7
熱を出すのは、いつも苦しい。
夢うつつで、リュイは呻いた。
痛みは喉から湧いて出る。
喉の奥に小石をまぶしたような違和感からはじまって、その小石が、水を通すたびにじくじくと痛んで――弾ける激痛。
そうなってしまうと、もう、息をするだけで痛い。痛みは喉から、頭へ、腹へ広がっていく。指の先まで疼痛に支配されて、いっそ気絶したいと思いながら、ずっと天井を見ていた。
ヒュウと声が漏れて、おかあさん、と助けを呼ぶけれども、それは声にならない。
それに、リュイの母親はリュイが好きではなかった。
お前のその冷たい目は、お父さんそっくりね、と泣いて、幼いリュイを、突き放す。
優しげな綺麗な人だったけれども、周囲へ向けた優しさの帳尻をリュイに冷たくあたることで、合わせているような、そんな節があった。
それでも、いいかもしれない。
僕がいるから、お母さんはみんなに優しく出来て、それでお母さんが、みんなから好かれるなら、それでいいや。
リュイはぼんやりと一度しかあったことがない父親を思い浮かべた。まだ子供のころ、母に連れられて男の住む町まで行ったときのことだ。薄い色を好む母には珍しい緋色の紅が、酷くまがまがしかった。
彼は裕福な士人の傍系の男で、リュイと同じ色の目をしていた。
父親は、リュイを薄気味悪そうにみると、リュイと母に言い放った。
『勘弁してくれよ、生むのを許してやって、金までやったんだ――もう、これ以上、私に構わないでくれないか』
それきり、父親に会っていない。会わせてくれなかったし、会いたい理由もなかった。
父の面影は朧なのに、帰路、母の綺麗に手入れされた爪が、痛いほどリュイの掌に食い込んでいたのを覚えている。
(……いたいよ)
ぽろり、と涙がこぼれる。
泣きわめくと痛いから、いつも声を殺すしかなかった。喉が痛む、頭痛がする、腹がよじきれそうな思いがする。
(大丈夫よ、すぐに痛みはとれるから――――)
優しい声がする。
恐る恐る瞳を開けると、猫のような色違いの瞳が、じっとリュイを覗き込んでいた。
(イファ?)
呼びかけると、少女が頷く。
喋らないでというように喉に手をあてそっと念じる。イファの心地好く冷えた指先が触れる側から、痛みと熱が吸い上げられて行く。
嘘みたいだ、と涙の残る目でイファを見ると、彼女はまだ寝てていいからね、と優しく頷く。そっと指を開くとふっと息をかける。
嘘みたいに熱と痛みが引いていく。不思議な気持ちでリュイがみていると、イファはそっとリュイの額に自分の額をくっつけた。
唇が触れそうになり、どきりとする。
『よし、熱はひいたわね』
罪のない笑顔で、イファは明るく、笑った。それが、彼女を意識した「初めて」だった。
十になる前くらいから、リュイの看病には、イファが呼び出されるようになっていた。
彼女は、ラン国の半貴人の娘で、村の外れで暮らしているのは知っていた。流行り病で両親を失ったのに、明るく、働き者なのだと叔父のジンソが、誉めそやす。
働き者のイファには、貴人の血が色濃く出たのか、治癒の異能があるらしい。その能力を活かして亡くなった父親の遺した治療院をついでいる。
リュイの熱と痛みにイファの治癒が効果を発揮すると、叔父は喜んだ。
半分は、親に捨てられた、かわいそうなリュイの痛みがとれたことに。あともう半分は、見よりのないイファを気にかける理由が出来たことに。
あんなラン国人、追い払ってしまえ、と口さがない大人たちは言う。叔父は笑って、イファがいないとリュイの熱が下がらないからねと言い、周囲の「ご忠告」を煙に巻いた。
(僕が死んでしまったら、イファが村に居てもいい、理由がなくなるんだ――僕が居ることにも、意味があるんだ)
イファは度々、リュイのもとに来た。治療のためだ。彼女が機嫌のいいときには子供向けの本を読もうとしてくれさえした。
そんな子供じゃないよ、と呆れるリュイの横で、やがて本を自分自身が夢中になった読み進めるイファがおもしろくて、声を殺して笑う。
読み終えて、満足したらしい彼女は、はた、とリュイをおいてけぼりにしたことに、ようやく気付いたらしい。
『だって、物語なんて、滅多に手に入らないんだもの……手にするのも、久しぶりで』
いいわけを聞きながら、布団を被ってリュイはけたけたと、笑う。
『僕の風邪も無駄じゃなかったよね?イファが楽しかったなら』
『……リュイ、ごめんってば。――私、何をやってるんだろう』
へこむ姿がおかしくて、リュイはまだ少し熱の引かないまま、くすくすと笑いつづけた。
イファとの時間は特別で、いつも、優しかった。イファにとっては患者のひとりに過ぎないだろうが、イファの事を一番必要としているのは、きっと自分だ。ずっと一緒にいれたらいいのに。病気の時だけじゃなくて。
子供時分のいびつな思い込みを抱えたまま、リュイは大人になってしまった。
優しい、イファ。
寂しい、イファ。
一人ぼっちのイファ。
(……僕と同じで……)
違うだろう、という声がする。
イファは本当はどこへでも行ける。リュイとは違うのだ。
イファが、すこしだけ大人になった姿で、ジェンミンに何事かを怒っている。部屋の中をふわふわと意識だけでさまよいながら、リュイはちくりと痛む胸を押さえた。
イファとジェンミンは、似合いの二人だ。
年格好も、背格好も釣り合うように思われる。
ジェンミンに小言を言うイファは口を尖らせた。イファの癖のひとつだ。
イファは可愛いんだなぁ、と馬鹿みたいに思い、ジェンミンの士人らしい鍛えた体つきを、嫉妬するでもなく、ぼんやりと羨む。
あまりに己とは遠すぎて、嫉妬する気すらおきない。
(結婚なんか、するんじゃなかったな。僕が、もう少し我慢すれば――イファは今頃、ラン国に旅だって、幸せに暮らしていたのに)
馬鹿な事をしてしまった、と後悔する。
(しぬまえに、なにか、いみのあることをしたかったんだ……)
たとえば、いつもリュイを守ってくれた、イファを守るとか。僕が、死んだ後でも、イファが、安全な所にいられるように、考えた結果のはずだった。
余計な事をした、とうわついた意識の中で、もう一度後悔をした刹那。意識は、深い闇に閉ざされた。
「……、リュイ――リュイ……」
リュイは、目を開けた。痛みと熱が、引いている。
「……、イファ……?」
薄目を開けて、声を搾り出す。視界の先で、イファが、ほっとした表情で見ている。
その姿が嬉しく、嬉しく思う自分が惨めだ。
「……ごめんね、まだ死ねないみたい」
ぽろり、と本音が漏れて、イファが目を、見開いた。
傷付いたように視線が揺れる。余計な事を言って傷付けた、と思うのに、止まらなかった。
「今、僕がちゃんと死ねたら……イファはここを出て行けるのに……、あの人と」
「何を言うの!」
叫んだイファが、立ち上がった瞬間に卓においた茶器が落ちて、割れる。
イファは割れた茶器をみて、悲しげに眉をよせると、無理矢理に、笑った。
「ご、ごめんね。大きい声、出して――リュイ、まだ熱が引かないのよ……ゆっくり」
白い手が額に乗せられるのを、リュイは思わず払った。――しまった、と思う。
「眠いんだ……」
リュイの拒絶に、イファが声を失う。
悲しい顔を見たくなくて、リュイは自己嫌悪を抱きながら、目をつぶった。
割れた茶器を、イファが家の裏手で片付けていると、ひょっこりとジェンミンが現れた。
目の縁が赤いイファを訝しげに見て、割れた茶器に視線を移す。
「どうした、茶器が割れたのか」
ジェンミンに気付かなかったのだろう。びくりとイファが震えて、破片を落とす。
「ああ、済まない。ひろお――」
「止して!」
かがみこんだジェンミンの手を払い、イファは、あ、と声をあげた。ジェンミンの指先に破片があたって、血の粒が浮いている。ザックりと切れたそれは、思いのほか、深そうだ。
「ご、ごめんなさい。ジェンミン様」
「いや、大事ない。嘗めればなおる」
「そんなわけないでしょう、貸してください」
イファはジェンミンの手を取ると、そっと指先に熱を集める。傷口は、時間を巻き戻すように閉じて――綺麗に塞がった。
ジェンミンは指をしげしげと眺め、見事なものだなと、感じ入ったようにつぶやく。
「ごめんなさい、ちょっと、気が立ってて。貴人の方には珍しくもない手慰みでしょうけど。痛みはない?」
「いいや、見事なものだ。貴人の中でも、治癒の出来る異能者は少ない。一人、呆れるくらい凄腕の奴を知っているが、その者を除けばイファは三本の指には入るかもな」
「そんな、おおげさな」
ジェンミンは、おおげさではないぞ、と生真面目に訂正する。
「痛みをとれる異能者は多い。だが、傷を治癒できる者はごく稀だ。いい腕だよ。それより、どうしたんだ?沈んでいるようだったが」
イファは言葉につまった。
リュイの傷付いた顔を思い出す。ジェンミンと仲よさ気に話すリュイの表面だけをみて、リュイが傷付いていたことに、思い至らなかった。
(私が、ジェンミン様と村を出て行くかもしれない、と思っていたんだ……)
求婚者を名乗るジェンミンと親しげに話すイファを――それは断じて恋愛感情ではないが――リュイは、どんな思いでみたろうか、と思うと、せつなかった。そして、なにより。
(……リュイは、私が出て行っても平気なのかな……)
それが、悲しい。
イファは沈む思考を断ち切ってジェンミンに視線を向けた。
「昔のことを思い出して。ああ、ジェンミン様。リュイなら会えませんよ。まだ、熱がさがったばかりだから」
「……そうか。出直そう」
がっかりしているジェンミンに、イファはなんだか笑ってしまった。ジェンミンはイファに求婚をしに来たはずなのに、ここ半月ばかりは、リュイと碁をさしてばかり居る。たまにはリュイの看病さえ、するのだから、何が目的なのかイファは忘れはじめていた所だ。
イファは碁に勝って楽しげな表情をするリュイを見るのが嬉しかった。だから、ジェンミンを以前のように邪険に、追い返そうとはしないのに。
家の中ばかりにいて、女に囲まれて育ったリュイには、(実年齢は親子ほど違うが、見た目は)変わらない同性と過ごすのは楽しいのだろう。
イファは悪戯っぽく笑った。
「主人の碁に付き合ってくれてありがとうございます、ジェンミン様――リュイの看病までしてもらって」
ジェンミンは、つと視線を落とした。
「まあ、それは、……下心があるからな。あんまり礼を言うべきことでもない。リュイの看病をする俺に、イファがほだされてくれんかな、とかな」
「なりません、って」
ジェンミンは目を細めた。
綺麗な琥珀色の瞳は、細められると、獲物を狙う獣のような印象で、イファはどきりとする。
残念だな、といい、ジェンミンはなおも楽しそうに目を細めた。
「……俺は、間の悪い男でな」
真面目な物言いに、はい、とイファは顔をあげた。
「たった一月。三男より遅くに生まれた。そのせいで四男は土地持ちになれずに、暇を持て余したどら息子のままなんだが。今回は今回で、せっかくイファを探しあてたと思えば、半年前に嫁に行ってしまったという」
「……」
「――婚礼の前なら、俺の嫁になってくれたか、イファ」
リュイの事を考えた。
春に、リュイに求婚された時の事を。春に求婚されて、夏に慌ただしく式をあげ、冬にジェンミンが現れた。
「――いいえ」
リュイに好きだよ、と言われた時から、イファの覚悟は決まってしまった。リュイに求婚される前だったなら、イファは渋々でもジェンミンについて行ったかもしれない。どこにも居場所なんてなかったのだから。
けれど、もう、イファはリュイの妻だった。どうしようもなく。
それは、覆らない。
「多分、お断りしていたと思います。私はリュイが好きだし……リュイは、私がいないと、きっと、寂しいと思うから」
イファは恋を知らない。イファを捨てた男以外、深く付き合った異性はいない。だから、リュイへの思いが恋情なのか、同情なのか、よくわからない。
けれど、リュイが笑えば嬉しい。辛いと悲しい。
それで、十分のように思えた。
ジェンミンは真顔のまま、言った。
「……リュイの病は、あまりよくないぞ。リュイがいなくなった後に、そなたはどうする?ルアンは――貴人には冷たい国だろう」
酷い言い草だが、腹は立たなかった。この人は同朋として、イファの行く末を案じてくれている。イファは努めて明るく言った。
「リュイと、ずっと、ここにいます。リュイがいなくなったとしても――私は、花嫁衣装を着るのはリュイとの式を最後にするって約束したから――」
「そうか」
「ジェンミン様、私を、覚えていて下さってありがとう。国が同じ人に会えて、私、嬉しかった」
「俺は、間の悪い男だ」
ジェンミンは、明日また来るよ、と笑った。
「ラン国に帰る前に、リュイにも別れを言いたいしな」
イファは無言で、頭をさげた。
「まったく、癖の悪い女だこと」
ジェンミンの背中を見送って、泣いた目の腫れがおさまるのを待っていると、後ろから声がかかった。
「スーメイ……」
三十半ばの女、幼なじみのスーメイが腕を組んでたっていた。
いつからいたのか。気配を感じれば、ジェンミンが何かを言っただろうからつい先頃か。
「昼間から、みっともない。旦那が死にそうだからって、次は金持ちの敵国人にくらがえかい。よくやること!」
「……何をしに来たの」
イファは苦々しく思いながらも、肯定も否定もしなかった。どうせスーメイのいいように筋書は誇張され、イファの悪評はばらまかれる。言い訳の言葉さえやるのが惜しい。
「なにって?ご挨拶だねぇ。リュイの好物の干し柿を持ってきてやったのさ」
わずか数個ばかりの干し柿をちらつかせて、それを口実にイファを見張りに来たのだろうか、と辟易した。
「結構よ。帰って。――リュイは熱があるし、私も熱っぽいし。うつしたら大変でしょ?干し柿は間に合ってるから!」
ふん、とスーメイは鼻を鳴らし憎々しげにイファをみた。昔は、とイファは思う。
イファとスーメイは姉妹のように仲が良かった。一緒に野山を転げ回った。いつからこんな風になった?
イファが半貴人だとわかってから?
いいや、イファの恋人がイファを捨て、スーメイと結婚してから、だ。
イファは泣いて泣いて、勿論二人を恨んだ。
なにより、スーメイの裏切りが辛かった。結婚を反対する恋人の両親にスーメイは憤ってさえくれたのに。それなのに。
せめて結婚する前に、ごめんと一言、伝えてくれればと、そう思った。
式には行かなかった。勿論、招待されなどしなかったが。
けれど、式が終わって半年ほどたった後、イファはスーメイと市場でばったりと会って、微笑んでさえ見せた。
「式にはいけなかったけど、おめでとう。お幸せにね」
と。
はじめ、青ざめていたスーメイは、イファの何が勘に触ったのか、見る間に顔色を赤に変え――激怒した。
「馬鹿にしてっ!あんたみたいな、いい子ぶりっ子、あたしは嫌いだった。ずっとずっと大嫌いだったっ!」
「スーメイ……?!」
「ラン国人のくせに!ルアンから出ていけ、化物っ!」
それから、事あるごとにイファを詰り、監視し、陥れようとしている。
「もう、ほおっておいて。スーメイ。あんたと話すことなんて何もないから」
「ご挨拶だねぇ。忠告に来てやったのに」
「結構よ!」
なんの忠告かは知らないが、スーメイの事だ。ろくなことでもないだろう。しかし、スーメイは執拗だった。イファの腕をとって引き止める。
「知ってるかい?」
「何を!」
「国守からお触れが出たんだってよ」
スーメイの指が食い込む。痛い、とイファが顔を歪めるのを、楽しげな様子で眺めて、スーメイは囁いた。
「ルアン領内の、ラン国人の許可のない場所の移動を禁じる、ってね。ラン国とまた争いがはじまるんだ。すぐにまた次の触書が出るよ!ラン国人を追放しろ――殺せ、って」
イファは驚いてスーメイをみた。
「わ、私はルアン国民だもの、関係ないわ」
声が上擦る。
スーメイは、は!と笑った。
「そんな気味悪い目をして、誰が信じるもんか。あんたはラン国人の半分化け物じゃないか」
私は!と反論したとき、後ろから声がかかった。
「おやあ、珍しい。こんなところで、何をしているんだい、スーメイ」
村長の妻、ヒジョだった。
スーメイは村長の家で働いているから、ヒジョは雇い主にあたる。スーメイは目に見えて、怯んだ。
「ヒジョ……あた、あたしはリュイの見舞いに」
ヒジョは妙に貫禄のある笑顔でヒジョとイファの間に割り込んだ。
「それはありがとうよ。でもあんた、休憩時間は終わったろ?そこに投げられちまった干し柿は、ちゃあんと私が食べてやるから、さっさと持ち場におかえり」
ぴしゃり、と言い付けると、スーメイは一瞬悔しげな顔をして、失礼します、と去っていった。
イファは唇を噛みつつスーメイを見送り、ヒジョは言葉通り干し柿を拾って、イファを促した。
「なかなかいい干し柿じゃないか。スーメイにしちゃ上出来さね。さ、茶でもいれて、少しのんびりしようね。イファ」
ヒジョが笑う。
イファは――笑おうとして。
うまく出来なくて、その場でへたりんだ。




