18、小鳥の巣立ち
ウィンターホリデーが始まり、クリスマス前にロイやシュワルツは休暇を取った。
シュワルツは実家のコネチカットへ帰ると言っていた。
おみやげに頼んだアップルサイダーや本場のベーグルが待ち遠しい。
今では、日本でもベーグルは当たり前になりつつあるけれど、ずっしりとしたあの重みが、まだまだ足りないような気がする。
僕は人気の無くなったオフィスで寂しく大晦日まで仕事をし、正月は姉のところに顔を出した。
高校生になったあやと、まだ小学生の弟の翔太にお年玉を渡し、大介さんと朝からのんびり日本酒を飲んだ。
「翔太はともかく、あやはもうお年玉なんかいらないわよ」
と姉は言っていたが、まだ子どもなんだからいいじゃない、と僕は溺愛する姪の手に、お年玉袋をぽんと乗せた。
喜ぶあやの頭を撫で、僕は上機嫌で煮しめをつまみながら再び飲み始める。
「お金、貯めないとね。あっという間に無くなって、極貧生活になるんだから」
あやは高校を卒業したら海外に留学すると固く決めているようで、それがもっぱら姉の悩みの種となっていた。
姉はあんたのせいよ、とは言わないまでも、確実に僕の今までの歩みが娘に影響していると思っているようだ。
あやは単純に、僕から聞かされた海外生活に憧れているようで、松本が勤めている英会話学校にも通っていた。
「ナオ君、アメリカに行くんでしょ。先生と一緒に。恋人に会いに行くんだって」
僕の行動は松本を通して、あやに筒抜けも同然だった。
なんでそんなことまで、と僕はちょっと居心地の悪い思いがしたが、否定することもできず、「まあ、行くけど」とだけ答えておいた。
「なんでその人と別れちゃったの」
返答のしようもない質問を、あやはずけずけと聞いてくる。
「いろいろあるんだよ」
「でもまだ好きなんだ。だから彼女作らないの?」
いや、そうじゃなくて、と僕は返答に窮し、しばらくの間ひたすら冷酒を飲んでいた。
「あやは、今彼氏いないの。前に別れたって言ってたじゃん」
いるよ、と綾は即答するが、
「私のことはどうでもいいの。じゃあ、ナオ君はその人とやり直せたら、またアメリカに行っちゃうの」
とすぐさま切り返してきた。
どうやりかえしたらいいものだろう、と焦る僕には、妙に隙のないあやが姉と重なって見える。
「じゃああやは本当に留学したら、その彼氏はどうするんだよ」
「だっていつまでも付き合うわけじゃないもん。どうせ今だけだし。環境が変われば、違う人が好きになったりするだろうし」
まだ十代だというのに、そんな冷めた付き合い方があるものだろうか、と僕は真剣にあやが心配になる。
「そこまでわかってるなら、どうしてかなんて、聞かなくてもわかるでしょ。好きだけじゃうまくいかないんだ。外国人同士は、特にね。それに、今の仕事は続けるつもりだし」
「音楽だけじゃ駄目なの?前みたいに、テレビに出たりすればいいじゃん」
「もうテレビはいいんだよ」
なんで、とあやは納得がいかないといった顔をしていた。
あやにどこまで話していいのか、どこまで理解してもらえるのか、僕はわからなかった。
「ナオ君が出た番組、全部見てたよ。かっこよかったのに」
「俺は、今が一番いいんだ。やりたいことがやれて、すごく満足してるんだけど。テレビに出たら、そうはいかない。一見華やかな世界だけど、俺みたいに弱い人間には無理。流されちゃうし」
そうかな、とあやは腕組みして僕を見ていた。
これ以上、あやの夢を壊してもいけない、だけどある程度の真実は知るべきだとも思う。
僕はしばらく黙って、あやのふっくらとした頬を見つめ、うーん、と唸っていた。
「所詮、夢の世界なんだよ。でもそれは、作り物だからね」
これくらいは、言ってもいいだろう。
ちょっと悲しそうな顔になるあやの姿に、僕の胸はざわりざわりと不快に揺れている。
夢を売る側としては、無駄に消費者を減らすこともなかろう、と僕は思い直し、
「だから俺は、作り物じゃない夢を、自分が見たいだけなんだよ、たぶん」
と言った。
***
僕はそれから三日まで、松本と自宅で音源の編集作業をしていた。
ライブ録音したものをマスタリングしている最中で、音楽祭に向けてCDを作っていた。
僕の給料のほとんどは、自宅スタジオ構築の為に費やされていた。
一部屋をまるごと改造して、プロスタジオ並みの機材を揃えまくった。
ロイの力がなければ、ここまで満足のいくスタジオを作ることは不可能だったと思う。
ロイ、拾ってくれてありがとう。
「あやにさ、あんまり言わないで」
「なんで、駄目なの」
松本は煙草をふかしながら、コンソールの前で休憩していた。
ここは禁煙、と何度言ったかしれない、と僕は不機嫌になりながら、灰皿代わりにしているビールの空き缶を取り上げ、「あっちでね」と言った。
「あやには、言いたくないことまで言わされるんだ。まだ子どものくせにさ。あれは絶対姉に似たんだ」
僕らはスタジオから出て、居間のこたつに潜り込んだ。
「あやちゃんは、大人だよ。あれくらいの年頃の女の子は、自分では大人だと思ってる」
「生意気だよね」
僕は、あまり考えないようにしていたジェラルドの話を持ち出されたせいもあり、正月だというのに、一向に心休まらなかった。
遠い昔の話なのに、まるで昨日のことのように、鮮明な思い出がいくつも甦ってくる。
「子ども扱いするなって怒られるよ。怒られないの?」
「先生も手を焼いているんですね」
うん、まあ、と言葉を濁す松本が、どこかぎこちなかった。
彼の態度に、僕の頭の中を何か不吉なものがよぎり、思わず松本を睨みつけた。
「まさかとは思うけど、あやに手を出したりしてないよね。わかってるよね、未成年だよ」
「俺はともかく、あっちがそれでもいいって言ってきた場合はどうすればいいの」
そこで僕ら二人は初めて沈黙し、僕は「まさか」と汚いものを見るような目で、松本を凝視していた。
「そこでこらえるのが普通だろ。お前、捕まりたいの」
僕の目がすうっと細くなり、徐々に吊りあがるのが自分でもわかる。
もやもやとした黒い煙のような塊が、体全体から滲み出してくるような気がした。
「いや、だからものの例えだよ。好きって言われて、悪い気はしないだろ」
「お前か!あやが言ってた彼氏は、お前か!」
僕は無意識のうちに松本の両肩を掴み、がくがくと揺さぶっていた。
僕の可愛いあやが、こんな男になんて、ありえない、ありえないんだ、と僕は絶望の中で何度も否定した。
小さかったあやが、よりによってこんな適当な男にかっさらわれるなど、思いもしていなかっただけに、僕の心は嵐の中の小舟のように、全方向から突き上げられ、今にも転覆しそうだった。
煙草の灰が、と松本は言い訳をしながら、僕の機嫌を取るように引きつった笑いを浮かべる。
「こんなことなら、お前なんかに預けるんじゃなかった」
力尽きたように、こたつのテーブルの上に突っ伏す僕を見て、そんな驚かんでも、と松本は困ったように言い、煙草を空き缶にねじ込んだ。
ショックを受けている僕を、冗談だと思っているらしかった。
本当に警察に通報してやろうか、と僕は目の前の男を睨み、「ロリコン」と言ってやった。
「でもお前、いつかあやに捨てられるからな。あやがそう言ってたからな。あの子は小さいときから、基本自分しか好きじゃないから」
大人気ない僕は、少しは冷静になろうと反省しつつ、大人気ない攻撃で松本にダメージを与えることにした。
「わかってるよ、今はまだ、ちょっと年上に憧れる年頃なんだろうし」
ちょっとどころじゃないだろ、と僕はこのずうずうしい男をどうしたものかと考え込んでいた。
「なんか、むかつく。お前だから余計にむかつく」
僕は姉の家からもってきた日本酒のフタを開け、グラスになみなみと注ぎ込んだ。
焼きもち?と松本に聞かれ、僕は当たり前だ、と噛み付くように言っていた。
「お前、それとこれとは別だよな。音楽祭出ないとか、言わないよな」
取り繕うような笑顔の松本に向かって、さあね、と僕は意地悪く言った。
「早くあやの目が覚めて、こんなおじさん捨てちゃえば、考えなくもないけど」
頼むよ、と懇願するような眼差しを向ける松本に、僕は精一杯いやらしい笑みを見せつけた。