第一話 神様から現状を説明されました。
「お疲れ様、みんなも早く帰るんだよ」
18時15分。終業の鐘が鳴ってから少し経つと、そう言い残して課長が帰宅をするので、その後に残された私たちが素早く帰宅準備をし始めるのがルールだ。
私の名前は柊 千会、24歳独身。
中小企業に就職している、どこにでもいるような平凡な事務職であり、恋人も何年か居らず、将来への希望も抱けずにいる。
多少結婚に夢はあるけれど、婚活までしてしたいかと言われればそうでもない。
家族はもう居ないので、結婚に対してうるさく言われる事はないけれど、親と喧嘩した、親と旅行に行った、世の中に溢れるそんな言葉に、少しだけ寂しさが募る事もあった。
無いものねだりをしてもどうにもならないので、気にしない様に笑みを浮かべて相槌を打つ役に徹する。
今日はプレミアムフライデーで、ノー残業デーで、皆大好きな給料日でもあるので、皆は口々に何処に寄って帰るとか、欲しかったあれが買える、と楽しそうに話していた。
来月販売されるゲームソフト以外は、生活必需品ぐらいしか欲しい物が無い私は、今日もお買い得スーパーで買い物をして帰り、土日で料理の作り置きをする予定しかないけれど。
鞄の中にスマホ、給料が入った大事な財布、パスケース、キーケース、移動中の大事なお友達のタブレット端末がある事をしっかりと確認してから、バックを肩に掛けて席を立つ。
「お先に失礼します」
「柊ちゃんお疲れ〜! また来週!」
「はい、先輩も気をつけて帰って下さいね。お疲れ様でした!」
先輩に向けて頭を下げてから、急ぎ足で駅まで向かう。電車に乗ったらタブレット端末で新作ゲームの情報を調べたり、読書をしながら30分電車に揺られて、降りた先にあるスーパーで買い物をしてから帰宅する。
いつもと変わらない日常。
スーパーでの買い物を終えて、横断歩道を渡る為に人の後ろに並んだ。
今日は給料日だし奮発して良い鶏肉を買ったので、鳥唐揚げのみぞれ煮でも作ろう。
どうせなら冷えたビールも追加して、撮り溜めしてたドラマでも観ようかなぁ。
ピヨピヨと横断歩道から音が鳴って、人の波が動くのに合わせて私も歩き出した。
鳥唐揚げを作るなら、他にも揚げ物を纏めて作った方がいいかな、何かあったかな。
横断歩道を歩きながら、冷蔵庫の中を思い返してみる。
冷凍庫にまだ牛肉と豚肉はあったよね。あ、冷凍庫にロールイカが入ってたような気がするから、イカフライも一緒に作っちゃおう。お弁当にも入れれるしね。
イカフライに思いを馳せていると、周りから悲鳴のような声が聞こえてきた事を不思議に思い、横断歩道の真ん中辺りで足元を見ていた視線を右に向けた。
白のトラック。悲鳴。自分の口から漏れた声にならない空気。
ーーー可哀想に……。
ぶつかる! このまま死ぬんだ!
そう思って目を閉じたけれど、何の痛みも衝撃もなく、不思議に思って薄らと片目だけ開けてみると、極彩色の世界が見えた。
え、天国?
そう思って目を開き、周りをぐるりと見渡すと、金色に輝く林檎のような果実を付ける木の根本に、ダンプカーほどの大きさのある、金色の角を持つ鹿のような生き物が座り込んでおり、その手前に髪も白、肌も白、服も白、装飾品も白という中性的な人が立っており、二人共こちらを見ているのに気付いた。
ーーー我が世界の子の暴挙に巻き込まれし人よ……。
そう話しかけられて、眼球が落ちなくて良かったなぁと思うくらい目を見開いてしまった。
鹿が喋るんだ!?
何で鹿が喋れるんだろう、幻覚なのかな? それともやっぱり死んだんだろうか?
足がブルブルと震えてしまうのを、隠そうとするけれど、上手く立てないし歩け無さそうなので、逃げる事も出来なさそうだ。
ーーー我はグースヒルシュ、ヘレトピアの創造神である。此度は我が子らが行った異世界召喚に其方を巻き込んでしまった事、大変心苦しく思う。
「あ、はい。え、あ! 私は千会です! 柊 千会!」
ーーーチエか。この者はオリーヴァー。我の息子であり神託を下す者である。
鹿……もといグースヒルシュさんの視線の先には全身真っ白の中性美人が居る。と言うか、息子だったんですね……。女性だと思っていました。
にっこりと笑って頭を下げたオリーヴァーさんは世の中の女性が裸足で逃げ出す程美しく、思わず溜息をついてしまう。
私、頭でも強く打ったせいで、変な幻覚でも見ているのかな……。
というか、異世界召喚ってなんなの。もう意味が分からなさすぎて、何が分からないか分からないよ。
頭を抱えたくなる私を気にする事も無いオリーヴァーさんは、私に近付いてくるとそっと手を差し出してくる。
「初めましてチエ様。父に代わり私から此度の事を説明させて頂きたいのですが、お時間を頂いても構いませんか?」
「はい、大丈夫です。あの……私は死んだんですか? ここは天国ですか?」
「ご安心下さい、チエ様は亡くなっては居られませんよ。ここが天国かどうかはその方によって見え方が違う、としかお伝え出来ません」
差し出された手をそっと握ると、優しく握り返されて、どんどん鹿の近くに誘導されていく。
手なんて掴まなければ良かった!
そう思ったけれど、もう今更手を振りほどいて逃げ出す事も出来ず、私はゆっくりとオリーヴァーさんに連れられて歩くしかない。
そもそも、人によって世界の見え方が違うとはどういう意味なのか。何故鹿から人間が産まれたのか、何故鹿は謝罪だけして丸投げなのか、疑問が尽きないのだけれど、何を訊ねればいいのかが分からないので、はぁ、とか、そうなんですか、としか返事が出来そうになかった。
周りを見渡しても、極彩色の世界しか見当たらず、不安が増すばかりで安心出来る要素もない。
「それなら家に帰る事は出来ますか?」
「申し訳御座いません。その願いは叶いません」
「こ、困ります!!」
思ってもみなかった返答に、私は吃驚しすぎて思わずそんな事を口走る。
その返答に、絶世のイケメンは悲しそうに瞳を伏せると、小さな声で「申し訳御座いません……」と呟いた。
伏せられた瞳をじっと見ていると、睫毛なっがいし、睫毛まで白い。肌にはシミも出来ものもなくて、透明感に溢れている。神様は不公平だ。あ、相手も神様だった。
でも、そんな顔をされても私だって困る!
私は家に帰って鳥唐揚げのみぞれ煮を食べなくてはいけないのに!
「私達の世界と、チエ様の世界の力関係が違いすぎる為、こちらから転移を行う事が出来ないのです」
「意味が良くわかりませんが、力関係が違うってどういう事ですか?」
悲しそうな絶世のイケメンにメンタルがブレイクしそうになりながら、出来るだけ優しく聞こえるように問いかけてみた。
イケメンはゆっくりと視線をあげると、私の目を見つめながら口を開く。
「わかりやすく申し上げるならば、密度の高い物は水に沈むのが速いですが、沈んだ物は自力では浮かんでこれません」
「それは地球の方が密度が高いということですか?」
「はい。密度とは、情報であり、技術であり、歴史でもあります。我が父の作り出したヘレトピアはまだ1000年程の歴史や情報しか持ち合わせておりませんので、チエ様を元の場所にお返しする事は難しいのです。申し訳御座いません」
そう言いながら頭を下げるイケメン神。鹿は相変わらず木の根本に座り込んだままである。
家に帰れない、あまり現実的ではないその言葉に、何の感情も沸いてこない。現実として受け入れられてないのだと思う。
何と返事をしていいのかも分からない。
ただ、早く冷蔵庫に鶏肉を入れないと悪くなっちゃうな、と思った。
「ご迷惑をお掛けしてしまったチエ様には、此方の果実を贈らせて頂きたいのですが、受け取っていただけますか?」
返事をせずに黙ってしまった私に対して、イケメン神は叱られてしまったゴールデンレトリバーの様な顔をしながら覗き込んでくる。
毛穴も無駄毛もないとか神様一体どうなってるの。おかしくない?
輝くそれを目の前に見せられて、私は首を傾げた。
「それは何ですか? 光ってますけど食べられるんですか?」
光る果実を見ながらそう尋ねると、イケメン神はたくさんなっている実の1つを撫でながら説明をしてくれる。
「父がこの木に魔力を注ぎ込み続ける事で、10年に1つだけこの果実が実ります。召し上がると神からのギフトが授けられ、特別なスキルが身に付きますので、きっとチエ様の生活のお役に立つかと思うのです」
生っている実を見上げるイケメン神につられて、私も実を見つめた。
10年に1つの割りには数十個の実があるんだけど、どういう事なんだろうか……。鈴なり、といっても良いのではというぐらい実っている。
私が首を傾げていると、理由を察したのかイケメン神が説明を追加してくれた。
「一度ついた実は、人の手でもぎ取らなければ落ちる事は御座いません。チエ様と一緒に転移された2人にもお詫びとして贈らせて頂きました」
一緒に転移された二人とは誰だろう?
ここには私しか居ないように見えるけれど、他にも交通事故に巻き込まれてしまった人達が居るんだろうか。自分以外にも転移した人間が居ると言うことに、安心感のような物を感じる。
いきなり異世界で、ひとりぼっちではなさそうだ。
「そうなんですね、分かりました。ところでスキルとは何ですか? ゲームみたいな物ですか?」
「ゲームが何なのかは存じ上げませんが、ヘレトピアには魔法やスキルといった特殊な力が存在しております。魔物と呼ばれる強力な生き物も住んでおりますので、ヘレトピアの住人には産まれた時から備わっております」
スキルは大体の意味はわかるけど、勘違いだったら恥ずかしいので確認をしておく。
どうしても私はヘレトピアで生きていかなければならないみたいだし。事前の情報はとても重要になってくる。魔物までいるなんて、絶対に死亡フラグだ。町人Aの私なんてすぐに死んでしまう。
分からないままで、死ぬのはごめんだ。
他にも聞きたい事はあるけど、まずはスキルを手に入れよう。
「その実を食べると必ずスキルが備わるんですか?」
「はい。今まで実を召し上がった方には、必ずアイテムボックスと鑑定のスキルが備わりました。また、皆様それ以外にも必ず1つから3つのスキルが備わられましたよ」
「そうですか。じゃあ頂きます!」
「はい、どうぞお好きな実を選んでお召し上がりください」
そう言って一歩下がるイケメン神。鹿は相変わらずうんともすんとも言わずに座っている。
一歩、二歩と木に近付きながら果実を見渡す。
たくさんの果実の中で、一際大きさに枝がしなる程の実を見付けて、思わず手に取ってしまう。
この実だけなんか2倍くらい大きくない?
はち切れそうなくらい大きく膨らんだ実を見つめていると、オリーヴァーさんはにっこりと笑って口を開いた。
「ではチエ様、どうぞお召し上がりください」
「あの、本当に頂いても良いんですか?」
「はい、私達からの贈り物ですので、どうか受け取ってください」
そう言われて、黄金に輝く実を親指で少し擦ってから一口齧ってみた。
シャクッとした食感の後に、極上の甘みと爽やかさが口の中で一気に広がっていく。
食べたことがないような味と食感に、思わず笑みが溢れてしまうのを抑えきれない。
「美味しい……」
「ふふ、ご満足頂けたご様子で安心致しました」
「はい、あのありがとうございます」
「チエ様、私はお礼を言われる事をしておりませんよ。此方こそお礼を言わねばなりません。ありがとうございました」
何のお礼なのか聞こうと思って口を開いたところで、急に身体が発光し始めた。
何事!? 爆発して死ぬの!?
驚いてイケメン神を見ると特に焦った様子もなくこちらを見ている。
「チエ様、もう時間のようですね。どうか良い時間をお過ごし下さい」
「え、ちょっ、まだ聞きたいことが!!」
まだスキル以外何も聞いてない!!
世界情勢や文明レベルは!?
「何か御座いましたら梛の木を探して、木に触れながら私をお呼び下さいね」
「ナギの木って何の木!? ちょっ、あぁ!?」
全身が強い光に包み込まれたと思った瞬間、急に足場が無くなって、垂直に落下していく感じに襲われた。
肝が冷えるとはこういう状態を言うんだろうか。お腹の辺りがヒュンと冷えて背筋がゾワゾワとする。
何でいきなり落下なのか!
いや、落下してる感じがするだけで、落下してないのかもしれないけど、光ってて周りが見えない状態の私にはなす術もない。
「ぜ、絶対生き延びてやるんだからぁぁあ!!!!」
大きな声で決意表明をした私は、いつまで続くか分からない落下に身を任せた。
どうか、無事に生きていけますように。