一笑傾天
その昔、中原に天下随一の笑みを持つ女がいた。
女は貴族の出ではなく、庶民から成り上がった士大夫の娘であったが、その美貌と気立ての良さで一躍名を轟かせた。
国中の誰もが女の容貌に思いを馳せ、あわよくば彼女を妻妾にすることを夢見た。
女は良く受け答えをし、加えて賢明だったため、吝嗇家の大商人にも一目を置かれた。
洗練された立ち居振る舞いは、堅物の貴族の子息をも魅了した。
老巧な画伯は女の美貌に自慢のひげが抜け落ちるほど興奮して、石楠花の露に濡れる美人の姿を描き上げた。
著名な詩人は国を傾けるほどの美と称した。
さらにその噂が皇帝の耳に入ると、宮廷に女を召し上げ、これを妃嬪にしようとした。
殿上の玉座の前に現れた女は、噂に違わぬ美しさだったという。
しかし、ひとつだけ話とは違うところがあった。女は決して人に笑いかけることはなかった。
大商人にも、貴族の子息にも、画伯や詩人にも、国主である皇帝にさえも。
だが、そんな些細なことで女の価値が揺らぐはずもない。
むしろ誰がどのようにしてこの女を笑わせることができるだろうか、と女への注目は炎の如く燃え盛った。
その勢いは、嫉妬に狂った実の妹が女の顔を焼かんとするほどだった。
あるとき、女は気まぐれにこんなことを言った。
わたくしの望むものをくださった殿方を終生の伴侶にいたしましょう、と。
その言葉に国中が色めき立ち、女の歓心を買うため、自慢の宝を持つ者は我先にと彼女の元へ赴いた。
ある者は、まばゆいばかりの黄金珠玉を。
ある者は、国を容易く動かすほどの権力と地位を。
またある者は、広大な土地や千里を駆ける馬、異国の珍しい嗜好品、あるいは女の好む白粉や果実などを持っていったが、女はそれらには見向きもしなかった。
それからしばらくと経たないうちに、国が崩壊の危機に直面する。
その日は奇しくも、宮廷で女の生誕を祝う宴が催されていた。
国中がお祭り騒ぎのなか、狙いをすましたように天から大勢の神兵が押し寄せてきたのだ。
神々の兵士は華麗な剣さばきで瞬く間に宮殿を包囲し、都を陥落させた。
雲海の狭間から降り落ちた雷霆は皇帝の脳天に落ち、宮殿を激しく揺るがした。
民は皆、天の怒りに身を竦ませ、神仙の威光に跪いたという。
誰もがこれは罰なのだろうと悟った。
たったひとりの、取るに足らない人間の女に惑わされる皇帝、民、そして国への真っ当な天誅なのだと。
変わり果てた都を見下ろし、城壁の上に立ち尽くす女の前に、天から光り輝く蛇体が伸びてきた。
七色に閃く鱗と目を瞠るほど大きな夜明珠を携えるそれは、龍神だった。
「主は傾国の美女だというのに、微笑みすら見せず、常に憂い顔をしておる。だが、どうだ、一国の国主となった気分は」
いつしか女の噂は天の龍神の元にも届いていたらしい。
龍神は何者にも縛られぬ自由と、中原の覇権を女に与えた。女は、変わらず虚ろな目をしている。
さながら戦場に咲く雛罌粟の花の如く、亡国無二の美を見た龍神は満足げに頷いた。
「しかし、主はやはり笑わぬのだな。我を見ても驚きもせぬ」
黄金の双眸を細め、「他に所望するものでもあるのか?」と龍神が続ける。
一国を滅亡させたからには、やはり、天下随一の笑みというものを見ておきたかった。
「恐れながら、お願いしたき儀がございます。これまでに出会った殿方は皆、無理だと仰るのですが……」
「構わん、申してみよ」
途端、女はその場に崩折れ、袖を濡らして声を絞り出した。
「どうか、どうかこの顔を潰してください。この顔のせいで、わたくしは大変不幸な目に遭いました。毎日男に言い寄られ、望んでもいない後宮入りを強いられて……わたくしはただ、片田舎で父母兄妹と静かに暮らしたかっただけですのに。これまでに私の願いを聞き入れてくれたのは、妹だけでした。ですが、その妹も今は……もし、あなたさまがわたくしの顔を潰してくだされば、わたくしはきっと、終生堂々と笑って、あなたさまのお側でお仕えすることができるでしょう」
女の話を聞き終えると、龍神はたちまち長いひげを震わせ、大口を開けて憤った。
「ならぬ! それだけは許さぬ。都での暮らしが気に入らぬなら、離宮を建てればよいだろう。諸国に攻め入り、領地を広げ、気に入る土地を探せばよい。地上で見つからないのなら、天上を探せばよい。なに、天を傾けることなど、神仙ともあろう我にとっては容易いことだ。それに、我の伴侶となったのならば、もう言い寄られはせぬ。そのような罰当たりは、すぐさま雷で焼き切ってやろう。ゆえに、過ぎ去りし日々に執着せず、その地で国を興し、安心して新たな生活を始めるがいい」