アートとは何か(あるいは2010年代に大ブレイクした女性アイドルたち)[完全版]
修正を加え完全版になりました。最後まで読んでくれると嬉しいです。
アートとは何か。多くの人がその質問をされてアートとはこういう物ですと説明できる人はほとんどいない。最近大企業の経営者がアートについてわざわざ専門の美術講師から教わっていると耳にしたことがある。アートを学ぶ意味はあるのだろうか。幼稚園・保育園や小学校の授業では図画工作という科目がある。図画工作は小学校の全授業の中でも人気科目で多くの子供たちがその時間を楽しみにしてたという経験が懐かしいと思う人もいるだろう。しかし中学校に上がると図画工作は美術へと名称が変わり生徒が記入したアンケートによると美術は不人気科目へと変わり小学校から中学校に進学するにつれて多くの人が絵を描いたりモノを作ったりする行為から離れてしまっていることが分かる。美術が不人気の原因として教科書に載っているピカソなどの絵の何がすごいか分からない。とか自分の顔を精一杯真似した描いた自画像を先生に見せてもいい評価がもえらえないなど中学生になって急に求められるアートの存在に頭を抱え多くの人が「アートって分からない、アートって意味不明」というセリフを並べ挫折してしまうからだ。
美術館に行っても色鉛筆で書かれたピカソの絵には「これ子供でも描けなくない?ピカソの何がすごいのとか」オークションで何十億円で落札された絵画がトマトの缶づめしか描かれてなくて「トマトの缶詰になんで何十億円の価値が付くの?」とか便器にサインを書いただけで教科書に掲載される名作と言われても「作者頭おかしんじゃないの?」と思う。まとめると多くの人が思うアートとは頭のおかしい人が頭の中で奇想天外なビジョンが映っていてそれをありのままで表した人知を超えた世界。つまりアートとは天才が天才にしか分からない発想で天才のための天才によるものだから私たちのような一般庶民には全然わかりませんと言っていることと同じになる。アートと自分の位置関係を遠ざけるようにすることで、できるだけアートとは関わらないようにしているのだ。
そもそもアートってどういう意味なのか?アートを英和辞典で引いてみると英語で「Art」と表記し意味は「人工の」とか「人工物」という意味がある。もちろんアートには「芸術」という意味がありこれは多くの人が知っているため説明する必要はない。今作ではアートの定義として「人工の」や「人工物」という意味をもつ単語であるとする。「人工」は国語辞典で調べると人間が作りあげたものを指し一言で表すと自然の対義語である。この意味に従うと自然から人の手を加えてモノを作る行為は「人工」と言え、さらに「人工物」からさらに手を加えモノを作る行為も「人工」ということができる。例えるならば森林にある木をのこぎりで削り丸太に加工する行為も「人工」と言えその丸太を細かくして黒鉛と組み合わせて鉛筆を作ることも「人工」である。これはモノに限ったことではなく自然に存在する音を人為的に人間の声から出すことも「人工」と呼べ多くの楽器を組み合わせて一つの曲にすることも「人工」だし歌手、コンサートその会場には多くの人が支援しているのでこれも「人工」と言えるのではないか。
要するにアートの本来の定義に基づけば私たちの思っている絵画や音楽、文学だけがアートではなく自動車もパソコンもお笑い芸人もみんなアートであると分かる。これを説明したってピカソが描こうとしたアートが分かるはずがないしアートとは何かの答えになっていくない?と反論したくなる気持ちは分かるが今はその気持ちを我慢してこのことを頭に入れておいてほしい。
それでは本題のピカソなどのアーティストが私たちに伝えたかったアートとはいったい何だっただろうか。末永幸歩の著書「自分の答えが見つかる13歳からのアート思考」によると植物をイメージしたときに花びらなどの美しく見える部分をアートで言う作品ととらえて多くの人が美術館で鑑賞する大部分を占めている。末永さんによるとアート思考を学ぶ上で最も重要なのは植物で言う生存に大きく関わる茎だったり植物を観察するうえで土に埋まってて見ることができない根っこの部分であると述べている。アートでとらえるなら作品によって隠れてしまっている作品ができた経緯や背景などのバックグラウンドに多くのアート思考が詰まっていると言い換えられている。つまり多くの人は作品のみを見てアート思考を理解しようとせず挫折しているということだ。具体的に作品を紹介しアート思考について少し触れてみようと思う。
中世の頃もともと絵画は教会に寄贈するために書かれていてその内容は神やキリストなどをテーマにしたいわゆる「宗教画」だ。ところが宗教改革によって絵画の在り方は変わり神などから貴族の肖像画や当時の庶民の様子を描いた「記録」という役割に移り変わっていった。この時代の作品はよりリアルにいかに実物に近づけるかが重視されレオナルドダヴィンチが遠近法を発明するなど後々のアートに影響を与える天才まで現れた。多くの人が写実する天才にあこがれをもちアートは栄えていったのだ。
しかし20世紀に写真が開発され絵画よりもより写実的に映し出すと評判になる。「記録」という役割を担っていた絵画は写真の登場により存在意義を失ってしまう。アートにしかできないことを模索し続け写真と差別化しようと試みた天才たちの中に多くの人を混乱させたアーティストピカソやデュシャンなどが立ち上がり格闘していくのだ。
ピカソが天才と呼ぶのにふさわしい発明品キュビズムというものがある。特に「ゲルニカ」はキュビズムをメインに取り入れた彼の代表作である。キュビズムとは実体を見たまんま映すのではなく様々な角度から実体を眺めその様子を一枚絵に落とし込もうとする試みだ。分かりやすく言うならばサイコロの絵のなかに肉眼では見ること不可能な1から6までの数字を全て書き込むことと同じである。このキュビズムの発明に対してピカソはアートとは見たものを正確に描く必要がないと主張している。
デュシャンが1917年に発表した「泉」という作品がある。その作品は男性の小便器を立ててその横に自分の名前をサインしただけという作品と呼んでいいのか分からないと当時も賛否両論が飛び交う問題作である。デュシャンはこの作品を作った意図としてアートが美しいものである必要はないと述べている。
このように20世紀以前にあったアートの考え方は写真の登場をきっかけとしてアートに根付いているイメージや偏見、固定観念などを真っ向から否定し見直され新しいアートの在り方を追究していった天才たちの格闘話なのである。
なんとなくであるがアートについて少し理解していただけたとは思う。しかし正直ピカソやデュシャンの考えるアート思考にイマイチ理解できないというのが読者の率直な意見であろう。でも前の段落を振り返って欲しいさっき私が述べた本来のアートの定義に戻れば絵画だけではなく時計だってスマートフォンだって警察官にもアートと言えるのではないか?今回はアートとは何かという意味不明な命題に対してアートとは2010年代に大ブレイクしたアイドルたちであると勝手に定義して説明してみようと思う。
20世紀の頃のトップアイドルを何人か上げると松田聖子や中森明菜、山口百恵を口に出す人はとても多い。当時の持たれていたアイドルのイメージはファンとアイドルの間に一線を画していてアイドルとは普段面会することなんて不可能だったり天使や悪魔など存在しない生き物をモチーフにした衣装などを着せられてまるで人間とは違う存在に扱われたり(民衆がそうさせてしまった)。どこへ行っても常に笑顔を求められアイドルが髪型を変えれば女の子たちは真似して髪型を変え女の子たちは誰しもがかわいいと言う憧れの存在であり挙句の果てにはアイドルはトイレに行かないとまで言われる始末。当時のアイドルはただの10代の少女なのにも関わらず国民みんながアイドルたちを神格化させてしまったのだ。
しかしそんなアイドルブームも去ってしまう。それはその後にやって来たバンドグループたちに人気を持ってかれてしまい多くの子供たちの憧れがアイドルからロックスターへと移り変わってしまった。時代の流れによってアイドルブームは消えてしまったのだ。だが2010年代再びアイドルが一躍人気となって多くのアイドルがテレビに現れ音楽番組を占領していった。なぜ多くのアイドルが人気となりアイドルブームを巻き起こしていったのか?そこには今までのアイドル像が持ち合わせる固定観念を次々と壊していく個性的なアイドルがたくさんいたのだ。ここでは大人気になったアイドルを具体的に紹介していく。
まず紹介するのは2010年代のアイドルブームの火付け役でもあるAKB48だ。コンセプトは「会いにいけるアイドル」であり秋葉原に劇場をつくり定期的に握手会や総選挙を行う日本国民なら必ず聞いたことのあるアイドルグループだ。AKB48が人気になった理由としてファンとアイドルとの距離が近いということだ。お気づきになった人もいるだろうか以前のアイドルの持っているアイドルとファンの距離感を大きく変えたグループでありこの後にでるアイドルたちに大きな影響を与える。
次に紹介するのはAKB48の後に現れた5人組グループももいろクローバーZである。彼女たちの特徴と言えば何といっても担当カラーである。20世紀のアイドルは大きな一つのイメージをモチーフにしていることが多かった(そのことが神格化された原因でもある)。しかしももクロは一人一人に色を与えることによりそれぞれの個性や特徴を見ている人に大きく影響を与えることができる。ももクロの登場は後のアイドルにも影響を与え今でこそ当たり前である人が持っているイメージカラーをちゃんと確立させたのは彼女たちではないだろうか。
最後に紹介するのは欅坂46とBiSHである。彼女たちは今真っただ中で活躍するグループであり絶大な人気を誇るアイドルグループである。欅坂46のコンセプトは「笑わないアイドル」センターの子が下を向いたままダンスをするのをTVで見てびっくりした人は少なくないだろう。やはり今までのアイドルに求められていた常に笑顔でいなければならないという固定観念を壊したのも彼女たちであろう。一方BiSHのコンセプトはもともと「楽器を持たないパンクバンド」ともはやアイドルですらない。顔よりも歌やダンスが重視されアイドルという根本を覆してくる注目の女性アイドル?である。
このように大ブレイクしたアイドルには20世紀に持たれていたアイドルのイメージを根本から変えてしまう斬新なアイディアで歌って踊る個性的なグループが大活躍していった。このことはアート思考の特徴とも言える以前の持たれているイメージや偏見、固定観念を変えていこうとする格闘劇ともいうことができるのではないだろうか?
アートとは何か。もしそのように質問されたとしても自分がとことん知っている分野で今までの常識を変えてしまうようなことについて話すこと自体がアート思考について説明できていることになるしアートをより深く味わうことができるのではないかと私は思う。何に対してアートだと思うかは人それぞれなので80年代の服だってスーパーマリオブラザーズだって電車だって郵便切手だってその価値についてよくわかる人にとっては素晴らしいアートなのである。
アートをなぜ学ぶ必要があるのだろうか。これには私が具体例に挙げた2010年代に大ブレイクした伝説のアイドルと深い関りがある。今まであった常識を覆すことによって世間に名を轟かせるスーパーアイドルになった話だけれども、もしこの戦略の考案者がアート思考をとても理解しているプロデューサーだったらどうだろう。そしたらアイドルを大々的に売るために最も必要な事ってアート思考なのではないだろうか。だから大企業の経営者がアートの専門家から教わる理由とはアート思考を学ぶことによってどう自分の会社製品を上手く宣伝、プロデュースするヒントがアートの中に隠れているのではないかと思う。アートを私たちが学ぶ意味とはアートを学ぶことによって物の見方を大きく変えたりクリエイティブなアイディアを生み出すための能力を育てるためなのではないのかと私は思う。
アートとは何か。(あるいは2010年代に大ブレイクした女性アイドル)を読んでいただき誠にありがとうございます。タイトルはお気づきの方もいらっしゃいますが村上春樹先生の「自己とは何か。(あるいは美味しい牡蠣フライの食べ方)」のパロディとなっています。(内容は全然違いますが、、、)アートの在り方を学ぶことでどのようにストーリーを作れば売れるのかを考えてみるきっかけになればいいと思います。私むみょーはこの作品以外にも長編 ELIZABETH new generation という小説も書いています。少し長い小説ですがこの作品も読んでいただけると幸いです。むみょーの名を広げてくれるととても嬉しいです。今後ともむみょーの活躍を応援よろしくお願いします。