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雨の記憶

 


 降りしきる雨。

 それは、少女と過ごした最初の時間。

 彼にとってかけがえのない記憶へと繋がるよすが


 ―――


 まぁ、つまらない人生だったな、と。


 俺はそこそこに強い雨が打ちつける中そんな風に自嘲する。

 傷だらけの体と、それから鉄の輪で拘束された手足が痛い。


 けれど、釘で打たれていないだけ礼を言うべきなのだろうか?


 二十三年の人生で、数えるのもバカらしいほど邪険にされてきた。

 だがこのはりつけという奴は何しろ初めてなもので、その辺りはよく分からなかった。


「……クソ、ったれ。あーあ」


 何もかも不運だった。


 不運だったばかりに俺は三日間ここで晒し者にされて、槍で腹を刺されて処刑されるのだ。

 つまり明日死ぬ訳だが、きっといい催しになることだろう。


 始まりは……少なくとも磔になった直接の原因にだけ絞って考えるのなら、美味いパンを食べたいだなんて思ってしまったことだ。


 この街のパンは有名らしい。俺はそれが食べたくてふらりと流れ着いた。

 しかしなんでも強力な魔物に襲われて困っているとかで、まぁまぁ名のある傭兵だった俺は討伐依頼を受けた。

 で、無様に負けて、お節介にも手当しようなどとしたやつのせいで魔人だとバレてこの有様。

 半殺しの怪我を負っていたせいで逃げることもできないとは不覚過ぎて泣ける思いだ。


 しかし、とはいえこっちもただの人間ではない。

 だから数日すれば多少は動けるようにはなるのだが、どうやらこの十字架になにか魔術による細工でもしてあるようであまり力も入らない。

 せめて己の愚かさを呪うしかないだろう。


 何度目かの後悔のため息を吐き、俺はなんとなく顔を上げて辺りを見回してみる。

 すると磔にされている街の広場が目に映った。

 見た感じ人はいない。


「…………」


 罪人は基本的に見せ物で、昨日はバカ共が囲いの外から石なんかを投げてきたから外出が減る雨はありがたかった。

 罪人の周りで石売りなんてする乞食はあれこそ魔人だろう。

 そんなことを思いながらせめて死ぬまではゆっくりさせてほしいと内心呟いたところで。

 早速誰か……女の声が聞こえた。


「もし、そこのお人。そんなところで何をしているのですか?」


 いつの間にか十字架のすぐそばに人がいた。

 白いボロ傘をさして囲いの前に立つその女……というよりも十六歳ほどの少女に見えるそいつはシスターかなにかか。

 色白で小柄な身体に黒い修道服を身に着けて、少しクセのある腰まで伸ばした金髪頭にはいかにもなベールを被っている。


 それから青い瞳が俺をまっすぐに、心配そうに見つめていて、思えば声もどこかそういう気配は纏っていた気がする。


「風邪をひきますよ」


 重ねられた言葉に、俺はいささか呆れる。


「あんたアホだろ?」

「いいえ。私はアホではなくセレスです。シスターセレスとお呼びください」


 シスターセレスね。下らねぇな。

 救われない罪人に回心でも迫りに来たってか?

 反吐が出そうだった。


「で、そのシスターセレスが何の用だ?」

「私はお散歩をしていただけです」


 こんな雨の日にか。物好きなことだ。


「そうか。でも俺は磔になる極悪人だぜ。説教なら他所を当たんな」

「そうなのですか?」


 目を丸くするセレスとやらに、俺はまた呆れる。


「あんたなぁ……じゃあなんだと思ってたんだよ」

「酔っ払っていたずらされたのかと」

「やっぱアホだなあんた」

「私はアホではありませんよ。セレス=アナスタシア。シスターセレスと人は呼びます」


 話にならないので俺はため息を吐いて、それから視線を戻すとセレスは木の囲いに手をかけて俺の方をまじまじと見つめていた。

 どうやら居着くつもりらしい。


「一体何をなさったのですか? あなたの罪を神様にお預けするつもりはありませんか?」

「ねぇよ馬鹿」

「では神様のお話などどうです?」

「いらねぇよ馬鹿」

「ならばせめてお名前を伺えますか?」

「教えねぇよ馬鹿」

「どうしてそんなにいじわるなのですか」

「生まれつきこうなんだよ。俺はクズだからな」


 俺が吐き捨てると、セレスはやれやれとため息を吐く。

 そしてポケットに手を突っ込んで何かを、乾パンを取り出した。畜生。


「…………」


 俺はもう丸二日は何も食べていないのだ。


「……なぁ、もうどっか行ってくれよ」

「え?」


 ぽりぽりと小さな口で乾パンをかじりながら、セレスが俺の言葉を聞き返す。一々腹が立つ奴だと思った。


「だから、どっか行けって言ってんの。俺みたいな悪党に構ってる暇があったら、教会かなんかで祈ってればいいだろ」

「…………」


 目の前に食い物を出されたからか俺は急に腹が減って、ついでに腹の傷も疼き始める。

 あの魔物にやられた傷だ。


「……ほんとに、おれは、お前みたいなのが……一番、嫌いなんだ、よ……クソ……」


 なんだか気が遠くなってきた。

 痛みよりも耐え難いのは空腹だ。

 腹が減りすぎて気が遠くなってきた。


「大丈夫ですかっ!」


 大丈夫じゃない。半分くらいはお前のせいだと、俺はよっぽどセレスに言ってやりたかった。


 ……まぁでも、磔にされてからロクに眠れなかったからちょうどいいかもしれない。

 こんな状態で起きてても仕方ないし、せめて気持ちよく眠らせてほしい。

 最後に顔を上げると、セレスの青い瞳と目が合う。


 今は雨空だが、なんとなく青空が見れたような気がしてそれだけはそんなに悪い気もしなかった。


 ―――


 目を覚ますと、俺は暖かな寝床に寝せられていた。

 マットレスは恐らく藁で毛布も厚紙みたいに薄っぺらなものだが十字架よりは遥かにマシだと思われる。


 手やら体の傷の痛みを無視して身を起こして、自分の姿を顧みた。

 するとどうやらゆったりとした、ほんの少し埃の香りがする黒いローブに着がえさせられているようだった。

 状況を理解しかねて、次に部屋を見回してみた。


 ランプが置かれた暗い部屋は板張りの床で、安っぽい荒壁が塗装もなくむき出しのままだ。

 窓も木窓が二つあるのみで、多分どこぞの安宿なのだろう。牢獄に木窓はありえないから。

 それと窓からも光は漏れていないし、この部屋の薄暗さからしてももう夜なのが察せられた。


「…………」


 俺は全く状況を理解できなくて頭をかく。

 そして一体何が起こったのかについて頭を悩ませていると部屋のドアが開く音がして、それから馬鹿みたいに丁寧にドアが閉められたのが分かった。


「ああ、ちょうど目が覚めたんですね。心配しましたよ」


 そう言って部屋に入ってきたのはあのセレスだった。

 手に四角い木の盆を持っていて、それには大きな椀が一つ載せられている。


「あんたは。……何があった? なんで俺はこんなとこに?」


 盆を手にしてベッドの脇の椅子に腰掛けたセレスに俺は問いかける。

 しかし、あいつは答えずに盆を手渡そうとする。


「気になることもあるとは思いますがまずは元気をつけるべきでしょう、ロクさん」

「……なんで名前知ってんだ気持ち悪い」

「この街の領主さんにあなたの釈放を掛け合った時に聞いたんです」


 さらりととんでもない事を口にしたような気もするが、とにかく腹が減って仕方がないので俺は盆に手を伸ばす。

 木の椀には混ぜ物のされたパン粥が入れられていて、これまた木のスプーンも置かれている。

 俺はそれを膝に置いてとりあえず口に入れることにした。


「いただきます」

「いただきますを言える人だったんですね」


 一瞥をやり、俺は粥を一口すくう。失礼な。


「……ガキの頃はロクに飯も食えなかったからな。食前の祈りなんてする気にはならんが、飯には感謝してるんだ」

「うーん……。でも、素晴らしい心がけです」


 二日ぶりに飯を食うからか、パン粥は非常に美味かった。

 だから椀一つをぺろりと平らげて、ベッドの脇にあった小さな机に盆を避ける。

 セレスはそれに、何が嬉しいのかは分からないがにこりと微笑んだ。


「すっかり元気になったようですね。良かった」


 そんな事を言う彼女から、俺はなんとなく目を逸らす。

 思えば領主に釈放を掛け合ったと言うのだから、俺の罪状についてもセレスは分かっているはずなのだ。


「で、あんたが何者かは知らんが。……魔人なんざ助けてどうするって言うんだ? 俺としてはありがたい限りだが、あんたの方は今にも皮ひん剥かれて喰われたっておかしくはないんだぜ?」

「……えっと。それはもっとなにか喰わせろと、そういうことですか?」


 大真面目にそんなことを口走ってポケットをまさぐるセレスに、俺はまたペースを乱されて頭を抱える。


「……調子狂うな」

「恐縮です」


 無い胸を張るなクソ。


「褒めてないからな」


 俺が苛立ち紛れに言うと、セレスは楽しげに微笑んで口元に手を当てた。


「ふふふ」


 俺はそんなとんちんかんにため息を吐いて、脱線しかけていた話を元に戻す。


「まぁ、助けてもらったことには礼を言う。だが、あんただって魔人がなんだか知らない訳じゃないだろ?」


 その問いにセレスは少し考えて、それから口を開いた。


「魔物がほんの少し、混ざっているとか」

「そうだ」


 戦役のおり、異界から押し寄せてくる魔物と邪神。

 地上においてはその多くが泥に成り果てる奴らだが、本来は人を遥かに超えた高次な存在なのだという。

 だからか邪神を筆頭に強い力を持つ個体は肉体が滅びても魂を地上に残留させることがある。


 邪神の場合はそれを防ぐために聖剣とかいうご立派な武器でトドメを刺されて刀身に封じられるのだが、全ての魔物が聖剣により命を奪われるわけではない。

 魂を地上に残留させ、なおかつ神の加護が満ちる地上でも消滅しないほどに強い力を持つ魔物の魂は、稀に新たな肉体を求めて人の胎児の体に混じり込むことがある。

 そうして生まれた者の内自我を保った者を魔人と呼び、人格を乗っ取られて魔物に堕した者は魔物憑きと呼ばれる。


 魔物憑きはともかく、魔人は自我を保っているとはいえ大陸においては迫害の対象で、見つかれば例外なく極刑に処されるのがならわしなのだ。


「俺なんて助けたってどうしようもない。どうやって釈放させたのかは知らんが、魔人を庇っただなんて知れたらあんたも教会にえらい目に遭わされる。……今からでも遅くないからさっさと十字架までしょっぴくんだな」


 この見ず知らずのお人好しを痛い目に遭わせてまで逃げる程生に未練はなかったし、なんなら最後に飯が食えてよかったと空になった椀を見ながらそう言う。

 だが、返されたのは全くもって予想外の言葉だった。


「そんな心配は要りませんよ。あなたはこれから、私と共に神様のために働くのですから」

「は? 神だと?」


 思わず剣呑な声になってしまったのは仕方がないだろう。


 提案した相手が恩人とは言え、俺はガキの頃から神様ってやつに爪弾つまはじきにされてきたのだ。今更そんなモノのために働けだなんて冗談じゃない。

 そう。冗談じゃないのに、セレスは青い瞳をきらきらさせて俺の手をひしと握った。


「そうです。私と一緒に神様に仕えれば、きっと誰ももうあなたを捕まえたりはしません。ですから……」


 目の前のこいつが、俺のために色々としてくれたのは分かっていた。

 けれどやっぱり、神のために働くなんてのはたとえ死んだって御免だった。


「ふざけんじゃねぇ。勝手に盛り上がって話進めてんじゃねぇよ」


 そう言って乱暴に手を振り払うと、セレスは口元を戸惑ったように、あるいは何かを言いあぐねたかのようにもぞつかせる。


「えっと……」


 ひび割れたような表情でこちらを見つめてくるセレスに、俺は一つ唸って言葉を続けた。


「……で、それはあんたの役に立つのか?」


 俺が不承不承ふしょうぶしょうながらもそう言うと、セレスは虚を突かれたように聞き返してくる。


「え?」

「…………」


 神のために働くのなんて冗談じゃないが、命を救われた相手に何もしないなんてつもりはなかった。

 ましてや俺の命だってかかっているのだし、神ではなくこいつが必要だというのならできることならしてやろうと思ったのだ。


「は、はい! それは……もちろんです!」


 ぱっと顔を明るくしてまたつんのめるようにして手をとったセレスに、俺は内心閉口する。


「そうか。なら俺はしばらくはあんたに手を貸す。……木っ端みたいな命とパン粥一杯の分は働いてやるさ」


 ―――


 とは言ったものの。


「……魔物の駆除? あんたの仕事が?」

「ええ。そのとおりです。私は一人魔物を狩る流浪の正義のシスターなのです」


 また胸を張ってみせるセレスに俺は苦虫を噛み潰す。


「なんだよ流浪の正義のって……」


 まだ立ち上がってはならないということで俺はベッドに寝かされていて、その脇に置いた椅子にさっきと同じようにセレスが腰掛けている。

 そしてその神のためのお仕事ってやつの話を聞いていたのだが、明らかに非力なシスターが魔物の駆除とは。

 ずいぶん嫌な世の中になったもんだと思った。

 俺はてっきり四つ葉のクローバーでも栽培するもんだと思っていたのに。


「あんたできるのか? 魔物ってそんなに甘い相手じゃないぜ」


 奴ら基本はただの泥だが、舐めてるとボコボコにされるのだ。俺みたいにな。


「失礼な! 私はとっても偉いシスターなんですよ」

「…………」


 だがそう言われてみれば、そうかもしれない。

 思えば魔人を釈放させるなんて明らかに並の神官の権限を超えた所業だ。

 もしかするとありえないほど強かったりするのかもしれない。


「それに、だからこそあなたに助けてもらうというのもあります」

「ああ……魔人だからな」


 魔人は強い。

 上位の魔物の魂の片鱗を受け継ぐのだから基本的に強くて当然だし、魔物討伐の手助けになると考えても不自然じゃない。

 セレスの仕事が魔物の駆除だというのなら、もしかすると強さを利用するという口実で十字架から助け出してくれたのかもしれない。


 だから生まれて初めて魔人で良かったとほんの少しだけ思った、が……そういえば。


「なぁ、あんた」


 俺がなんの気もなしに語りかけると、お行儀よく座っていたセレスはにこりと笑った。


「はい、なんでしょう?」

「俺が逃げたら、あんたどうなるんだ?」

「…………」


 その問いにセレスは目を瞬かせて、しばらく口を閉ざした。


「ひどく折檻せっかんされます」

「は? それだけか?」


 魔人なんて半分人類の敵みたいな扱いなのに、その程度で済むわけがない。

 今回は少し勝手が違うが、その逃亡を助けたならば普通なら異端者として火刑に処されたっておかしくはないのだ。

 だから俺がそう言うと、セレスはこくりと頷いた。


「ええ。ですからあなたは気にしなくても構いません。……逃げたいなら逃げても構いませんよ。それこそもう、今にでも……」

「…………」


 俺はむしろ逃がそうとするかのような彼女の言葉に呆れ果てた。

 こいつ、邪神教団のシスターじゃないだろうな……。


「……あんた、変なやつだな」


 ため息混じりに言うと、セレスは人懐っこい笑顔に戻る。


「シスターセレスです。それではそろそろ休みましょう。毛布をもらってきます」

「待て、あんたもここに泊まるのか?」


 ここはベッドが一つしかないし、そうじゃなくてもお偉い聖職者様が泊まるような場所じゃない。

 ……というよりも、俺……はそこそこ名が売れた傭兵だったからともかく、そこらの傭兵ですらこんな安宿には泊まらないのだ。


「ええ、そうですが? なにか都合の悪いことでも?」


 平然と答えたセレスに、俺はどこか胸に穴が空いたような気持ちになる。

 が、考えてみれば当然だ。

 冷静に考えて、魔人を一人でほっぽいておく訳がない。

 逃げられたら一大事だし監視は大切だ。

 当然のことなのに、俺は一体何を期待していた?


「……いや、気にするな。今ベッドを空ける」


 小さな動揺を隠しつつ言って起き上がろうとしたところで、セレスが制止した。


「まだ体調は万全ではないのですから。私が床に寝ます」

「雇い主を床に寝せる傭兵がいるかよ」

「……傭兵? ですか。そんなつもりはありません、私はあなたと……」


 そこまで言って口をへの字にして引き結んだセレスを前に、俺はとにかくベッドから出て立ち上がってみせる。


「とにかく、だ。俺は床で寝させてもらう。あんたも俺が使った毛布なんて気持ち悪いだろうからもらってきたやつは自分で使うんだな」


 長所といえば軽いことくらいか。

 ぼそぼそとした毛の薄い毛布を引っ掴み、俺は部屋の端に行って身を丸めた。

 魔物を殺すのが仕事ならいつもと変わらない。

 今の状態でも雑魚相手なら不足はないが、できるだけ体調を戻さなければ。


「…………」


 そんなことを思いつつ眠ろうとしていると、セレスの足音が立ち去っていくのが分かった。

 毛布を貰いに行ったのだろう。

 そして俺がそろそろうとうとしてきた頃、セレスはようやく戻ってくる。

 部屋を薄ぼんやりと照らしていたランプが消されて、セレスはそのまま眠りに……つかずに、こちらへと歩いてきたらしい。

 俺が億劫に思いながらもセレスの方に振り向いて見ようとした時、セレスは俺の横、少し離れた場所に寝転んだ。

 暗闇の中、俺は問いかける。


「なんのつもりだ?」

「私だけ寝台を使うのはズルではありませんか」


 そんなことを言って、どうやら彼女はくすりと笑ったらしい。

 俺はそれに、なんだかおもむろに背中に小さな針を刺されたような気持ちになった。


「野宿みたいで楽しいですね」

「外同然のあばら家って意味か? なら俺も同意だな」

「ふふ」

「……まぁ、ひどい宿だが。見張るなら勝手にすればいい」


 俺は寝返りをしてセレスに背を向ける。

 それから目を閉じる。

 すると雨音に満たされた闇の向こうから、祈りの声が寝息と聞きまごうほどに小さく、まるで遠くの虫の音のように聞こえてきた。


 ―――


 次の日、俺はセレスに揺り起こされる。


「起きてください、もうお昼じゃありませんか。『朝を寝過ごすのは泥棒と怠け者だけ』と、いにしえの聖者もそう言うでしょう。……ねぇ!」

「ああはいはい……。分かってるよ」


 どうも今日はいい天気らしく、木窓からは日が射し込んでいて昨日に比べれば部屋は見違えるほど明るい。

 薄く目を開いてまず目に入った天井はなんの汚れにか所々黒ずんでいて、次に目に入ったセレスはこれまたアホらしいほどに笑顔だった。

 遊びに行く訳でもなかろうに、よくもまぁそう楽しそうに笑えるものだと感心する。


「ロクさん、遊びに行きましょう!」

「は?」


 眠気が飛びかけた。こいつアホか。

 よりによって魔人なんかと?


「仕事は?」

「しますよ」


 俺は身を起こして頭をかく。

 すると俺にしがみついて揺すっていたセレスも、身を離して膝立ちになる。

 その彼女を見て俺はため息を吐いた。


「あんたなぁ……俺は仕事を手伝えって言われただけだ。あんたと遊ぶ義理なんてどこにもない。それにあんたと俺は昨日会ったばっかりで……」


 呆れ紛れに言う俺を、セレスはやけに熱心に遮る。


「いいえ逆です。背中を預けることになるからこそ親睦を深めるべきではありませんか? 世に言う歓迎会というものです」

「悪いがもし起こしたのがそういう理由ならまだ眠らせてくれ。歓迎会は夢の中でやろうじゃないか」

「だめですよ」


 ぴしゃりと言ってセレスは俺を包まっていた毛布から引き剥がす。

 案外力が強いのだなと思いながら、床板にしたたかに顎を打ちつけた俺はため息を吐いた。


 ―――


 街を歩きながら、俺は少し愉快に思う。

 これはあれか。

 昨日までサーカスで下手な芸だと野次を飛ばしていた猛獣が、檻を出て目の前で闊歩かっぽしているような感覚なのか。


「今日も街は平和ですね」


 ほわほわと微笑みながらそう言うセレスに、いい気分だった俺は笑う。


「やっぱ抜けてるよな、あんた」

「?」


 昨日まで魔人として広場に磔にされていた奴が、人によっては石をぶつけたりもしていたかもしれない奴が、街をうろうろと歩き回っているのだ。

 そしてそれに気がついた愚民どもの反応はまぁ、見物だった。

 ババアが転び、ジジイが腰を押さえる。

 ガキは戸締まりをして、女は小さく悲鳴を上げ、大の男が顔を青くする。


 ざまぁないと思った。全くもって良い気味だった。

 見回せば見回すほど愉快。

 今まで気づかなかったが、ここはとても素敵な街だ。


「早起きして良かったよ」


 深い満足を味わいながらそう言うと、セレスはお上品に微笑んだ。


「早起きと言ったってもう昼前ですよ」


 細かいことはいいんだよ。

 魔人は朝に弱いんだ。

 多分な。


「……そうか。で、あんた、遊ぶってどこ行くつもりだよ」


 まぁ、とは言ってもあんなのはごく一部だ。

 大きな街なのもあってか気づかないやつはとことん気づかないものだ。

 石造りの街路がいろを行き交う人々の多くは、俺なんかには目もくれずに忙しく日々を過ごしていた。


「そうですねぇ。まずはお昼ごはんでも食べに行きません?」


 それは俺としても賛成なのだが、肝心なことを思い出してしまった。


「……そう言えば俺、金が無い。捕まった時に荷物を取られてな」

「ああ、気にしないでください。私が出します」


 こともなげにそういうセレスに、俺は流石に眉をひそめる。

 これ以上借りを作りたくはなかったのだ。


「いや、いい。今日魔物を殺したら報奨金を貰いに行く。それまでは飯くらい我慢できる」


 戦役とは文字通り人類にとっての総力戦だ。

 故に、人々の武装と戦闘参加を促すために魔物の死体には値段がつくし、それで生計を立てようとするものも少なくない。

 強力な魔物はそれだけ高い値段がつくから、一攫千金も不可能ではなかったりする。


「気になさらないでください。どうしてもと言うなら後から返してくださればそれでいいんです」


 しかし、セレスは俺のそんな提案を却下する。

 まぁ据え膳食わぬはとも言うし。

 こっちとしてもあまり断るのは無粋だろう。


「そこまで言うならご馳走になってやろうじゃないか」


 だから俺がそう言うと、セレスはけらけらと笑う。


「あらずいぶんと偉そうなんですねぇ」


 昨夜ゆうべパン粥を食べたとはいえ、空腹は腹の底をきりきりと痛めつけている。

 食事は、やっぱりしておきたい。


 ―――


 俺たちが訪れたのは場末の飯屋だった。

 昼時だというのにあまり賑わってはいなかったが、それはセレスが俺に少しは気を使ってくれた結果なのだろうか?

 そんなことを思いつつ目を向けると、さっそく席に腰掛けたセレスはご機嫌で鼻歌を歌っている。


「ごっはんーごっはん。ふんふふ、ふん」


 呑気だ。あの様子だと多分違う。

 でも黒髪赤目は魔人の特徴として有名で、だから俺はよく目立つし同じ土地には長くいられない。

 魔人は必ず黒髪赤目だが、黒髪赤目は必ずしも魔人だという訳ではないし、実際一定数そういった人間は存在する。

 しかしそれでも黒髪赤目の旅人、あるいは他所者よそものはあまり縁起がいいものでもないのだ。


「そういえばあなたのロクと言うお名前は珍しいですよね。初めて聞きました」


 おもむろにセレスがそんなことを言う。

 彼女は客はあまり来ないだろうに傷は多いという、なにか矛盾を抱えた小汚い木の円卓の向かいに腰掛けていた。

 不思議そうな顔をしていた。


「そうか? 俺はロクでなしのロクだ。よろしくな」


 生憎こっちは孤児だ。

 物心ついた時には親でもなんでもない乞食のババアとさまよってたし、こんな生まれつきの浮浪者にロクな名前なんかある訳がない。


「……そんな意味だったんですね」


 口をへの字にしたセレスが言う。俺は、それに目を擦りながら答えた。


「悪魔の数字のロクでもあるけどな」


 邪神が六十六柱なもんだから、大陸では一般に『六』という数字それ自体を忌避する傾向がある。

 だから子供を数える時も六男坊などとは呼ばず、六を飛ばして七から数えたりもするし、六日には祝い事などを控えたりもする。

 もちろんそういったおまじないも何でもかんでも見境なくやられている訳ではないのだが。


「……待たせたな」


 そこで、店を一人で切り盛りしてるらしい大将が食事を運んでくる。

 円卓にも負けないくらい傷だらけの顔面は陰気臭い表情にしかめられていて、筋骨隆々の身体もあり堅気の者にはとても見えない。


「わー、ありがとございますっ」


 華やいだ声をあげたセレスが、自らの前に置かれた料理に目を輝かせる。

 彼女どうやら肉食なようで、パンとシチューと一緒に頼んだメインは大きな肉の厚切りを焼いたものだ。

 ちなみに俺はパンとこしょうのスープに、オムレツと魚のソテーがつくメニューを頼んだ。

 いまだ料理を待つ俺を尻目に、セレスが生唾を飲み込んだのが分かった。


「……食っていいぞ」


 別に待つ必要もないし待たれても気持ちが悪いのでそう言うと、セレスは誘惑を振り払うようにかぶりを振る。


「いえ、私は……その、なんでもありません……!」


 セレスは何かを言いかけてやめて、けれど面倒だったので特に追求はしない。


「そうか」


 しばらくすると俺の料理も来て、するとセレスは意気揚々と手を合わせる。


「ではロクさん、共に神の恵みに感謝の祈りを捧げるとしましょうか」

「遠慮させてもらう」


 俺はそう言って手を合わせて、さっさと食前のおまじないを唱えた。


「いただきます」


 セレスは口を数度ぱくつかせて、それから観念したようにぎゅっと目を閉じて俺に続いた。


「……いただきます。…………どうかお許しください、神よ」


 何が何でも一緒に食べ始めたいという訳でもないだろうに。

 変わったやつだと思った。今に始まったことでもないが。


「美味しいです!」


 熱心にナイフとフォークで肉塊を解体するセレスは、眩いばかりの笑顔を俺に向けてくる。


「良かったな」


 こちらもオムレツを一口食べる。旨かった。

 客が少ないのが不思議なくらいだ。


「ロクさんもちょっとお肉どうですか? 美味しいですよ?」

「? もらえるのか?」


 もらえるものなら断る気はなかったのでそう言うと、セレスはテーブルの端に手を伸ばす。


「ええ。この取り皿に取り分けてあげましょう」

「待て、それは灰皿だ」


 葉巻を吸う客のための陶器の灰皿は清潔に保たれていた。

 しかしそこに食事を入れてほしいかどうかはまた別問題だろう。

 だから俺が指摘すると、セレスは照れくさそうに笑う。


「ああすみません。私、お友達とご飯に行くのが初めてで……。友達……ふふふ」


 何故か嬉しそうなセレスに、俺はため息を吐いた。


「おかず交換、しません?」

「もう勘弁だな」

「そうですか……」


 あまり残念そうにするので、仕方なくソテーの切れ端をセレスの皿に置いてやる。

 すると彼女はぱっと表情を明るくした。


「えへへ」


 なんだか照れくさくなったので、目を細めて幸せそうにするセレスをフォークで指さして憎まれ口を叩いてみる。


「……あのなぁ、そもそも金払ってんのはあんただろうが」


 ―――


 食事を終えた俺たちはまたぞろ街路に繰り出していた。


「美味しかったですねぇ」


 セレスはまるで夢でも見るような瞳でそんなことを言う。

 そしてまた変な話を語り始めた。


「私はすでに神に命を捧げた身ですが、料理人にもなってみたかったです。自分で好きなものを作れるだなんて素晴らしいと思いませんか?」

「……なにが料理人だ。お前なんて()()()が精々だろ」


 食う割に肉付きの悪い身体を揶揄したのだが、セレスには伝わらなかったらしい。

 呑気に笑っている。


「神は人をまな板になりうるようにはお作りになられていませんよ。ロクさんは不思議な人ですね。あはは……」


 皮肉をわざわざ説明するのも面倒だったので、俺は別の話を切り出す。


「で、次は何に付き合えばいいんだ?」

「そうですね、ちょっとぶらぶらしましょうよ。お話しながら歩けばきっと楽しいですし、いいものが見つかるかもしれませんよ」


 連れはお喋りでやかましいが、人の金で遊ぶなんて俺の人生では珍しい経験でもある。たまには悪くないだろう。


「そうかよ」


 俺が答えると、セレスはにこやかに何かを言おうとして……それから顔を真っ赤にして声を高くした。


「そう…………っ。だ、誰がまな板ですかっ!」

「気づくのおそいって」


 俺はへらへらと笑い、気にせず歩き続ける。


「わぁ見てくださいロクさん」


 三歩歩けば……とは言うものだが、あっさりころりと機嫌を直したセレスはつんつんと俺の肩をつつく。


「なんだよあれ。…………?」


 そして指差す方に視線を向けてみれば、そこにはさっきの飯屋とは打って変わって賑わった店があった。

 大きなガラス窓から中を覗いてみると、洒落たテーブルなんかが並んでそれから小綺麗に着飾った店員が澄ました顔して歩いてる。


「コーヒーハウスって言うんですよ。ハーノスの魔術学院都市で大流行したんですって」

「あんたミーハーなんだな」


 行きたいのか? と聞こうとしてきらきらした表情に行きたいんだろうなと思い直す。

 別にセレスの金なんだから俺はどうだっていい。


「行くんだろ?」

「いいですか?」

「勝手にしろ」


 やった、と小さく拳を握ってセレスが走っていく。

 つむじ風のようにドアを開けてコーヒーハウスに入っていったセレスの後を追って俺も店の中に入る。

 男の給仕きゅうじが俺の黒髪を見て嫌そうな顔をするが、睨み返すと肩をすくめて立ち去った。

 イヤミな店だ。


「お二人様ご案内しまーす」


 わくわくした様子で席についたセレスは、立てかけられたチョークでメニューが書いてある薄い石版に顔を寄せる。

 無闇に凝ったデザインをしていて、これまたイヤミだった。


「すみません、これを二つお願いします」


 二人でコーヒーとパンケーキのセットを頼んで、届くのをじっと待つ。

 けれどやはりあまりいい気分はしなかった。

 別にいけ好かない店だからという訳ではなく、俺の周りが少しずつざわつき始めていたからだ。


 セレスはてんで気がついていなさそうだったが。


「楽しみですねぇ」

「…………」


 俺はセレスを無視してそれとなくあたりを見回す。

 するとあからさまに俺へと恐れの感情を向ける者や、席を立って帰路につく者もいるのが分かった。


 黒髪赤目もそうだが、魔人が解放されたとかそういう情報もきっと漏れているはずだ。

 だから道を人に混じって歩いているのならともかく、こうして腰を据えてしまうとやはり悪目立ちはする。


「あんたは幸せそうだな」


 何も気付かずにわくわくとパンケーキを待つセレスに皮肉を込めて言うと、彼女は首を傾げた。


「ええ、そうですね?」


 やがてパンケーキとコーヒーのセットが一つずつ運ばれてくる。

 一欠片ずつのバターと、細かく目盛りの刻まれた蜜が入った瓶も一つ添えられて、それは会計の時に使った分だけ追加で料金を払うらしい。


「いただきます」

「いただきまーすっ」


 神官を自称する癖にもはや祈りもせずにセレスは蜜の瓶へと手を伸ばす。

 そして、一切の容赦なくパンケーキを甘味に沈めていった。


「…………」


 かけすぎだろうと思いながら俺もセレスから瓶を受け取って節度をもってパンケーキに垂らした。

 セレスのような食べ方は、食べ物に対する冒涜だとさえ思う。


「……なぁ、あんたそれ甘いだろ」


 ヤツが美味そうに食べるパンケーキを見るだけで砂糖を吐きそうだったので、口直しのために俺はコーヒーを飲み下す。

 だが俺の苦々しい言葉にセレスは笑った。


「さすがの私もこれだけやって甘くなかったら怒ります」

「そうか」


 つとめて見ないようにすることにして、俺は自分のパンケーキをナイフで切り取り口に運ぶ。

 そして滲み出す甘さとふんわりと焼いた生地の風味に舌鼓を打っていると、またセレスが突拍子もないことを口にした。


「でもロクさん、どうして魔人だってバレたんです?」


 内緒話のように声を潜めて、口の横に立てた右の手のひらを添えている。

 声が小さいのは多少なりとも気遣ったのだろうが、多分普通に聞こえている。

 それを裏付けるように少なくとも五箇所でコーヒーカップが落ちて割れる音がした。

 最悪だ。馬鹿かこいつは。


「…………」


 あんまりな発言に少しうんざりする。

 わざと言ったのだという方が納得できるほどのアホさ加減だ。

 だがこいつが店の連中をビビらせてなんになるわけでもないはずだ。

 本当に天然で口にしたのだろうか?


 そんなことを思いながら、釈然としない気持ちで口を開く。


「……怪我をした時に教会の救護院に運ばれたんだ。で、その時に血を見られたのがきっかけだな」


 セレスはそれに納得したように頷いた。

 一瞬だけ慌てふためくウェイトレスに彼女の視線が合わせられる。

 俺にとっては胸のすく光景だが、この天然はなぜあんなに慌てているのかを不思議に思っていそうだ。


「なるほど」


 答えたセレスに呆れ混じりの半目を向けつつ俺はコーヒーをもう一口すする。

 今は自分からしゃべる気がしない。


「…………」


 魔人を見分けるほぼ確定的な材料としては、まず血が挙げられる。

 瞳はともかく髪は染められるので人間社会に溶け込もうとする魔人もいなかった訳ではない。

 だがその多くが正体を掴まれる際に血を――まるで泥の上澄みのように体を巡るそのドス黒い血を見られていた。


 魔人の血の黒さは一目見て分かるほどに黒く、また重く淀んでいる。

 わずかに粘度のあるそれにより傷を素早く塞ぐことはできるが、正直いつも気を張らなければならないので無用の長物だ。


「ニンニクを投げられたり聖水を飲まされたり十字架で殴られたりした訳ではないのですか?」


 くすくすと笑ってセレスがそんなことを言う。

 俺は耳を疑って思わず聞き返した。


「はぁ?」


 やれ魔人はニンニクが苦手だの聖水で死ぬだの、三つとも有名な迷信だ。

 本物の聖職者がそんなことを信じていてどうする。


 だからまた呆れたのだが、恐らくはあいつなりの冗談で言っているのだろうと判断した。


「ニンニクは美味いし聖水は安全に飲めるし十字架は靴の細かい汚れを取れるから重宝してる」

「あはは……」


 笑っていいのかこのダメ神官が。

 俺は複雑な気持ちになりつつ、またパンケーキを口に運んだ。

 そしてなんとなく視線をさまよわせると、さっき肩をすくめたイヤミな店員と目が合った。


「……………」


 すると今度は泣きそうな顔で目を逸らして、だから俺は少しだけ気分が良くなった。


「なぁ。また来ような、この店。……へへへ」

「…………? はいっ!」


 ―――


 店を出て、俺たちはまた大通りに戻る。

 店員の野郎があまり怖がるもんだからあれこれ理由をつけてだらだらと居座った結果、それなりに時間が経ってしまった。

 三杯目のコーヒーを持ってきた店員なんて、目が完全に据わっていた。楽しかった。

 それにしても、日の照りつけからして今は昼過ぎと少しくらいだろうか。


「次はどうするんだ? 教会以外なら付き合ってやるぜ」


 気を良くした俺が上機嫌に言うと、セレスは顎に手を当ててなにやら少し考えたようだった。


「教会……は、行きませんけど。ああ、ロクさん。古本屋さんが出てるみたいです」

「寄るのか?」

「ええ」


 通りの端の日当たりのいい場所にむしろを敷いて、十数冊の本が虫干しのようにして広げてある。

 むしろの上には、黒い色眼鏡をつけた変人というか、乞食風のおっさんがあぐらをかいていた。


「あんたら、見ていくのかい?」

「はい」


 セレスが言うと、色眼鏡が開いて干していた本を閉じ始める。そして表紙が見えるように並べ直した。


「今日の売り物はこれだけだな。お嬢ちゃんは見たところ聖職者か? 神様の本もあるぜ。一冊な」


 おっさんがいたずらっぽくそう言うと、セレスはむしろに膝をついて嬉しそうにする。


「本当ですか?」

「ああ、これだよ」


 おっさんが指さした本は……△□◇ユリアの×○……? 難しい字が多いのでタイトルはよく分からなかった。

 俺は学がないのだ。


 だがその表紙やらはそこらで作られているような安本と変わらない作りで、由緒正しい神の本には見えない。

 だからセレスの方を伺ってみると、顔を真っ赤にして唇を噛んでいた。


「は、破廉恥はれんちなっ!」


 はれんちだったのだろうか。

 よく分からないが面白かったのでとりあえず笑っておく。


「ロクさんも何がおかしいんですかっ!」

「おっさんの顔」

「おうたまんねぇなあんちゃん」


 俺はおっさんの言葉にまたくつくつと笑って、並べられた本を見るともなく見ることにする。

 こいつロクな本売ってんだろうか。


「何か欲しいのあったか?」


 セレスは俺の問いに、本の表紙を眺めながらぴしゃりと答える。


「いいえ」

「手厳しいなぁ」


 苦笑いをするおっさんに一瞥をやった後、セレスは俺の方に向き直った。


「あなたは何か欲しい本ないんですか?」

「…………」


 そんなことを聞いてきたセレスに、俺は答えあぐねる。

 だってそもそもこっちは楽しく本を読めるくらいに手習いを身につけちゃいないのだ。


「その……さっきの本は……駄目ですけど……」


 頬を赤くしてもじもじとそう言い足したセレスに、俺は噴き出す。


「なんだか知らないが俺はまともに字が読めないんだ。だから本なんかちり紙にもならないんだよ」


 そう言うと、セレスは目をまたたかせる。


「そうなんですか?」

「ああ。……あと、あんた人には気をつけろよ」

「?」


 これまた分からないという顔をするが、本なんて安い買い物でもないのだ。

 昨日出会ったような男にほいほい買い与えるようでは先が思いやられる。


「まぁでも、分かりました。おじさん、これください」


 そう言ってセレスが手に取ったのは革張りの表紙の他よりちょっと上等に見える本だった。

 そして案の定、それは高かった。


「あんがとよ。……優しいお嬢ちゃん」


 会計を済ませた色眼鏡がにかっと笑って礼を言う。


「いえ、こちらこそありがとうございます」


 本を受け取ったセレスもにこりと微笑んだ。


 本を買って、それから俺たちは街路を並んで歩く。

 しかしこいつ、ほんとに金持ってるな。

 俺は改めてそう思う。

 もしかしてポケットを叩けば……ってやつなんだろうか。羨ましい限りだ。


「なぁ、あんた。ずいぶんお金を持ってるんだな」

「いえ、もう持ってませんよ?」


 俺の問いに、セレスはにこりと笑ってそう答えた。


 ……こいつ、シスターのくせにその日暮らしかよ。

 俺は何度目か分からないため息を吐いた。


 ―――


 宿に戻って本を置いた俺たちは、街の出口に向けて歩いていく。

 

「ロクさん、本当に大丈夫なんですか?」


 こいつはまだ俺が戦闘に耐えうるほど回復していないと思っているらしく、俺は宿屋で寝ているべきだとしつこく言ってきた。

 だが俺としてはさっさと借りを返してしまいたかったし、セレスに一人で行かせるのがあぶなっかしいと思ったので無理についてきたのだ。


「大丈夫だ」

「そうですか……」


 心配そうに見つめてくるセレスに、俺はため息を吐いた。


「あのな、こっちは十の頃から魔物殺して生計立ててんだぞ。俺からしたらあんたの方が心配だよ」

「う〜ん……」


 まだ心配そうな彼女の顔に、うんざりした俺は小さく舌を打った。


「そういえばロクさん、あなた武器は?」


 セレスはそんなことを聞いてくる。

 が、そう言うセレスの方こそシスター服に無手なのだ。


「あんたこそ武器はどうしたんだよ」


 だからそう聞き返すと、セレスは口を尖らせた。


「今はあなたのことを聞いているんですよ」

「俺は武器なんていらないんだよ。魔人だからな」


 人に紛れるために武器は持っていたが、その必要がないのなら俺はそんなものは持たない。


「それはすごいですねぇ……」


 俺が魔人だと思い出したお陰か、セレスの心配は少し薄れたようだった。感心したように手を合わせている。


「で、あんたの得物は?」

「ナイショですよ」


 そんなことを話しながら歩いて、やがて俺たちは城門をくぐり街の外に出る。

 城門から繋がる舗装された道の外、平野には丈の低い草と赤茶けた地面が入り交じり延々と続く。

 そこには街の近くに来たらしい魔物の死体、干からびた泥のようなヤツがいくらか放置されていて、俺はそんなのを眺めたりしつつセレスと共に街道を歩く。


「あんたどこに行くつもりだ?」

「私のここでのお仕事は、とっても強い魔物を倒すことなんです。ですから、それの住処すみかと思しき場所ですね」


 その言葉に、俺にはピンと来るものがあった。


「もしかして、あのオオカミ野郎か?」

「はぁ、オオカミ野郎ですか……」


 腰に手を当てて、セレスはのんびりと道を歩いていく。

 多分セレスの標的というのは俺が敗北した魔物だ。


「オオカミ野郎っていうか……なんか、人間みたいな形したやつだろ?」


 特徴を思い返しながら聞くと、セレスは首を傾げる。


「そういえばそんな感じのことを聞いた気がしますよ。確か、名前はウェアウルフ、とか」

「アレはやめておけ」


 あいつは尋常じゃないほど強かった。

 多分、あの魔物の魂で魔人が生まれてもおかしくはないレベルだと思う。


「とは言ってもですね……」


 セレスは困ったような顔をして、口をへの字に曲げて黙り込む。

 しかし俺は恩人をむざむざ死なせたくはなかったから言葉を重ねた。

 そう、こんなヤツでも俺は結構感謝をしているのだ……。


「あんなのが出たんじゃ俺もあんたを守れない。……それこそ命がいくつあっても足りないぞ」

「…………」


 命がいくつあっても足りないという言葉に、セレスは何故かぴくりと反応したようだった。

 けれど結局何も答えずに口を引き結んだまま、彼女は黙って歩き続けた。


 ―――


 街道をたどって歩き続ける。

 しかしやがては道を外れて進み始めた。

 雨の名残が残る赤茶けた地面を歩いている内に、俺にも目的地は分かり始めてきた。


「もしかして谷の方に行くのか?」


 俺が聞くと、セレスは頷いた。


「そうですね」


 このあたりの魔物が集まっているのはニゼルの谷と呼ばれる場所だ。

 谷の間に広がる平野はずっとここいらの牧畜家が放牧地に使っていたらしいが、今はもう人畜は入れなくなって魔物どもが我が物顔で歩き回っている。

 俺も以前ウェアウルフと交戦した際に足を踏み入れたのだが、大地も水も魔物の泥に汚染されて汚らわしい場所に成り下がっていた。


「あんた本気かよ……」


 本気でウェアウルフを倒すつもりなのだ、セレスは。


「ええ」


 谷に近づくと、地面に泥が這いずった跡があったり、遠くを魔物が横切るのが見えたりするようになる。

 こうなると会敵するのも時間の問題だが……大丈夫だろうか。


「下がってろよ」


 俺は足を早めてセレスの前に出て、そのまま先行する。


「ああ、守ってくださるのですね」


 すると少しだけ張り詰めたような表情をしていたセレスが頬を緩める。俺はそれにため息を吐いた。


「あんたが死んだら俺は罪人に逆戻りだろうが。そんなのは御免なんだよ」


 体が万全なら捕まる気などなかったが、名が売れた傭兵であるだけに魔人として手配されれば活動はしにくくなるだろう。


「なるほど」


 うんうんと頷いて、セレスは俺から視線を離す。

 しかし、もう彼女の表情が張り詰めることはなかった。


 それからしばらく歩き続けて、俺たちはようやく谷にたどり着く。


 むき出しの岩肌を晒す巨大な台地に挟まれたなだらかな平野。

 しかしその地に根を張る草花は枯れ果て、清流は穢れに淀んでいる。

 瘴気が薄霧のようにあたりを覆い、生き物の気配もなくただ泥の魔物だけが数え切れないほど蠢いているのが谷の入り口から伺えた。


「いつもながら酷いですね……」


 まるで独り言のようにセレスが呟くが、俺も同意だった。

 魔物の撒き散らす泥はこの世界にとっては毒で、奴らがはびこるのを許せばいずれは世界中がこの谷のように死んでしまうのだろう。


「ああ」


 なんの気もなしに俺が振り向いて答えると、何故か少し驚いたような顔でセレスが俺を見つめていた。

 

「どうした?」

「……いえ。私、独り言が多かったものですから」

「?」


 よく分からないが、まぁいい。進むとしよう。


「あんたは俺の後ろからついてきてくれ」

「了解です」


 谷の入り口は少しだけ標高が高いので、這いずる魔物がよく見える。

 スライムという一番数が多い下等な泥の塊に加えて、生物の姿形を真似るのに失敗したのだというこれまた下等なごちゃまぜ四足獣のキメラやらが目立つ。

 全体としては、心なしか前より数が少なくなっているよう気がするけども。


「狩るのか?」


 なだらかな丘を下りながら俺はセレスを振り返って聞く。


「そうですね。近寄ってくるものは、倒しましょう」


 そんな会話から少しした頃、泥の塊のスライムがよたよたと数体這い寄ってくる。

 それだけは辛うじて真似るのに成功したのだという目玉だけがいくつも泥に浮いていて、見た目はかなり趣味が悪い。

 また、よたよたとして動きは遅いが奴らには剣戟けんげきの効き目が薄いのだ。

 だから安易に攻撃を加えようものなら呑み込まれる危険もある。


「殺した方がいいか?」


 とはいえ乱戦で気が付かない内に這い寄られない限りは基本的にいてもいなくてもそう変わらない雑魚で、歩いていてもそうそう追いつけはしない。

 だから俺が軽く尋ねると、セレスは首を横に振った。


「構わず進みましょう」


 そして、次に遭遇したのキメラ四体の小さな群れだった。

 奴らは泥の塊が様々な生物の特徴を節操なく取り入れたような姿をしている。

 いずれも基本は泥であり、さらにキメラ一体一体でそこそこ違うのでどの生物を真似ているかなどはかなり分かりにくい。

 だが狼の腹から折れた翼が垂れ下がっていたりする姿はやはり異様だった。

 そして出来の悪い獣の足で、キメラたちは力強く駆けてくる。


「『身体変成』」


 呟いて俺も、魔人らしく右腕の肘から先を漆黒の刃に変形させ地を蹴った。


 すれ違いざま先頭のキメラのどうもヤギっぽいシルエットを両断。

 それから俺を取り囲み狩ろうとするキメラたちの一体に肉薄し、胴をって斬り伏せる。

 背後から小柄な一体が飛びかかってくるが、蹴り落として追撃の踏みつけで頭を砕いた。


 そしてもう一体は……セレスに爪を立てようとしている。

 俺はそいつを始末しようかと思ったが、ヤツは動じることもなく完全に動きを目で追っていた。

 だから大丈夫だろうと見ていると、牙を剥いたキメラは頭部に目にも止まらぬ手刀を叩き込まれた。

 俺から見てもブレるほどの速さで地面にめり込んで命を散らした。


「…………」


 …………しかし、セレスがここまでとは、流石に予想外だった。


「あんた……俺より強いかもな」


 キメラが叩きつけられた衝撃で地面が割れてるのを見て若干引きながら言うと、セレスは小さく微笑む。


「あなたの腕も、驚きました。あれはどうなっているのですか?」


 俺は報奨金をもらうためにキメラの舌を切り取って、宿から持ってきた麻袋に入れながら答える。


「強い魔物は厄介な能力を持っているだろ? 魔人も大体それを受け継ぐんだが、俺の能力は食ったものの性質を取り込んで操る力でな。それを使えばあんな風に腕が剣になるって訳だ」

「剣を食べたんですか……?」


 目を丸くするセレスに、俺は苦笑した。


「剣は食わんが、金属は色々食べた。力が必要だったからな。割り切って食った」

「どんなふうに食べるんですか?」


 麻袋を腰につけ直して、俺はまた歩き出す。少しは稼げればいいんだが。


「俺の魂を間借りしてる魔物の魔力には物を脆くする性質がある。だから、鉄をぼろぼろに溶かして少しずつ食うんだ」

「はー……」


 感心したように息を吐くセレスに、俺はなんとなく頭をかいた。

 そしてそれから二人でウェアウルフを探したが、幸か不幸かその日奴が見つかることはなかった。


 ―――


 夜に近い夕暮れ。茜の空に暗い色が混じり始めた頃。

 二人とも無事で街に戻れた俺達は、街路を歩きながらぼんやりと言葉を交わしていた。


「今日は疲れましたね」

「ああ」

「でも二人なので、いつもよりずっとはかどりました!」

「良かったな」


 俺がちょっと雑に答えると、セレスはなにかに気がついたように指を折ってなにやら数えだす。


「どうした?」

「そういえば、明日はお休みなんです。安息日ですから」

「ああ……」


 一月の最後の週の日曜日は一ヶ月働き抜いた人々のために神が用意した安息の日だと考えられている。

 普段忙しくてあまり祈れない連中もその日ばかりは教会に行き神の前に膝をつくのだとか。


 ……とはいえ俺は浮浪者なので、生まれた時に洗礼を受けておらず教会には入れない。

 行く気もないので関係ないが。


「じゃあ明日は思う存分眠れるって訳だ」


 俺が嬉しくてそう言うと、セレスはなにか不穏な笑い声を漏らす。


「それはどうでしょうね。ふふふ」

「おい。どういうことだよ」

「…………」

「……なぁ、おい」


 そして歩き続けて、そろそろ宿が近づいてきたというその時。

 セレスが足を止める。


「今度はどうした?」


 俺が振り返ると、決まり悪げにセレスは答える。


「いえ、ちょっと用事があるのを思い出して」

「ああ……」


 俺がそう言うと、夕日を背にセレスは笑った。


「いえ、お気になさらず。それじゃあ、宿で待っててください……」


 かすかなよそよそしさを匂わせつつ背を向けたセレスに、俺は思わず声をかける。

 何故だか今の微笑みが無理をしていたように見えたのだ。


「なぁ。俺もついていこうか?」


 だが俺の問いに振り返ったセレスは、常と変わらず呑気な表情を浮かべていた。


「いえ、先に休んでいてください。ありがとうございます」

「……そうか」


 それからセレスはまた背を向けて、今度こそ振り返ることなく歩き去る。



 だがその日、夜になってもセレスが帰ってくることはなかった。

 別に逃げ出そうとも思わなかったが、見張られる立場の俺からしたらずいぶん不用心なことだった。


 ―――


「ロクさん」


 揺すられて、俺は目を覚ます。

 気持ちよく眠っていた俺の横に膝をついて、毛布を奪おうとしている。


「……なんだよ。やめろよ」


 そう言いつつも頭を揺らされると俺の意思に反して眠気はごりごりと奪われていく。


「今日は安息日だから休むとか言ってただろうが」


 最後の抵抗として俺はそう口にした。


「いえ、それはそうですが……暇じゃありませんか」


 決まり悪そうに微笑んでそんなことを言うセレスに、俺は思わず身を起こす。


「はぁ?」

「…………」


 無言でにっこりと笑うセレスを、俺は軽く突き飛ばした。


「あうっ」


 セレスはわざとらしく床に倒れる。俺はそれを見て鼻を鳴らした。


「あのな、あんた……」


 口を開いたものの二の句が継げずにがっくりと肩を落とす。


「あんたなぁ……」

「ふふふ」


 ひょこりと身を起こして笑うセレスに、俺はもうなんと言っていいのか分からなかった。


「俺はなぁ……昨日好きなだけ寝れるものだと思って眠りに就いたんだぞ。……あんまりじゃねぇか」

「私はあなたと好きなだけ遊べるものだと思っていましたが?」

「ふざけんな……」


 窓から外を見る。日が薄い。こいつ昨日より早く起こしやがったんだ……。


「教会でも行ってこいよ。あんたシスターだろうが。一昨日の夜熱心に祈ってただろ」


 俺が床にあぐらをかきつつ言うと、対面に座ったセレスは難しそうな顔をする。


「……これは一本取られましたね」

「知らねーよ行けよ。俺は魔人だし、それ以前に賤民せんみん扱いだからな。俺は行けないけどあんたは行くべきだろ」


 しかし、俺の言葉にセレスは鼻息荒く反論する。


「いいえ、行きません」

「なんでだよ」

「行きませんっ」

「理由を言え理由を!」

「あっ、そう言えばそうですよ」

「あんたそれは無理があるぞ」


 唐突に声を上げて立ったセレスは、部屋の隅に置いた自分の荷物が入っているかばんに手を伸ばす。

 そして、一冊の本を手に取った。俺も知っている、昨日の本だ。


「ねぇロクさん、本はいいものですよ」

「あ?」


 不機嫌にそう返した俺の、すぐ横にセレスは腰を落ち着かせる。


「いえ、あの……私、今は離れていますが本当はとある修道院のシスターなのですよ」

「……だから?」


 俺が聞き返すと、セレスは頷いて言葉を続ける。


「そしてこれは、そこで小さい子達に読み書きを教えるための教本なんです。もし良かったら、あなたも本を読めるようになってみませんか?」

「嘘つくな、バレバレなんだよ」


 どこからどう見たってそれは昨日買った本なのだ。

 俺のために本を買ったのだと、そんな風に気を遣わせないために嘘を言ったのだろう。

 でももっとやりようがあるだろうと俺は呆れる。

 しかし、それに返ったのはどこか噛み合わない答えだった。


「い、いえ! 私、本当にシスターなんですよ!」

「? ……いや、そっちじゃねぇよ。あんたのそれ、昨日の本だろうが」

「あ、なるほど……。バレてましたか」


 目をぐるぐると泳がせてそんなことを言うセレスを俺はほんの少し訝しむ。

 先に思い当たった嘘が『シスターであること』だったのか。

 それとも単に天然なだけか……。


「……どうかしましたか?」


 黙り込んだ俺の目を、覗き込むようにしてセレスが声をかけてくる。


「なんでもない」


 だがそう、なんでもないのだ。

 俺としてはこいつがシスターだろうがブラザーだろうがどうでもいい。命を助けられたのは事実なのだから。


「それよりあんた、俺がさっさと字を読めるようになったら寝かせてくれるんだろうな?」


 読めるようになってはどうですか、とは言いつつも引き下がるつもりがなさそうなセレスに俺はうんざりと口を開く。


「ふふふ。そんなに簡単なことではありませんよ」


 そう笑って彼女は俺の横から腰を上げた。

 そして部屋にある小さな机へと歩いて行って、おもむろに振り返る。


「ああ、そうだ。言い忘れてたことがあったんです」

「なんだよ」


 俺が不機嫌に言うと、セレスは花のように微笑んで答えた。


「どうも、ただいまです」

「…………」


 優しくされたことなんかなかった俺は、誰かに優しさを返す方法を知らない。

 けれどそれでも、「ただいま」に返す言葉くらいは分かっていて、恐らく今はそれだけで十分だった。


「……ああ、おかえり」


 だから俺が答えると、セレスはやっぱりまた嬉しそうにして笑うのだった。


 ―――


 それからしばらく、俺はセレスと共にこの街で暮らした。

 彼女はあの夜のように時々姿を消すことはあったが、それ以外は俺と一緒に行動することがほとんどだった。

 誰かに起こされて一日が始まり、言葉を交わしながら食事を摂る。

 そんな以前は想像すらしなかった日々が当たり前になり始めたある日。


 街を、魔物が襲った。


 ―――


 それは曇った、嫌な天気の日のことだった。

 絶え間なく剣戟の音が鳴り響き、泥の黒が埋め尽くす地平に時折魔術の光が閃く。

 兵士が入り乱れ、魔物たちと刃を交わしている。

 街の外の平野は今や戦場で、俺はセレスと共に兵士たちによる防衛戦に報奨目当ての傭兵に混じって参加していた。


「ロクさん、ウェアウルフを探してください。あの魔物を直接見たことがあるのはあなたなんですから」


 恐ろしく鋭い掌底でオーガと呼ばれる巨人の泥の上半身を吹き飛ばし、セレスが俺に言った。


「……ああ、分かってるよ」


 答えて戦場を見回すが、ウェアウルフは見つからない。

 もし奴がいるのならば、死体が山ほど積み重なって、しかも共通した特徴があるはずだった。


「…………」


 しかし、それにしても襲撃は突然だった。

 今思えば谷に魔物が少ないように感じたのは街の近くに魔物が集結していたからなのだろうが、それでも一挙にこれだけの規模の魔物が押し寄せてきたのだ。

 間違いなく指揮官になる上位の個体が存在するはずで、であるのならウェアウルフはこの戦場にいるに違いない。


「……見つけた」


 俺は体を鉄鎧ごと半ばから引きちぎられて死に絶えた死体を見つける。この常軌を逸した怪力こそ、ウェアウルフの殺しの証明だった。


「セレス、こっちだ」

「はい」


 俺はセレスの袖を引き、戦場の東へと導く。

 何故なら点々と同じような死に方の人間の死体が落ちていたから。

 そして、そうして戦場を駆けてたどりついた先で、俺は確かにウェアウルフと再会する。


 大柄な人の身の丈をさらに五割増したような巨躯と、そこに漲る怪力が否応なく察せられる強靭な四肢。

 逆立つ毛に覆われた狼と人の中間のようなその姿に、鋭い爪や頑強な牙は全て硬質にして高密度な泥により形作られている。

 どうやら奴は殺しの最中だったようで、爪の先に刺されたみすぼらしい傭兵の死体を腕を振り放り捨てた。


 そして魔物の眼窩からは獰猛な赤い瞳が覗き、俺の方を睨みつけてくる。


「……ほんとにやるのか、あんた?」

「ええ」


 俺の問いにセレスは淀みなく答える。

 まぁ、やるなら仕方ない。俺は俺の務めを果たすだけだ。セレスは強いしな。


「なら気をつけろ。あいつは転移能力を持ってる。瞬間移動ってやつだ」

「分かりました」


 やけに凛とした声でセレスが答えて、ウェアウルフへと視線を向ける。


「『魔人化オルタナティブ』」


 そして俺は自らの内の魔物の魂を解き放つ引き金の言葉を口にする。

 すると俺の表皮は俺の知りうる限り最も硬質な金属、黒き鉄たるオリハルコンに変化する。

 さらに捕食に適するように口が大きく裂け、手指は鋭く先端を尖らせ、全身に黒い霧のような腐食の魔力が薄く纏わりつく。


「……なんだ。あんただって、分かってて連れてきたんだろ?」


 俺の体の変化に驚いたのか、目を見開くセレスに俺は呆れる。

 いや、呆れだけではない。俺はほんの少しだけ、怖いとも思っていた。

 そこそこの時をこいつと過ごしたが、こんなあからさまに化物な姿を見せるのは初めてだったから。


「少し、驚いただけです」


 そう言って一歩踏み出したセレスの表情は伺えなかったが、声だけは常と変わらなくて俺はわずかに安心する。


「来るぞ」

「ええ」


 ウェアウルフが吠えて、そのケダモノの足で力強く地を蹴る。

 俺にはまるで無理なくらいの速さにまで瞬く間に加速し接近してくる。


「俺にできるのは囮くらいだ。あんまり期待すんなよ!」


 そんな情けない言葉を言い捨てて、俺はセレスの返事も聞かずに駆け出す。

 俺は多分セレスより弱いが体は堅い。

 あいつがいくら強かろうが、肌なんかが人間のものである以上前に出す訳にはいかなかった。

 奇襲に優れる転移持ちが相手なら、それはなおさらだ。


「来いよクソッタレ!」


 右腕を黒の大剣に変化させ、俺はウェアウルフを迎え討つ。

 まず一撃。叩きつけは軽く弾かれる。

 が、反撃に繰り出された奴の爪の振り下ろしはなんとかかわすことができた。

 とはいえ当然それだけで終わる相手ではない。


 大きく踏み込んで、続けざまに爪が振るわれる。

 俺はそれを盾に変化させた左腕で受け流し、大剣の刺突でウェアウルフを……と、そこで。

 奴の姿が消えて、同時に俺は背中に一撃をもらう。


 ああ、駄目だこりゃ。


「っ!」


 無様に吹き飛ばされるが、すぐに立ち上がった。

 純粋なオリハルコンは人には扱いがたいほどに固い。

 だから表皮をそれに変えた俺はあいつの攻撃に少しは耐えられる。


「ロクさん!!」


 遥か後ろでセレスが叫ぶ。


「大丈夫だっての! 人の心配してる場合か!!」


 とは言うものの……。セレスは何をしてるんだ?


 ウェアウルフの追撃をかわしつつ俺が後ろを見ると、彼女はなにやら跪き祈っているようだった。


「…………?」


 意図は読めないが、それでも俺はあいつをまぁまぁ信じている。

 なにかするつもりなら、時間稼ぎくらいしてやる。


 俺は右腕を長剣に変えて、左手の盾と合わせてひたすらに守りに徹する。

 俺に取り憑いてる魔物の魂は恐らくこいつと同格程度だったのだろうが、俺が人格を保てているというのはそれだけ魔物の魂が弱っていたということだ。

 正面からやって勝てる相手ではなかった。


「クソ……!」


 悪態をついた。

 そして全身に傷を負いつつも俺はなんとか耐え続ける。


 だが突然背後におぞましい気配を感じて、ほとんど反射的に振り返ってしまった。


「……?」


 それは看過しがたい隙だったはずだが、ウェアウルフの方も俺と同じく気配に気を取られて追撃を加えてくることはなかった。

 そして振り向いた先には、異様な雰囲気を纏って俯き立ち尽くすセレスがいた。


「セレス……?」


 俺が呟くのと同時。

 セレスの右手の指先が細く長大な、それこそ彼女の身の丈の何倍もある泥の触手に変異した。


「『不死たる片影フラグメント』」

「あんた……それは……」


 手の平から伸びる指に成り代わった触手。

 黒の五本は汚らわしい汚泥の汁をしたたらせ、それ自体別の生き物のようにうねっていた。


「魔物……?」


 俺が疑問を漏らすと、ちょうどセレスが顔を上げる。

 そして淀んだ血のように紅く染まった目を俺に向けてきた。


「……その話は、あとで。今は私に任せてください」

「任せろって……!」


 俺が言い終わる前に、セレスの指先が……触手が、凄まじい速さで伸びてウェアウルフへと殺到する。


「!」


 まさに神速。

 常軌を逸したレベルの速度に、しかしウェアウルフは確かに反応してみせた。


 横に飛び退き、触手の先端をかわしセレスの懐に潜り込もうと走り出す。

 だが標的を仕留めそこねた触手は即座に反転。

 引き戻されて背後から敵を狙う。

 これには流石の奴も対応し損ねるが、転移により辛くも回避した。

 そして虚しく空振った触手を、転移により現れたウェアウルフが根本から爪で斬り落とす。


「セレス!!」


 俺は叫び、間に合わないと知りつつセレスの元へと走ろうとする。


 しかし、俺が一歩を踏み出すか踏み出さないかの内。

 本当に瞬くほどの間にセレスの触手は再生し、追撃を放とうとしたウェアウルフの体を絡め取った。

 獣じみた声を上げて暴れる魔物は、俺にも残像しか見えないほどの速さで何度も何度も地面に叩きつけられる。


 そしていくらか痛めつけられた後、奴は小石のようにして猛烈な勢いで投げ飛ばされた。

 なすすべもなく地に叩きつけられたウェアウルフは、相当に効いているように見えた。

 ひび割れた泥の体からドス黒い体液を垂れ流し、なんとか立ち上がったものの息は絶え絶えだ。

 だが未だ立つその足には力強さが残っているし、なにより。


「ガァァァァァッ!!」


 大気を震わすような声で吠えたウェアウルフの、その体を真紅の魔力が覆い尽くす。

 それは俺の黒霧よりもよほど濃密で、魔物としての格の違いってヤツが否応なく伝わってくる。


「セレス!」

「見えています!」


 ウェアウルフの姿が、俺の視界の中で霞むように見えた。

 そしてそれが示すのは身体能力の爆発的な向上である。


「アァァァァァァっ!!」


 狂乱の声を上げて、ウェアウルフがセレスの触手をかわし……いや、時にはあの触手を掴み、引き千切ってすらいる。

 地を抉るような踏み込みで横に機動したウェアウルフを、セレスの触手が横薙いで追う。

 鞭のように叩きつけられたそれを跳躍でかわして転移。

 触手は一瞬標的を見失うものの、次の瞬間には弾かれたように右に殺到し人影を一つ貫いた。


「セレス! 後ろだ!」

「!」


 だが触手が貫いたのは何ということもない、人間の死体だった。ウェアウルフが転移させ囮にしたのだ。

 セレスは振り返るがもう遅い。


 猛り狂う真紅の魔物が肉薄する。

 そしてセレスの頭部、その顎から上を爪の一撃で完全に吹き飛ばす。

 引き裂かれ千切れたベールと肉片が混ざり合って飛び散り、欠けた頭は大量の血を撒き散らした。


「セレス……!」


 頭を失った棒立ちの体が力を失い倒れようとする。

 俺はその光景に、自分でも思いもしなかったくらいに動揺して……待て、何だあれは。


「は……?」


 思わず声が漏れた。

 よく見るとグロテスクな赤い傷口に小さな泥のようなものが蠢いている。

 そして泥は瞬く間に膨れ上がり、セレスの頭部は完璧に再生した。


「ロクさん……私は……不死です……そんな、こえを……だ、出さ、ないで……」


 倒れようとした体は寸前で支えられ、再び力を取り戻した触手がウェアウルフの腹を貫く。

 貫いた触手は敵の体を内側から引き裂こうと動くが、殺害の寸前で転移され標的を失う。

 それからその場に一人残されたセレスはよろめいて膝をついた。


「おいあんた! 大丈夫か!」


 俺は腐食の力を抑えて、セレスに駆け寄り背を支える。

 だが彼女の体は小刻みに震え、青ざめ冷や汗を流していた。


「おい、辛いのか?」


 見れば分かる。だが、俺も気が動転してつい聞いてしまった。

 死んだかと思ったら生き返り、今度は具合が悪そうだなんて、そんなの状況を追いきれるわけがない。


「だい、じょうぶ、です……」


 セレスが荒い息を吐きながらも立ち上がる。

 そして泥を吹きこぼす腹を押さえうずくまっていたウェアウルフも、それを見て腰を上げた。


「私、は……神様のために……」


 弱々しく言ってセレスが再び触手をうねらせた、その時。


「……手間取っているな」


 低い、そんな男の声がして、次の瞬間に俺たちの脇を白い閃光が駆け抜ける。

 神聖な気配を纏う、俺なんかは近くを掠めただけでかすかに痺れるように感じた一撃は確かにウェアウルフに命中し巨体を吹き飛ばす。

 それを見届けた俺が振り向くと、そこには白く裾の長い法衣を纏った白髪の、色を削ぎ落とされたような若い男がいた。


「あんたは?」

「セレスが言っていた魔人か。残念だが、俺は穢らわしい魔人と利く口は持ち合わせていない」


 整った顔は無表情で、俺に向けている青い瞳からもなんの感情をも読み取ることはできない。

 それから同じ温度の視線をセレスに向け、声をかけた。


「セレス、アレの動きを止めろ。アリシアが仕留める」


 アリシア?

 なんか、聞いたことある名前だなと俺がそう思った時、ちょうどアリシアらしき女が現れる。


「……気持ち悪い」


 その女は漆黒のローブを身に纏い、鍔広の帽子を被って長い杖を持ったいかにも魔法使いな出で立ちをしていた。

 そして流れる青い髪に白磁の肌、くっきりとした高慢そうな目鼻立ちに日輪を思わせる赤の瞳。

 そんな威圧的ながらも美しい女が、俺のことをゴミでも見るような目で見ている。


「おいあんたら一体……」

「ロクさん……!」


 困惑して、そう問いかけようとした俺をセレスが制止する。


「この方たちは使徒です。もう少し言葉の使い方というものが……」

「は?」


 使徒だと? 

 すると、彼らは神の加護を受けて魔王を倒すっていうアレだ。

 ……まぁ今回の使徒は一度魔王に破れた敗残だが。


「獣の躾は後にしろ。できるな、セレス?」

「……はい」


 いつも和やかなのに、それがセレスなのに。

 びくびくと怯えるようにして答える。

 そして触手を蠢かせて、ウェアウルフの方へと向き直った。


「行きます」


 だが、戦闘を再開したセレスは明らかに精彩を欠いていた。

 ウェアウルフはこちらも鈍ってはいるものの、地の生命力の違いかやはりまだまだ余力を残していて徐々にセレスを押し始めている。


「おい! あんたら助けないのか!」

「…………」


 アリシアはぼそぼそと魔術の詠唱らしきものを呟いていて、俺の話なんか聞いちゃいない。

 男の方はというと、俺の方に視線は向けたものの何も言うことはなかった。


「…………っ!」


 傷つき、傷つき、顔を苦痛に歪ませるセレス。

 そんな様子を俺が見かねかけた時、男はセレスに向けて口を開く。


「おい、追いつけないなら攻撃してきた瞬間を狙え。お前の体を引き裂いたその瞬間に捕まえろ」

「テメェ!!」


 その言葉に頭に血が上って掴みかかる。

 だが反応できない速さで蹴りを入れられ、吹き飛んだ俺はダメージはなくとも無様に倒れる。


「……触るな、魔人が」

「……っ!」


 今の一瞬で勝てないとわかった。

 俺はウェアウルフにもこいつにも力が及ばない。

 ……こんなに弱くて何が魔人だ。


「クソ……!」


 あいつを守ると決めたのに無力な自分が情けなかった。

 見ればセレスは、自分の体を貫かせようとわざと触手の動きを遅くしている。

 張り詰めた顔で、ただ貫かれるのを待っている。

 セレスの笑顔を思い出して、俺は何故か胸が痛くなる。

 痛くて痛くて仕方がなくて…………ああ、クソ。


 地を蹴り、打算も何も捨てて俺は駆け出す。


「おい、お前。勝手な真似は……!」

「利く口はねぇんだろ?」

「…………ッ!」


 その皮肉に苛立たしげに顔を歪めた男に、してやったりと俺は笑う。

 それから今にもウェアウルフに体を貫かせようとするセレスの前に割って入り、強烈な爪の一撃を胸に受けた。


「……はっ」


 激痛。だがこらえてセレスの方を振り返る。

 彼女は恐怖に目を閉じていたようだが、予感していた痛みが訪れないことを訝しんだのかやがてそろそろと目を開ける。


 そして魔物に貫かれた俺を見てその目を驚愕に見開いた。


「ロクさん! 何を……!」


 悪くない気分だっ……胸を突き破った爪、が、捻られる。


「がっ……!」


 俺は意識を遠のかせながらも魔物の腕を両手で掴んで離さない。

 ありったけの力を振り絞ってその腕を腐食させ、ぼろぼろにして抵抗の力を奪おうとする。


「おい! お望み通り……止めて、やったぞ! 早くやれ!!」


 俺がそう叫ぶか叫ばないかという瞬間、視界が真っ赤に染まって吹き飛ばされた。


 ……………………。



 一瞬気を失っていたようだった。

 頭がぐらぐらして、『魔人化』は解けているらしい。

 それから……あれ? まだ腕刺さってんのか?


「ああ……」


 どうも、ウェアウルフの体はアリシアとやらの魔術で八つ裂きにされて、千切れ飛んだ腕が俺の胸に残っているらしい。

 とてもとても、痛い。


「ロクさん! なんで、こんな……! それ抜かないと……ああ!」


 意外と長く気絶してたのかもしれない。

 いつの間にか触手を指に戻して、セレスが泣きじゃくりながら俺にすがりつく。


「おい、あんた。大丈夫か?」


 痛くて痛くて仕方がないけど、でも良かったよ。


「大丈夫です。でも、なんで、こんな……私は死なないのに……あなたは死んだら、それっきりなのに……! あなただって見たでしょう!?」


 平静を欠いて何故だ何故だと喚き散らすセレスに、俺はちょっとおかしくなって笑ってしまう。


「じゃああんたさ、俺が不死身だったら、あの十字架から助けてくれなかったか?」

「…………」


 その言葉にセレスは動きを止めて、濡れた瞳でこちらを見つめてくる。


「俺なりに、あんたへの借りは重く見てるんだよ」


 弱い俺にはセレスのために他に何もする事ができなかったんだから、これでいいんだ。

 俺だって借りも返せずだらだら生きるほど恥知らずでもない。


 と、その時。

 あの男が歩み寄ってきて、俺の胸から無造作にウェアウルフの腕を引き抜いた。


「っ……!」


 すぐさま胸に空いた風穴からドス黒い血が溢れ出す。

 それを一瞥した男は腕を放り捨てて、それから俺の傷に手をかざした。

 すると俺の傷が凄まじい速さで塞がる。

 完全に治りはしなかったが、少なくとも向こう側が丸見えってことはなさそうなくらいには治った。


「……助かった」


 咳き込み血を吐いたあと。

 複雑な気持ちではありながら俺が言うと、男は冷たい視線を返す。


「まだ使えると、そう判断しただけだ」

「…………」


 しかし、あの大穴をこうまで簡単に塞いで見せるか。

 セレスは彼らが使徒だと言ったが、治癒魔術の腕と伝え聞く身体的特徴からして彼は『第二使徒』のクロードだろう。

『勇者』の第一使徒、『治癒士』の第二使徒に、『魔法使い』の第三使徒と『戦士』の第四使徒。

 奴が治癒士だと言うのなら、これほどの術を扱えることにも納得がいく。


「……おい、セレス。もう終わったのか?」


 周囲の剣戟の音も収まり始め、防衛戦が魔物の敗走をもって終わろうとしていたその時。

 どうにも耳にざらつく、暴力的な気配を纏った声が俺の耳をついた。


「てめぇ……ふざけんじゃ、ねぇ……! さっさとアルデシアに行って……俺の、加護を……! 取り戻せよ……!!」


 だがそれは同時に息も絶え絶えな、苦しそうな声でもあった。

 声の方に視線をやると、そこには半身を包帯で覆って、杖をつき歩く男がいた。

 がさついた赤毛と、暗くギラついた金の瞳。

 憤怒に震えるその男は、今にも倒れそうな様子だった。


「ザリド、落ち着け。この街に出向いたのは必要なことだ」


 男……クロードの言葉に、ザリドと呼ばれたそいつは激昂する。


「あぁ?! あの化物女がいれば俺は必要ねぇってか?!」


 怒鳴るザリドに小馬鹿にするような目を向けて、アリシアが呟く。


「……あんた自分で戦えないんだから出てこないでよね、迷惑」

「なんだと……テメェ!!」


 それにザリドは目を血走らせたが、魔法使いの方はどこ吹く風と鼻を鳴らす。


「…………」


 今回の戦役で、使徒たちは魔王に挑んだ時点で勇者を失い、さらにその敗北の勢いのまま彼らが守るべき四つの神殿の街の一つであるアルデシアを奪われている。

 故にアルデシアの『風の法石』から加護を授かった第四使徒ザリド=メリグランスは当然その力の大半を失った。

 さらに今回の戦役を引き起こした【呪詛の魔王】ウルスラの呪いによって動くことさえままならないのだと、そんな噂を聞いたことがある。


 本当だとは知らなかったが。


「やめろ」


 ザリドはアリシアに掴みかかろうとするが、クロードに制止されよろめく。

 そして無様に杖に縋り付き、苛立たしげに歯を噛むと今度はセレスへと矛先を向けたようだった。


「おいテメェ、テメェがこんなとこでチンタラしてるから俺がみっともねぇ目に遭うんだ! 分かってんのか!!」

「っ、すみませ……」


 男は杖の石突で俺の側でひざまずいていたセレスの腹を殴り、足蹴にする。


「全部、お前のせいだ……! クソッ、化物が……!」

「おいてめぇ! やめろ!」


 何も言わずに殴られるセレスを俺は見ていられなかった。

 目の前のこいつも多分使徒なんだろうが、俺はあの十字架で一度死んでる。怖いことなんてなかった。


「みっともねぇのはお前のせいだろうが! この卑怯者!」


 俺は怒鳴りながら立ち上がり、殺さない程度に手加減しつつもザリドをぶん殴って地に転ばせた。


「テメェ、魔人の分際で、俺を……!」


 すると腰につけていた短刀を抜いて、立ち上がったヤツはふらふらと俺に向けて歩いてくる。

 だが刺される前に、今度はセレスが立ち塞がった。


「ロクさんには私がよく言っておきます! ごめんなさい! お願いします……許してください……!」

「どけ、セレス! 触んじゃねぇこの化物が!!」


 ザリドはセレスを払いのけようとするが、セレスも離さない。

 俺の前で揉み合う二人をぼんやりと見ていると、曇り空から雨が降ってきた。

 どうしようもなくただ苛立たしくて虚しかった。

 いっそ今、こいつを殺してしまおうかと思った。


「お前言ったよな、セレス。こいつの責任は自分が持つってよ!! こいつが逃げたら俺に『三回殺される』ってほざいてたよなァ?! 俺は今こいつを百回殺したって気が済まないと思ってる。じゃあテメェ俺に百回殺されんのか?! あぁ?!」

「殺されます、何度でも。だから、もうやめてください……」


 泣きじゃくりながらセレスがザリドを押し留めて、セレスに向かってザリドは短刀を振り上げる。

 すると静観していたクロードが、俺が止める間もなく奴の手から短刀を奪い取った。


「目に余るぞ、ザリド」

「…………ッ!」


 腹立たしそうに息を吐き、ザリドは乱暴にセレスを振りほどく。


「役立たずの意見なんか聞かねぇってか。ああ、よく分かったよ! クソ!」


 そう吐き捨てると憎々しげに俺を睨み、バラバラに飛び散ったウェアウルフの死体を指差す。


「おい魔人」


 何も言いたくはなかった。

 言葉を交わすことすら不愉快だった。

 だが場を収めるために俺は答えた。


「……なんだよ」

「お前。これ、食えよ」

「は?」


 余りのことに、俺は思わず聞き返す。

 だがザリドは醜く顔を歪めて、ぎらついた瞳を暗く輝かせる。


「お前、喰ったモンの性質を取り込めるんだろ? セレスから聞いたよ。だったらそこの死体食えば、ちったぁ役に立つようになれんだろ」


 悪意に満ちた言葉に、セレスが悲痛な声を上げる。


「いけません、そんなこと! あんまりではありませんか!!」


 しかしザリドは目もくれず、あくまで俺の方を真っ直ぐに見る。


「おい、飼い犬の不手際は飼い主の責任だからな。お前がやらねぇなら…………まぁそれなりの覚悟はしてもらう」

「…………」


 俺は何も言わずに、ただよろめく足を無理やり動かしてウェアウルフの死体へと歩み寄った。


「ロクさん!!」


 セレスが引き留めようとするがそれも振りほどいて、跪き飛び散った泥を手で拾って口に入れる。


「はっ……ははっ! ほんとに食いやがった」


 そう笑って、ザリドはどうやら満足したらしく帰って行く。


「クソ、濡れちまった。……残すんじゃねぇぞ」


 背中越しに言い捨てて、歩き去るザリド。

 それにクロードたちも続く。

 ザリドの提案は彼らにとっても異論のないものだったのだろう。

 別に止めてほしいなんて思わないが。


「……不味いな」


 口に入れた魔物は、当然だが不味かった。

 固くてその癖噛むと粘り気があって臭くて冷たくて、口に入る雨が救いに思えるほどだった。


「ロクさん! やめましょうよ! 私のせいに、していいですから……」

「馬鹿。……俺なんかのために殴られてどうする」

「だって、あんまりですよ、こんなの……酷すぎます……」


 いつの間にやらざぁざぁ降りの雨の中、セレスが顔をぐしょぐしょにして泣きながら言う。


 でも俺は酷いとは思わない。

 俺自身気が付かなかったが、こいつを喰えば俺はきっと強くなれる。

 教えてくれて有り難いくらいだった。


 強くなるためならば、俺はこれくらいのことは平気でやれる。

 なにしろ強くなければこの世界では生きられない。

 今までだって力を手に入れるためになんでも喰ってきた。


 この期に及んで躊躇うことなど無意味だろう。


「酷いのはあんただよ。大体、急に頭なんか飛ばされやがって。…………驚くだろうが」


 口にした俺の言葉を、セレスは聞いているのかいないのかさっぱり分からなかった。

 ただごめんなさいごめんなさいと繰り返して、死体を貪る俺の横で泣きじゃくっていた。


 ―――


 死体を食べ終わって、それから、思い出せない。

 ともかく目を覚ますと、俺は雨の中を誰かの背中に背負われていた。

 その誰かは俺のことを随分心配しているようで、絶えず励ますようにして声をかけてくる。

 かけられる言葉と揺れがなんだか心地よくて、俺はまたすぐに意識を手放した。


 ―――


 意識が覚醒する。

 俺はあのボロ宿の、ベッドに寝せられているようだった。


「おい、セレス……?」


 ランプに照らされた薄暗い部屋の中。かすれた声でセレスを呼び、身を起こして彼女を探す。

 すると間を置かずにすぐ左から声が返ってきた。


「ここにいますよ」


 だるい頭を動かして声の方へと振り向かせる。

 するとセレスは糸と針を持って、俺の服を縫ってくれていたようだった。


「そうか」


 俺は上には何も着ていなかった。

 ただその代わりに、丁寧に巻かれた包帯があった。


「あんたが手当してくれたのか?」

「その通りですよ、ロクさん」

「そりゃ……悪かったな」


 そう答えるとセレスは何も言わずに微笑んだ。

 そして針を置き、やはり何も言わないまま椅子から身を乗り出して俺のことを抱き寄せる。


「…………」

「…………」


 セレスが何も言わないから、俺も何も言わなかった。

 ただその小さな体の、震える指の抱擁を受け入れる。

 するとなんだか酷く場違いな場所に迷い込んでしまったような気がした。


「ねぇ、ロクさん。あなた前に、どうして教会に行かないのか聞いたことがありましたよね?」


 静かな声でセレスが尋ねてくるが、俺は意図がよく分からなかった。


「実は私ね、もうとっくの昔に破門されてるんです。……ほら、あなたも見ましたでしょう? こんな体ですから。もう、化物ですから……」

「…………」


 この大陸では、殆どの人間が生まれたその瞬間に教会で洗礼を受ける。

 それにより初めて人間として認められるのだ。

 故に破門とは人間認定の解除、実質的に人権を奪われることを示す。


「もう教会には入れませんし、生まれ育った孤児院にも帰れません」


 泣きそうな声で、俺のことを強く抱きしめてセレスが言う。

 俺はそれに、やはり何も言えない。


「一人ぼっちで魔物を殺す日々を送って、私は多分、それが辛くて。だから……あなたと友達になれると思ったんです。あなたが魔人だから私のことも受け入れてくれると、そんな打算で……あなたに近づいたんです」


 あるいはいつかの雨の日も、本当は散歩ではなかったのかもしれない。

 街の広場に晒し者にされている魔人に、淡い期待を抱いて近寄ったのかもしれない。


「ごめんなさい。私は、ずるい人間です。自分のためだけに、あなたを辛い目に遭わせてしまいました。……本当なら、すぐに逃してあげるべきだったのに」

「……気にするな。俺も、あんたに会えてよかった」

「ごめんなさい……」

「いいって。もう言うな」


 また謝って鼻をすするセレスの言葉を俺は遮った。

 そして疑問を一つ投げかける。


「なぁ、あんた。どうしてまだ祈るんだ?」


 ザリドたちに虐げられて、こんなボロ宿に一人で寝起きして、それでセレスはずっと魔物を殺してきた。

 どういう訳かは知らないが人間ですらなくなり、故郷にも帰れずただ一人で血に濡れ続けていた。

 そしてそんな目に遭ってなお、何故神を信じられるのか俺にはどうも理解できなかった。


「そうですね」


 セレスはその問いに、震える声で答えた。


「どうして、まだ祈るんでしょうね」

「…………」


 どうしようもなく辛そうな声に、俺はセレスが祈る理由が分かった気がした。

 それはきっと耐えられなかったからからなのだろう。

 こんなろくでもない魔人に救いを求めてしまうほどに追い詰められていたから。

 縋るものがもう他に残されていなかったから、彼女は破門されてなお神に祈っていたのだ。


「その、すまない」


 俺が謝ると、彼女は少しだけ笑ったようだった。


「いいんです。……ねぇ、ロクさん」

「なんだ?」

「……今なら、祈れますか?」

「…………ああ」


 頷いた。神のためにではなく、セレスのために、今だけ神を信じられると思った。


「では、私の声に重ねてくださいね。……我らが神に祈りましょう。我らが神に捧げましょう。我らが神を讃えましょう。我らの――――」


 セレスが俺を抱いたまま、祈りの言葉を口にする。

 俺はたどたどしく言葉を重ねながら、生まれて初めて神を信じて願った。

 そして生まれて初めて、自らが生きていくこと以外を望んだ。


 俺のような人間もどきの声が聞こえているのなら、どうかこの哀れな少女を幸せにしてやってほしいと、そんなことを神に祈ったのだ。









 雨の記憶・完



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