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月傾く淡海  作者: かざみや
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第七章 「倭文と香々瀬」

列城宮の前に立った一言主は、一切警戒しようともせず、そのまま平然と宮の中に入って行こうとした。

 しかし当然のことながら、一言主の前には警護の兵達が立ち塞がった。

 彼らは、金村の指示によって配された、大伴の兵である。今この列城宮を守っているのは、「葛城の大王」の恐怖専制によって行動を制限された、ごく僅かな者達だけになっていた。

「何者か! 男大弩王からの先触れか!?」

 太刀を構えた兵は、怯えた--というより、むしろ自棄になったように叫ぶ。

「いや。俺は、葛城の一言主」

「葛城……?」

 怪訝そうに反芻しかけた兵の前で、一言主は軽く長矛を振った。途端に、兵は目を閉じて倒れ伏す。

「……殺したの?」

 一言主に手首を握られた倭文は、眉根を寄せて咎めるように言った。

「ううん。気絶してもらっただけ。こいつら、いちいち煩いじゃない?」

 悪びれる様子もなく答えると、一言主は倭文の腕をひっぱり、そのままずんずんと宮の内に進入していった。

 途中、運悪く二人に遭遇してしまった舎人や采女は、一言主の奇怪な面相に驚いて声をあげる。一言主は、彼らを先程と同じ方法で次々と昏倒させながら、大王の間を目指して悠然と歩いていた。

「ねえ、もうちょっと穏便に……っていうか、隠密に侵入したほうがよかったんじゃ……」

「めんどくさいじゃん、そんなの」

 周囲を気にしながら注意した倭文に、一言主はすげなく返した。

 彼は、「いちいち騒ぐな!」などと言いながら、宮人をみな前後不覚にさせている。

 強引に引っ張られながら、倭文は舎人達を気の毒に思った。一言主は、見るからに異様な風貌をしているのだ。彼を見て、驚くなと言うほうが無理だった。

 しかも、そろそろ寝静まろうかという夜間の、突然の闖入者である。騒がれて当然だった。

「……ねえ、一言主。そろそろ腕離してよ。さっきから痛いんだけど」

「だめ。倭文、逃げるかも知れないから」

「逃げないわよ、ここまで来て……」

 早足で歩きながら、倭文は沈鬱な表情で呟いた。

 --先刻、一言主は倭文に謎かけを出した。

 葛城最後の大王・甕津の荒魂……祀厳津。祟る星神、香香背男。逍遥を繰り返したその呪いの星神が、再び依り憑いたという。

 その先は、どこだ?

 新たに依り憑かれたのは、誰だ?

 ……ああ、そうだ。考えるまでもない。

 甕津の無念を、今生ではらそうとする者。

 新たなる、葛城の王国を復古しようとする者。

 再び、葛城の大王を僭称した者--それは。

 --倭文の弟、香々瀬に他ならない。

(この宮の奥に、葛城大王を名乗る香々瀬がいる……)

 どうしても、会わなければならないと思った。

 会って、弟の目を覚まさせてやらなければならない。 もしも、まだ倭文の声が届くのならば……。

「--それにしても。若雀の大王がなくなってから、まだそれほど経ってないのに。この宮も随分荒れ果てた感じになっちゃったわね……」

 閑寂とした宮殿を渡りながら、倭文は呟いた。

 夜更けだから薄暗いのはともかくとして、人気も以前よりずっと少なくなっているし、何より宮全体にどことなく荒廃した気配が漂っている。

 在りし日の面影は、もうどこにもない。

(民に見捨てられた宮なんて、所詮こんなものか……)

 倭文がそう空しさを感じたとき、前を歩く一言主が鬱陶しそうに頭を振った。

「ああ、なんか、恨気が強いなあ……だから、こんなになっちゃうんだ」

「そういうものなの?」

「だって伝播するだろ、そういう気は。……まあ、だからわかるんだけど」

 言いながら、突如一言主は傍の壁を蹴破った。

 板戸は派手な音を立てて壊れ、崩れ落ちた後に、ぽっかりと穴が開く。

「……やっぱ当たり」

 中をのぞき込んで、一言主は満足そうに笑った。

 舞い上がる埃に咽ながら、倭文も暗闇の中を凝視する。

 紙燭に照らされた薄明りの中に、床几に座した一人の男の姿があった。

「--香々瀬!」

 倭文は思わず叫んだ。

 そこに一人で坐したのは、紛れもなく弟の香々瀬--の『形』をした者だった。

 急いで弟に話しかけようとした倭文は、中に入ってその姿を目の当りにした途端、思わず息を呑んだ。

 その香々瀬の顔をした男は、倭文のよく知っていた、愚かしくもあどけない少年ではない。

 気怠げに膝を立て、褐色の髪を解き下ろしたその男は、全身から凄艶な気配を漂わせていた。瞳には暗い獰猛な光が宿り、口元には酷薄な笑みを浮かべている。

 これは、香々瀬では--あの、幼い童男おぐなではない。

 では、これが「葛城の大王」……かつて大王であり、そしてこれから大王になろうとする者なのか。

「……よう。やっと会えたな、祀厳津」

 緊迫した空気の中で、一言主は場違いに軽快な声をあげた。

「随分長い間離れ離れだったじゃないか。でも、やっと帰ってきたんだな。とうとう寂しくなったんだろ?」

「……黙れ、一言主」

 地の底から響くような声が、夜の大気を震わせた。

「--何をしにきた」

 香々瀬--いや祀厳津は、悽愴な瞳で一言主を見上げた。

「自分の半身に会いに来ちゃいけないのかい?」

「貴様と我は相容れぬ。だから、別れたのだ」

「相変わらず、冷たいよね。それに暗い」

 一言主は平然と言い切った。

「葛城の血族に憑いてくれたおかげで、見つけることができたよ。その身体は、居心地いいだろう。……でも、どうしたんだい。もう、祟って嫌がらせするのは飽きたの? ここにきて、方向転換ってわけ?」

「……」

 親しげに語りかける一言主を見上げながら、祀厳津は物憂げに額にかかった髪を払った。

「……ここは、我の宮。新たなる葛城王国の始まりとなる場所。--葛城の大王は蘇る」

「そう思ってるのは、祀厳津、お前だけさ」

 一言主はあっさりと、容赦なく告げた。その途端、祀厳津の瞳に剣呑な光が走る。

「お前も長生きしてるくせにさあ。時流ってものが読めないわけ? お前がどんなに一人でがんばっても、世の勢いは、もう男大弩の大王に傾いちゃったんだよ。これは、もう覆せない。こっちに、勝機はない。いいじゃないか。それだって、どのみちお前の望みだったんだろ?」

「我の真の望みは……」

「葛城は、もう勝てないよ」

 一言主は、達観したように言った。

「……だが、ここで引けば、葛城はまたもや反逆者として討たれるぞ。……それでよいとでも?」

「ねえ、祀厳津。俺だってさあ、そりゃ本当は、葛城王国が復活してくれたら、嬉しいと思うよ。だけど、駄目なんだ。それは、もう適わない夢なんだ。『宿業』を知らないわけじゃないだろ」

 一言主が『宿業』という言葉を口にした途端、祀厳津は弾かれたように敵意を剥き出し、激しい瞳で一言主を睨めつけた。

「貴様は……甕津の半身であったくせに……そのようなことを……」

 祀厳津は怒りに唇を震わせる。

「……あのさあ。これだけは、間違えないでね。俺は確かに甕津だったし、今でも変わらず葛城が好きだよ。だからこそ、自分のやらなきゃいけないことが分かってるんだ」

「貴様の役目?」

「お前は、葛城の繁栄を夢想する心。--俺は、それを止め、現実の中で生き長らえさせていく理性。たとえどんな形になろうとも、葛城を滅ぼさせぬために……」

 一言主は、自らに言い聞かせるように呟く。その姿は、彼にしては珍しくどこか寂しげだった。

「--ならば、どうするというのだ?」

「ここでお前を鎮めるのさ」

「……我を『鎮める』?」

 祀厳津は、鼻先で嘲笑った。

「我と貴様は、同等の側面だ。一方が、他方を吸収など、できるはずもない……」

「--いや。それが、出来るんだ」

 一言主は、確固とした口調で告げた。

 彼はそれまで握り締めていた倭文の手首を突然放し、その肩を押して自分の前に突き出した。

「この子が、いるからね」

「その娘……?」

 怪訝そうに眉根を顰め、祀厳津は倭文を一瞥する。

「これは、生粋の葛城の姫。お前が『依りまし』に使った者の、実の姉さ。……この子の名前を知っているかな。いずれお前が弟の方に名を与えると予見できてたから、その前に、俺が母親に託宣を下して名付けさせたんだけど」

 倭文の肩に手を置き、一言主は得意そうに笑った。

「倭文、というんだよ」

「『シドリ』……?」

 確認するように倭文の名を口にしながら、祀厳津は一瞬怯んだような表情を浮かべた。

「そう、『倭文』。相応しいだろう。これ以上の物は、ないよね」

「貴様は……分かっていて、その娘にその名を……」

「そうさ」

 一言主の眼に脅すような光が輝いた。

「……ちょっと待ってよ、一言主。私の名前が、一体何だっていうの……?」

 倭文は二人の緊迫したやりとりを息を詰めて見守っていたが、突如自分にその矛先が向いたため、困惑して傍らの一言主を見上げた。

 倭文の名前は、一言主が。

 香々瀬の名前は、祀厳津が。

 それぞれが別に託宣を下して、姉弟の母に名付けさせたという。

 そこにどんな意味があると……?。

「倭文は、『倭文』がなんだか知ってる?」

「……え? それは……織物のことでしょう? 麻なんかで編んだ……」

 『倭文布』とは、かじや麻などの植物を使い、複雑な文様を組み込みながら織り上げた、古来から伝わる豊葦原独特の織物のことを指す。

 他の布などと比べても丈夫なので、よく帯や鞍などに使われていたし、歌に謡われることも多かった。

「あんまり風情のある名じゃないし……なんで織物の名前なんかつけられたんだろうって思ってたけど……」

「あのね。古来、織物っていうのは、繰り返し繰り返し紡ぎ出される命の糸--即ち、天空の秩序を制する、特別な霊力を意味したんだ」

「天空を制する霊力……?」

 倭文は驚いて呟いた。

 たかが織物なのに、随分と大げさな話になるものだ。

「『倭文』の役目は、離れ行くものを繋ぎ止めること。--つまり、『捕獲者』を意味する。それは、どんな武力でさえも、適わぬ力だ。……古の神話では、天津の猛々しい軍神でさえ捕えられなかった星を、『倭文』だけが絡めとることができたという。--故に、その異つ名は建葉槌たけはづち

「……建葉槌……?」

「--そう。天に惑う『星』をからめとるもの。それが、建葉槌--即ち、『倭文神』。それは、あらゆる武力がついえた時に現れる、最後の解決者。……捕獲の力を持つ者さ」

 自分の説明に満足したように、一言主は胸を張った。

「倭文は巫女じゃなかったけど、生まれながらにして、星を絡める網としての資格がある。--たとえ、その『星』が、自分の弟だとしてもね」

「ちょっと待ってよ! 絡めとるって、そんな……私はただ、香々瀬を……」

 遮るように言いかけて、倭文は言葉に詰まった。

 自分は香々瀬を--どうしたいのだろうか?

 一言主に引っ張られるままに、ここまで来てしまったけれど。

 眼前にいる、この香々瀬の姿を借りた祀厳津を……どうすれば、いいんだろう?

 とりあえず、葛城王朝の復古とか、大王とか、身の丈に合わないことは即刻止めさせて。

 それから--。

「私は香々瀬を……正気に戻して……館に連れ帰らないと……」

 倭文は確認するように呟いた。

 そうだ、まずは弟を元に戻して。

 それから、もう一度、初めから教育しなおそう。

 あだな望みを抱いたり、無闇に権勢に利用されたりしないように。まっとうな心をもった、普通の一人前の男に育ててやろう。

 それが多分、姉として自分が背負った責任なんだ。

 昔みたいに意地悪はしないけど。一応厳しく、少しは優しく。

 もう一度、姉弟二人で……。

「……無理だね」

 思いを巡らす倭文の横で、一言主はすげなく言った。

「--無理!?」

「祀厳津に憑かれた時点で、香々瀬としての命はない。もし祀厳津が香々瀬から離れたとしたら、香々瀬はすぐにでも死んでしまうさ」

「じゃあ、どうやって鎮めるって……」

「だから、依り憑き先ごと滅ぼすしかないんだ」

 一言主は淡々と言う。しかし、倭文はそれを聞き逃すことは出来なかった。

「滅ぼすって……殺すってこと!?」

「そう。だって、どのみちそれしか方法がないんだから」

「香々瀬を殺すなんてこと、出来ないわ! あの子は、私のたった一人の同母の弟よ!?」

「大丈夫だよ。祀厳津ごと、俺の中に来るから」

「そんな簡単に言わないで! 私たちは、生きている人間なのよ!」

 倭文は悲鳴のように叫んで頭を振った。

 どんなに合わなくて、反目していたって。

 相手が生きているからこそ、嫌うこともできる。

 それなのに……!

 その時、それまで黙っていた祀厳津が、突如頭をもたげ、倭文の顔を見つめた。

『……そうだよ。姉さま、僕を殺さないで』

 祀厳津は、香々瀬の声音で倭文に懇願する。

 倭文は弾かれたように、弟の姿を借りた者を見た。

 その顔には、邪な笑みが張り付いていた。

 その相貌は陰惨なのに、唇だけが笑いの形に歪んでいる。それは、例えようもないほど醜悪だった。

『姉さまは、僕を見捨てたりしないよね。そうだ、二人で、一緒に葛城王朝を創ろう? 姉さまも、女王になればいい』

 祀厳津は、媚びるように畳み掛けた。

「……ねえ、倭文。倭文は、こんな気持ちの悪いものを、そのままにしておきたいの?」

 祀厳津を見下げながら、一言主は辟易して言った。

「……」

 倭文は答えることができない。

 できるならばこのまま耳を塞ぎ、全てのことから目を背けてしまいたかった。

「俺は、やだな」

 容赦なく言うと、一言主は手を伸ばし、倭文の首の動脈にその指を当てた。

「ちょっと、借りるよ。嫌だって言っても、借りるからね」

 勝手に宣言すると、一言主は祀厳津に向かって長矛の切っ先を向けた。

「借りるって、何を……」

「--止めろ、一言主!!」

 問いかけた倭文を遮るようにして、祀厳津が叫んだ。 素手のまま、祀厳津は何か反撃するような仕種をとる。しかし、一言主が鋭い眼目で彼を一瞥すると、術にかかったように祀厳津の動きは止まった。

「……ひ、ふ、み、よ、いつ、む、や、……」

「……やめてくれ、和魂……!」

 祀厳津の喉奥から、追いつめられた懇願の響きが漏れる。

 しかし一言主は聞き入れることもなく、彼が呪禁を唱えるたび、祀厳津の身体を細かい光の筋の様なものが絡めとっていった。

「大丈夫。初めに戻るだけだから。……恐くないよ、荒魂」

 淡々と告げると、一言主はより強く倭文の血流を押した。

(うわっ……!)

 激しい息苦しさを感じ、倭文は胸を押さえる。頭の中が鼓動の音でいっぱいになり、それが一言主の心臓と同調していくのが判った。

「……ここのたり。ふるべゆらゆら」

 一言主が呪禁を揚言ことあげると、祀厳津の全身が光筋に捕えられた。

 一言主は倭文の首から指を離す。そして彼女の手をとると、自分の持った長矛を握らせた。

「一言主、何する気……!?」

 倭文は狼狽する。一言主は答えず、矛を握った倭文の手の上に自分の両手添えると、逃がさぬようしっかりと掴んだ。

「やめてよ、まさか……!」

 上げた悲鳴の続きは、言葉にならなかった。

 一言主は、倭文の手で祀厳津を--香々瀬を刺し殺させようとしているのだ。

「やめてよ、こんなこと、したくない……っ」

 倭文は必死に抗う。しかし、無駄だった。

 彼女の体は己の意志に反し、一言主に引き摺られるようにして動く。

 矛が祀厳津の体に触れた。倭文は息を呑む。

 その時……倭文を見据えて、『香々瀬』は言った。

「--弟殺し」

「……っ……」

 倭文が眼を背けた時、一言主が最後の力を込めた。矛は、まっすぐに祀厳津の胸を貫く。

 倭文は思わず矛から手を離した。

 一言主は貫いた祀厳津の体から矛を抜き取り、それを大儀そうに己の肩の上に担ぎあげた。

 一言主は、すうっと、大きく息を吸い込む。

 安堵したように眼を閉じると、彼はとても気持ち良さそうに綺麗な微笑みを浮かべた。

 満足感に浸る一言主の前で、力尽きた祀厳津の抜け殻が、床に崩れ落ちる。血に染まったその抜け殻は、ただ人形のようにそこに転がっていた。

 己の手で弟を刺してしまった倭文は、あまりのことに頭の中が真っ白になった。全身から全ての力が抜け、そのまま板床の上にへたりこむ。

 焦点の定まらぬ瞳で、ただ呆然とする倭文の耳に、弱々しい少年の声が聞こえた。

「……ねえさま……」

 倭文はハッとする。

 彼女は慌てて、祀厳津の抜け殻に顔を近づけた。

「香々瀬……お前、香々瀬ね!?」

 祈るような思いで倭文は呼びかけた。

 虫の息で薄く目を開けた少年の顔からは、あの陰惨な隈が消えており……そこにいたのは、確かに弟の香々瀬だった。

「……ぼく……ねえさまみたいになって……ねえさまを、追い越したかったんだ……だって、僕のこと、認めてほしかったから……」

 苦しそうに喘ぎながら、香々瀬は微かに笑った。

「ああ、馬鹿ね、お前……そんなことしなくたって……手間のかかるほうが……面倒だけど、かわいかったのよ……」

 倭文は涙を落としながら、香々瀬の頭をなでた。

 こんなふうにしてやるのは、生まれて初めてかもしれない、と思った。

 もっと可愛がってやればよかった。甘えさせてやればよかった。

 それはただ、簡単なことだったのに--。

 後悔にくれる倭文に髪を撫でられながら、香々瀬は静かに冷たくなっていった。

 香々瀬に依り憑いていた祀厳津は消えた。--そして、香々瀬自身も死んでしまった。

 倭文は、ただ一人残っていた血縁を失くしてしまったのだ。

 香々瀬の心が弱かったから、祀厳津につけこまれる隙を与えたのだろうか。

 もしあの子が揺るぎのない意志と自信を持っていたら、こんなことにはならなかったのだろうか。

 それとも……全ては逃れられない葛城の運命だったのか。

 今となっては、もう確かめる術もないけれど……。

「……倭文。俺のこと、恨む?」

 座り込んで嗚咽する倭文の後ろで、立ち尽くしたまま一言主は聞いた。

 彼の表情に後悔は見えない。しかし、微かに寂しそうだった。

「……わからない。今は、分からない……でも、多分……」

 手の甲で涙を拭きながら倭文は呟いた。

「多分、恨まない。憎んだりしない、きっと……」

 倭文は背を向けたまま一言主に告げた。

「そうだね。倭文は、激しい想いを持たない。いつも、心の均衡の中に在ることの出来る人だ。深い恨みも、強い執着も、始めから倭文の中にはない。……それを、さやけき心というんだよ」

「……冷めてるだけよ。何に想いを傾けることも出来ない、つまんない人間なんだわ」

「まあ、そういう言い方も出来るけど。でもね、だから俺は倭文がいい、と思ったんだ」

「……いい?」

 倭文は振り返った。

「偏らない心の持ち主。……だから、俺たちを、まるごと受け入れられる」

 そう告げると、一言主は、長い間その素顔を隠し続けてきた己の仮面に手をかけた。

 紐を引き、結び目を解く。

 右手で仮面を持つと、彼は初めてそれを取り外した。

「円……」

 晒された一言主の素顔を見つめながら、倭文は夢で見た大臣の名を呟いた。

「--どう? 思ってたより、美しい?」

 額にかかる銀髪を払いながら、一言主は尋ねる。

 倭文は思わず笑ってしまった。現れた彼の面は、少し若いが夢で見た通り--つまり、倭文や香々瀬とよく似た容貌だったのだ。

「つまり、私たち、みんなそっくりってわけなのね」

「しょうがないさ。葛城の純血は、みんなこの顔なんだから」

 あきらめたように呟くと、一言主は取り外した仮面を倭文に向かって差し出した。

「……葛城の敗北に立ち会った長。倭文、お前もまた、俺達と同じだよ。--だから、次は、倭文だ」

「私が……次の……葛城一言主……?」

 一言主を見上げながら、倭文は穏やかな口調で呟く。それは、質問ではなく、確認の言葉だった。

「倭文なら、和魂と荒魂の均衡を崩さずに保って行けるよ。葛城は滅びない。形を変えても、生き残る。それが宿業だから……」

 一言主は、倭文の掌に仮面を乗せる。

 倭文とよく似たその白い顔で朗らかに微笑むと……そのまま、彼は、溶けるようにその場から消えていった。




 --命を弄ばれた真手王の仇を討つために、大王として立つ。

 そう決意した深海は、正式に玉璽を受けて即位式を行ない、名を「男大弩」と改めて二十六代目の大王となった。

 淡海から現れた「男大弩の大王」の名が広まれば、それを認めぬ勢力も黙ってはいないだろう。彼らの中から、深海たちに対抗するために、正統なる「真の大王」を名乗るものが現れてくるはずだ。

 その中には、恐らく真手王を滅ぼした者が潜んでいる。それを見つけだし、殲滅すること--それが、深海の真の目的だった。

 物部と息長の軍を引き連れて大和入りを目指し、山背筒城から弟国へと移動を続ける「男大弩の大王」のもとは、和邇氏・茨田氏など、畿内の主だった豪族たちが次々と馳せ参じていた。彼らは「男大弩の大王」への帰順を示し、一様に協力を誓った。

 移動を続ける内に、「男大弩の大王」の一行は大軍となっていた。畿内の豪族たちが順々に寝返る中で、最後に残っためぼしい対抗者といえば、列城宮に陣取った大伴軍と、彼らが担ぐ頭目のみとなっていた。

 深海が淡海を立った頃、列城宮の盟主は「橘王」という男だった。しかし、深海たちが行軍を進めている間に、列城宮でも内部抗争があったのだろう。何時の間にか、かの宮の主は「葛城の大王」を名乗る者になっていた。

 その情勢を聞いた物部荒鹿火は、恐らく大伴と手を組んだ葛城一族の計略だろうと予測した。

 荒鹿火は、『盟主』が誰になろうと、最早「男大弩の大王」が優勢なのは揺るがしがたい事実であるし、後は列城宮さえ落としてしまえば勝敗は決するのだから、このまま大和入りを進めるべきだと主張した。

 「男大弩の大王」である深海は、荒鹿火の意見に賛同した。彼の考えは正しいし、戦略上も問題ない。

 --しかし、真手王の最期の言葉を受け取った深海には、別の目算があった。

 真手王は、死ぬ前に言ったではないか。

 『次に大王を名乗る者の中に、《あいつ》はいる』--と。

 橘王を追い落とし、列城宮で新たなる大王を名乗った者--それが、「葛城の大王」という男だ。

 おそらく「葛城の大王」の中に、真手王を操り、死に追いやった元凶が--真手王が見たという『赭い星』がいるのだ。

 「男大弩の大王」が目指すのは、列城宮の攻略。

 --だが、『深海』の目的は、「葛城の大王」を討つこと。……それだけだ。

 昏い決意に支えられた深海は、軍を率い、豪族や民に歓呼の声で迎えられながら、遂に大和の地に踏み入った。そして彼らは勢いのまま行軍を進め、とうとう列城宮の前にまで到達したのだった。

 軍備を整え、臨戦の状態で列城宮をとり囲んだ深海は、宿敵の牙城を眼前にして喫驚した。

 そこには、宮を護るべき一兵の姿さえなく--列城宮は、激しい火炎を夜空に立ち上らせながら、燃えていたのだ。

「これは……」

 火焔に包まれる列城宮を見つめて、深海は絶句した。 かつて国を治めた大王が坐し、大和の中心であった宮殿が--炎に呑まれ、ただの瓦礫と化しつつある。

 いったいこの宮の中で、何が起こったのか。「葛城の大王」はどうなったのか……。

 暗い闇夜の中で荒れ狂う紅蓮の炎は、禍々しく不吉に見えた。

 深海は馬に乗ったまま、燃え行く宮を呆然と眺めていたが、やがて彼の前に一人の男が唐突に現れた。

「汝は……金村ではないか!」

 大将軍として、深海の傍らで馬上にあった荒鹿火は、男の姿を見ると愕然と叫んだ。

「大伴の……金村!?」

 深海も驚いて男を見下ろす。

 これが、深海たちに対抗して軍を率いていた、この列城宮の大将だというのか。

「……大伴の大連、金村にございます。男大弩の大王」 金村は、深海に向かって深々と拝礼した。

 将軍であるはずの彼は、一切の供人をともなっていなかった。また金村は、この場にあって鎧はおろか、太刀一つその身に帯びてはいなかった。

「--これはどういうことか、大伴の。汝が担いでおった、『葛城の大王』とやらはどう

した!」

 荒鹿火は、馬上から金村を厳しく問いつめる。

「……我らは、『葛城の大王』なる者を仰いだことなど、ございませぬ」

「なに!?」

 声を荒げる荒鹿火を無視し、金村は深海に向かって平伏した。

「男大弩の大王に申し上げまする。やつがれは罪せらるるとしても、あえておおみことを承ることはございませぬでしょう。古人の言う、『匹夫の志も奪うはかたし』とは、まさに臣のことにございます」

「……どういうことですか」

 深海は固い表情で問うた。

 金村の言葉は、宮廷内で大王への奏上に使われる、文飾に満ちたものであった。

 あえてその口上を使ったことで、彼の尋常でない決意は理解できるものの、一体本心は何を言いたいのか、彼の意は漠然としていよく分からなかった。

「確かに、臣は新たなる大王となる御方として、橘王さまを奉じておりました。そのゆえは、かの君が「足仲彦の大王」の血を受け継がれる、王裔であられるからです。しかし、自らの野心に目の眩んだ葛城首長・香々瀬なる佞臣が恐れおおいことに橘王を弑逆し、皇位の簒奪を宣言しました。香々瀬は『葛城の大王』を僭称して宮を支配しましたが、臣はその大儀なき専制を耐ゆるにしのびず、機を見て叛臣・香々瀬を誅殺いたしました」

 金村は平伏したまま、一気に申し述べた。

 --金村は、必死だった。

 今、この瞬間に、金村と、大伴一族全ての命運がかかっているのだ。

 奇っ怪な装束を身に纏った「葛城の一言主」とやらが若い娘を引き連れて「葛城の大王」の所にやってきた時、金村はすぐそばの室に潜み、息を呑んでその一部始終を盗み見ていた。

 「葛城」に関わる三人の間で行なわれた出来事は、現実主義の武人である金村の理解の範疇を越えるものだった。

 しかし、とにかく全てが終わったらしき時、金村の前に示されたのは、三つの事実だった。

 「葛城の一言主」は消滅し、娘は姿を消し--大王の間には、短い間「葛城の大王」を名乗った香々瀬の遺骸だけが残っていた。

 香々瀬の亡骸を前に一人立ち尽くした金村は、その場で必死に考えた。

 今後、大伴一族と自分が生き残る方法を--。

「では、汝が……『葛城の大王』を討ったというのですか!?」

 衝撃を受けたように、馬上で深海が叫んだ。

「--は。これが、かの叛臣の遺髪にございます」

 顔を伏せたまま、金村は香々瀬から切り取った髪を差し出した。

「貸せ」

 短く言うと、荒鹿火は部下に命じ、香々瀬の遺髪を持ってこさせた。

「……ふむ。確かに、独特の褐色をしておる。『葛城の大王』を名乗ったのが、葛城の首長だというのなら、これに間違いはあるまい」

 遺髪をくまなく調べ、荒鹿火は苦々しく言った。

「臣のつとめは、『大和の大王』の血を引く御方にお仕えすることでございます。橘王亡き今となっては、「男大弩の大王」こそが、臣の仕えるべき唯一の主と心得ます。人主きみには、これまで数々のご無礼あれど、伏して願い奉ります。叛臣・香々瀬の命と、この列城宮を献上するかわりに、我が罪をあがなうことをお赦しくださいませ……!」

 金村は、地に額を擦りつけた。

「……今更になって、寝返るというのか。分が悪いと見るや、大方仲間割れでもしたのであろう。貴様らしいことだ」

 金村の頭上に、侮蔑に満ちた荒鹿火の声が突き刺さる。

 しかし金村は何も答えなかった。

 何とでも言うがいい。確かに、奴らは勝利者だ。

 自分は、時流を見誤った。敗れたのは、認めよう。

 --しかし、まだ全てが終わった訳ではない。

 香々瀬の髪を切り取り、警護の軍を解いて宮人を離散させ、列城宮に火をつけたのは、金村自身だ。

 今頃、宮の中で、香々瀬の亡骸も燃えつきてしまっているだろう。

 確かに自分は、男大弩の大王の敵対者だった。だが、ぎりぎりの所で叛逆の頭目を討ち、領地を献上したのだ。これまでの歴史を振り替えれば、それで赦された例もある。

 分の悪い、賭けではあるが--。

「……大伴の」

 深海が、金村に声をかけた。

 金村は、縋るように深海を見上げる。

 その時深海は腰の太刀を抜き、金村に向かって降り下げた。

「ひっ……!」

 悲鳴を上げて金村は目を閉じた。やはり、自分は斬られるのか。そう、諦めたが--。

 予想した痛みは感じなかった。かわりに、金村の角髪は半分切り落とされていた。

「--『葛城の大王』は、私がこの手で殺すはずだったのだよ」

 深海は静かに言った。その表情には、深い憂愁が浮かんでいた。

「だが、もう終わった。約束は果たせなかった。あの赭い星は、またどこかへ行ってしまったのか--」

 悄然と呟き、深海は夜空を見上げた。彼はとても寂しそうで、その瞳は空虚だった。

「全ては徒爾に終わる。それが、私の運命か。一番大切な者との約束さえ……」

「男大弩の大王……?」

 金村は、不安そうに深海を見上げる。そんな彼に目を向けることもなく、深海は告げた。

「大伴の金村。汝の大連の位は解く。だが、命はとらぬ。それでよいな」

「大王、こやつは陋劣な匹夫ですぞ!? 生かしておけば、この先またっ……」

 反駁しかけた荒鹿火は、深海の一瞥を受けて口を噤んだ。

「……私が殺したいのは、この男ではなかった。だから、もう誰を殺すことにも意味はない」

 深海は、諦めに似た微笑みを浮かべた。

 あの赭い星は、どこへ行ってしまったのだろう。

 葛城の大王と共にこの世から消えてしまったのか……それとも、まだ恨みを抱いて、どこかを逍遥しているのか。

 --だが、どこにいようとも。誰に憑こうとも。

 もう、あの赭星の願いを遂げさせるようなことはしない。

 自分は大王となる--誰の、どんな憎しみや恨みでも傷つけられぬほどの、強い大王となるのだ。

 せめて、そのくらいのことしかできないけれど。

 彼は、見守っていてくれるだろうか。

 旅立ったこの自分を、あの月傾く淡海の空から、見ていてくれるだろうか。

 ずっと一緒にいられると信じていた……あの頃と同じように。

 いつまでも、見てくれているだろうか。



(第七章おわり 最終章へつづく)


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