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気が付けば、ハーラルトは濃い靄のなかにいた。どこかの森だ。いや、良く見渡してみれば生い茂る木々は手入れがされ、左右に並ぶ石で区切られた小道が伸びている。どこかの庭だろう。
と、白色がかったうす水色の蛇身がすうと、目の前を横切り、小道の向こうへ流れゆくように中空を漂い、消えて行った。囚われていたイルムヒルトの元まで導いてくれたあの蛇身だ。ハーラルトはそちらの方へ向かった。
四隅が大きく弓なりに跳ね上がった瓦屋根の東屋がある。そこに人影があった。一瞬、警戒するが、悪いものではないという考えが舞い降りる。
よくよく見れば、ふたつある人影の片方はイルムヒルトだった。ハーラルトは足早に近寄る。
立ちあがって迎えたイルムヒルトが言う。
「ハーラルトさま。わたくしたちはウルリーケ神と蛇神さまに夢の中でお招きに預かったのですわ」
ということは、ここは夢の中でありながら、イルムヒルトと神々と共有しているということか。
ウルリーケ神は濃い霧に隠れ、その姿はしかと分からないが、艶やかな黄金色の肌、金の波打つ長い髪をしていた。
「座りゃ。こたびは、我が娘をよう救ってくれた」
さあ、と風が吹き、靄を払う。東屋はうつくしい桃園に囲まれていた。中央に鎮座するテーブルには酒食が並んでいる。そして、いつの間にいたのか、蛇神が飲み食いしていた。
「我はそなたとは通じることはできぬのでな。縁がある我が友神に娘の危難を知らせてもろうたのじゃ」
ウルリーケ神の言葉に、蛇神が鎌首をもたげる。蛇神はきょろりと丸い目をしていた。神々しさに、その目や仕草が愛らしさを加えている。
「ほら、僕を祀る神殿で君、いろいろ話を聞いていっしょに酒宴に参加したでしょう?」
「はい」
あの一晩中続いた宴に、やはり蛇神は坐したのだ。供物がぺろりとなくなっていたので、聖務者たちがはしゃいで大変だった。
「イルムヒルトさまの居場所を教えて下さり、ありがとうございます」
「うん。あのときに美味しいお肉をくれたお礼だよ」
神々は様々に語った。
ハーラルトもイルムヒルトも稀な出来事に夢中になって耳を傾ける。
「とても不思議な心地がいたします」
イルムヒルトがため息交じりで言う。
「蛇神さまの雨を喚ぶさまは神話として語り継がれていますよ」
蛇神がらせん状になって空に舞い上がり、雨を喚んだ出来事だ。
「市井の子供らも紐を腕にぐるぐると巻き付けて、蛇神さまのご加護があると得意げでありました」
蛇神を祀る大神殿の近くの集落で出会った子供たちの姿を思い出し、ハーラルトが言う。
「あれはね、地上付近の暖かい空気を上に運んで冷やして雲を作ったんだ。そうやって雨を降らせたんだよ」
神子姫が魔力で行っていることを蛇神は御身でなさしめたのだという。
らせん状の長大な蛇身の内と外に地表の温められた空気をまとって上空へ上昇する。空気は気圧を下げ膨張し、上空の低温の空気に冷やされ温度を下げ、雲となって雨を降らせる。局地的な雨は集中豪雨となり、地上に池を作った。
ウルリーケ神もまた、神話となっている雨乞いの儀式の端緒となった恩寵を与えた聖務者のことを話す。
「あの者は失われた我が娘に似ておったのじゃ」
「この子も?」
蛇神の問いに、ウルリーケ神もイルムヒルトを見やる。
「そうじゃの。よう似ておる。強情でやさしく、そして、多くの人間のために我が身を顧みぬ」
そして、ウルリーケ神はハーラルトに視線を移す。その静かな眼差しに、自然と背筋が伸びる。
「我が娘を助けてくれた礼をせねばな」
「では、イルムヒルトさまを連れて、友神さまの神殿へ参内してもよろしいでしょうか?」
「かまわぬよ」
「ありがとうございます」
ハーラルトが話したことを楽しそうに聞いていたイルムヒルトに、実際に神殿を見せてやりたいと思った。安全保持のために、イルムヒルトはヴィンフリーデを出ないことは暗黙の了解となっている。本人もよくよく分かっていることだろうが、たまには自由を味合わせてやりたい。以前、果物を食べる口実に街の外に連れ出したときの活き活きとした様子から考え付いた。
「ふーん、神子姫の幸せを願うんじゃないんだ」
蛇神が面白そうに口の両端を吊り上げる。
「その件に関してはわたしが尽力します」
ハーラルトとしては当然のことであったが、イルムヒルトは赤くなりながらも嬉しそうに顔をほころばせる。
ウルリーケ神と蛇神は顔を見合わせてにっこりする。
「それに、神子姫さまの身の安全は祈りをささげる神さまが守ってくださいましょう。わたくしは神子姫を害しようとする身の程知らずか、よほど事情を知らぬ子どもか、あるいは外国から来た者を止める側だと思います。神の罰を与えられないように」
「あれ、そっちを止めるの?」
蛇神がきょろりと目を丸くする。
「はい。わたくしなどは罰を受けても自業自得と思うだけですが、お優しいイルムヒルトさまが心を痛めてはなりませんので」
「なるほどね! よく分かっているじゃないか!」
ばしばしと蛇の尾で叩かれる。イルムヒルトははらはらするが、荒っぽい兵士らと付き合うハーラルトには慣れたものだ。
「気に入ったよ。僕もなにか加護をあげよう」
「でしたら、ときおり神殿に参詣して供物を捧げてもよろしいでしょうか?」
「それでいいの?」
特別な力や特技が欲しいのではないのかと、蛇神が鎌首を傾げる。
「はい。わたしはウルリーケ神を信仰しておりますが、同時に蛇神さまも敬い感謝しております。二柱の神を同時に崇めてもよろしいでしょうか?」
「かまわぬよ」
「歓迎するよ!」
二柱の神の返事に、ハーラルトは安堵する。
さて、そこで目が覚めたのだが、後日ハーラルトはイルムヒルトを伴って蛇神を祀る神殿を訪ねる。
蛇神の友神の寵愛を受ける神子姫とその護衛の武将は大いに歓待され、やはり酒宴となる。
酒が進んだ聖務者たちは気づいたら、異国の武将が蛇身にぐるぐる巻きにされて尾の先でばっしばっしと叩かれているのを目撃し、その場に平伏する。
「痛くはありませんか?」
心配する貴い神子姫に、「年配者と飲むと遠慮会釈なく叩かれます。それに比べればなんともないですよ」と武将は笑った。
「力加減しているもんね!」
得意げに言うのは神殿の聖務者らが崇める蛇神である。
聖務者たちはハーラルトやイルムヒルトを敬い、ふたりの来訪を待ち望んだという。




