ティッケの苦悩
速く、もっと速く…!
自分の小さな羽がもどかしい。
落ち着け、落ち着け…。
弾丸のように森から飛び出した妖精ティッケは、混乱する頭をなんとか整理させようと必死で自分に言い聞かせた。
後にされた森が一斉にさざめく。
まるで彼女をせかすように…。
この森には名前がない。
他の森と比べると異質な森だという実感は、精霊や妖精をはじめ、人間達も感じていることだ。
大抵森は、そこに住む精霊にただ従順に付き従うものだが、この森だけは違っていた。
森が精霊を選ぶのだ。
誰を主人に取るかは森自身が決めることで、他の者はそれに逆らえなかった。
だからよ…!
それでロイアスは逆恨みされたの…!
森が、火の精霊トールより、風の精霊ロイアスを選んだから!
森は今、トールによって炎を放たれ緊急事態に陥っていた。
ロイアスが不在の森を狙ったかのようなタイミング。
あれは罠だったのかもしれない。
今は魔女なんていないのに、『魔女の森』と言って滅多に近づいて来ない人間が今朝、精霊を訪ねてきたわ。
「精霊様…私は今、大変困っております。私はカーレフの町の中心街に飲み屋を開いておりますが、最近そこに亡霊が出てくるのでございます。夜中になると不気味な声が酒蔵から聞こえてきて、恐る恐る行ってみますと、青白い亡霊たちがたくさん酒樽を囲んで踊っているのです。私は恐ろしくてどうしたらいいのか…。こんな噂が広まってしまったらもうやっていけない…!お願いです、代々続いてきた店をこんなことで閉めたくはありません!助けてください、あの、亡霊をなんとかしてください、お願いします…!」
確かにその人間の話は同情できるものがあったわ。
でも、だからといって人間なんかに手を貸す義理はないし、まさかロイアスが人間を助けに行くなんて思わなかったの。
「行かない」ってあたしにもはっきり言ったのよ。
なのにバカロイアス!あたしが寝てる間に行っちゃうことないじゃないのよ!
わかってるわ、人間の町に行くことは危険だからあたしを置いて行ったってことは。でも嘘つくことないじゃない!あたしだってシーノール(妖精界)にいた頃からもう何十年もロイアスのフィーナー(風の精霊の助手)を努めてきたのよ、ちょっとは信用してくれたっていいじゃない!?
もう今更言ったって遅いけど!
樹齢三千年のオークが殺気を感じて起こしてくれたから気づくのが早かったけど、急いで彼を連れ戻さないと、トールがこの森を燃やし尽くしちゃうわ!
あまりに破壊的な性格のため、森が追い出した、あの火の精霊トールに…!
森から人間の住む町まで飛ぶのに、そう時間はかからなかった。
それよりも、気味の悪い違和感をぬぐいさる方が何倍も時間がかかった。
ティッケは、ここに来てからずっと寒気が止まらない。
臭いのせいだ、人間の臭いがティッケにとって受け入れがたい不快感を感じさせているのだ。
(肌で感じる…ここには植物がない。植物たちの…息吹を感じない…)
細い路地を挟んで、ひしめくように石の家が建ち並ぶ真っ暗な町の中は、心細い彼女の心をより一層心細くさせる冷たさをかもしだしていた。
そして、夜霧でところどころ薄ぼんやりと視野に移る街の灯火は、小さな侵入者をあざ笑っている人の目に見えて、たちまち震えだす全身をティッケはもう、止めることはできなかった。
「ロイアス、どこ、ロイアス…!」
不安でかすれるか細い声。
冷たすぎる町に響く虚しい羽の音。
急を要する現状に、焦りで冷や汗が滴り落ちる。
速く見つけて連れ戻さないと、取り返しのつかないことになる。
今、自分たちの住む森はまさに、侵略者トールの手によって火の海にされようとしている。
トールの凶暴さはティッケにもよくわかっていた。あの精霊はむしゃくしゃすることがあると、すぐ周りの木々に当たり散らして一瞬の内に灰にしてしまう。
森が彼を追放するのも当たり前だ。
(アプレイナもよくあんな暴君のタイナー(火の精霊の助手)なんてやってられること!)
アプレイナとは、最近トールのタイナーの職に就いた妖精である。主人にとても従順で、物静かな妖精だ。
きっと彼女はトールに脅されて従ってるだけなんだわ。彼女のためにもこんなこと早く止めなければ…。
そう、そのためには一刻も早くロイアスに知らせなければならない。
(ああ…微かでも息吹がある植物が一本でもあれば、ロイアスを早く見つけることができるのに…)
それは、自然界のものが成し得る共鳴の力。
(見つけたら一言言ってやるわ。行かないって言ったのはどこの誰だって。あなたの勝手な行動がどんな影響を及ぼすか、後でフォローするのはいっつもあたしなんですからね!そこらへん考えてから行動してくださいって、今日こそきつく叱ってやるわ!)
ロイアスがカーレフの町に出かけて行くことは初めてではなかった。
最近とみに人間に興味を示していたからちょくちょく探索に出ていたのである。ティッケもそれは渋々だが了承済みだった。
人間は卑しい生き物だ。人間のせいで、どれだけ自分たちが被害をこうむったか。それをロイアスもわかっているはずだった。
でも彼は人間と関わりを持とうとする。
訳を聞いてもうまくはぐらかしてはっきり答えない。
こんなことになるなら許すんじゃなかった。人間の町の探索なんて。
いくらロイアスが甘えてきても、笑顔で懇願されても。
あの笑顔にももう騙されませんとも!
そうよ、そうすればあたしに嘘ついてまで行ったりすることもなかったはずよ。
…後悔先に立たず。
でも、なにか考えてないと不安で胸が潰れそうだ。
ロイアス、森の悲鳴を聞いて。
森は今、あなたを呼んでるーーーーー
…それが、
初めて人間の住む世界に入り込んだ、ティッケの、
悲劇の始まりの日であった…。