彼女の嘘(1)
目の前を覆っていた眩い光が収束していくに従って、目の前に広がる景色の全容が見えてくる。自分が立っていたのは、扉があったその場ではなく、旧校舎の屋上だった。だがそれは、色彩を持たず、モノクロの世界。それだけではない。空気の匂いも、風の感触も、感じることはできない。
「ここは過去の世界。残念ですが、ここでは視覚を除いたあらゆる感覚が遮断されています」
「あらゆる感覚……?」
それはどういう意味ですか、と聞こうとしたときだった。視界の隅に人の気配を感じたのだ。男の目が真剣な物に変わり、ユウマもその方向へ視線を向ける。
そこに立っていたのは、ユウマもよく知る制服に身を包んだ、女の子だった。色を持たない世界の中でわかるのは、肩にかかるくらいのロングという髪型と、彼女が身にまとっているものがセーラー服であるということだけだ。
その女の子は、風で髪が乱れるのも気にしないという風にゆっくりと、しかし確実に前に進んでいく。
そして、ユウマの頭に嫌な予感が吹き乱れていた。
「まさか……ですよね?」
ユウマは男を振り返っていった。男は黙って首を横に振る。
女の子の動きが止まった。しかしそこはもう、あと一歩前に踏み出せば宙に身を投げることになってしまうほど、ぎりぎりの場所だ。女の子がゆっくりと顔を下げ、両手を開く。
「危ない!!」
声は届かなかった。次の瞬間、女の子は、上半身から倒れるように身を投げた。走ってその場に駆けつけ、下を見る。そこには、色はなくとも真っ黒に広がっていく血が、彼女の体の周りでまるで生きているかのように流れていた。
「あの少女は、6年前のこの日、この屋上から飛び降り亡くなりました。自殺を仄めかすようなものは一切なく、遺書も出てこなかった。自殺の理由は明かされるぬまま、警察は自殺と判断し捜査を終えたんです」
男のその言葉とともに、モノクロの世界はまた眩い世界に包まれた。思わず目を閉じる。もう一度目を開けた時には、月夜に照らされた暗い廊下、つまりは現実世界に戻されていた。
「6年……こんなことが現実に起きていたなんて……」
嘘を暴けと言われ、ユウマは思い違いをしていたと感じた。遊園地にあるアトラクションのような、気楽に笑ってやれるようなものだと高をくくっていた。だが現実はそうではない。もっと悲しく、もっと辛く、もっと残酷で……。
「やめるなら、今ですよ?」
男はそう問いかけた。ユウマは勢いよく顔を上げる。そこには優しく見下ろす男の顔がある。だが、その目には違う物を感じる。ここでやめるといっても、それは受け止める。だから選べと言っている目のように思えた。
「いえ、俺はやると決めたし……それに」
少女が飛び降りたその瞬間を思い出す。何かに絶望したようなあの雰囲気は、どう考えても普通じゃない。
「あの子がなぜ、死ななければいけなかったのか……それをちゃんと知りたいんです」
男は何も言わずに頷いた。
「当然のことながらこれは全校生徒に知れ渡り、あらぬ噂が蔓延しました。結局のところ、大人たちの手によってこの事実は隠され、生徒たちの記憶から消えていった。たった6年で……」
「大人たち、つまりは先生たちがそれを隠さなければいけなかった理由……それはおそらく知られたくない事実……」
「ええ、それをあなたに、明らかにしてほしいのです」
翌日、ユウマは町の図書館にいた。
あのあと男と別れ、校舎内をうろうろしていたハルトと合流した。ユウマを見つけた時のハルトは、ひどく動揺していたようで、俺が悪かったと大泣きした。自分に何かあったと思ったらしく、責任を感じていたらしい。特に何も捜索しないまま帰宅し、ユウマは何も食べずに部屋に入り、あっという間に眠りについた。
その日はあの悪夢を見ることはなく、熟睡していたようで、気づくと朝を迎えていた。
それから、ユウマはあの子の自殺の記事がないか古い新聞が置いてある図書館を訪れ、当時の新聞はないものの、PC内でデータ化された過去の記事を読んでいた。
「〇月〇日。K高校の屋上から同学校の生徒である斎藤観月、17歳は学校の屋上から飛び降り自殺した。遺書などはなく、友人や両親にも自殺を仄めかすような話はなかったという。故人の体に言い争ったような痕はなく、警察は自殺の可能性が高いと見て捜査している」
あの男が話していたこととまったく同じ。脚色も欠落もなさそうだ。
開いていた記事を一度閉じ、次の記事を探す。
「K高校の女子生徒が飛び降り自殺した事件について、学校側はいじめなどの事実はないとし、事件解決に向けて警察に全面的に協力する
立場を強調、全校生徒には必要以上に話を肥大化させないようにするとともに、精神面を考慮して対策をとると発表……か」
メディカルケアこそ今は珍しくないが、こういった経緯で置かれたという事実に、ユウマは複雑な心境を抱かずにはいられなかった。地震災害などで家をなくし、そういった災害に対してトラウマを抱いた子がいる地域では、精神面をケアするサポートが成されているが、なぜ最近そのようなものもなく、そこまで必要に感じないこの学校にそれが設置されていることにユウマは少なからず疑問を抱いていた。その答えが、今わかったわけだ。
「言い争った痕はなく、自殺を仄めかすような物もない……」
本当にいじめではなかったのだろうか。直接的な痕跡はなくとも、いじめに値する行為はいくらでもある。もし学校がこの事実を隠そうとしたというのなら、可能性は十分ある。
もう一つ考えられるのは、本当に学校は関係なく、彼女の個人的な理由によって自殺を図った場合。だが、今の情報量で考えらえるのは、やはりいじめのほうが可能性として大きいと思わざるを得ない。
「情報不足……だなぁ」
椅子に深く座り、伸びをする。
これだけではとてもじゃないが情報不足だ。どうにかして彼女に関係のある人間と話をしてみたいところだが、いち高校生の自分にできることは、あまりにもなさすぎる。
「あれ、ユウマ君?」
そう声をかけられて、ユウマは伸びをしたまま振り返る。そこにいたのは、目立たないくらいの茶色に染まった髪を肩まで垂らし、すらりとした体をユウマと同じ高校のセーラー服で包んだ女の子。
「ヒナか……」
ユウマのその反応に、ヒナは少しムッとした顔をする。
「何よ、私じゃ何か不満?」
「いや、そういうわけじゃ……」
ユウマの困った顔を見て、しかめていた顔を緩め、ふふっと笑った。
「冗談冗談、それより何見てたの?」
そういってヒナは画面に顔を近づける。思わず近くなった顔に少しだけ自分の体温が上がったことを悟られないように、ユウマは一つ咳をした。
「なにこれ、昔の自殺の記事?ユウマ君って、こういうのに興味があったの……?」
そういうわけじゃないと言っても言い訳になる気がして、ユウマはあたりさわりのない答えを選ぶ。
「いや、たまたまこういう話を聞いてさ。それでちょっと気になって」
「ふぅん」
興味をなくしたのか、それとも自分の言い訳が嘘だと思ったのか、ヒナは画面から顔を離した。
「ヒナは何か用事?」
「あ、うん。借りてた本返しにきたの」
そういってヒナは鞄からチラッと文庫本を見せる。
「相変わらず好きだなぁ。小さいころから本ばかり読んでたっけ」
ユウマとヒナは、小さい頃からの幼馴染だ。学年で言うと一つ下になるが、お互いの両親が家族ぐるみの付き合いをしていて、何かイベントがあるたびにお互いの家に集まることが多かった。幼稚園に上がった頃からヒナは絵本を読むことに興味を持ち始め、学校が上がるたびにそれは漫画や小説などに変化し、今に至る。
「本読むの楽しいよ?よかったらお気に入りの一冊、貸してあげようか?」
「いや、遠慮しておくよ。じゃないとこてこての恋愛小説を渡されて、みっちり一時間感想を求められるからね」
あながちこれは嘘ではない。というか、過去何度も貸してあげるという言葉にかこつけて強制的に漫画や小説を渡され、次の日には感想を聞きにくるという目に合っている。最初こそ真面目に答えていたユウマだったが、さすがにそれが何回も続くと、逃げ出したくなる衝動に駆られ、最後にはギブアップしたこともあるくらいだ。
ヒナはユウマの言葉にさっきよりもムッとした顔をして、拳をユウマの頭にこつんと当てた。
思いがけない攻撃に頭をさすっているユウマの横をすり抜け、ヒナは途中で一回こちらを振り向き、あかんべぇの仕草をすると、続いてにこっと笑って受付へと歩いて行った。
「ったく……」
微かに残った感触を頭に感じながら、ユウマはPCの電源を切った。
「ごめんね、付き合ってもらっちゃって」
買い物袋をぶらぶらとさせながら、ハルナはユウマの横顔に向けてそういった。
ヒナの鞄と飲み物が入った重めの買い物袋はユウマが持っている。
あのあと、母親に頼まれている買い物をしてから帰るというヒナに、重いものがあるなら付き合うとユウマは提案し、一緒に買い物をして帰ることになった。
「別にいいよ、帰る方向一緒だし。そういや、おばさん達は元気?」
「相変わらずだよ、今度結婚記念日だからって、夫婦水入らずで京都旅行だって張り切ってるし」
「ははは。それは本当に相変わらずだな」
ヒナの両親は、昔から旅行好きな二人だ。ヒナが生まれる前もよく旅行していたと聞くし、ヒナが生まれてからはハルナを連れて、ヒナが中学生になった頃からは、家族旅行は別だが、結婚記念日の旅行などは二人でよく行ってると聞く。
「そういえば、子供のころ、二人でお使いにいったことあったよね~ユウマ君ったら、急に不安がって泣き出しちゃってさ~」
「うわ、思い出させるなよ……」
まだ小学校の二年生くらいの時の話だ。髪を切りに散髪屋に行ったユウマは、たまたまヒナと出くわした。もちろんお互いの母親も一緒だったわけだが、お菓子を食べたいとごねた二人に、二人の母親は面白がって子供二人に買い物に行かせたわけだ。
そういう時の主導権は、往々にして女性にあるもので、子供ながらにヒナはユウマをリードしていたのだが、反対にユウマは母親のいない不安から泣き出し、ヒナに慰められるというどっちが年上でどっちが年下なのかわからない状況となった。何とか買い物は成功したものの、母親二人には大いに笑われ、子供ながらにこんなことはするまいと誓ったものだ。
「すっかり二人では遊ばなくなったけど、今度はハルト君とかも一緒に遊べるといいね」
「ああ、そうだな。あいつも喜ぶよ」
ヒナはにこっと笑い、ユウマの少し前に出て歩きだす。その位置が子供の頃の立ち位置を思わせて、ユウマは苦笑する。
そんな時、ふとミヅキの事件のことが頭をよぎった。彼女には、こんな風に笑って話せる友達と言える人間はいなかったのだろうか。異性や同性に囚われず、他愛ないことを話せる友人。もしそんな存在がいれば、あんなことにならなくて済んだのかもしれないのに。
友人。
そこで、ユウマは気づいた。
「卒業アルバム……」
「え、なんか言った?」
ヒナはユウマの言葉に後ろを振り返った。
「あ、いや、さっきの新聞のことなんだけど、自殺したミヅキさんって女の人には、友達がいなかったのかと思ってさ。卒業アルバムとか、卒業文集とか、そういうものに何か残ってないかと思うんだ」
「う~ん……あ、でも、よく仲のいい友達同士で、一緒に写ってたり、一言残してたりするよね。でもそういうのって学校に残ってるのかな」
それはわからない。もう6年も前の話だ。学校に残っていないとしても自然なことだ。だがそれでも、1%でも確率があるなら。
「試してみるか……」
ヒナに聞こえないくらいの小さい声で呟き、不思議そうな顔をしているヒナに向かって、ユウマは言い放った。
「ヒナ、明日時間あるか?ちょっと付き合ってほしいんだけど」