15、見えない殻
モニカは僕の隣のブランコに座り、ぎこぎこと漕ぎ始めた。
「そうだ、あんた、よかったら俺のコレクションを見るか」
何のコレクションだろう、と僕が首を傾げていると、モニカがおじいちゃんを睨み付け、「いい加減にして」と言った。
「狩猟用のショットガンよ。男の子が遊びに来るたび、そうやって意地悪言うのよ」
そういえば、この前テレビで見たドラマで、父親が娘を迎えにきたボーイフレンドに対して、問答無用で銃を持ち出すシーンがあったな、と思い出した。
ドラマでなくとも、この国では当たり前のジョークなのだろうか。
「残念ながら俺の国では、銃を見たこと無い人が大半なのですが」
「そうか、カタナか。よく切れるバーベキュー用のナイフなら、さっきお披露目したばっかりだな」
この国の人々は、狩猟時代の頃と、さして思考回路が変わっていないのではないかと思った。
「ナオキは、そういう人じゃないのよ。風が吹いたら倒れちゃうくらい繊細なんだから」
モニカのフォローなのか何なのか意味不明な発言も、何か腑に落ちないものを感じた。
全力で、僕の男としての存在を否定されている気がする。
「あんた、大丈夫か。高い所は駄目、戦うのも駄目って、今までどうやって生きてきた」
ここは修羅の国ですか、と僕はおじいちゃんをぼんやりと眺めながら「僕も不思議に思っています」と答えた。
グランパは楽しそうに豪快に笑い、「コーヒーを飲もう」と言って中に入っていった。
モニカは柔らかそうな頬を膨らませて、「ごめんね、悪気はないのよ」と言った。
「うん、面白いおじいちゃんだね」と僕は答え、少し強めにブランコを漕ぐ。
僕は、両方の祖父がとっくに他界していたので、グランパとの会話は逆に新鮮だった。
「中間試験の課題曲を明日もらうんだけど。今回は、ちょっと大変だよって先生に言われたの。何かしら」
所詮僕達は何処にいても、グランパが心配するような色っぽい会話は在り得なかった。
休みの日であっても、会話は授業の話に戻ってしまう。
ああ、と僕は答え、「スペイン」と言った。
「全音階だってさ。モニカ、頑張ろうね」
僕がにやりとするのを呆然と見つめ、モニカは「ジーザス」と呟いた。
***
月曜日の講義の後、僕達は一番大きな教室に集まり、自然と課題曲に各々が取り組み始めた。
「もっと早くに教えてくれりゃよかったのによ。試験までに間に合うかな」
ベース弾きのティムがぶつぶつと呟き、その横ではザイロフォンを奏でるレイが、ドレッドヘアを振り乱しながら、早速自分の世界に入り込んでいた。
リサイタル・ホールのスタインウェイより鍵盤が重い、と僕はぼやきながら肩を回した。
少し遅れて、モニカが肩にサックスを担ぎ、部屋に駆け込んでくる。
「Cの譜面しかもらえなかったの。あとは全部、自分でやれって」
泣きそうな顔をしているモニカに、気の毒そうな顔をして、ドラムのブライアンが「僕だけ全音階じゃなくて、ごめんね」とぼそりと言った。
「スタジオに移調ソフトあるから、それでプリントアウトして帰りなよ」
僕達の子守役をしているクレイが、モニカに助け舟を出した。
クレイいわく、十代の学生の相手なんて、所詮ベビーシッターみたいなものらしい。
ちなみにクレイは、僕の二つ年上だった。
悪いけど彼は講師ではなく、麻薬の売人にしか見えなかった。
見た目は犯罪者であるが、彼が優秀であるのに間違いはないと思う。
人は見かけによらないの典型である。
「ソフトって何処に入ってるの」
ますますパニックになるモニカを眺め、僕はスタジオへお供をすることに決めた。
ティムはちらりとモニカを見たが、クールな顔を崩さずに練習しているふりをしていた。
なんでここで遠慮するのかな、と僕は残念に思いながら、クレイからスタジオの鍵を受け取った。
***
三月の始めに入り、僕達のミッド・タームが始まった。
みんなが必死で練習していた、スペインの全音階もどうにかクリアしたようで、モニカは嬉し涙を流していた。
僕のもう一つの課題は、「All the things you are」だった。
正直、僕は自信満々でピアノを弾いていた。
審査をするカービィと、ロジャーという歴史学の先生の二人が、一切の表情を消し去って僕の演奏に点数を付けていた。
僕が弾き終わると、ロジャーは一言「Good」と短く言い放った。
一方ではカービィが、白い顎鬚に手を当て、「Well」と言って考え込んでいた。
「これは、試験とは関係ないけど」
「なんでそんなに、苦しそうに弾くのかな。もっと力を抜いて弾けたらいいんだけどね」
「だって、悲しくなる展開だし、みんなそうでしょう」
カービィは、Noと言い、ためらいながらも続けた。
「これは、希望に満ち溢れた歌なんだよ。なのに何故、そんな辛い気持ちばかり全面に押し出すの。それが悪いわけじゃない、でも、一人じゃなくて大勢で合わせたら、果たして君の解釈は、どうなるんだろう」
「感情移入しろって言ってるわりには、試験になると違うものを求めるんですか」
試験とは関係ない話、と彼は言っていた。確かにそうだ。だけど、内面的なものまで指摘されるとは思ってもいなかったので、僕は思わず反論してしまった。
ロジャーは無言で、ペンを片手に僕達を見守っていた。
普段は優しいカービィの、思いがけない糾弾に、僕は少なからずもショックを受けていた。
「またいつか、聞かせて欲しいな」
カービィは厳しい顔をして僕を見た。
「今は、駄目なんですね」
僕は悲しくなりながら、彼の顔を見つめた。
「あまり重く受け止めないように。それがヒントだ。君が思うほど、世の中は悪いものじゃないよ」
試験終わったね、おめでとう、と僕とモニカは疲れ切った顔で、学校の近くのメキシカン・レストランでささやかな打ち上げを行っていた。
「私なんて、『よく頑張ったね』しか言われなかったけど。それだけ、ナオキに期待してるんじゃないの」
モニカは山盛りのサランチョを口に運び、もぐもぐと言った。
「そうかな。人間性まで否定された気がした。それも俺みたいな男じゃ、仕方がないんだけどね」
悲観的になる僕の言葉を、モニカはビールと共に押し流しているようだった。
「そんなに辛いなら、根本的な原因のジェラルドを突撃すればいいじゃない。私にはわからないわ。なんで、頑なに会おうとしないのか、理解できない」
「今はまだ、会えない」
やせ我慢という言葉は、彼女達の文化には存在しないのだろうか。
「ジェラルドのことを消化できたら、カービィが言うような演奏ができるのかもしれないけど」
「それって、気が遠くなるほど先の話のような気がするわ。ナオキの性格じゃ、特にね」
イエスかノーか、それでさあ次へ行こう、という考え方には、僕はまだ抵抗があった。
女々しい、と言われても仕方がない。
「人間性って言うけど、ナオキは何も悪くないわ。あなたをそんなふうにさせたビッチのことなんか、さっさと忘れてしまえばいいのよ」
ジェラルドに対する気持ちと、ベッキーとのトラブルが混在し、僕の心をいまだに締め付け続けていた。
「もっと早くに向き合えていたら、誰も傷つけずに済んだかもしれないのにね」
僕はそう言い終えると、アイリッシュ・コーヒーを飲みながらソフトタコスに勢いよくかぶりついた。
「だから、向き合って会いに行けばいいのに。駄目ならそれで終わりよ」
わかっている。人生は、常に二択だ。
でも僕は、モニカの言う「駄目」だった場合に耐えられそうもなかった。
言葉にしてしまえば、それで終わってしまう気がする。
それを先延ばしにして、僕はジェラルドに会うのを避けていた。
失いたくなかった。
言葉なしに会わずにいることで、どうにか物理的な絆だけでも温存しておきたいと思う、僕の独りよがりな気持ちしか存在しなかった。
そんなずる賢い僕を、ジェリーは今、どんなふうに思っているのだろう。
「ああ、カービィは、それを言っていたのかもしれない」
僕は言いかけながら、暖かいグラスを片手に持ち、中身のクリームを指ですくって舐めた。
きっと彼は、自分のことばかりの、身勝手な僕の心を指摘していた。
誰の気持ちも尊重せず、殻に閉じこもる僕の姿を。