ちながら、流し台の前に立った。白菜、長ネギ、しいたけ、焼き豆腐。調理台には手つかずの食材が山積みになっている。義母は「野菜切るのが追いつかなくて」と言っていたが、実際には何も準備していなかったようだ。
「玲子、飲み過ぎないようにね。これからすき焼きなんだから」
「分かってるわよ、お母さん。これくらい水みたいなものよ。あーあ、昨日の接待で飲んだヴィンテージワイン、美味しかったなぁ。一本数万円するらしいわよ」
「まあ、すごいわねえ。さすが大手企業の社員さんは違うわ」
義母は嬉しそうに玲子さんのグラスにワインを注ぎ足す。その横で、私は黙々と白菜をざく切りにしていく。包丁がまな板を叩く音だけが、私の心を落ち着かせるリズムを刻んでいた。
私は書店でパートをしている。それは事実だ。週に四日、朝の十時から夕方の四時まで。時給は最低賃金に毛が生えた程度。義姉や義母から見れば、私は「夫の扶養内で小遣い稼ぎをしている、のんきな主婦」にしか見えないだろう。
しかし、彼女たちは知らない。私が旧姓時代から「マキ・A」というペンネームで活動しているフリーランスのライターであることを。広告コピーから企業の広報記事、果てはゴーストライターとしての書籍執筆まで手掛ける私の年収は、この場にいる誰よりも高いということを。
書店のパートは、在宅ワークで煮詰まりがちな生活にメリハリをつけ、社会との接点を持ち続けるための「気晴らし」であり「取材」の一環だ。世の中のトレンドや、どんな本が誰に手に取られているかを肌で感じるための大切な時間なのだ。
だが、そんなことをこの場で明かすつもりはない。言ったところで角が立つだけだし、何より私の平穏な生活が脅かされる予感がする。だから私は、今日も「無知で無力なパート主婦」の仮面を被り続ける。
「真希さん、ネギはもっと斜めに切ってちょうだい。味が染み込まないじゃない」
「はい、すみません」
「あと、しらたきの下茹でも忘れないでね。ったく、手際が悪いわねえ」
義母の小言をBGMに、私は手早く食材を処理していく。頭の中では、今夜中に仕上げなければならないIT企業の導入事例記事の構成を組み立てていた。クライアントの要望は「革新的かつ親しみやすさ」。難解な専門用語をどう噛み砕くか。白菜を切りながら最適なフレーズを検索する。
「お待たせしました、準備できました」
私が大皿に盛った野菜と肉をテーブルに運ぶと、ようやく健太もリビングに入ってきた。
「おお、美味そう! さすが母さん……じゃなくて、真希が作ったのか?」
「下ごしらえは真希さんにやってもらったけど、味付けの割り下は私が作った特製よ」
義母が胸を張る。市販のすき焼きのたれをベースに少し砂糖を足しただけのものを「特製」と呼ぶ神経は図太いが、私は微笑んで頷くだけに留めた。
「いただきます」
四人で食卓を囲む。すき焼きの鍋から湯気が立ち上り、肉が焼ける音が食欲をそそる。だが、この食卓において食事の味を楽しむ余裕など私には与えられていなかった。ここからが、玲子さんの独壇場「マウント・ショー」の開演だからだ。
「そういえば健太、あんた昇進したんだって? お母さんから聞いたわよ」
卵を溶きながら、玲子さんが健太に話を振る。
「ああ、まあね。係長になっただけだよ。給料だってそんなに変わらないし」
「ふーん。まあ、中小企業ならそんなもんよね。うちなんて、冬のボーナスだけで新車が買えるくらい出たわよ。やっぱり業界トップのメーカーは還元率が違うわ」
玲子さんは牛肉を口に運びながら、鼻で笑った。彼女は有名家電メーカーの事務職として働いている。確かに安定した大企業だが、彼女の役職は一般職のままだと聞いている。それでも、会社の看板=自分の実力と信じて疑わない彼女にとって、中小企業の営業職である健太は見下すべき対象なのだ。
「すごいね、姉ちゃん。やっぱり大企業は違うな」
「でしょ? まあ、それだけの責任を負ってるってことよ。毎日残業続きで、肌荒れしちゃって大変なんだから。エステ代だけでボーナスの一部が消えちゃうわ」
自慢と愚痴を巧みにミックスさせたトーク。私は黙って豆腐をつついた。
「真希さんはいいわよねぇ」
突然、矛先が私に向いた。予測はしていたが、やはり来たかという心境だ。
「え?」
「だって、パートでしょう? 責任なんてないようなものだし、定時になったら『お疲れ様でした〜』って帰れるんでしょう? 悩みなんて、せいぜい今夜の夕飯のおかずくらい?」
玲子さんの言葉に、義母が追随する。
「そうよねえ。玲子は毎日遅くまで働いて、日本の経済を回してるようなものだもの。それに比べて、真希さんのその……本屋さん? 本を並べるだけでお給料がもらえるなんて、楽な商売よねえ」
義母の悪気のない(あるいは悪意に満ちた)言葉が胸に刺さる。本を並べるという行為にどれだけの肉体労働と、棚作りという知的な工夫が必要か、彼女たちは想像もしないだろう。
「仕事に楽なものなんてないよ、母さん。真希だって毎日頑張ってるんだから」
健太が少しムッとした様子で反論してくれた。しかし、玲子さんはそれを一笑に付す。
「はいはい、優しい旦那様ね。でもね、健太。現実問題として、稼ぎの額が社会的な価値なのよ。真希さんのパート代なんて、私の月収の……うーん、五分の一? いや、十分の一くらいかしら?」
玲子さんはわざとらしく首を傾げ、私を品定めするように見つめた。
「ねえ、真希さん。時給いくら? 千円ちょっと?」
「……ええ、まあ。そのくらいです」
「ふふっ、千円だって。私がトイレに行っている間にも、それ以上のお金が発生してる計算になるわね。虚しくならない? 同い年くらいの女性がバリバリ働いてキャリアを築いてるのに、自分は誰でもできる単純作業で小銭を稼ぐ毎日なんて」
玲子さんの言葉は鋭利な刃物のように、的確にプライドを傷つけようとしてくる。以前の私なら、悔しさで涙目になっていたかもしれない。あるいは、怒りに任せて言い返していたかもしれない。
でも、今の私は違う。
彼女が「トイレに行っている間に稼ぐ額」よりも、私がたった一行のキャッチコピーをひねり出す単価の方が高いという事実が、私を冷静にさせていた。彼女が誇るボーナス額も、私の去年の確定申告の納税額を見れば霞んでしまうだろう。
「玲子さんのおっしゃる通り、私は気楽な身分ですから。玲子さんのような立派なお仕事、私には務まりません」
私は穏やかに微笑み、彼女のグラスにビールを注いだ。これが一番、彼女をいい気分にさせ、かつ早くこの話を終わらせる方法だ。
「分かってるじゃない。まあ、人には向き不向きがあるからね。あなたはそうやって、家庭の隅っこで慎ましく生きているのがお似合いよ」
玲子さんは満足そうにビールを飲み干した。勝利の美酒、とでも思っているのだろう。
「そうそう、真希さん。食べ終わったら、玲子の持ってきた服、クリーニングに出す選別をしておいてくれる? 忙しい玲子の代わりに、暇なあなたがやってあげて」
義母がまたしても無茶な要求をしてくる。
「母さん、それはさすがに……」
「いいのよ、健太。私、やるわ」
私は健太の言葉を遮り、承諾した。
「ありがとう、真希さん。助かるわぁ。やっぱり持つべきものは、暇な義妹ね」
高笑いする玲子さんと、それに同調して笑う義母。その光景を見ながら、私は心の中で静かにシャッターを切った。この屈辱、この理不尽な空気、そして彼女たちの歪んだ優越感。これらすべては、いつか私が書く小説やコラムの、極上のネタになる。
感情を殺し、ただの「従順なパート主婦」を演じきること。それが、今の私にできる最大の防御であり、同時に彼女たちへの皮肉でもあった。
食事を終え、山のような食器を一人で洗い、玲子さんの服の仕分けを終えた頃には、時計の針は九時を回っていた。
「じゃあ、そろそろ帰ります」
「あら、もう? まあ、明日は真希さんも早いんでしょう? パートとはいえ、遅刻は厳禁だものね」
最後まで皮肉を忘れない玲子さんに見送られ、私たちは義実家を後にした。
帰りの夜道、空気は来た時よりも冷たく澄んでいるように感じられた。健太はずっと黙り込んでいたが、駅までの道半ばで、ぽつりと呟いた。
「ごめんな、真希。あんなこと言わせて」
「ううん、気にしてないよ。いつものことだし」
「姉ちゃんも母さんも、ちょっと言いすぎだよな……。俺、もっとちゃんと言い返せばよかった」
健太が悔しそうに拳を握りしめているのを見て、私の胸の奥にあった冷たい塊が少し溶けた気がした。彼は分かってくれている。それだけで十分だ。
「いいのよ、健太。私は本当に大丈夫だから」
家に帰り着くと、私はすぐにシャワーを浴びて、部屋着に着替えた。健太は疲れて先にベッドに入ったが、私の「一日」はまだ終わらない。
リビングの照明を少し落とし、愛用のノートパソコンを開く。画面の光が、私の顔を照らし出す。指先がキーボードに触れた瞬間、私は「パート主婦の相原真希」から「ライターのマキ・A」へと変貌する。
今日の義姉の言葉を思い出す。「稼ぎの額が社会的な価値」。
フフッ、と自然と笑みがこぼれた。
画面上のドキュメントには、来週締め切りの大型案件の企画書が表示されている。報酬額は、玲子さんが自慢していたボーナスを優に超える金額だ。
「さて、仕事しますか」
私は誰に聞かせるでもなく呟き、キーボードを叩き始めた。軽快なタイプ音が、静かなリビングにリズムよく響き渡る。
今の私には、彼女たちのマウントなど、文字を綴るための燃料に過ぎない。けれど、彼女たちはまだ知らない。自分たちが踏みつけている「格下の主婦」が、実は自分たちを遥かに凌駕する翼を隠し持っていることを。
そして、その翼が広げられる日は、そう遠くない未来にやってくる。来月は確定申告の時期だ。我が家の、そして私の経済状況を証明する書類が、否応なしに白日の下に晒されることになるのだから。
私はモニターを見つめながら、静かに、しかし確かに、その時が来るのを予感していた。パソコンの画面の中で、カーソルだけが私の鼓動のように点滅を続けていた。




