夜半の嵐2
息をするだけで酔いそうな程の酒臭さの中、階段を降りきったエドノが見たもの、それは、頭から水を浴びたようにゾッとする光景であった。
壁に取り付けられた棚は外れて、その木片や酒樽がそこら中に散乱し、酒瓶の割れた破片、食材も散らばっている。そんな雑然とした中、ざっと二十人程の人が一人の青年を取り囲み、次々に飛びかかっては剣で切られ、悲痛な叫声をあげて倒れたかと思えば、またすぐに起き上がり青年に向かっていくのだ。
切られても切られてもゾンビのように何度も蘇り、剣で青年に斬り掛かっていく人達。
これは…。
ゾンビに襲わている青年は息が上がっているようだった。
無理もない。こんなに畳み掛けるように向かって来られては息をつく間もないだろう。
それにしても不可解なのは…
青年の足は驚く程軽やかで、空間を狙って、散乱している樽から樽へ飛び移りながら剣を振るって戦っているのだ。
暗くてよくわからないが、変わった格好をしている…。クラウン(道化師)?にしても人間業とは思えない。滞空時間は長いしスピードが早すぎる。
俊敏で華麗な動きにエドノは目を見張った。
だが、逃げながら応戦するしかない状況下で、青年は弱音をひとつ口にした。
「これではきりがない…!」
エドノは彼の戦う姿を目で追っている内、喉の奥、掌から何かムズムズとする感覚を感じながら、無意識に叫びたい衝動に駆られた。
(ちがう…そうじゃない…!)
声を出そうとすると息が詰まる。胸が苦しくなって、やはり一音も発することができない。
体力の限界に達し窮地に追い込まれた青年は、背後に迫っているゾンビの存在に気付くのが遅かった。
力任せに振り下ろされた剣先が青年の背中を擦る。
一文字に切れた服から微かな流血。体勢を崩し、彼は床へ手をついて倒れてしまった。
そのチャンスを見逃さず、一斉に彼へ飛びかかって行くゾンビの群。
だめだ、剣の振りが間に合わないーーーー
「!?」
しかし、彼の頭上に降って来たのはゾンビの剣ではなかった。
危機一髪のところ、そこへ大樽がひとつ横切った。数体のゾンビを道連れにして。
ひとつの樽が青年の窮地を救った。
青年は樽が飛んで来た方に目をやった。
薄暗い地下室の入り口、そこに立っていたのは長い黒髪の娘…に扮したエドノであった。
(こっちへ!)
エドノは青年を手招きした。
彼はすぐさま体勢を立て直し、ゾンビをよけながらエドノのいる階段まで飛んで来た。そう、『飛ぶ』という言葉が彼の動きを表すのにぴったりだった。
「あなたは…人間、ですか?あの重い樽をどうやって…」
(ゾンビじゃないぞ。そっちこそ人間なのか)
エドノは声が出ないので、もちろん会話は成り立たない。
でもそんなことにはおかまいなしに、青年を自分の後ろへかばって、エドノは徐に彼の剣を奪うと逆手で持ち、自分の邪魔なスカートの裾を膝の辺りから裂き始めた。
「何を…!?危険です!逃げてください!」
(ここなら一体づつ相手にできる!)
彼の記憶では、幼少時から剣など手に持ったことがない。
しかしどういう訳か、エドノは剣の扱い方を知っていた。いや、知っていたのではなく、体が勝手に反応するのだ。
剣を持つ手首のスナップ、剣先に集中して次の攻撃をよみ、それにどう対応したらいいのか体がわかっていた。
やたらめったらに剣を突っ込んでくる敵の攻めに対して受け身で応戦していたエドノは、一瞬の隙を狙って、ゾンビの頭上から真下に剣を振り下ろした。
手応えはまるで水を切るようであった。
真っ二つに分断された人の体は塵となって消え、拳ほどの生き物が地に落ちる。
真っ二つとなったのは一匹のトカゲであった。
(これがこいつの正体…!)
背後の青年は目を見開いた。
「仕留めた!」
間髪入れずに次の敵が、剣をエドノの心臓部目指して突いてきた。彼はそれをしゃがんで避け、ゾンビの懐に入ると、今度は真下から頭上へと一直線に剣を流した。その体も塵となって分散し、両断されたトカゲへと変貌。エドノは、ここに来るまでの鬱憤を晴らすがごとく力を込め、三体、四体と次々に敵を一刀の元に両断していき、階段下の通路はヤモリやトカゲの破片の山ができた。
通路の狭さのお陰で、複数を相手にすることもなく一体づつ確実に仕留めていき、そうしてついに彼は最後の一体を両断し終えたのだった。
(あー、すっきりした!)
ぜいぜいと荒い息をして破片の山を見下ろすエドノ。
ずっと不快な思いばかりしていたこの夜の憂さを晴らすことができ、彼は多少なりの壮快感を感じていた。
しかし力を抜いた途端、きつめのアルコールが入った体は激しい揺れに悲鳴を上げ、即座に平衡感覚を狂わせる。
くらっと後ろへ倒れかけた肩を、青年が受け止めた。
「大丈夫ですか、お嬢さん!」
耳元で呼びかけられたことではっとし、エドノは上半身を起こした。
(誰がお嬢さんだ)
二人が顔を見合わせた時、頭上でバタンと扉が閉まる音がした。
階段を上りきった先の、貯蔵室の入り口の扉が閉ざされたのである。
扉の向こうでヒッヒッ…と聞こえる高笑い。
「間の抜けた精霊がいたもんだ、人間なぞに力を借りて。罠とも知らずこんなとこへのこのこやってきて…」
その声は濁って擦れた老女の声。
しゃがれた声の主に向かって青年は叫んだ。
「わかっていた。ゾル・ジェシェッダ、僕はあなたと話をしに来たんだ!」
ゾル・ジェシェッダと呼ばれた老女は高笑いした。
「何を話すって言うんだい?無駄だよロイアス、お前もあの森ももう終わりさ」
「ゾル…森に何を!?」
「あたしゃ何もしてないよ。誰かさんが暴れてるかもしれないがね…」
青年は一散に階段を駆け上がり、閉ざされた扉を開けようとしたが、とってはびくとも動かない。
「開けて…開けろー!」
扉を叩く彼の顔は焦りで歪んでいる。
「解けるものなら解いてみるんだね、あたしの結界を。ヒッヒッ…お前には無理だと思うけどね…。よかったじゃないか人の子の道連れができて。これで寂しい思いをしなくて済むじゃないか」
そう言って、ロイアスの焦る様子を興がる老女の高笑いは、扉の向こう側から消えていった。
完全に笑い声が聞こえなくなってしまっても、青年は老女の名を呼び続けた。開扉はおろか振動すらしない扉を叩きながら。
ロイアスという名の…老女が精霊と呼んでいた『人ではない者』。
エドノは、彼の後ろ姿を、昏睡しそうな程虚ろな目で見ていた。
(日頃の夢見は良い方なのに、今日は怪夢ばかりを見る。大体触ったこともない剣を自在に操れるなんて、どう考えてもおかしい。これが酒の力というものなのだろうか…?)
しかしこれは夢ではない。
偶然迷い込んでしまったこの薄暗い地下の貯蔵室に、得体の知れない『人ではない者』と、爬虫類の残骸と一緒に閉じ込められてしまった。
この状況は現実のものであった。