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新婚生活は楽しかった。
朝は、リュイの体調を必ず診て、調子が悪いようなら治療をする。十日に一度は、リュイは午前中起き上がれないこともあった。
そんな日は、ゆっくり休んで、と夫に伝えて、イファは昼前には治療院を開く。
驚いたことに、リュイがここにいると知ってから、イファを異国人だと敬遠していた人々もポツポツと顔を出すようになった。
イファを馬鹿にしていた事など忘れたかのように親しげに口をきく者までいる。
呆れないではなかったが、まあ、世間とは、そういうものなのだろう。
(村長のご威光というのは大したものねぇ)
増えた患者を、といってもそこまで忙しい治療院ではない。
患者を裁いる横で、リュイはイファの帳簿をみて、あれこれと整理をしはじめた。
「何をしていたの?」
夕飯時に聞くと、リュイは肩を竦めた。
「帳簿の整理。家でもやってたから。随分と治療費を未納の患者が多いなぁって」
ええと、とイファは目を泳がせた。
「みんな、あまり、裕福なわけじゃないから……」
「ヤンのじい様もいたよ?金には困っていないと思うけど」
皮肉な表情にそうね、とイファも同意した。
ヤン家はリュイと親戚筋の御隠居様だ。膝が痛いというのでたまに治療と湿布を渡す。
全く払ってくれないわけではないが、払いは遅い。
一月滞り「払ってほしい」とイファが頼むと、あからさまに嫌な顔をする。
この村にいられるだけでありがたいと思いなさいよあんたは、大体ラン国人はケチで……、と説教までしはじめるので、イファは大層うんざりするが、声も権力も大きい御仁で、イファは逆らえないのだ。
他の患者が全部そうだとは言わないが、イファへの治療代を踏み倒して、暗に「村においてやっているのだからありがたいと思え」と言わんばかりの村人は多い。
村長の庇護と、彼から貰うリュイやビンワの治療費がなかったら、イファはとっくに破産していた。
「よし、取り立ててこよっと」
ひょいと立ち上がるとリュイは帳簿を手に取った。
「まさか全員から徴収する気?!」
村の中で、事を荒立てたくない、とイファが夫をとめようとすると、リュイはまっさかあ!と笑った。
ハラハラしながら待っていると夕方過ぎに帰ってきて「はい」と袋に入った金をイファに渡す。
袋には、ヤン爺様がツケていた全額が入っていた。
「どうやったの?」
リュイは笑った。
「碁の勝負をしたんだよ。ヤン爺は碁が好きだから。僕が勝ったらツケを全額払う、負けたら全部帳消し。――相手が若造だと思って油断したみたい。悔しがってたなぁ!」
まあ、とイファは呆れた。
「勝手に賭けにして。負けたらどうしていたの?」
リュイは笑った。
「村で、僕に碁で勝てる奴なんていないよ――爺様怒ってたよ、なんでわしだけ払わせるんだ!って」
イファはごうつく爺の顔を思い出して、うんざりした。
金持ちな癖にケチな爺様は、自分だけが不利になることを非常に嫌うのだ。
「ヤン爺はなんて?」
「他の奴らも取り立てろ、と随分怒ってたよ。けど、僕は病弱で体力がないんだから、他の人の取り立てまではしませんよ、と言っておいた」
「それで?」
「ヤン爺は自分以外の奴らのツケも払わせるって、息巻いてた」
まあ、とイファは呆れたが、ヤン爺様は恐るべき行動力で十日もしないうちに、ほとんどの患者達のツケを払わせる事に成功した。
わしは祝儀がわりに、きちんと払ったがお前はどうだ!
と、家の前で喚かれては清算せざるをえなかったのかもしれない。
「毎度あり」
にこやかに微笑むリュイに治療費を払いながら、患者達は、多少不機嫌そうに帰っていく。
そんなことがあってから、治療院を訪れる――或いはイファを呼び出す患者(といっても、金を払わない人々だが)は瞬く間に半分近くに減った。
イファは帳簿をみながら呆然とした。
随分と行が減った、しかしながら赤字は立ち消えている。皆、無料だから、ただ同然だから来てくれたただけなんだ。
わかってはいたことだが、多少なりとも治療師の腕が認められていたのだと思っていた。
なんとも空しい現実に打ちのめされていると、リュイは少し、眉を下げた。
「勝手なことしたね、ごめん。けど……イファの善意を利用する奴は患者でもなんでもないと、僕は思うよ」
イファはそうね、と俯いた。
「イファ、大丈夫?」
「ちょっと、自分の仕事に自信がもてなくてへこんでいるだけ」
「払えないんなら、まだしも……金を払うつもりがない奴まで優遇するのは、きちんとした患者さんに失礼だと思うよ?」
「わかってるわよ!」
つい、声を荒げると、リュイはすい、と肩を竦めて奥へ引っ込んでしまった。
イファの治療の腕をみこんで、来てくれる患者も勿論いるのだ。
けれど、イファは横暴な患者達に対しても、彼らが金を払ってくれなくとも、愛想を振り撒いていた。
(だって、生意気なラン国人だって思われたら……恐ろしいもの)
イファは――さっきのは完璧に八つ当たりだった――自己嫌悪にかられて溜息をついて、リュイが整理してくれた帳簿を除く。
綺麗な事で、事細かに収支がかかれ、それどころか患者達の病状の書き付けまで、細かくわけられている。
悪いことを言ったなと反省していると、リュイは、盆を持ってきた。部屋に戻ったわけではなく、茶と茶菓子を持ってきてくれたらしい。
「……リュイ、さっきは……ごめん」
リュイは少し笑った。
「僕こそごめん。イファが強く言えるわけなかったのに」
うん、というと、目の前に茶のみを置いてくれる。
「せっかく整理してくれた、この書き付け」
「うん?」
「一月たっても来ない患者さんがいたら、渡してあげようかな」
リュイは茶を持つ手を止めて、マジマジと妻をみた。
「イファ、お人よしすぎない?」
イファは軽く笑った。
「リュイのしてくれた仕事を、無駄にしたくないだけ。それに、別の治療院に行くにしても、経過はわかった方がいいだろうから」
そっか、とリュイが言い、イファは自分に言い聞かすように、うん、そうすると頷いた。
冬のはじめのある日の事だった。
患者も全て帰った夜半。
トントン、と扉がノックされる音がして、イファは扉に手をかける。急患だろうか。
季節の変わり目は体調を崩す老人や子供が多い。
しかし、予想に反して、そこにたっていたのはイファよりも、頭一つ分高い男性だった。
「ラウ・イファはいるだろうか」
身なりのいい、背の高い男だった。冬だからか、雪除けのフードを目深にかぶっている。
怪しげな男に一歩あとじさる。
「イファは私ですが……」
男は、おお!と声をあげた。
肩の雪をはらい、目深に被ったフードを背中に落とすと、いかにも武人風の面立ちが現れ、イファはあっと息をのんだ。
その男の顔に覚えがあったわけではない。ただ、男の両の瞳の色に戦いたのだ。
――――琥珀の瞳。光のあたりようにようっては、獣のように金色に光る。
「き、貴人……!?」
男は破顔一笑、なんとも人懐こい表情を浮かべた。驚愕するイファにかまわず、イファがもっと驚く台詞を口にした。
「そうとも。私はソン・ジェンミンという。いかにもラン国人で……それから、そなたの夫だ」
イファはぽかんと口をあけた。奥からひょい、と出てきたリュイがお客さん?となんとも軽い調子で言う。
(夫――?そもそも、だれ?この人!)




