第六章 「葛城の宿業」
……倭文は、夢を見ていた。
ひどく懐かしいと思った。近頃では、滅多に見ることもなくなった、幼い頃の夢だ。
『ねえさま、どこにいくのっ』
まだ二つか三つくらいだった香々瀬が、倭文の後をとてとて追いかけてきた。香々瀬はその頃、いつも倭文の行く先について来たがった。
香々瀬の口癖は二つだ。「どこにいくの」と「ぼくもいく」。たった一つしか違わないのに、倭文は弟の香々瀬を、鬱陶しいちびだと思っていた。何をしても適わない癖に、なんでも真似したがる。
多分倭文は早熟で、本来の年よりも、ずっと大人びた子供だったのだろう。自分たち姉弟を微笑ましく見守る周囲の大人たちさえをも、どこか冷めた目で見ていた。
弟は、小さくて、弱くて、馬鹿で、柔らかくて、丸い。……何かに似ている。そうだ、あれだ。生まれたばかりの兎。ぎゅっと握ったら、ぶちっと弾けて潰れてしまいそうなところがそっくりだ。
『ねえさま、ぼくもいく』
許してもいないのに、香々瀬は倭文の衣を握った。
倭文は辟易する。--姉が弟の面倒を見なくてはならないなんて、一体誰が決めたんだろう。こんな弱い奴、さっさといなくなればいいのに。
今より子供だった分、倭文は素直で残酷だった。
『……ほんとうに、ついてくるの?』
背の高い倭文は、香々瀬の顔を見下ろして言った。年子だったが、その頃から倭文の方が弟よりずっと発育が早かった。
『うん。いく』
香々瀬は疑いなく微笑んだ。無垢な弟に懐かれる度、倭文はいつも、何だかいらいらとした気分になったものだが、その理由は大人になってからわかった。要するに、他人から頼られるのは煩わしかったのだ。
倭文は、香々瀬を脅かしてやろうと思った。
『……ねえさまはね、葛城山へ行くのよ』
『えっ』
案の定、香々瀬はすぐに怯えた表情になった。
『でも、ねえさま、葛城山には入っちゃいけないって、みんなが……』
『ばかね。《みんな》は入っちゃいけないけど、《わたし》はいいのよ。おまえ、ほんと
にばかね』
倭文は居丈高に言った。
王族の立ち入りが許されていることはなんとなくわかっていたので、そのことを言いたかったのだが、さすがに倭文もまだ幼く、うまく説明は出来なかった。
『ちがうもん。子供は行っちゃいけないって、めのとが言ってたもん』
香々瀬はしつこく食い下がった。この頃から、妙に頑固なところのある弟だった。
『……っ』
思わぬ反抗をされたせいで、倭文は本気で腹がたってきた。小さい頃(いや、実は今でもか)倭文は短気だったのだ。
『ねえさまはね、香々瀬を消しちゃってくださいって、一言主さまにお願いにいくのよ!』
倭文は香々瀬に向かって怒鳴った。途端に幼い香々瀬は顔をひきつらせる。
『こんなうるさい弟なんていらない! 一言主さまは、いいことでも悪いことでも、たった一言だけお願いを聞いてくださる偉い神様よ! 香々瀬なんて、いなくなっちゃえ!!』
掌で香々瀬の頭を叩くと、倭文は葛城山に向かって走り出した。後ろから、取り残された香々瀬の甲高い泣き声が聞こえる。
馬鹿な奴。神様なんて、いるわけないのに。信じて、泣いちゃってる。ほんとに、どっかいっちゃえ……。
(……ああ。でも、いたんだなあ……)
半濁した意識の中で、大人の倭文はぼんやりと考えた。どうも頭が、半覚醒状態のままらしい。夢の中で、自分が夢を見ているのだとわかる。
あの後、葛城山に踏み入った倭文は、本物の一言主に出会ったのだ。それ以来、ずっと奇妙な関係が続いている。思えば、もう長いつきあいだ。
(それにしても……私、小さい頃、随分香々瀬を苛めてたんだわ……あの子が歪んだのって、そのせいだろうか……)
思い出せる記憶は少ないが、それでも幼い頃はいろいろと意地悪をした気がする。仕方ないじゃないか。そもそも、子供というのは生来残酷な生き物なんだし。あの子が弱かったのまで、責任は持てないのだから……。
言い訳めいたことを考えている内に、また夢の光景が変わった。
今度は記憶ではない。
まったく、見た覚えのない画像だ。
最初に現れたのは、夥しい兵馬だった。一つの国をでも平伏できそうなほどの軍勢が、武儀を飾った若い男に率られ、威風堂々と行軍している。
兵軍は、ある山裾に拓けた大きな里に辿り着いた。その場所は、不思議と倭文の生まれ育った葛城の里に似ていた。軍は里の田畑を蹴散らして進み、王の御館を取り囲んで止まった。
御館を囲んだ全ての兵は、弓に矢を番え、すぐにでも攻撃できる体制をとっている。飾り立てた馬に乗った将と思しき若い男が、館に向かって大声で叫んだ。
「--穴穂の大王を弑逆した謀反人、目弱王がこの葛城に逃げ込んだことは既にわかっておる! 葛城の円よ、汝も大王に仕えた大臣ならば、即刻謀反人をこの泊瀬に引き渡せ!!」
御館の方でも、警護の兵たちが、里を守ろうと臨戦体制を整えていた。しかし彼らの長は、矢を放つ命を発することもなく、自ら敵軍の前に姿を現わした。
袴の裾に足結の鈴を結び、立派に装束を整えた里の首長--円の大臣は、馬上の将軍に向かって丁寧に拝礼した。
「このような形でお会いすることになるとは、思っておりませんでした。泊瀬の皇子」
円の大臣は、まだ二十歳そこそこの青年に見えた。
夥しい軍門を前にして、まったく怯む様子もない。穏やかな決意に満ちたその顔はとても静かで--倭文の知っている、誰かに似ているような気がした。
「円の大臣……」
葛城の大臣と対峙した「泊瀬の皇子」の方が、逆に余裕を失っているようだった。彼は何かに急き立てられている。その焦燥が、醜い隈となって、彼の顔をどす黒く色取っていた。
「目弱王を引き渡すのだろうな」
「いいえ」
若い円は決然と告げた。
「引き渡さねば、葛城も謀反に加担したものとして、うち滅ぼすぞ!」
泊瀬の皇子は脅すように叫ぶ。彼は、何をそんなに恐がっているのだろう、と倭文は不思議に思った。
「泊瀬の皇子」
自分より年上の皇子を諭すように、円は呼びかけた。
「古より今に至るまで、臣下が王の宮に隠るることは聞き及びますが、王が臣下の館にお隠れになったことは、聞いたことがございませぬ。……私が力を尽くして戦っても、あなた方に勝つことは出来ぬでしょう。しかし、この円を頼り、葛城の館にお入りになった目弱王を、私は死んでもお見捨て申せませぬ」
恬淡と語る円の瞳に、迷いはない。
彼はもう、全てを決めてしまっていたのだった。
目を覚ましたとき、倭文は泣いていた。
悲しかったからではない。悔しかったからだ。
さっき視た夢。鮮明すぎる、あの画像。
「泊瀬の皇子」「目弱王」「円大臣」……出てきた言葉で分かる。あれは、数十年前の--金剛山の麓にあった、「もう一つの葛城」が滅んだときの乱だ。
自ら予言した通り、円大臣は泊瀬の皇子に--後の、「泊瀬の大王」の軍に勝つことは出来なかった。
矢を打ち込まれ、焼き払われた葛城の所領は、葛城一族の至宝と謡われた韓媛と共に、あの大王に奪われた。
結局、目弱王も円大臣も、戦いの果てに自刃して果てた。玉田葛城氏は滅んだのだ。一人の、愚かな男を庇ったが為に。
あれから何十年も経過した今、全てが歴史の彼方に埋もれてしまったこの時に、どんなに悔やんでみても、もうどうすることもできないが--何故、円は、一族と引き換えにしてまでも、目弱王を守ったのか。
自分ならば、絶対にそんなことはしない。自分が首長ならば、最後まで葛城を守ってみせる。もしも、自分があの時の首長だったならば--。
(……あれ? なんだろう……)
ふと視界に入った物が気になって、倭文は手の甲で涙を拭いた。涙でかすんでいた目の端に、金色に光る物が映ったのだ。
頭を振って意識を呼び起こし、刮目した倭文が見たのは、空から降り注ぐ、銀杏の木の葉だった。
はらはら、ゆらゆらと。
金色に色づいた扇形の木の葉は、雪のように無数に降り注ぐ。
倭文は立ち上がり、天を仰いだ。
彼女が夢を見ながらもたれかかっていたのは、よく見慣れた大銀杏の大木--その幹の根元だった。
これは、葛城山の神木……では、見るはずのない夢を見たのは、この神木の霊力か?
正気に戻った途端、倭文は寒気を感じ身を震わせた。
そうだ、季節はもう冬なのだ。しかも、ここは標高の高い山の中のはずである。倭文は常の装束の上に、見覚えのない新しい襲を羽織らされていたが、それでも山の冷気は容赦なく彼女の肌に突き刺さってきた。
周囲を見回して見ると、林の木々は既に葉を落とし、立ち枯れた初冬の寒々しい様相を見せている。
--だが、大銀杏だけは違った。大いなる神木は、全身に金の歩揺を纏い、厳かに佇んでいる。
……ああ、ここは金の神域。一年中、けして変わることのない場所……。
「……本当に、不思議な木ね」
幹に手を当て、倭文は大銀杏に話しかけた。
こうしているだけで、心が穏やかになるように気がする。今まで起こった忌まわしい出来事さえ、さっきのような、ただの夢だったように……。
「--いや、夢じゃないよ」
倭文の心を読んだかのように、大銀杏の上から聞き慣れた声が振ってきた。
倭文には、その声の主が誰だか分かっていた。葛城の神木である大銀杏に依り憑くことの出来るもの--それは、この世にただ一人しか存在しない。
「出てきなさいよ、一言主」
倭文は銀杏の葉を掴みながら呼びかけた。
「……やっと起きたんだな」
そう言いながら、葛城一言主は大銀杏のどこかの枝から飛び降りてきた。
銀杏の木の葉が乱舞する中で、彼は常のごとく倭文の前に立つ。
「ずっと寝てるつもりかと思ったぜ?」
そう言うと、ニヤッと笑った。
そんなに長い間離れていた訳でもないのに、倭文には一言主の姿が随分懐かしく感じられた。
高歯の付いた下駄。短く切った袴から出ている素足。左手に持った、古い長矛。印象的な、短い銀髪。
少年のような、青年のような、細身の姿。ああ、よく見慣れたものばかりだ。
仮面をつけた、その顔も--。
(……顔……?)
倭文は、改めて一言主の顔を凝視した。勿論、彼の顔の上半分は、奇妙な文様の入った仮面で隠されている。
それなのに、倭文は彼の顔を知っているような気がした。ずっと昔から、見知っている
のではない。それは、ついさっき、見たばかりのもので……。
我知らず、倭文は一言主に向かって手を伸ばしていた。ごく当たり前のように、その仮面を剥がそうとしたのである。だって、そこにあるのは、知っているはずの顔なのだから--。
「……駄目だよ」
倭文の指が仮面に振れる寸前、一言主の手が彼女の手首を掴んだ。
「まだ、見ちゃだめだ」
「でも、一言主、あなた--」
倭文の心は、一瞬ためらいを覚える。
しかしその唇は、本人の意志よりも簡単に、予定していた音を吐き出してしまった。
「あなた……円、でしょう?」
「……」
「葛城の……円の……大臣なんでしょう?」
一言主は、倭文の手首を離した。
倭文の腕は素直に下に落ちる。
しばらく無言で倭文を眺めていた一言主は、やがて朱色の唇を緩く解いた。
「……どうして、そう思う?」
驚くことも、動じる事もない。
恬然とした様子のまま、一言主は倭文に問い返した。
「だって……さっき、見たから」
「--夢で?」
「そうよ。見たわ。円の大臣と……泊瀬の皇子が話しているところ……」
言いながら、倭文は鮮明な夢の記憶と、目の前の一言主の姿を重ね合わせた。
髪の色こそ違うけれど。その肌の色も顎の線も唇の形も、あの夢で見た若い大臣とまったく同じだ。仮面に隠されたその瞳でさえ、透かし見できるほどに。
倭文には、一言主の相貌がとらえられた。
「そうかあ……。やっぱり、倭文には、視えちゃうんだなあ」
どこか残念そうに呟きながら、一言主は右足で大銀杏の根を蹴った。
「さっき見た夢……あれが、目弱王の乱の時の事ね?」
倭文は確認するように一言主に聞いた。
「俺と泊瀬が出てきたんなら、多分そうだな」
「でもどうして……私が生まれるずっと以前のことなのに……」
「--さあ。こいつが、見てもらいたかったんじゃないの?」
言いながら、一言主は大銀杏の幹を叩いた。
「やっぱり、神木の霊力で……?」
「俺が頼んだのは、倭文を癒してって事だけだっんだけど。まあ、古い記憶は、一族の血の中にも受け継がれてるからね……」
倭文は大銀杏を見上げた。
もう、何百年生きているのかもわからないくらい、古い木だ。葛城の一族がこの地に住み着くずっとずっと昔からこの山に在り、一族の歴史を--その喜びも哀しみも全て、黙って見つめてきたのだろう。
生まれる者と、滅びゆく者を……。
「--一言主。あなたが円だと……玉田葛城最後の首長、円の大臣だというのなら、どうしても聞きたいことがあるの。あなたはどうして--どうして、一族全ての命運と引き換えにしてまで、目弱王一人を救おうとしたの」
倭文は一言主に向き直り、真摯な黒瞳で彼の仮面に隠された顔を見据えた。
「たとえそれが実父の仇討ちだったとしても、「穴穂の大王」を弑逆してしまった目弱王は、間違いなく反逆者だったはずよ。そんな目弱王を匿えば、葛城も謀反の同罪に処せられることなんて、首長なら分かっていたでしょう!?」
倭文は責め立てるように一言主に迫った。
「あなたにとって目弱王は、一族を滅ぼしてもいいほど、大切な存在だったというの!?」
「……いや」
一言主は、従容としたまま短く答えた。
「あの世間知らずのガキとは、殆ど会ったこともなかった。正確に言えば、目弱王とじっくり話し合ったのは、あの乱の時が最初で最後だ。--奴が俺を頼ってきたのは、単に、俺があの頃一番権勢を持っていた大臣だったからだろう」
淡々と答える一言主を見て、倭文は呆れたように叫んだ。
「じゃあ、なんで、そんな人間の為に!」
「……それが、正しいと、思ったから。あの時は」
「正しい?」
「弱って、助けを求めてきた幼い者を、追手に差し出すことは出来ない。庇護してやるのが、大臣として……人として、あるべき姿だと」
「あなたは首長として間違ってたわ! あなたが言ってるのは、ただのきれい事よ!」
「そう。でも、たとえ負けると分かっていても、人として信義を貫いて死にたい……そんなことを、本気で考えるくらい、まっすぐで融通の聞かない奴だったんだよ、あの頃の俺は」
一言主は、他人の話をするように語った。
この飄々とした託宣神が、そんな一途な青年だったなど、今の姿からは到底想像できなかった。
「馬鹿じゃない……」
倭文は悔しそうに一言主を詰った。
「そう、馬鹿なんだ」
一言主は動じることもなく返す。
二人の間に気まずい沈黙が流れると、突然一言主は倭文をからかうように舌を出した。
「なんてね。--嘘だよ」
「--は? 嘘?」
倭文は本気で怒っていた。それゆえ、一言主がいきなり何を言い出したのか理解出来ず、
呆然とする。
「まあ、あの頃の俺っていうのは、今とは随分違って、真面目で堅苦しい奴だったんだ。だから、そんなふうに思っていたのも確かだったんだけど」
一言主は腰に両手をあて、自嘲的な笑みを浮かべた。
「『目弱王の乱』っていうのは、突発的に起こった事件じゃない。そのずっと前から周到に用意された、葛城に対する罠だったんだ」
「罠……?」
「倭文も、王族なら分かるだろう。昔から、幾度となく大王と反葛城系豪族が結びついて、葛城を潰そうと計略を仕掛けてきたじゃないか。--あの時も、そうだった。実に、巧妙な罠でね。戦っても、従っても、どのみち葛城が敗れるように最初から仕組まれていたのさ」
一言主は当時を思いだし、ゆっくりと嘆息した。
「俺達に道はなかった。玉田葛城は、敗れる運命しか持たなかったのさ。みんな分かっていたよ。覚悟は出来ていたんだ。--だから俺は、せめて死ぬ前に、信義はこちらにありと、あの野郎にうそぶいてやったのさ。かっこいいだろ?」
一言主は乾いた声で笑った。それは虚しい響きに満ちていた
「格好いいなんて思わない……そんなの……」
「うん。倭文はそういうだろうね。俺も、今では時々思う。潔く運命になんて殉じないで、最後まで醜く足掻いてみたらよかったんじゃないかってね。そしたら、何か変わってたかも知れないな」
一言主は苦笑した。
全ては、もう遠い過去の出来事だった。
「でも……あなたは、結局生き延びたのよね? だから、今、こうしてここに……」
言いかけた倭文は、ふとおかしな事に気がついた。
夢で見た円大臣は、死の直前、二十歳前後の青年の姿をしていた。もしあの乱を何らかの事情で生き延び、その後数十年を経たのなら、今はとっくに老人になっているはずだ。
なのに、今倭文の目の前にいる一言主は、死の寸前よりもむしろ若い--端境期にある頃の、少年のような姿をしている。
「ああ。やっと気が付いた?」
倭文の心を見透かしたように、一言主は言った。
「これは、『常若の呪い』なんだ」
「常若……?」
聞いたことのない言葉を耳にして、倭文は怪訝そうに呟く。
「倭文は、『一言主』ってなんだと思ってるのさ」
「葛城の……護り神じゃないの?」
「違うよ」
一言主はあっさりと一蹴した。
「あの時……あの乱の最後の時。里は燃え、兵はうち果て、一族の者は死に絶えて、目弱王自身も自刃して果てた。誰もいなくなった館の中で、俺も首を斬ろうと覚悟を決めたよ。--その時だ。『あいつ』が俺の前に現れた」
「『あいつ』?」
倭文は聞き返したが、一言主は答えずに話を続けた。
「あいつは、仮面をつけて、若い男の姿をしていた。あいつは言ったよ。『やはり、葛城はまた敗けるのか』ってね。『お前は、葛城を敗北へ導いた王だ。俺と同じだ』そう言って、あいつはつけていた仮面を外し、俺の顔につけた。それきり、あいつは消えた。--そしてその時から、俺は『円』ではなく『一言主』になった」
一言主はいつもの癖で、自分の知っている事実だけを短い文節で淡々と話す。だが聞いている倭文には、彼が何を言っているのか、さっぱり分からなかった。
「ちょっと待ってよ、『あいつ』って誰? そもそも、常若の呪いって何よ」
「『常若』は、一言主を継いだ者がかかる呪い。時間をかけてゆっくり若返っていって……最後には、消滅する」
「継いだって……じゃあ、『一言主』って、あなた一人じゃないの?」
「あのねえ、倭文……そもそも、『神』っていうのは、人に憑く霊格なんだ」
面倒くさそうに一言主は説明した。
「俺は、円として生きてたときは、自分の見たことしか知らなかったけど。一言主になったせいで、色んなことが分かってしまうようになったよ。おまけに、性格まで変わった」
そう言うと、一言主は物憂げに自嘲した。
「……昔、倭文に言わなかったかな。この地には、今の大和朝廷が起こる前に、葛城の王国が……葛城王朝があったって」
「よく、そうは聞かされたけど」
「今はただの伝説だと思われてるけど、本当の事だよ。そんなに領地は広くなかったけど、高度な文化を持ってた。今、葛城の田のみで採れる金色の稲。あれだって、葛城王朝から伝わった葛城だけのものなんだよ。他の部族は、赤米とか黒米とか食べてるだろ」
「そうみたいね」
金の稲穂から採れる白い米は、葛城一族だけが常食しているものだった。
倭文はたまに他族に出かけたときに、赤米などを口にすることもあったが、まるで味が違った。多分、栄養価も随分違うのだろうと思った。
他族の中には、葛城の者が長寿で健康なのは、金の米を食べているからだ、と羨む者も多い。
「なまじ平和な王国だったからさ。あんまり軍備に力を入れてなかったんだ。それより、豊かになることを先にしてたしね。だから、筑紫の日向から最初の侵略者……大和朝廷の祖を築いた奴らが来たとき、簡単に敗けてしまったよ」
一言主は苦笑した。
「葛城王朝最後の大王……甕津は、殺される前に色んな事を考えた。自分の不甲斐なさとか、一族の行く末とか、侵略者に対する恨みとか……まあ、敗れゆく王が考える、色んなことをね。あんまり色々考えすぎたもんだから、甕津は、普通に死ぬことが出来なかった。肉体が滅んだ後、甕津の魂は、和魂と荒魂に別れ、二つの魂は別々の方向へ飛んでいった」
そこまで語ると、一言主は顔を上げて、宵闇の空を見上げた。
倭文が目覚めた頃は夕刻だったのだが、二人で話しこんでいる間に、短い冬の陽は既に沈んでしまっていた。
「和魂は、葛城を想う、甕津の『憂い』の心。和魂は常に同族を求め、葛城の傍に在り、自分と同じ運命を辿った者を……俺のような奴を探し出しては、それに依り憑き、葛城の行く末を見守る者となった。長い時間の中で、代々受け継がれてきた、魂達の混濁、それを『葛城一言主』という」
一言主は倭文の方に向き直り、厳かな口調で言い聞かせた。
「つまり俺は、円の身体をしているが、もはや円自身ではない。この中には、混ざり在った幾個もの記憶と魂が存在する。--まあ、それで、結局こんな不思議な性格になったんだな」
「……そんなに何人もいるの?」
倭文は恐々と聞いた。
一言主の語った話は、葛城の姫であった倭文でさえ聞いたこともない事柄であり、想像を絶する内容だった。
「魂の混濁」と言われても想像もつかないが……なにやら、気持ち悪いのではないか?
しかし、それでこの奇矯な性格が出来上がったのだとすれば、それはそれでなんとなく納得できる。
「だってさあ、考えてもみろよ。今まで、何回葛城が狙われたと思う?」
「まあ、確かに……」
倭文は憮然とした表情で頷いた。
葛城は大豪族であった分、標的にされることも多かった。その数だけ、危機を迎えた首長はいたのだろう。
「……結局、それが葛城の背負った『宿業』なんだけどな」
「--宿業?」
「そう。--葛城は、敗れる為に存在する一族だ」
「……なんですって!?」
倭文は驚愕した。
葛城が……この誇り高い葛城一族が、「敗れる為に」存在している!?
それは、いかに「葛城一言主」の言葉とはいえ、たやすく受け入れられることではない。
そんな訳の判らぬ運命を始めから背負わされているのだとしたら……自分たちは、一体何の為にこれまで続いてきたのだ?
「--日は東の山の辺から昇り、月は西の葛城山へ沈む。葛城は、月傾く処だ。月見る方は、全てを沈める場所。俺達は、そこを選んで王朝を開き、失敗した。敗北から始まった一族の歴史は、それを繰り返すさだめを持った。……それが、葛城の運命」
「でも……でも、確かに何度も敗れてはきたけど、私たちは決して滅びることはなかったわ。今だって、こうして葛城の一族は生きている!」
「ああ、そうだ。何度敗れても、決して滅びきらない。その血は絶えない。どんなに形を変えようと……敗れる為に在れども、決して滅びゆかぬ者。それこそが、葛城の宿業さ」
一言主は、夜空を見上げた。
冷気の中で、星々は冴え冴えと瞬いている。
--けれど、そこに赭い星は無かった。
「倭文。……葛城王朝最後の大王、甕津の和魂は一言主となり、ここにいる。じゃあ、わかれた片割れ、もうひとつの荒魂はどこへ行ったと思う?」
「……え?」
突然話を変えた一言主を、倭文はきょとんとして見つめた。
「荒魂は、大和の大王を呪う、甕津の『恨み』の心。甕津の荒魂は、天へ逍遥し、『祟り星』となった。……それが、『祀厳津』」
「ミイカツ……?」
倭文は聞き慣れぬ名を復唱した。
「祀厳津とは、大威をかるもの。そは、祟る星神。奴は葛城を遠く離れて逍遥を繰り返し、大和の大王を呪う為に『依りまし』を選んでは憑いてきた。……だが、祀厳津も結局は葛城から生まれた魂。いずれは、この地に戻らざるをえない」
「葛城に、戻ってくる……?」
「--ねえ、倭文。瀬田川で俺が倭文を助けた後、どうなったか知りたくない?」
それまでの深刻な空気を破るように、突如として一言主は話題を変えた。その口調までもが一変する。
「大伴軍はねえ、俺が殲滅しておいた。そのおかげで、物部は勢いづいちゃって、樟葉宮で正式に大王即位した深海を奉じて、大和へ向かってる」
「大和へ? そうだ、じゃあ稲目は無事なの? あの子確か、物部と一緒にいたはずじゃあ……」
「ああ、稲目は大丈夫だよ。深海のとこにいるから」
「物部のもとで?」
「違うって。深海の手の内にあるんだよ。それでいいんだ。あの子には、あの子の役目があるんだから」
一言主は、含みのある口調でひとりほくそ笑んだ。
「それでね。列城宮の方は、ぼろぼろなんだ。大王になるはずだった橘王ってのは死んじゃって、主だった豪族も、大半が物部側に寝返っちゃった。まあ、大伴はまだがんばってるけどね。……どう? 倭文は結構重症を負ってたから、癒す為にしばらくこの大銀杏のとこで眠らせておいたんだけど、その間に凄いことになってるだろ」
自慢げに戦況を語る一言主は、何故か楽しそうにはしゃいでいた。
「……じゃあ、結局列城宮は、落とされてしまうってことかしら」
倭文は憮然と呟いた。
どうも、色々と釈然としない。--かといって、どちらに勝ってほしいのか、自分としてもよくはわからないが。
「そう思うだろ。ところがだ! ……倭文は、香々瀬が大伴と手を組んだことを知ってたかな?」
「……ああ。そうよ! そういえばあの子、そういう馬鹿なことをしてたんだわ」
倭文は不意に思いだし、そのまま青ざめた。
香々瀬は大伴と結んだままだ。ということは、このまま列城宮が攻略されれば……香々瀬も--ひいては、葛城も、危ないのではないか!?
倭文の頭は、不安と焦燥でいっぱいになる。
そんな彼女を見下ろしていた一言主は、またしても突然その雰囲気を一変させ、酷薄な笑みを口元に刻んだ。
「……香々瀬は、列城宮で葛城王朝の復古を宣言した。自らが、葛城大王を名乗っている」
「はあぁ!?」
あまりに意外な一言主の言葉に、倭文は激しく喫驚し、思わず頓狂な叫びを上げた。
この局面で、誰を担ぐでもなく、自らが大王を名乗った!?
しかも、葛城王朝の復古!?
そんな宣言を、認める豪族があるはずがない。
逆に、他族に攻め込ませる口実を与えてしまうのが、せきの山ではないか。
仮にも葛城の首長を名乗りながら、その程度の判断もできなかったというのか、あの弟は!?
「あの臆病で馬鹿な子が……自分でそんなこと思いつく知恵も勇気もあるわけがないわ!
……わかった、大伴の入れ知恵ね!?」
倭文は腹立たしげに言い捨てた。
まったく大伴も、余計なことをしてくれる。いくら手駒がなくなったからって、あの弟を担ぐとは。そんな荒唐無稽な手が、この情勢で通用するとでも思っているのか……!
「--いや。大伴ごときに使える手ではない」
一言主は冷淡な口調で言い切った。
「……倭文。さっきの話の続きを教えてあげようか。祀厳津は、祟る星神。それは明けの空に光る赭星であり……陽の前にあって輝く者を意味する。故に、祀厳津の異つ名は--香香背男」
「香香背男……かがせを……カガ、セ……!?」
祟り星の異つ名を反芻した倭文は、その不吉な音の符号に気づいて愕然となった。
古の、葛城王朝最後の大王--甕津。その呪詛の魂……星神・香香背男。
そして、今の世に葛城王朝復古を宣言した倭文の弟……新たなる、葛城大王を名乗る者。
その名は、「香々瀬」。
(ただの偶然?……でも、確か、香々瀬の名をつけたのは母様だったわ。そうよ、思い出して。母様は、香々瀬の名をつけたとき、なんと言っていた……?)
必死に幼い記憶を探り当てた時、倭文は更に衝撃を受けた。確か、母はこう言ってはいなかったか……?
『不思議ね。でも、おまえ達を産むとき、どちらも夢の中で託宣を受けたの。だから、その通りに名付けたのよ。香々瀬も……倭文、おまえもね』
思い出した記憶の意味に混乱する倭文を前にして、一言主は憫笑にも似た表情を浮かべだ。
彼は、悠然と夜空を見上げる。
「さあ、倭文にはわかるかな……? 祟りの星神が、一体どこへ戻ってきたのかが、さ……?」
(第六章おわり 第七章へつづく)