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「いいか、今すぐ離縁しろ、そして俺だけの室になって俺の子を産んでくれ」
吹雪の夜、玄関先で凍りかけていた男は、イファが扉を開けると、鼻を啜って顔をぐしゃぐしゃにしながら、それでも偉そうに、本当に偉そうに、告げた。
「さようなら」
「待て、扉を閉めるな、家に入れろ。凍えて死んでしまう!」
「そうしてください」
「なんて冷たい女だ!それでも俺の妻か」
「違います。例えそうでも、今すぐ離縁してください」
「一族の決定だ、俺には逆らえんっ…!」
「平民の重婚は犯罪です」
役所に書かれた注意書きのようだ、とくだらない事を考えながら、イファは扉をしめようと試みる。
男は身体を半分滑り込ませながらイファの暴挙を阻もうとする。扉を挟んで睨み合いながら、イファと男は帰れ、嫌だ、の押し問答を繰り広げていた。
広くはない家の中、奥からのんびりとした声が聞こえる。
「イファ、イファ。お茶が入ったよ。冷気が入ってくるし、そろそろ、中で寛いで貰いなよ」
「ほら、お前の夫殿も、ああ言っている――さっさと俺を歓待しろ」
イファは緊張感のない夫と、嬉しそうな自称夫の顔を見比べる。
(二人とも、頭おかしいんじゃないの?)
泣きたい気持ちで、壁にゴン、と額を打ち付け、溜息をついた。
自称夫は、イファの隙をついて意気揚々と新婚家庭へと身を滑り込ませる。
夫がいらっしゃい、と柔らかく微笑むのが見えた。
◆◆◆
ラウ・イファは半分、人ではなかった。
けれど、随分年のはなれた、なんの力もない人間と婚姻した。
ほんの数ヶ月前の事である。
イファは「皇帝陛下」が治めるファン皇国のルアン領の国民だった。
大陸の東に位置するファン皇国は大小いくつかの国が存在する大きな集合体で、国守はそれぞれの領地の自治を行っている。
その統括を中央の皇帝陛下が行っていた。
ルアンはファン皇国の北西に位置する。イファはそのルアンと、隣国ロウとの国境の村に両親と三人で住んでいて、十六の年に天涯孤独になり、以来十数余年、治療師を営んでいた。
イファには半人としての異能がある。
人が個々に持つ治癒力を高めて、怪我の治癒をはやめたり、疲労を癒したり、――熱や痛みといった簡単な苦しみを取り除くことが出来るのだ。
更には父から教えこまれたおかげで薬草に詳しいのもあって、村ではそこそこ腕の立つ治療師として知られていた。
イファは、半分人ではないので、村では得体の知れないよそ者と煙たがられてはいるのだが、その能力ちからゆえに村人達から、困った時には都合よく頼りにされていたのだった。
イファが村人達からなんとなく煙たがられながらも、完全に孤立せずに済んだのは、もう一つ、村長がイファに親切で善良な男だった事も理由としてあるだろう。
彼は、天涯孤独になったイファに同情的で、何かと気を使って――用もないのにイファの煎じた薬を買いにきて、よく効くと褒めてくれたり、村で揉め事が起こり、イファが矢面に立たされそうになると、そっと裏口から逃がしてくれたりするような男だった。
だから、彼自慢の器量よしの娘が悪い流行り病のせいで顔面が見るも無惨に爛ただれて、死にたいと泣き叫んだ時、イファは娘を必死で宥め、あらゆる治療した。
イファの薬と、娘自身の治癒力で、彼女は二年後にはもとの美しさを取り戻した。
僅かに荒れた跡はかさつきとして残るものの、化粧をすればわからない。
そして、その美しさと、なにより心ばえの素晴らしさを見初められた彼女は、ルアンの都の裕福な商家に嫁ぐことが決まり昨日村を出立したのだった。
「イファのおかげだわ」
涙ながらに礼を言う、鄙びた村には不釣り合いな美しい花嫁を、幸福な気持ちで見送った夜。
村長はイファを呼んで重ねて娘の治療の礼を言い、それから言いにくいのだが、あんたにもう一つ頼みがあるのだ、と言った。
頼みは――村長の甥のリュイの事だった。
「なぁ、イファ。お前はいくつになったんだ」
まだ四十前の村長と、イファは子供のころに遊んだ事がある。
「三十……三になる年です」
「そんなにか」
「そんなにですよ」
「二十歳過ぎにしか見えんがなぁ」
「それは、私は半分ラン国の貴人ですから」
自嘲を込めていうと、村長はそうだったなぁ、と溜息をついた。
ルアンの隣国は、その名をラン国と言う。
ラン国の国守は狼の精霊の子孫を自称していて、さらに、国守に仕える貴人達も自らはなんらかの動物の子孫を先祖に持っている、と主張していた。変わった国なのである。
しかし「精霊の子孫」と彼らがいうのは故なき事ではない。
彼らラン国の貴人は平民の倍の寿命を持ち、何かしらの優れた能力を持っている者が多かった。
そう、ラン国の多くは単なる平民だが、支配階級の貴人達は都に住まう皇帝陛下の御一族と同じく、――ヒトではないのだった。
皇帝一族にも連なる特異な血脈を保つため、平民と貴人達の婚姻はラン国の法で禁じられている。
罰則はない代わりに、生まれた子供には戸籍が与えられないのだ。
戸籍がなければ土地を持てない。商才や学があり長じて成功し、身分を買うことが出来るものもいないではなかったが――子供が貧民に身を落とす可能性が高いとわかっていて、わざわざ、平民と婚姻する貴人はいなかった。
そもそもが貴人と平民の時の流れは違うから、夫婦としてはうまくいかないことが常なのだ。
同じ誕生日に生まれた誰々ちゃんと貴人の何々公子が運命的な恋に落ちたって、誰々ちゃんはしょせんは人間、――花の盛りは短い。
二十も半ばを過ぎると忘れたようにあまり年をとらなくなる貴人と、年ごとにきっちり老いていく人間では愛情が継続しない。大抵の場合は。
それでも、ごく稀に、愛を貫く馬鹿者達がいる。それが、イファの両親だった。
二人は身分を超えて恋に落ち、ラン国を捨てて、ルアンに逃げた。
そして、イファが十六の年、イファ達家族三人は流行り病に罹患し両親は呆気なく死にイファは一人遺された。皮肉な事にイファの不思議な力が発現したのは、九死に一生を得ての事だった。
それまでは村の娘達となんら変わりなく年をとってきたイファだったが、死にかけてからと言うもの、年齢の重ね方が目に見えてゆっくりになった。
そこにいたって初めて、イファは痛感したのだった。
私は、はんぶん、人間じゃなかったんだわ、と。
「リュイの事で、どうしても頼みたくてね」
村長が息が苦しい、と言うように喉元を締め付けていた礼服を緩めた。ふう、と息をつく。
かわいい顔をした男だが、ここ数年、ちよっと太りすぎな気がする。ちゃんと食事の量を考えるよう彼の妻のヒジョにいわなきゃ、とイファは目を細めた。
「リュイの?」
イファは村長に聞き返した。
リュイは二十歳を幾つか出た若者で――村長の年のはなれた姉の子だった。
子供のころから虚弱で医者と薬が手放せない子供で、医者を呼ぶまでもない症状の時にはイファが彼の横にいて、熱をとってやったり――寝物語をしてやったりもして――十年下のリュイはイファにとって、生意気な弟のようなものだ。嫌がられるだろうから、口にした事はないけれども。
「リュイがなあ、あんまり良くない」
「……そうなんですか」
イファは目を伏せた。
生まれたときから、二十歳までは生きないだろうと言われて育った子供だ。
父親の知れない子を生んだ彼の母も病弱だったと聞いている。本来なら成人と同時にほうり出しても構わない所、やはり人の良い村長が庇って、長の家でのんびりとそろばんを弾いているだけの暮らしをしている。
リュイは、いつもは憎まれ口を叩いてイファや女達をからかっているし、とても病人には見えないのだけれど、――酷いときには朝から身体を動かせず、起き上がれない事もある。
そのたびにイファはリュイの枕元に訪れて、そっと彼の苦しみをとってやっていた。
「それで、私に頼みと言うのは?」
イファは首を傾げた。
リュイの所へ訪問するのを頻繁にしてほしい、という事だろうか。
それならお安いご用だわ、と思っていると、村長は決まり悪く言った。
「リュイがな、――もうすぐ自分は死ぬだろうというんだ」
「そんなおおげさな」
リュイのとぼけた顔を思い出した。どこか皮肉に世の中をみる青灰の目と薄い唇。ああいう人間は細々と長生きする、きっと。
「私もそう言ったんだが、これは絶対だ、なんて本人が言うもんでね」
「リュイは占い師じゃありませんよ。長が本気にしてどうするんです」
「――そりゃあそうなんだが。それで、だな」
「はい」
「奴が死ぬ前にどうしても、嫁が欲しいと言い出してね」
「まあ!お嫁さんを」
要領を得ずに、イファは頷いた。
「寿命云々はともかく、嫁を迎えるのはあいつにとってもいい頃合いだと思うんだ――あいつは二十歳を過ぎたし」
「確かに、悪くない年齢ですね」
「お前もそう思うかね」
「ええ。お嫁さんでも貰えば、リュイもくだらない事を言わずに、しっかりするかもしれませんよ」
「私もそう思ってねぇ」
裕福な家とはいえ、娘に続いて甥まで婚礼か。村長も物入りだろう。ふんふんと話を聞いているイファを見つめて、村長はふうふう、と汗を拭きつつイファの顔色をうかがった。
「――あんたがいいと言うんだ」
イファは首を傾げた。
「何がですか?」
村長は困りきって首を振った。
「あんたの――イファの事が、嫁に欲しいと言うんだよ」
駄目だろうか、と村長がつぶらな瞳を向けてくる。
その顔は木の影からこちらをうかがう、山の狸によく似ていた。




