一章、第四使徒
戦役は終わり、世界に平和が訪れた。
魔王ウルスラの封印と共に地上に溢れかえっていた魔物たちも鳴りを潜め、人々は訪れた平和を謳歌し始める。
そしてその街、四大聖都の内の一つ【アルデシア】も第四使徒の庇護のもと、戦役の傷を癒やしている……はずだった。
土砂降りの雨が降る、石造りの端正な街並み。
阿鼻叫喚が響き渡り、仮染めの平和を嘲笑うかのようにいともたやすく命が潰えていく。
「うわぁぁぁぁぁ!!!! 来るなっ! 来るなぁぁぁぁ!!」
右足が千切れた兵士に、何体もの魔物――まるで汚泥のような黒い流体が何体も這い寄って行く。
異界から魔王と共に現れる魔物。
それらは神の加護に満たされた現世においては明確な形を保つことすらできずに全てが泥に成り下がる。
そして形を失った彼らは人や獣の姿を真似るのだが、今兵士を囲むのはそれすらできない弱々しい個体だ。
しかし傷ついた兵士には抗う術もなく、必死に逃げつつも次の瞬間には迫りくる泥たちに飲み込まれようとしている。
が、その時。
暴風を纏う刃が一閃し、兵士に群がっていた泥たちはたった一撃で粉砕される。
それを為したのは鉄板のごとき大刃を手に持つ、炎のような赤毛に金の瞳を獰猛に輝かせる男。
まるで式典にでも出向くかのような装飾過多の軍服を身につけたその男こそ、アルデシアが誇る英雄だ。
「ああ……ザリド様……」
瓦礫に横たわっていた兵士の表情が歓喜に染まり、自らの危機を救った目の前の男、『剣聖』こと第四使徒【ザリド=メルグランス】にその手を伸ばす。
「…………」
だがザリドの剣は、返す刃で兵士の首を吹き飛ばしていた。
「……がっ」
呆気なく転がり水音をさせた首に一瞥だけやり、彼はまた歩き出す。
「逃げる兵士は死ね」
アルデシアを突如襲った魔物の群れは、戦役の激戦期にも見なかったほどに大群をなしていた。
だがただ数が多いというだけならば第四使徒、さらに数多の精鋭を擁するアルデシアをここまで追い込むことはなかっただろう。
そう、問題だったのは出陣した守備隊を一瞬にして蹴散らし、かつ堅牢を極める城門を瞬く間に破ることができるほどの強大な個体がいたことだった。
そしてそれは、かつてこの街が魔王に攻め落とされた時と全く同じ筋書きだった。
けれどザリドはその危機を認識していなかった。
馬鹿共がヘマやって魔物に街まで入り込まれた、という程度の認識しか持っていなかった。
己の力を絶対的に信じていて、だからこの期に及んでもまだ自分だけは死なないと考えていた。
そして事実として大剣が振るわれる度、泥の魔物たちは容易く命を絶たれていく。
形を得た強力な個体であろうが関係はない。
この地において彼はまさに無敵だった。
何故ならアルデシアには【風の法石】、神の加護を世界に行き渡らせる四つの石の一角を祀る神殿があり、その影響を強く受けるアルデシアにいる限り彼は最強の第一使徒にも劣らない力を発揮できるからだ。
刃を振り、戦いの熱に身を委ねる。
逃げ惑う市民など目に入ってはいなかった。
彼にとっては己の強さを証明することが全てであり、街の人間がどうなろうがどうでもよかった。
泥と血と雨にまみれ、なおも敵を求めて進めばやがて神殿の前に辿り着く。
そこでは人々が最後の防衛線を築き、押し寄せる魔物たちと交戦していた。
「ここを抜かれるな! 他の街から援軍がすぐに来る! それまで持ちこたえろ!!」
「神の栄光のために!」
戦士たちがどうにか魔物を押し留め、神殿に仕える魔術師たちが雨のように魔術を降らせて制圧する。
前衛と後衛いずれも死力を尽くしてなんとか拮抗を保ち、けれど長く持ちそうもなかった。
別に助けるというつもりもないが、ザリドは戦いが好きだし、戦士も好きだ。
敵も味方も多い方が好みで、だから押し寄せる魔物たちを軽く踏みにじって骸の上で剣を掲げる。
「ようお前ら。クソッタレの魔物共を皆殺しにしようじゃねぇか。なぁ?」
そう言って歓喜に湧く兵士たちを尻目に、早くも現れた次の波に刃を向けた。
グールと呼ばれる人型の泥を纏めて斬り飛ばし、火を吹く巨大な竜の出来損ないのような汚泥をたった一撃で解体した。
吹き荒ぶ圧倒的な剣戟の嵐が次々に魔物を屠り、殲滅する。
ザリドの剣に触れた者は、例外なく命を散らす。
そして剣聖の奮戦により劣勢だった兵士たちも体勢を立て直し、やがて戦況は人の側に傾き始める。
「勝てるぞ!」
「我らが剣聖に祝福あれ!!」
その内に兵士たちの間からそんな声が聞こえるようになる。
血の混ざる赤黒い汚泥がこびりついた剣を払い、雨空の下でザリドは苦笑した。
「……調子のいい奴ら」
しかし確かに押し寄せてくる魔物たちも数を減らし始めている。
これならば終わりが来るのも時間の問題かと思われてきた。
だがそこで雨の中燃え盛る街を背にしてゆっくりと迫る何かに気がつく。
「なんだ、ありゃ」
それは、人の身の丈の二倍いくらもあるような異形だった。
それは、二本の足で歩いていた。
それは、いくつもの触手を蠢かせていた。
それは、触手の先に何かを捕らえて引きずっていた。
「……あいつ、喰ってやがるのか」
黒く朽ち果てた人の足のようなものでまるで酔漢のごとくぎこちなく歩き、しかしアンバランスなほどに長い足から上は絡み合う大量の触手に覆われ全く伺うことはできない。
顔だけは辛うじて垣間見ることはできるが、目も鼻もなくただ大きく裂けた口だけが認められる。
そして、いくつもいくつも地に下ろされているその触手に捕らえられているのは人間の成れの果てだった。
老若男女も関係なく、兵士も市民も関係がない。
首を、腕を足を胴を捕まえられて触手先端の口とも言いがたい捕食器官、風穴のようなものによりその身を貪られている。
人々は喰らわれて、恐らくは生きてはいないのだろうがそれでも酷い有様だった。
頭部を抉られ脳が露わになり、肉が削れ骨が覗き下半身がなくなり腸がこぼれてそれでも引きずられる。
そんな生理的嫌悪を催すような光景を撒き散らしながら怪物はこちらへと歩みを進めていた。
「最低だな」
戦場の悲惨をいくらでも見てきたはずのザリドにとっても、その怪物はあまりにも異質で悪趣味だと感じられた。
だが……しかし、どこか見覚えがあるように感じるのは果たして気のせいだろうか。
「お前ら、雑魚の相手は任せるぞ!」
背後でいまだ戦闘を続ける兵士たちにそう告げて、水たまりを蹴って走り出す。
あの怪物は、早く殺さなければならないと意識のどこか深い部分が告げていた。
あれは生かしておいてはならないものだ、と。
神速の踏み込みで間合いを詰め、地を削る斬り上げで怪物を斜めに一閃。
返す刃で幾本もの触手を千切り飛ばしながら横薙ぎを放ち胴を深く抉る。
反撃のつもりなのか数え切れないほどの触手が繰り出されるが、ザリドは容易に斬り散らしバックステップのフェイントを交えてから大剣による刺突で深々と怪物の体を刺し貫いた。
そして溢れ出す黒ずんだ血液を身に浴びながらも、獣のような笑みを浮かべる。
「なんだ。大したことねぇな」
怪物を串刺しにしたままザリドは剣を振るい、異形の巨躯をその身の半ばから斬り壊す。
それから血を払い怪物に背を向け兵士たちの戦列へと復帰しようとした時。
「…………っ!」
身をよじり、放たれた触手をかわす。
だがかわしきれずに脇腹を抉った一筋は、削り取ったほんのわずかの肉を騒々しい音を立てて咀嚼する。
その光景に湧き上がる背筋が凍るような嫌悪感に任せて、ザリドは衝動的に触手を叩き潰していた。
「てめぇ……!」
憤怒の表情で睨みつける先の怪物は、完全に傷を塞いでいた。
死の淵に蹴り込んだはずの敵は、全くもって健在の姿を目の前に晒していた。
まるで不死か何かのように。
……まさか。
「お前……セレスか?」
「…………」
その問いに怪物は答えない。
しかし、それでもザリドは思い当たってしまった。
あの怪物の正体に。……正誤はともかく。
「どうやって生き延びたのか知らねぇが、これが復讐のつもりか?」
「…………」
答えはない。
「はっ、死に損ないが! わざわざ俺の前に現れて引導渡してもらおうなんざ殊勝じゃねぇか。なぁ?」
「…………」
答えはない。
「なんとか言いやがれこのバケモノがっ!!!」
答えは、ない。
ただ雨音と、不気味な咀嚼音だけが響いていた。
ザリドは怪物の正体に気がついてもなお、自分の勝利を疑っていなかった。
何故なら己は神に選ばれただけの他の使徒とは違うと自負していたから。
剣の腕を磨き、戦えば誰にも負けなかった。
そして名声の極み、【剣聖】の称号を得たその時に風の法石を通じて神からさらなる力を得たのだ。
祝福だと思った。
他の使徒とは違い、自らの手で剣聖の名を勝ち取った自分が最強に至るために神が道を用意してくれたのだと確信した。
そして今立っている戦場は神殿のすぐ近く、神域とも呼べる場所だ。
力を完全に引き出せるこの場で退くことは、己の強さを否定することと何も変わらなかった。
ザリドにはできなかった。特に、自らの屈辱の過去を知る相手の前では。
「あの頃と同じだと思うな……! 俺は……!!」
……しかしそれは、やはり過ちであった。
踏み込む。触手が迎え討つ。斬り落とす。斬撃を放つ。斬り裂く。斬る。斬る。斬る。斬る。ひたすらに斬撃を重ねる。
しかしバケモノは倒れない。倒れない。傷を塞ぐ。倒れない。肉を抉られる。剣の腹で触手の束を殴り飛ばす。触手が視界を埋め尽くす。かわす。かわす。かわし切れない。左腕をもがれる。瞬く間に触手が殺到し千切れた左腕を喰らい尽くす。恐れて退く。己が恐れたことに気が付き、一瞬身を凍らせる。その隙で足を掴まれる。無様に引き寄せられる。体のあちこちに触手が喰らいつく。逃れようとする。剣を落とす。首を掴まれ、バケモノの顔の口が迫る。それに、何かを思い出す。
「……お前、まさか、ろ」
怪物の口がザリドの頭を噛み潰し、やがて口の端から血が滴る。
そしてそれから、触手と口が剣聖の肉体を貪り始めた。
生々しい咀嚼の音を鳴らし、すぐに怪物は遺骸を食べ終わる。
怪物はまた神殿に向けて歩みを進めるが、阻み得る者は最早この場にはいない。
「神よ、我らを見捨てられるのですか……!!」
「ザリド様!! ザリド様!!! たすけ……!」
兵士たちは皆抵抗することすら出来ずに触手に貫かれ、あるいは絡め取られた。
逃げた者も、追いすがる魔物に命を刈り取られる。
数え切れないほどの遺体を引きずり貪る怪物は、ついには神殿の中へと足を踏み入れた。
そして、そうしてアルデシアは陥落し、風の法石の加護はこの世界から失われることとなった。
一章、第四使徒・完