13、窮地
僕は途中で自分が何をしているかに気付き、薄目を開けてジェラルドの顔を見た。
彼の長い睫毛が僕の視界に入り、目を閉じたジェラルドの様子は、僕が今までに見たことのない、艶かしいものだった。
けれど、そんな彼の顔を見ているのが、僕自身耐えられなくなり、僕はジェラルドの唇をそっと放した。
ジェラルドは何も言わず、ゆっくりと目を開けて、僕を見た。
あまりにも真っ直ぐなその瞳から、視線をそらすこともできず、僕はごくりと喉を鳴らした。
「違いがわからない」
ジェラルドはぼんやりと呟き、首を傾げていた。
「は?」
「女の子とするのと、何が違うんだろうって。試してみたけど、よくわからない」
僕はジェラルドの反応に肩透かしを食らいつつも、自分から自発的に行動したのではなかったようで、僕はその点では安心してよいようだった。
だいたい、そんな物欲しそうな目で見つめてくるから、僕から唇を奪ってしまったのかと一瞬うろたえてしまったじゃないか。
「そんなの、女の子とする方がいいに決まってるだろ」
僕は動揺して思わず、訳のわからないことを口走った。
ジェラルドは「うーん」と唸り、真剣に悩んでいるようだった。
「もう寝た方がいいよ。飲みすぎだよ」
僕は理性を取り戻すべく、彼にむかって年上ぶった発言をする。
「そんな酔って帰って、怒られないの」
「どうせ彼女もまだチャット中だよ」
そうなの、と僕は言い、黙々とPCに向かう彼女の姿を思い浮かべた。
その後僕達は、というかジェラルドは何事もなかったかのように僕に別れを告げ、おぼつかない足取りで手すりにつかまりながら、ゆっくりと階段を上がっていった。
ジェラルドは酔うと危険、とその日僕は初めて知ったのだった。
僕はその日から発熱して寝込んだ。
過労のせいだ、と僕はぜいぜい息を切らしながら薬を飲み、時折冷蔵庫にあるオレンジジュースを飲んだ。
こういう時ほど、一人暮らしの侘しさをひしひしと身に感じるものはない。
何か食べるものを、と思うが、米は切れていた。
ふらふらしたまま、気合で近くのハンバーガーショップへ行き、食べたくもないハンバーガーのコンボを買った。
次の日は、ハンバーガーを食べる元気は皆無だった。
誰か助けて、と僕は呟きながら、ベッドの上で一日死んだように眠る。
三日目になると、熱はだいぶ下がっていたが、全快にはほど遠かった。
僕はソファに寝転び、テレビの音を聞きながらうとうとしていた。
その時、誰かが僕の部屋のドアをノックした。
僕がソファから起き上がり、ふらふらしながらドアを開けると、向かいのベッキーが犬と一緒に入り口に立っていた。
「ハッピー・ニューイヤー。…って、どうしたの。すごく具合悪そう」
ベッキーは心配そうに僕を見上げ、何も知らない犬は、僕の足元をぐるぐると回っていた。
「一昨日から熱出して寝込んでたんだ。少しは良くなったみたいだけど」
僕はドアにもたれかかり、言い終えると肩で荒い息をした。
「食事はしてるの」
「昨日からジュースだけだよ」
「そんなのよくないわ。私、チキンスープを作るから、後で食べにいらっしゃいよ。また来るわね」
僕の返事を待つことなく、ベッキーは急いで自室に戻っていった。
思わぬ救世主の出現に、僕は嬉しくなってベッドで暖かい布団にくるまり、彼女のスープが出来上がるのを心待ちにしていた。
やっぱり女の子は、いい。
と、そこで初めて、僕はジェラルドと別れた時のことを思い出した。
ベッキーのチキンスープによって、僕のお腹は久しぶりに満たされ、弱っていた心も徐々に回復に向かいそうであった。
その時は。
熱のせいか、いまいち精細を欠く僕の様子に、ベッキーはソファに寝転がるように勧め、ブランケットを用意してくれた。
少し寝たら、と僕に言い、ベッキーは皿を洗いにキッチンへと消えていった。
人の気配を感じながら、こうやってごろごろするのも久しぶりだ、と僕は思いながら、うとうととしていた。
目が覚めると、夜になっていた。
熟睡していた僕を起こさずにいてくれていたらしかった。
いまだに意識はぼんやりとしていたが、世間話をしつつ、ベッキーが僕の頭や寝すぎで固まった背中をマッサージしてくれた。
重い鉛のようだった体が、少しずつ自由になっていく気がして、やっぱり女の子はいい、と僕は改めて思った。
ここまではよかった。
僕はベッキーに感謝したまま、素直に帰宅すべきであった。
けれど僕は、その後ベッキーと寝てしまった。
***
熱のせいだと言い訳をしても、僕がベッキーの誘いを断らなかったのは事実だ。
ぼうっとしている僕をベッキーは巧みに導き、気が付けば彼女の寝室で、流されるままに肌を重ねてしまったけれど、次の日になると、自分の行動に対して、次第に嫌悪感が増していった。
流されやすいなんてもんじゃないな、と僕は落ち込み、ひたすら後悔していた。
好きでもない女の子と寝るたび、僕は少々の罪悪感を抱えつつ、曖昧に、なかったことにしながらやり過ごしていた。
それが今回、ここまで心に重く圧し掛かってくるのは何故だろう。
よくあること、と開き直る自分と、こんな不毛な生活はやめるべき、と正論を唱える自分がいて、僕は答えを出せず、自分の弱さを呪った。
けれどベッキーははじめから、そのつもりだったのだろうか。
話しやすくて、感じのいい女の子としか思っていなかっただけに、昨日の彼女の行動がにわかに信じられなかった。
人間不信になりそうだ、と僕は自分のことを棚に上げて被害者意識を高めていたが、同時に「何故拒絶しなかったのか」と何度も自問自答を繰り返した。
思えば僕は引っ越してきてから、アメリカ人の女の子に関わって、ろくなことになったためしがないような気がしてきた。
学校でもそうだったし、今回のベッキーの件といい、僕は「女の子は恐い」と素朴に思った。
彼女達の優しい笑顔の下には裏がある、と僕は身震いし、とにかくこれ以上のトラブルはごめんだ、と今更のように固く心に誓った。
その後、僕は徐々に心身のバランスを取り戻し、新学期の準備で数日バタバタとしていた。
エル・グランデ・カレッジからブロック・カレッジに完全移籍するために走り回った。
Mr.ジョーンズは心から残念そうに別れを惜しんでくれた。
彼にはとてもよくしてもらったけど、これ以上、女の園のエル・グランデで余計な労力を使うのは精神衛生上、よくない。
テツヤさんは十二月で卒業しており、僕がブロックへ転校する理由を話すと、「あそこは女がドロドロしてるからな」と訳知り顔でうなずいていた。
「俺も、少し遊んだら日本に帰るよ」
とテツヤさんは言った。
千紗さんとはどうなっているのか、と無言で尋ねる顔をする僕に「付き合ってるよ」とは言っていた。
新学期が始まり、僕はまたもや新しい環境へと飛び込んでいった。
学校は、少し遠かった。踏み切りを渡り損ねると、二十分は開かない魔の踏み切りがあった。
踏み切りの向こう側へ引っ越すべきだ、と僕は思った。
忙しい僕に代わり、メイが代理でミドリで働いてくれていたが、あれから僕は、ジェラルドと顔を合わせる機会を失っていた。
そして、ベッキーも。
何度か、ベッキーが僕を訪ねて来たのは知っていたが、僕は明らかに彼女を避けていた。
一月も終わりになる頃、僕は勇気を出して、ベッキーの訪問を受け入れ、逃げ回るのをやめた。
彼女が僕と話をしたがっていたのはわかっていたし、いつまでもこのままではよくない。
久しぶりに会ったベッキーは、驚くほどやつれていた。
少々オーバーサイズぎみだった彼女が、どうやったら数週間でここまで痩せるのか、と僕は驚き、そしてその理由は僕なのだと悟る。
「もしかして、俺の風邪を移しちゃったのかな。やつれたみたいだけど」
「大丈夫よ、今は元気」
病的なベッキーの微笑みに僕はぞくりとして、言葉を失った。
「なかなか会えなくて、寂しかった。私、避けられてたわけじゃないって思いたいんだけど。きちんと話をしたかったの」
「いや、転校したばかりで、学校も遠いし、授業も多いから忙しかったんだよ」
後ろめたい気持ちが勝って、またもや流されてしまうのだろうか、と僕は必死で自分と戦っていた。
「ねえ、私達、曖昧にしないで、きちんとお付き合いしていくべきだと思うの。お母さんにも紹介したいし。あなたのことを話したら、会いたいって言っていたのよ」
真面目な顔をするベッキーに、僕はどうして悪い予感ばかり当ててしまうのか、と呆然としていた。
僕はそんなこと、これっぽっちも望んでいない。
お母さんに話したって、何をだ。
外堀を埋めるような真似はやめてくれ、と僕はぞっとした。
どうやったら、彼女を傷つけずに納得させることができるのだろう。
少々酷ではあるが、僕の気持ちを尊重してもらうべく、僕は言葉を選びながら慎重に答えた。
「君のことは、とてもいい友達だと思ってる。でも、付き合えない。授業に専念したいし、それに、学校の近くに引っ越すんだよ。…もっと早くに君と話すべきだった。ごめん」
付き合えない、と言った時点で、ベッキーを傷つけるのは不可避であった。
使い捨ての典型、と僕は、自分は最低な男だとようやく思い知る。
ベッキーは目に涙をためて、何度も鼻をすすっていた。
この時間さえ乗り切れば自由になれる、とひたすら「ごめん」と謝り続ける僕は、やはり自分のことしか考えていなかった。
好きじゃないんだ、仕方がない。
こんなことならあの時、ジェラルドを喰っておけばよかった。
泣いているベッキーを目の前にして、違う人のことを考えている僕は、つくづく身勝手だった。
けれど、今までのもやもやしていた不可解なものが、ようやく僕の中で姿をあらわした。
僕はベッキーより、誰より、ジェラルドが好きだったから。
言わなかったけど、冴えない彼女とさっさと別れて欲しいといつも思っていた。
僕の方がよっぽどいい恋人になるのに、と思い、でも僕の知らないところで深い絆がある二人に、割って入れるはずもないのだと冗談半分に考えていた。
本当は、嬉しかったのだ。
ジェラルドがあの日、本気じゃなかったのはわかっているけど、一瞬だけ、あの彼女に勝てたような気がして。