10、僕とロイと、年上の彼女
日本に帰ってからの僕は、必死で自分の居場所を作ろうと、足掻いていた。
幸い、D市にいた頃の知り合いが、日本でメジャーデビューをしていたので、彼の紹介で同じ事務所に所属することになった。
ここまではとんとん拍子だった。
その後、同じ事務所のアイドルのバックバンドをやったり、いろんなジャズバンドに参加しながら、それなりに生きていた。
その事務所の社長は女性で、僕より十歳以上年上だったと思う。
彼女は僕をすごく気に入ってくれて、気が付けば僕は、彼女の愛人だった。
年上の女性と一緒にいるのは、精神的に楽だったけれど、たいして長い時間もかからず、その関係も次第に僕の重荷になっていた。
彼女との結婚など、僕の中では選択肢にはなかったし、かといって、いつまでも飼われているような状態も、正直僕のプライドに傷をつけていた。
彼女の力で、今の僕があるのはわかっている。
けれど明らかに、他の所属するミュージシャンとは別枠扱いされているのは、僕にはわかっていたし、周りも「愛人だからね」と暗黙の了解のようになっているのが、苦痛でさえあった。
このような関係はもうやめたい、と僕が彼女に言った時、彼女は驚きもせずに「そう」と言った。
「出来れば、このまま事務所は続けたいと思ってる。でも、それは俺の都合だから、くびにしたかったら、そうすればいい」
「新しい事務所のつてがあるのかしら」
別にフリーでもかまわないんだ、と僕は彼女に言った。
「君が、ちょこちょこアイドルのつまみ食いしてるのは知ってるわよ。あの中から特定の子が出来た?」
社長は笑顔だったがその奥底には、女性の嫉妬が見え隠れしているのが、僕にはわかった。
無理もない。自分の子どもくらいの年齢の女の子と比べられたら、誰だっていい気分はしないだろう。
そんなんじゃない、と僕は冷や汗をかきつつも即座に否定し、「そろそろ真面目に、音楽がやりたい。今の仕事が嫌だとかじゃなくて、俺の音楽をやる時間が欲しい」とだけ言った。
「あんなろくに高校すら通ってないような馬鹿な子達のお守りも、いい加減うんざりしてるんじゃないかとは思ってたわ。いいわよ、バックの仕事は減らしても。お遊びの件も、目を瞑るわ。だけど、別れるのは駄目。それとこれとは、話が違う」
何故、と僕は、意地悪く僕を見つめる彼女に、かすれ声で答えた。
「これからだって、今以上に、あんたが目指すところに連れて行ってあげる。いくらでも売り込んであげるから。だから、あんたは私と別れられないのよ」
僕は呆然として、彼女の言葉を聞いていた。
すんなり別れられるとは思っていなかったが、自分が想像していた以上に、彼女は頑なだった。
じゃあ辞めるよ、と僕は知らず知らずのうちに、口にしていた。
もっと物わかりのいい女性だと思っていた。
そうじゃなかったのは、年下の僕の手前、そんな女性を演じていただけだったのだろうか。
「それが嫌なんだよ。俺は、自分の本当の力を試したいんだ。あんたの力なんてどうでもいい、だから別れた方がいいんだよ」
「仕方ないじゃない、社長なんだから、売り込むのが仕事だもの」
「俺なんて所詮、あんた好みのペットみたいなもんじゃないか。あんたの虚栄心を満足させる為に、俺はピアノを弾くのか」
そうね、と社長は言い、そこでまた僕のプライドを傷つけた。
「さんざん外国で苦労して、自分は他の人間とは違うなんて、思ってるんでしょうけどね。実際、あんたをここまで育てたのは誰かしら。いくら腕があったって、力がなけりゃのし上がれないのよ」
彼女の挑発的な言葉に反応するのをやめ、僕はひたすら耐えた。
これくらい、彼女から離れる為なら、どうってことない。
「お世話になりました」
僕は固い表情で一つ頭を下げた。
本気、と彼女は呟き、顔を上げた僕を睨んでいる瞳には、憎悪とも呼べるようなものが浮かび上がっていた。
「あんたが何処にいようと、必ず潰してあげる。必ずよ。私、しつこいから。覚えておいてね」
僕は振り返らずに、どうぞ、お好きに、と言い、社長室の扉に向かっていた。
今まで知らずにいた、どす黒い彼女の内面を引き出してしまったのは、僕のせいに他ならなかった。
誰だって心の中に、表に出せないような汚い感情を持ち合わせている。
それを互いにぶつけ合い、憎しみしか残さないなんて、一番嫌な別れ方だ。
こんなことなら、最初から、一定の距離を置いておくべきだった。自分の仕事に絡んでくるなら、尚更のことだ。
どちらが最初に誘ったかなんて、僕にはどうでもいいことだけど、どちらにしろ、こんな結果になるのであれば、彼女とは深い関係になるべきではなかった。
けれどその頃の僕は、あまりにも心が弱くて、優しくしてくれる人を無条件で受け入れ、怠惰に流されるだけだった。
***
僕は郵送で解雇手続きを済ませ、文字通りフリーのミュージシャンになった。
足枷が取れ、僕は自由に、思いのままに自分の音楽にのめり込めると思っていたが、実際はそうではなかった。
むしろ、心はすさんでいく一方だった。
社長の脅しに怯えていたわけではないが、僕自身の演奏に何かしら問題があった。
数ヶ月で、新しい世界を築けるはずもなかったが、僕は焦りすぎていた。
時折、乱暴な言葉で人を傷つけ、僕は厭世的で視野の狭い、へんくつな人間に成り下がりつつあった。
その日も、何か気分が晴れず、むしゃくしゃしたまま酒を飲んでいた。
六本木でいくつかクラブやバーをはしごして、僕は泥酔状態だった。
どうしてそうなったのかは思い出せないが、気が付くと僕は、ネイビーの子らしき大柄な若者と口論になり、路地裏で乱闘になった。
ろくに体も鍛えていない僕が、ネイビーに負けるのは当然である。
彼らが去った後、僕は店の裏口にあるゴミ箱の間に座り込み、切れた唇に手を当てていた。
最悪だ。
いつから僕は、こんなゴミみたいな人間になってしまったのか。
僕は目を閉じて、ゴミ箱に寄りかかっていた。
「Are you OK?」
と、僕に話しかけてきた紳士がいた。
スーツの胸元から、ハンカチを取り出し、僕に差し出した。
僕は目を開け、その男性を酔いで曇った眼差しのまま、ゆっくりと見上げた。
薄い栗色の髪を軽く振り、彼は呆れたように言った。
「なんでこんなことしてるの。君、赤坂で弾いてた子だろう」
そういえば、彼は見覚えがあった。
赤坂のクラブで演奏していた時に、少し会話したことがあった、と僕は思い出し、徐々に酔いがさめていく気がした。
「すごい南部訛りだね。珍しい。でも可愛いからいいね。なんだか懐かしいよ」
三十代前半と思われる栗色の髪の男性が、そう言って、僕に片目をつぶった。
そうだ、あのD市出身と言っていた男性だ。
「手は大丈夫?ピアノ弾くんだから、大事にしないと。僕が言う事じゃないけど」
彼は僕と同じ目の高さにしゃがみ込み、僕の口元にハンカチをそっと当てた。
もういいんだ、弾けなくなってもいいかもね、と僕は投げやりな態度で彼に言った。
ろれつもあまりまわっていなかった。
「辞めたの」
「もう辞めてもいいんだ、俺、駄目なんだ。何もできない。事務所もくびになったし」
アイムソーリー、とその男性は言い、それからしばらく何かを考え込んでいた。
「仕事ないの」
「ないよ。社長の逆鱗にふれて、くびになった」
「それは困るだろう。君、ラバーズ・フィールドで働いてたって言ってたよね」
僕は大学を卒業した後、D市にあるラバーズ・フィールドという、小さな国内線の飛行場のシステム部門で働いていた。
そういえば、彼とそんな話もしていた気がする。
「ラバーズ・フィールドか。懐かしいね」
僕は曖昧に笑い、彼のハンカチを受け取ってありがとう、と礼を言った。
彼は黙って、内ポケットから、名刺を取り出して、僕の手に直接乗せた。
「うちに来る気があるなら、ここに電話してきなさい」
冗談だろ、と僕は言った。
「こんな得体の知れない、危なそうな奴を、あんたは雇うの」
彼の名刺を眺めながら、僕は途端に身の引き締まる思いがした。
なんでこんなところの部長さんが、と僕はその外資系のとある会社のロゴを眺めながら、彼の顔を見た。
「人手不足なんだ。みんなすぐ辞めちゃうから、仕事はハードだよ。でも、どうせピアノ弾かないならいいじゃないか。君が使えないとわかったら、すぐにくびにするけどね」
後悔しても知らないよ、と僕は、偉い人に対して、随分とでかい態度を取っていた。
新しい飼い主もいいかもな、と僕は自嘲的に笑い、もう一度ありがとう、と言った。
それがロイとの出会いである。
どうして僕に声をかけたの、とある日ロイに尋ねてみたら「君の訛りが懐かしくて、側に置いておいたら面白いと思ったんだ」と言った。
仕事は、彼の言ったとおり、とてつもなくハードだった。
四半期に一度の、社内システムのアップデートが主な仕事だった。
アップデートのたびに、部内の人間が入れ替わっていった。
「もう少し、システムにお金かけた方がいいんじゃないの。大会社のくせに、致命的なまでに、人間の数が少ないよ」
僕は無遠慮にロイに言い、ロイは苦笑いをしていた。
そしてそれから数年間、僕はロイと共に仕事をしている。
仕事に慣れてきた頃、僕はまたピアノを弾き始めた。
本気のバンドを作ろう、と以前からの知り合いだった松本に声をかけ、僕達は週末になるとあちこちで演奏をした。
ロイの後押しがあったからこそ、また弾く気になれたのだと思う。
「仕事もする、ピアノも弾く。オーケー?」
とロイはただ笑っていた。