1、何故僕が異国にいたのか
あれからどれくらい経ったのか、自分でも思い出すのが時には怖くなる.
時には目を背けたくなるような昔の出来事。
それでも気が付けば半月が濃厚な目玉焼きを思わせるような日も、そうかと思えば青白く頼りない光を放つ満月の日も、僕は気が付けば君の事を思い出している。
慌しく十年が過ぎた。
人の脳は引き出しのようになっていて、古い引き出しの中身を処分するのと引き換えに、新しい項目が増えていくものだと、どこかでもっともらしい話を聞いたような気がする。
けれど突然十年も前に捨てたはずの記憶が、僕の中で前触れも無く鮮やかによみがえってくるのは何故なのだろう。
今では当たり前のように七十,八十と生きる人々が大半を占める日本国だ。
所詮そんな長寿民族の遺伝子を受け継いだ人間の一人なのだろうか。
十年なんて、ほんの一昔前の事。
暗闇の中から今だにその辺りをふらふらと無自覚にうろつく、仏のなり損ないに言われているような気さえしてきた。
僕のジェリー。
君は今、どうしているのだろう。
賢い君のことなら、不幸せなはずは無い。
僕と君とでは、不幸と幸せの狭間でしかなかった世界。
元の世界に戻ってくれたなら、それでいい。
今でも会いたい。
何より僕達が男と女だったら、こんな苦しさを感じずに済んだ。
人は僕が語る過去の話に「いろいろな経験をお持ちで」と感嘆したように言うが、僕は人が思うほど強くない。
人種と、文化と、性別を超えて、僕は君を奪い去る事が出来なかった。
君がそれを望んでいたなどと、そこまで僕は思い上がっていない。
けれど君から一度得た信頼と確かな眼差しを、僕は一生忘れないと思う
***
僕がジェラルドと出会ったのは、確か自分が二十二になる頃だったと思う。
アメリカの南部にあるD市のスシバーで、僕らは知り合った。
僕は貧乏学生で、親の仕送りだけでは生活出来なかった。
南部といえども物価は相応で、当時日本で売られていた留学ガイドブックに書いてあるような金額では生活できないと気付いたのは、留学してから半年程経ってからのことだった。
話と違うと憤る母親をなだめ、僕は不法労働などものともしない移民の学生達から情報を得、とりあえず手直なスシバーでパートタイムの職を得た。
そこに至るまでは、また僕のだらしない数年の生活が在るのだが。
少なくともジェラルドと出会った頃の僕は、勤労青年、の一言に尽きると思う。
ただその前に成人前の子どもとしては、手に負えないような人生初の、くだらない日本人コミュニティーでの、男女の修羅場を経験した結果、あっけないほどに精神を病んだ。
僕はあらゆる人を避け、アメリカでは到底生きていけないような引きこもりになり、そして一年後に停学処分を受け、その学校を去る事にした。
いつだか、何故アメリカに来たの、と最初のルームメイトに聞かれ、「誰も自分の知らない土地に行きたかった」と言った事がある。
それも何も知らないが故の甘えであったと、今になってようやく気付く。
このような中途半端な状態では、日本に帰るに帰れない、と途方に暮れる僕に声をかけてくれたのは、D市でほとんどの日本人との接触を絶って暮らす、四つ年上の千沙さんという美しい人だった。
それまでいた学校は、資産家の日本人留学生が何百人と在籍する大学だったが、千沙さんのいる学校には、日本人はおろか、アジア人ですら数えるほどしかいない、という話だった。
何故、千沙さんが僕に声をかけてくれたのかわからない。
あまりにも僕が頼りなさ過ぎて、目に余ったのだろうか。
けれど、そんな日本人など、この国には履いて捨てるほどいるだろうに。
アメリカという国は、僕が思うに、機械的なまでにシステム化された祖国からはじき出された不良品が、運がよければリサイクルされる場所だ。
気が付けば、周りには誰も、かつての様に裕福な日本人留学生の姿は無かった。そばにいるのは、バツイチの十代のメキシカンやブラック、田舎育ちのお坊ちゃんや、果てにはゲイの美術教師など、今思うと実にカオスな環境に自分の身を置いていた。
千沙さんのおかげか、いつのまにか僕は自分の平穏を取り戻し、本格的に、その南部の濃厚な風土に、一日も早く溶け込もうと努力する毎日だった。
この土地で、骨を埋める。
自分の、簡素な墓石さえ妄想した事もある。
ボケて老人ホーム送りになり、次第に英語で会話できなくなるんだろうか、そうしたら僕はどうなってしまうんだろう、と不安になった事もあった。
結局数年が経ち、僕はまたあらゆる事から目を背け、故郷へと逃げ帰る事になる。
あの時、君にきちんと別れを告げていたら、僕は今でも、こんな風に悔やんだりしなかったのだろうか。
君を失望させたくなくて、僕なりに強い人間を演じていたけれど、本当は、僕こそが一番の、最低な人間だったのかもしれない。
ジェリー。今でも、君はあの頃のままクールで、けれど時々甘えん坊なままなのだろうか。