14、All The Things You Are
僕はリサイタル・ホールで一人、ピアノを弾いていた。練習室はいっぱいだったし、ここしかピアノが空いていなかった。
僕はスタインウェイの前に座り、課題曲をいくつか練習した。
弾きながら、ぼそぼそと歌っていると、ホールの扉が開き、誰かが入ってくるのがわかった。
僕は気にせず、そのまま自分の世界に入っていた。
その人はホールの客席にぽつんと座り、僕のピアノに耳を傾けていた。
僕が一曲弾き終わるのを見届けると、小さな手で力いっぱい拍手を送ってくれた。
「素敵」
とモニカは呟き、ステージによじ登った。
「今度一緒に合わせてくれる?」
モニカは短い金色の髪を軽く振り、僕の顔を覗きこんだ。
モニカはアルト・サックスを吹いていた。
もちろん、と僕は言いながら、次の曲を弾いていた。
「さっきの曲、もう一回歌ってよ。ナオキの声聞いてると、すごく悲しくなるんだけど、ナオキに合ってる」
「そもそも曲が悲しいもん、俺のせいじゃないよ。マイルスくらいじゃないと、楽しく演奏できないんじゃないかな」
僕の言葉を無視して、モニカは上目遣いで僕の顔を見た。
「歌ってる時も、すごく悲しそうだった」
「それは、ジェラルドのことを考えて歌ってるからだよ」
まあ、とモニカは目を見開いて、にやりと笑う僕の顔を眺めていた。
褒められているのかけなされているのかわからなかったが、この可愛いお嬢さんの為に、僕はもう一度、All the things you areを弾いた。
モニカは僕の隣にちょこんと座り、一緒に歌詞を口ずさんでいた。
君は 春の訪れを約束する くちづけのようであり
でもそれは 寂しい冬を僕にとって とても長いものに させるけど
君は 夜の静寂そのものであり
それは美しい調べが 揺らぎざわめき始める瞬間……
歌い終わると、僕はモニカに「次はどんな暗い曲がいいのかな」と聞いた。
「もういいわ。クレイが探してたのよ。ナオキを呼んできてって言われたの」
僕は、コンピューター・ミュージックの講師であるクレイとの約束を思い出し、壁の時計を見た。
「忘れてた。今日はクレイとアタリを修理するんだった」
「アタリって、スタジオの粗大ゴミでしょ。捨てたらって言ったら、クレイが絶対駄目って言ってたわ。あんなもの、直してどうするの」
「どうするかは、直ってから決めるよ」
アタリとはとても古い、旧世代のPCのことであった。
学校のスタジオにはモニカいわく、「邪魔な粗大ゴミ」と化した壊れた音響機器が、無造作に積み上げられていた。
そしてその間には足の踏み場もないほどの様々な種類のケーブルが、絡まったまま放置されている。
モニカは、ここの学部唯一の女子生徒で、スタジオや練習室などがゴミ屋敷のようになっているのが我慢できないようだった。
ブロック・カレッジの音楽学部は、単なるむさ苦しいオタクの巣窟でもあった。
口を尖らせて僕を見ているモニカに、僕は「アタリが直ったら、みんなで掃除するよ、約束する」と言った。
僕がクレイの部屋へ行くと、彼は暇を持て余していたのか、ニンテンドーでシューティングゲームをしていた。
真冬だというのに、学校の中は暖房が効き過ぎて、大抵の人間は半袖だった。
クレイもTシャツから刺青だらけの腕を覗かせ、コントローラーを握っていた。
「ごめんね、忘れてたよ。で、直りそうなの?」
「直すしかない。工場修理に出すなんて、俺らのプライドが許さない」
彼らは、ミュージシャンである前に、いっぱしの電機職人でもあった。
何かが壊れれば、自力で直すのが当たり前だった。
僕らは広い講義室へ移動し、クレイの商売道具を広げ、修理に取り掛かった。
はんだの匂いがほのかに漂い始め、僕達は黙々と作業に没頭する。
しばらくすると、音響学の教授であるカービィがやってきて、僕達に混じり、調子の悪いラック型のエフェクターを分解し始めた。
モニカは黙って、僕達の作業風景を静かに見学していたが、やがて「バイトに行ってくる。またね、また歌おうね」と帰っていった。
「これが直ったら、スタジオを掃除するってモニカと約束しちゃったんだけど、いい?」
「あの子、すぐ捨てろって言うんだよな」
クレイは長い髪をガリガリと掻き揚げ、困ったような顔をして僕を見た。
「いいことですよ、女の子がいるって。いるのといないのとでは、大違いだし。俺はむしろ、今までいったいどういう風に、この学部の衛生状態が維持されていたのかが、不思議でたまらない」
誰かが置き忘れたらしいハンバーガーの包みが、巨大なスピーカーの上に置かれているのを僕が指差すと、「カビ生えてるんじゃないの」と横からカービィが言った。
「だらしないって言われても、仕方ないよね」
僕はおそるおそるその包み紙をつまんで、近くにあったゴミ箱に放り込んだ。
「お姫様の機嫌を損ねないように、せめて普通に、綺麗にしようよ。わかりましたか」
何故か、自信なさげな顔で僕を見つめる先生達の姿がおかしくて、僕は人の悪い笑顔を見せつつ、再びこてを握り、クレイの手伝いに戻るのであった。
ブロック・カレッジの雰囲気は、エル・グランデ・カレッジとは対極にあるようだった。
比較的身なりの良いお金持ちの、世間知らずの男子ばかりで構成された音楽学部は、去年の環境に比べると、天国のようであった。
エル・グランデは好きだったけど、こっちの方が明らかに面倒な人間関係がなさそうだ、と僕は安堵した。
それでも、問題はやはりあった。
何といっても、オオカミの群れの中に、一人放り込まれたモニカの存在である。
互いに牽制しあい、モニカに手を出すのはもってのほか、と暗黙の了解が僕らの間にあった。
そんな微妙な学内の雰囲気を、彼女が知っていたのかどうかはわからないけど、モニカが疎外感を感じているのもまた事実であった。
僕もまた、唯一のアジア人でせいであった為か、皆が気持ちよく接してくれることに感謝しつつも、どことなく疎外感を感じつつ、気が付けば寂しそうにしているモニカと仲良くなっていた。
ただし前回の失敗を踏まえて、彼女と友達以上であってはならない、と僕は最初から決めていた。
他の男子生徒に比べて、ぎらぎらした感じが無い僕に安心していたのか、モニカは子犬のように僕に寄り添っていた。
妹のいない僕は、まだ十九歳だという小さなモニカが、単純に可愛くて仕方がなかった。
彼女は地元のラジオ局でアルバイトをしていて、実家はブロック・カレッジ近郊の農園だった。
僕はとある週末に、彼女の家のバーベキュー・パーティーに招かれ、その敷地の広大さに開いた口が閉まらなかった。
馬もいた。鶏もいた。もうちょっとしたら種まきをするのだという、ジャガイモやらトウモロコシの畑があり、農薬散布用のヘリコプターまであった。
「私、近々ヘリコプターの免許取る予定だから、その時は一緒に飛ぼうね。ついでにスカイダイビングも、一緒にやってみない?」
とモニカはきらきらとした瞳で僕に訴えてきた。
高い所は駄目、とおよび腰で拒否する僕の情けない姿を、モニカとその家族達は面白そうに笑っていた。
真冬のバーベキューが終わり、僕は庭のブランコに腰掛けてゆらゆらと揺れていた。
庭先のロックチェアに、モニカのおじいちゃんがよっこらしょと座り、「日本人にしては、随分ひょろひょろしてるな。俺が戦争中に見た日本人は」とにわかに語り始めた。
「グランパ、よしてよ。戦争って、ベトナムより前の話なんて、誰も興味ないわよ」
モニカが非難めいた言葉を口しつつ、僕達に近寄ってきた。