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19、天使か、悪魔か

 夏休みの話に戻る。

 僕はファイナル・ステーションの音響スタッフの仕事をしながら、相変わらず学校に通っていた。

 夏休みは、客が多い。

 羽を伸ばした若い学生達も、普段よりは格段に多くなったように見える。


 そんな八月に入ったばかりの頃、突然ジェラルドから電話があった。

「久しぶり」

 ちょっと機嫌の悪そうな、いつもどおりの声だった。

「久しぶりだね。どうしてた」

 僕はどぎまぎしつつも、しらじらしく尋ねてみるが、ジェラルドは「別に」とだけ言った。


「お願いがあるんだ。メイが急に辞めてしまって、人が足りない。週末だけでもいいんだ、手伝ってもらえたら助かるんだけど」

 ジェラルドは前と変わらず、「ミドリ」で働いているようだった。

 ジェラルドの話では、ひと月ほど前に入ってきた、メキシカンの男の子もいるらしかったが、二人では回しきれないんだ、と僕に言った。


「今、ファイナル・ステーションのスタッフをやってるんだ。インターンなんだけどね。サマー・タームも取ってるんだよ」

 そうか、とジェラルドの声のトーンが、そこで少し低くなったような気がした。

 僕は頭の中で一日のスケジュールを必死で思い出す。


 それ以上僕に頼む込むこともなく、ジェラルドは「ごめん、暇になったら食事に行こう」と言って電話を切ろうとした。

 気が付けば僕は待って、と電話の向こうのジェラルドに追いすがり、慌てふためきながら「大丈夫だから」と付け加えた。


「でも、あそこは十二時までに入れば大丈夫だから、なんとかなると思う。行くよ、今日からでもいいのかな」

 今日からなど、明らかに無理をしすぎるている気がしていたが、勝手に口が動くのだから、どうしようもなかった。

 我ながら、断れない性格をどうにかできないものかと苦々しい気持ちになる。

 だが、やると言った以上は、全部こなさなくてはならない。

 

「ありがとう」

 ジェラルドの声が、弾んでいるように聞こえるのは、気のせいだろうか。

 僕に会えるのを、喜んでいるのだとしたらいいのだけど。


 久しぶりに会うジェラルドは、長く会っていなかったことなど微塵にも感じさせない態度で、僕に「やあ」と言った。

 気まずさを隠すふうでもなく、もしかしたらジェラルドは何も覚えていないのかしれない、と僕はちょっと安堵した。

 やがて、僕が必要以上に気にしすぎてしまっていたようにも感じ、それなら避ける必要もなかったのでは、とさえ思えてくる。

 仕方がない。

 半年以上も会わずにいたのは、僕の選択ミスだったようだ。

 

 僕達が雑談をしていると、のれんをくぐり、一人の小柄な男の子が入ってきた。

 ジェラルドやメイに勝るとも劣らない、美少年である。

 オーナー夫妻は、実は顔でスタッフを選んでいるのではないかと思うほどの、クオリティの高さであった。

 くりくりした大きな瞳で、人懐こい笑みを僕に向けてきた。

 オレンジ色の短い癖毛が、彼によく似合っている。


「はじめまして、僕はルイス・アルマンド」

 いい子そうだな、と僕はにっこりと微笑んで握手をした。


 目まぐるしい毎日も、若さで乗り切れた。

 今の僕にあの頃と同じ生活をしろと言われても、きっと途中で何かを放り出すだろう。

 でもその頃の僕は本当に朝から早朝まで、真面目に勉強し、働いた。

 人の一生の中で使える力が限られているのだとしたら、僕はあの時にほとんどの力を使い果たしてしまったのだと思う。

 その証拠に、日本に帰国したばかりの頃の僕は、口だけは達者で、けれどどことなく怠惰で、何の役にも立たない、燃えカスみたいな人間だった。

 燻る残骸に、ロイが新しい薪をくべてくれたおかげで、僕はどうにか息を吹き返すことができたけれど。


 明るくて可愛いルイスは、よく気が利き、お客からも人気があった。

 少々訛りのあるものの、流暢な英語で応対し、僕は素朴に感心していた。

 メキシコで高校を卒業してから、すぐに出稼ぎに来ていた親類を頼って働きにきたということだった。

 メキシコ国民の三割は、貧しさから逃れる為、国外へ出稼ぎに行くのだという。

 毎月家族に仕送りをしている人々がほとんどであり、ルイスも大勢の兄弟を養う為、仕送りしていると言っていた。

 一応二十歳だよ、と童顔ぎみであることを気にしているのか、ルイスはちょっとおどけながら顔をしかめてみせた。


 僕に欠けているのはこういうハングリー精神というものだろうか。

 留学生というと、どことなくお客さん扱いされていることを常々感じていた。

 ルイスみたいな人達に、僕はたくさん出会った。千沙さんも含め、皆一人で知らない場所に立ち、歩いていた。

 だからあの頃僕は、負けたくなくて、そのうちの一人になりたくてたまらなかったのだ。

 

 当時、寿司を食べに来るアメリカ人は、身なりが良くて学もある、いわゆる上流階級の人々ばかりだった。

 一方エル・グランデなど、スシと聞いても、見たことも食べたこともない人々が大半だった。

 音楽学部の学生は例外的に金持ちの子どもが多かったから、僕が寿司屋で働いていると教えると、本当に家族と一緒に食べに来てくれた。

 

 その日も「ミドリ」には、ルイスの友人だという、身なりの良い中年の紳士が訪れていた。

 ルイスが以前に勤めていたスシバーからの、馴染みの客だという。

 その紳士は冷酒を飲みながら刺身をつまみ、最後まで店にいた。

 チェックを済ませ、帰宅するその客を、ルイスが駐車場まで見送りに行った。


「少し休んでいいよ。ほとんど片付け終わってるし。僕はレジ閉めをするから」

 とジェラルドが僕を気遣い、休憩を勧めてくれた。

 僕は疲れた体を引きずりながら、裏口へ出て、一服することにした。

 ぼうっとしながら僕は、次はファイナル・ステーションだ、カフェインを入れる必要がある、と隣のコーヒーショップに寄ろうと思い、煙草をその辺に投げ捨てると駐車場の方に足を向けた。


 ルイスが、中年の紳士と会話をしているのが目に入った。

 そして二人は抱き合い、キスをしていた。

 二人が寄り添っている姿は、どう見ても、アレだ。

 軽いショックを受けながら、僕は来た道を引き返し、裏口から中に戻った。

 コーヒーのことはすっかり忘れていた。


 そうか、そうなのか…と僕は扉にもたれかかったまま、「見てない、見てない」と呟いていた。

「ナオキ、これ」

 コーヒーの入った紙コップを僕に手渡し、ジェラルドが一瞬笑った。

「どうしたの」

「今、買ってきたんだよ。これからファイナル・ステーションに行くんだろ」

 一口飲むと、ダブルのエスプレッソだった。


「外、見た?」

 思わずむせ返りながら、僕はジェラルドに尋ねてしまった。

「何がだよ」

 ジェラルドは不思議そうに僕を見て、悠々とストローを咥え、アイスコーヒーを飲み続けている。

 そうか、見てないのか、と僕は何故か安心して、「ありがとう」と礼を言った。 



 家に一度戻って着替えを済ませ、僕はファイナル・ステーションに向かった。

 疲れた体に鞭を打ち、しがみつくようにハンドルを握っていた。

 その日はいつもより早く、キム達が遊びに来ていた。

 フロアの真ん中で、派手な原色の花みたいな集団が踊り狂っていた。

 僕はスタッフだから、彼らと一緒に遊ぶわけにもいかず、真っ直ぐ二階のDJブースに向かった。


 ここからは、吹き抜けのフロアが実によく見渡せる。

 常勤のDJの手伝いという名目であったが、実際僕はほとんどすることがなく、世間話をして夜を明かしていた。

 これで給料も貰えるのだから、万々歳ではあるのだが、やはりライブハウスのPAの方が楽しかったろうな、と少々残念な気もする。

 有名なDJは、ライブハウスでパフォーマンスをすることが多いから、急にストレートな人達で溢れかえるということもなかった。

  

 もちろんストレートな人々にも門戸を開いてはいたが、そこは頑ななまでにゲイクラブであることにこだわり続けているのか、ここは常に平常運転であった。

 それでも、僕に快くインターンの件を了承してくれたファイナル・ステーションの人々には、感謝していた。


 三時を過ぎると、人影もまばらになり、休憩にやってきたパティオには、誰もいなかった。

 僕は手すりに寄りかかり、煙草を吸いながら夜空を見上げていた。

 誰かが僕を呼んでいる、と視線を戻しつつ、どこかに灰皿はないかとパティオの中を見渡した。

 両手に灰皿を持ち、僕に「どうぞ」と手渡す人は、ルイスだった。


 僕はぽかんとして、目の前に差し出された灰皿を見つめ、そしてルイスを見た。

 そりゃそうだ、ゲイなんだから、ここで会うこともあるわけだ。

 僕は動揺を隠しながら「ありがとう」と言って灰皿を受け取った。


「明日のランチタイムも出るんでしょ。こんな遅くまで大丈夫なの」

「ナオキがいるって知ってたから、遊びに来たよ」

 僕は何と言っていいかわからず、そう、とだけ答えておいた。


「あの人ね、移民局の偉い人なんだよ。知り合いになっておくと、いろいろ便宜を図ってくれる」

「あの人って」

「今日来たお客さんだよ。見たでしょ、駐車場で」

 僕はとっさに見てない、と言いかけたものの、意味ありげに微笑んでいるルイスから逃れられる気がしなかった。


「ナオキは、労働許可証持ってるの?ここはインターンだから問題ないけど、「ミドリ」だとまずいよねえ」

 僕は黙り込み、笑っているルイスを見つめていた。

 愛想よくお客に笑顔をふりまいている、いつものルイスではないと思った。

「だから、あの人に頼めばいいんだよ。僕が頼んであげようか」

「大丈夫だよ。それに、お金かかるんだろ。移民局に賄賂送って、グリーンカード貰う人の話とか、聞いたことあるけど、俺無理だし」


「僕に任せてくれれば大丈夫だよ。いつ何時、ガサ入れがあるかわからないでしょ」

「それはそうだけど」

 僕以外では、キッチンで働くメキシカンのほとんどが、不法労働者だった。

 けれどあんな小さな店、ガサ入れして何になるというのだろう。

 不法労働者の取り締まりは、あくまでも形式的なもので、大抵は大きな工場などが標的になっていた。

「オーナーにも迷惑かからないように、した方がいいと思うけど」


 僕ははっとして、静かに微笑むルイスを、思わず睨み付けていた。

「俺が、気に入らないから?」

「酷いよ、どうしてそんな事言うの。僕はナオキにずっと、会いたかったのに」

 今度は、甘えるように言うルイスの意図が、わからなかった。

 そしてメイが辞めてしまった理由も、おぼろげながらもわかる気がした。

 この子は、裏の顔と表の顔が、違うのだ。

 邪に微笑んでいるルイスは、悪意の塊そのものに見えた。


 突然ルイスに口を塞がれ、僕は頭の中が真っ白になる。

 まるで獣みたいなキスだ、と僕は思った。

「思い出してくれないの。前に、僕にキスしてくれたのに」

 僕を見上げるルイスがせつなげな表情を見せ、僕はその顔に見覚えがあることを思い出した。


 オレンジ色の癖毛は記憶になかったが、そういえばこんな感じの小さい子と、昔ここでキスをした。

 どこの誰だかわからなかったけど、ゲイクラブではよくあることだし、僕はそのことをすっかり今日まで忘れ去っていた。

 固まっている僕の反応にくすりと笑うと、ルイスは「思い出した?」と言ってもう一度キスをした。




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