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 次に目を開けると、程良い広さのマンションの室内にいた。

 レースのカーテン越しに差し込んでくる夏の日差しが眩しい。視線を動かすと、窓辺に置いた揺り椅子の上でのんびり昼寝している老人の姿が見える。


(ああ、そうだった。あの人が私の夫なんだわ)


 前回とは違い、滝のように流れ込んでくる記憶は膨大だった。それもそのはず、なにしろ四十年分だ。


(もうすっかり、私もおばあちゃんね)


 しわしわで骨張った指には、二度目の結婚指輪が光っていた。



 一度目の結婚が終わるきっかけになったのは、麻美の流産だった。

 あの時、麻美はどうしても子供を諦められなかった。だから夫と義母に逆らったのだ。夫からは説得という名目の暴力を受けたが、なんとかお腹の子だけは守り通した。だが産むことを許される代わりに、創業百二十年のイベントだけは完璧にこせと言われて必死に働いた結果、結局お腹の子に取り返しのつかない不幸が訪れた。

 そして離婚。

 夫が浮気していたことを知ったのは、その後だ。


 子供の供養のために寺を訪れたとき、今の夫と出会った。

 夫は不幸な事故で妻と幼い娘を亡くした人で、何度か言葉を交わすうちに親しくなり、寂しい者同士惹かれあうままに再婚した。

 再婚したときにはもう四十歳を過ぎていたし、流産の影響もあったのか、結局今の夫との間に子供は出来なかった。

 夫は忙しい人で休日出勤は当たり前だし、夜中に呼び出されて飛び出して行くこともある。二、三日家に帰ってこないこともよくあった。


「もしも麻美が寂しいようなら、養子を考えてみるか? 一人か二人ぐらいなら育てる余裕もあるから」


 優しい夫はそう言ってくれたが、悩んだ末に養子は諦めた。

 自分の寂しさを埋める為に子供を利用するようで気が引けた。

 なによりも、失った子に対する未練を養子に押しつけて、その子の人生を歪めてしまいそうな気がしたのだ。


「養子はやめましょう。でも、寄付をしてもいい?」

「もちろん。お金より、ランドセルや絵本みたいなものがいいな」

「ドライヤーや掃除機みたいな実用品も喜ばれるかもしれないわよ」


 二人で話し合い、毎年施設に贈り物をした。

 こども達から届く直筆のお礼状はふたりのなによりの楽しみになった。


(ああ、幸せだわ)


 ひとりで寂しい夜もあるけれど、夫とは確かな心の繋がりがある。

 我が儘で傲慢だった前の夫との時のように、暴力を伴うスキンシップを愛情の証だと勘違いすることはもうない。

 積み重なっていく穏やかな暮らしの中で、夫への愛は日々深みを増していく。同時に、愛される喜びもまた麻美の胸に満ちていく。


「麻美、今までずっとサポートしてくれてありがとう」


 定年退職を迎えた日、夫はお互いに年を取って指のサイズもずいぶん変わったからと新しい結婚指輪を贈ってくれた。

 あれから十年、まだ輝きを失わずにいる指輪を、麻美は指でなぞる。


(人生色々あったけど、これをもらえただけでもう充分におつりがくるわね)


 ずっと家にいるようになった夫は、今まで世話になってきたからと家事の手伝いをしてくれるようになった。

 ふたりで掃除して、一緒に献立を考えて散歩がてら買い物に行き、キッチンに並んで料理する。たまに映画を見に行くこともあるし、旅行に行くこともある。

 穏やかで理想的な老後の生活だ。

 最近、年上の夫がちょっとだけ物忘れするようになった。本人も自覚しているらしく、ふたりで物忘れ外来に行って、今後のことも相談した。

 万が一の時に頼るべき行政や施設等を、夫は着々とリストアップしていく。


「俺がぼけたせいで麻美に迷惑をかけたくないからな」

「迷惑なんて言わないで。最後まで私が面倒みますよ」


 麻美の希望はただひとつ、最後まで愛する夫の側にいることだけ。

 そんなある日のこと、テレビのワイドショーで忘れかけていた人の顔を見かけた。

 有名企業を紹介するコーナーで、和菓子屋を継いだ前の夫の息子が、芸能人相手に自宅を案内していたのだ。

 その流れで、まだ幼い孫を膝に抱き、幸せそうに笑う前の夫の顔がテレビ画面に大きく写し出された。


「どうして……どうして、あなただけが……」


 二度も麻美に子供を諦めるようにと言い、産む決意をした時は一切協力してくれなかった酷い男。そして麻美は、二度も子供を失った。

 それなのに、なぜこの男だけが自分の血を引く子供をその腕に抱いて笑っているのか……。

 かつて身の内を焼いた怒りが、一気に再燃する。


(私から母になる喜びを奪ったのはこの男。許さない。絶対に許さない)

 

 ぶるぶると怒りに震える麻美の手に、そっと皺だらけの手が重なる。


「麻美。テレビ画面ばっかり見てないで、俺のことも見てくれ。寂しいじゃないか」

「……ああ、あなた……。そう、そうね。私にはあなたがいるんだわ」


 母になる喜びは得られなかった。

 だが、こうして妻として愛される本当の喜びを知ることはできた。

 だから、もういい。

 今さら過ぎ去った過去のことで、この穏やかな生活を乱すような真似はよそう。身の内を焦がしていた怒りがすうっと消え去り、心は穏やかに凪いでいく。

 麻美は一度深呼吸してから、重ねられた夫の手を握りかえした。


「ねえ、あなた。今日の夕飯はなににする?」

「今日はちょっとだけこってりしたものが食べたいな」

「お医者様に叱られますよ」


 麻美はおっとりと愛する夫に微笑みかける。

 心から幸せだと感じていた。


 ――さあ、戻るといい。


 性別不詳の低い声が聞こえて、また意識が途切れた。

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