6
ラン国は、ファン皇国の中にあっても特殊な国だ。
皇国の中にはいくつか、長寿種や亜人種が治める国があるが、ラン国はそのひとつで、寿命を人に倍する貴人達が治めている。
貴人達――総じて人より頑健な身体と、優れた運動能力を持つ彼らは、見た目は人と変わりない。
ただ、髪色に関わらず、美しい琥珀や黄金の瞳をしている者がほとんどだ。
平民は持ち得ない色だから、貴人だとはすぐにわかる。
ソン・ジェンミンと名乗った男も、その例に漏れず、琥珀色の――光を弾くとそれは金色に見える――瞳をしていた。
人好きのする笑顔の男は、呆然としたイファに代わってリュイが応対すると天を仰いで叫んだ。
「そなたは、誰かな」
「えっと、貴方が言うところの、妻のイファの、夫です」
「夫!――夫だって!?なんということだ!知らぬ間に妻に不貞を働かれるとは……!」
イファは思わず声に出して「はぁ!?」と言ってしまった。
知らぬ間にというより、まず、この男を知らない。
しかし、新婚の妻に向かって不貞とはなんと失礼な。
聞き捨てならない。会ったばかりの得体の知れない隣国人に、苛立ちを隠せずに、イファは扉を音を立てて閉めた。
「イファ、いいの?」
「頭のおかしい人よ、気にしないでおきましょう」
鍵を閉めて、きびすを返すイファの後ろで、音を立てて扉が開け放たれた。
「待て、ラウ・イファ!話は終わっていないぞ!」
イファは思わずぎゃっと叫んだ。
扉が!改築されたばかりの扉の蝶番が壊されている。リュイも隣で「馬鹿力……」と目を剥いた。ジェンミンは壊れた扉をみて、あ、と小さく声を漏らす。
「これは済まない……ご主人、工具を貸してくれるかな、修理しよう」
しなくていいから帰れ、と声に出しかけたが、リュイは面白そうにジェンミンをみて、すぐに工具箱を持ってきた。
「どうぞ。それから、僕はイム・リュイと言います。貴方は?」
「済まないな、リュイ殿。力の加減がわからなくて。俺はソン・ジェンミンと言う。ラン国の士人だ」
にこやかに微笑みあう男二人に、イファは脱力した。
鷹揚なのはリュイの美点だけれども、不法侵入者とほのぼのしないでほしい。
「へぇ!ラン国の士人の方にはじめてお会いしました」
小雪のちらつく冬のはじめ、イファは自分の自称夫と、式をあげたばかりの夫が壊れた扉を挟んで向かい合うという奇妙な体験をしていた。
二人の男はイファにはかまわず、協力しながら蝶番を修繕していく。
小半時もすると扉はきれいになおり、満足したらしい男はにっこりと微笑んだ。
人好きのする笑顔につられそうになり、イファは唇を引き結んだ。
不法侵入されたうえに器物損壊だ。しかも、頭のおかしいことをずっと言っている。笑ってやる義理はない。
「――今日は、いきなり来て、無礼をしたな。日を改めよう」
「いえ、もう来なくて結構です」
反射的にイファは答える。
ジェンミンは、ちょっとだけ楽しそうに笑った。
「……いいや、また来るよ」
事故のような男は、イファに笑いかけると、きびすを返した。
木に繋いであった獣の手綱を握る。暗闇でうごめくそれは、馬かと思ったが、馬ではない。
馬より少し大きく、蜴のような顔と、羽根をもつ。イファとリュイは絵姿か、或は遠く空を飛ぶ姿しか見たことがなかった。
「龍だ――――」
男は、ひらりと飛龍にまたがると、小雪のまう、曇天を駆け上がった。
翌朝、慌てたように村長が二人の家へやってきた。
朝食をとる手を止めて、二人が出迎えると村長は、汗を拭きながら声をひそめた。
「お前を訪ねて来たラン国人がいると聞いて……」
「……耳が早いですね」
村長が不在の折に、ジェンミンは屋敷を訪れ、イファの居場所を聞いたらしい。なんと言ったものかわからず口を閉ざしていると、リュイが軽い口調で言った。
「イファのお母さんのお知り合いらしいよ。結婚のことで来たみたい」
「祝いにか?」
村長の問いにリュイは楽しそうに頷いた。
「多分ね」
イファの名前を知っているからおそらく母の縁者だろう。結婚のことで来たのも嘘ではない。
(本当じゃないけどね)
イファがちらりとリュイを伺うと、リュイはちょっと笑った。
「怪しげな男だったみたいだが……どうだね?」
イファは頷きそうになって…曖昧に首を振った。どこから見ても、怪しげな男だったのだが、イファの縁者とリュイが断じたものを、怪しげだと言いきってしまうのは憚られた。
リュイがちょっと目を細め、村長の疑念を否定する。
「感じのいい、身なりのいい御仁でしたよ。ちょっと浮き世離れした方ではあったけど。腰の剣も、いい細工ものだったし……相当なお金持ちなお家の方だろうね。――そんな人が来るなんて、イファのお母上はいいおうちの出だったのかな?」
「どうかしら?おっとりした人ではあったけど、そんなにお嬢さまって感じはしなかったけど……」
村長は呑気な甥っ子夫婦にやれやれ、と肩を竦めて答えると、釘だけさして帰って言った。
「祝いに来てもらうのは結構だが……あまり、おおっぴらに出歩かないように伝えてくれ――――この田舎だと、ラン国の人間にはいい感情を持っていない奴らも多いからね」
イファとリュイは村長を見送って、――顔を見合わせた。
「また、来るつもりかしら。あの頭のおかしい人」
リュイは笑った。
「来るんじゃない?――背が高くて、強そうでかっこよかったね。ねぇ、イファ。いっそ、あの人の奥さんになってみる?」
くすくすと笑うリュイの冗談に、イファは目を吊り上げた。
「馬鹿な冗談はやめてよ!」
リュイはちょっとだけ口の端を曲げた。
おどけたように胸に手を置く。
「……よかった。彼にイファの心が揺らいで、離縁されたらどうしようかと、ちょっと、心配してたんだ」
「そんなこと、絶対ないわよ」
「そう?」
悪戯っ子の目の中に、どうしようもない寂しさが浮かんでいる。
イファはリュイをギュッと抱きしめると、「絶対、どこにも行かないから」と呟いた。
リュイがイファを抱きしめ返して「今日は、ずっといちゃついていようか」と笑う。
イファは、顔を赤くしてばっと離れると、馬鹿ねと夫を小突いた。
馬鹿なことを言ってないで、さっさと朝の支度をするわよ、とイファは引っ込んでしまう。
リュイは働き者の妻の背中をみながら、ぽつりと呟く。
「――僕が死んだ後ならいいよ、イファ――でも、今はまだ。――辛いなぁ」
こん、と咳が出る。
その日の夜、リュイは酷い熱を出した。
ジェンミンと名乗った男は十日とたたずに二人の庵を訪れた。
今度は、二人の前に、うずたかく貢ぎ物をつみあげて、やはり、イファに嫁になれ、と言う。その貢ぎ物の豪華さに二人は目を丸くした。
ジェンミンはイファの手を取ると、拝まんばかりに懇願した。
「お前達が互いを思い合って婚姻したのは素晴らしい事だった。しかし、俺にもいろいろと事情があってな?頼む、イファ。離縁してくれ。そして俺と一緒にきてくれないか」
「残念だけど、お断りします」
「そこをなんとか。金なら出すぞ」
「お帰りください」
ほとんど殴り飛ばす勢いで手を振り払い、イファは勢いよく、リュイを振り向いた。
「リュイ!なんとか言ってよ」
妻の、或は離縁の危機だと言うのに、リュイはお気楽にジェンミンのくれた土産を物色している。
「うわあ、これ、北ウサギの毛皮?あったかいなあ」
「お、リュイはなかなか目が高いなぁ」
ラン国の特産を褒められて、ジェンミンはにわかに調子づいたようだった。リュイにあれこれと――貢ぎ物を説明しはじめ、リュイは物珍しい産物の説明を少年のように喜んでいる。
(なんなのよ、もう……)
イファは脱力して、椅子に座り込んだ。
その日はなんとか彼を追い返したイファだったが、二日と間をおかずにジェンミンは現れ、十日を過ぎる頃には、ジェンミンは、村の外れに宿を取ったようだった。
得体のしれないラン国人だと警戒していた人々も彼の金払いのよさと、胡散臭いまでの笑顔に、数日もするとほだされてしまった。
村長の家に訪問して、随分な歓待を受けた日まであったらしい。
更には、彼の騎乗していた龍――それを目当てに宿を訪れるものが、後をたたない。
ルアンで龍を持っているものなど、ほんの一握り。空を飛ぶ龍を遠目でみたことこそあれ、イファも間近でみるのは初めてだった。
龍は高価なのりものだ。
所有できるのは、それこそ、国守やその側近くらいのものだろう。
ジェンミンの龍は大人しく、かつ人好きな龍だった。彼の気が向けば乗せてくれるとあって、少年達は浮足だって龍の側を意味もなく離れず、これには、ラン国人嫌いのリュイの従弟、ミンソクまでそわそわとして、龍の周りをうろつくのだから腹が立つ。
「ジェンミン様は、随分な身分の人なんですか?龍を所有するなんて」
最初に訪れてから半月あまり。ラン国からの旅程を考えれば二月は楽に遊べる金持ちなことは間違いない。
皮肉をこめて言うと、ジェンミンはそこそこかなぁ、と否定しなかった。
「だが、龍を持っているからと言って、身分が高いとも限らんぞ」
ジェンミン曰く、
「龍は、ルアンには少ないだろうが、ラン国ではそうでもない」
リュイがへぇ、とジェンミンの話を相槌をうってきいている。
「北山に――中つ国との国境の山に棲息しているからな。俺のような一介の士人でも所有できる――龍は長生きだからな。こいつも俺の父のものなんだ」
「お金があれば、所有できる?」
「ま、そういう事だな」
(怪しいことこの上ないのに)
納得がいかない、と言えば、リュイの態度もそうだった。
ジェンミンを気に入ったらしく、まるで旧知のように親しげにしている。
ジェンミンが村に居座って、一月近くが過ぎた頃。
彼はまるで自分の家のようにイファの家に馴染んでいた。今日も、客間でくつろぎながら、茶菓子をつまんでいる。
イファは、このところ治療院を閉めていた。表向きは、客人の接待で。実のところ、リュイの不調で。
リュイは、碁をジェンミンと指しながら、そういえば、と思い出したように聞いた。
「どうしてジェンミン殿の妻が、イファなんです?」
イファは家事の手を止めた。
イファもそれは気になっていた所だ。ジェンミンは結婚してくれ、お前は俺の妻だ、と素っ頓狂な事を言うので、イファは怒るか断るか、しかしていない。
「私もそれ、気になっていたんです」
二人の視線を受けて、ジェンミンは黒石を取る手を止めた。
「そもそもは――イファの母君と我が父が許婚でな」
ふぅふぅと茶を冷ましながら自称、イファの夫のソン・ジェンミンは言った。
「父は随分と心待ちにしていたらしいが、――無骨な父を嫌ったユイ殿は家を出て。あろう事か平民の医者の若者に恋をして――駆け落ちをした」
私の両親の事ね、とイファもリュイも頷いた。
「父はユイ殿にフラれ……もとい、失った悲嘆のあまり――色んな女に手を出してな――いや、元々ユイ殿も、父の三番目の妻になる予定だったのだが」
ジェンミンによれば、ジェンミンの父親は現在五人の夫人が居て、十人以上子供がいるらしい。ジェンミンは一番目の妻の、末子なのだという。
「悲嘆のあまり……って、単に女好きなだけじゃないの?」
イファは呆れた目でジェンミンを見た。
貴人特有の琥珀色の瞳がイファの視線をうけて、にっこりと照れたように細められる。
違う、好意の視線ではないと言いたかったが、言っても無駄そうなのでやめておく。
「それで、父上の未練を息子のジェンミン様が晴らそうと妻に求婚を?」
リュイはくすんだ青い目をちょっと皮肉に細めて言った。
物腰穏やかなイファの夫は少しだけ皮肉屋だ。
子供のころから寝床と友達で身体を動かせない分、口が達者になったんだよ、とは本人談。
うん、とジェンミンは端正な顔に苦渋の表情を浮かべて頷いた。
「俺は兄弟が多いのだが。いや、兄弟仲は悪くないが、――いかんせん、俺は四男なんで受け継ぐべき領地がないんだ。三番目の兄までは領地持ちなんだが。奴とはなんと生まれが一月ちがいでなぁ」
ところが、先年、大叔父が子孫を残さずにあっさりと死んだ。
彼は治める領地をジェンミン達兄弟の誰かに譲ると遺言していた――。
六人いる男兄弟のうち土地もちでないのはジェンミンを含めて三人。末の弟は中央で皇帝陛下に仕えているので田舎の領地など不要だと言い、その上の弟は――――兄貴に譲るよと言ったらしい。
部屋住みの身に転がりこんで来た幸運にジェンミンは喜んだ。
「継げばいいじゃないですか、勝手に」
イファは冷たく言ったけれども、リュイは興味ぶかそうにジェンミンの話に耳を傾けている。イファは夫の顔が不自然に赤みがさしていないか、青白くなっていないかを注意深くみた。
(今日は、大分調子がいいみたいね)
冬が深くなってから、リュイは深夜に、頻繁に熱を出す。昼になれば具合が好転するけれども、午前中は起き上がれない事が、ままあった。
安心した視界の端、ジェンミンは苦悩の表情を浮かべている。
「そうもいかん。我々(きぞく)の法を知っているか?――領主になる条件を」
「知りませんよ、そんなの」
「領主になるには、いかに小さな土地とは言え、妻帯者でないといかんのだ」
イファはちっ、と行儀悪く舌打ちした。
「だったら、お嫁さんを探したらいいんじゃないですか、こんな年増じゃなくても」
イファは母の血のせいで若く見えるが今年で三十三になる。
リュイとは十近くも離れていた。大概――年増どころか、村でいえば中年の域だ。
ジェンミンは事もなげに言った。
「若いじゃないか、俺はもう五十に手が届くぞ」
「え」
「貴人だからな、平民とは時の流れが違う」
イファとリュイは沈黙した。
ジェンミンはせいぜいが三十前にしか見えない。つくづく、貴人とは不可思議なものだ、と思う。
「どうして、イファなんです?――領主様の奥がたになりたい娘なら、たくさんいるでしょう」
「よく聞いた、リュイ」
ジェンミンはコトン、と湯呑みを卓においた。
「ユイ殿は、イファが生まれてしばらくはラン国にいたのだが。父がな、そなたが生まれた時に、うっかり私の戸籍の妻の欄に、イファの名前を書いていたらしくてなぁ」
イファはぽかんと口を開けた。
「そんな、勝手に」
ジェンミンはうんうん、と頷く。
「俺も、領主になろうとして戸籍を確かめて、初めて知ったんだよ。フラれた事のない人だからな。よほど悔しかったんだろう。せめて、息子の私とイファを縁づかせたかったらしい――ユイ殿は知らなかったみたいだが」
なんて勝手な。とイファは開いた口を塞げなかった。
「で、でも、そもそも、私には戸籍がないんじゃ」
ラン国では、半貴人には戸籍が与えられないと聞く。ジェンミンは笑った。
「――それは、まあ、なんとかなるものだよ」
「お金と、地位があれば?」
リュイが皮肉に笑うと、ジェンミンはニヤリと笑った。
「そういうことだ。ともかく、俺の戸籍には既に、妻の名前が――イファの名前が書かれていてな。そなたを連れていくか、領主になるのを諦めるか、しか選択がない。大叔父の喪があけるまで、後半年だ。それまでにイファを連れていけなければ、俺は諦めるしかないなあ。なあ、イファ。俺と結婚をしなおす気はないか?ルアンもいいところだが、ラン国も悪くない。俺はそこそこ金持ちだし、家にはあまりいないから世話は楽だし、妻はお前だけでいいぞ?」
茶を飲みながら、ジェンミンはイファを情けない顔で見た。
リュイから貰った求婚の言葉だってあっさりとしたものだったが、ジェンミンのそれは最低だ。イファは財産を手にする手形のようなものではないか。正直にいわれたところで、ちっとも心がときめかない。
「行きません。いっそ、私が死んだことにするか、それか、身代わりを立てたらどうなんです?私、別に構いませんけど」
なんだかしょぼくれた大きな犬みたいね、とため息をつくジェンミンをみる。
迷惑で非常識この上ない男だが、しょんぼりとしていると、構ってやりたくなるような、かわいらしさがある。
「そんなことをしてみろ、俺が父になぶり殺しにされてしまう。ユイ殿が忘れられなくて、息子の妻の欄に、嬰児の名を勝手に書く人だぞ?――行方知れずのユイ殿を執念深く探して、イファの居場所を探し出したのも、何いおう、父なのだ」
「そう、なんですか」
母は時折、実家には手紙を出していたようではあるが。
「そなたの居場所を突き止めて、大変喜ばれてな。――何に変えても連れて来い、一緒でなければ帰還は能わず、とおおせで」
ジェンミンは、深くため息をつき、リュイとイファは顔を合わせた。なんとも不穏な事だ。
そもそも、ジェンミンの父はどういう人物だろう。めちゃくちゃではないか。イファの母にフラれ、それでも粘着してイファを勝手にジェンミンの妻にする。更には、居場所を突き止めて、息子にイファを――――連れて来いと命じる。
「ジェンミン様のお父上は――すこしばかり、困った方ですね?」
「リュイ……!」
慌てて嗜めると、ジェンミンは椅子に踏ん反り返ったまま、よいよい、と言うふうに鷹揚に、手を振った。
「困った人なんだよ。だから、俺もどうしたものかと、考えあぐねているんだ――――」




