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月傾く淡海  作者: かざみや
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第五章 「赭星の行方」

摂津国の枚方にある樟葉宮に辿り着いた息長軍は、とりあえずそこを仮宮と定めて落ち着いた。

 盟主である深海は奥殿に籠められ、真手王も常に傍らにつき従う。王の間にしては殺風景な室に入った二人は、武装を解いて久々に一息ついていた。

「……しかし、これが仮にも大王の宮とはな。まだ、息長の館のほうがずっと立派ではないか」

 古びた木造の室内を見回した真手王は、溜め息をつきながら言った。

「仕方ないさ。長い間、誰も使ってなかったっていうんだもの。でも、皆が掃除してくれたおかげで、随分綺麗になったじゃないか」

 深海は真手王を慰めるように笑う。

 彼らが到着した時には、蜘蛛の巣さえ張っていたのだから、それに比べれば住み心地は良くなった方だ。見栄えに拘わらなければ、それほど不自由はない、と深海は思った。

「だが、大変なのはこれからだぞ。お前は、大王として豊葦原の頂点に立たねばならぬ身なのだからな」

「……わかってはいるよ。だけど、未だに実感が湧かないんだ。まだ、不思議な夢を見ているみたいで……」

「おい、肝心なお前がそれでどうする。俺は、お前に全てを賭けているんだからな。--この命さえ、すべて」

 真手王は、深刻な面持ちで深海を見つめた。

「--うん。わかってるよ。だから僕は、お前の願いを叶えるために、立つ決心をしたんだ。真手王、これからもずっと僕の傍にいて、支えてくれるんだろう?」

 深海は信頼しきった声で、真手王に尋ねる。

「あたりまえだ。それこそが、俺の昔からの悲願だったのだから……」

 二人が信頼に満ちた目を見交わした時、室内に先触れが現れた。

「申し上げます。物部軍が、宮に到着いたしました」

「なに、物部の軍が? 随分早かったな。大連どのに、すぐにこちらへ来るよう伝えておくれ」

 深海は気を急きながら、先触れに指示した。

 ほどなく、荒鹿火が鎧姿のまま二人の前に現れる。

「--深海さま、無事に樟葉宮にお入りになられまして、よろしゅうございました」

 荒鹿火はひざまづき、床几に座した深海に向かって頭を垂れた。

「大連どのこそ、ご無事で何より。もっと遅くなられるかと思っていたが、速やかなお着きでしたな。それで、戦況はいかがでした!?」

「--は。少々手こずりましたが、瀬田川にて大伴軍を食い止めることに成功いたしました。我が方の犠牲は、最少にて押さえられております」

「そうですか、それはよかった……」

 荒鹿火の報告を聞くと、深海は微笑みを浮かべ、安堵の息をついた。

「……して、深海さま。これを……」

 荒鹿火は前に進み出ると、抱えていた朱塗りの筐を深海の足下に捧げた。

「大連どの、それは?」

「我が物部が代々司って参りました、大王の玉璽にございます」

 不思議そうに問うた深海に対し、荒鹿火は恭しく答えた。

「玉璽。これが……」

 深海は息を呑みながら、足下の筐を見つめる。

 この玉璽を持つ者のみが、正当な大王を名乗る権利を得られる。古より、幾多の覇者が目指してきた物。この大八洲・豊葦原の真なる人主たる証。

 それが、今この目の前に……。

「深海さま。どうか、その玉璽をもって、この樟葉宮にて新たなる大王としてご即位くだ

さいませ」

 荒鹿火は平伏して深海に言上した。

「ここで……即位を?」

「はい。正式な大王として、その正当な権威をもって大和入りを進めるのです。その方が、

この先敵軍と戦っていく上でも、我らに有利となります」

「そう……なのですか? --真手王、その方がいいのかな?」

 深海は、即位式を行なうのは、大和の宮入りしてからだと思っていた。

 しかし、ここで即位をと荒鹿火に勧められた彼は、判断のつかぬまま、傍らの真手王に助言を仰いだ。

「--そうだな。まあ、こんな見窄らしい所でというのは気に入らんが、一番重要な玉璽は我々の手にあるわけだし、大王を名乗ってしまった方が、確かに今後の戦略上は有利だろう。敵方の内部も切り崩せるし、民も味方につけられる」

 真手王は考えを巡らせながら、冷静に答えた。

「--わかったよ。真手王がそういうのなら」

 深海は真手王の顔を見て、納得したように頷いた。

「では、早速にも即位式の支度を整えさせますので」

 玉璽を置いた荒鹿火は、深海に一礼し、そのまま退出しようとする。

 その時、深海はふと思い立って荒鹿火を呼び止めた。

「あ、待ってください、大連どの!」

「何でございましょう、深海さま」

 下がろうとしていた荒鹿火は、立ったまま深海の方を振り返った。

「あの、姫は、ご無事ですか? 確か、彼女はあなたの軍におられたはず。稲目も気にしています。できれば、すぐにでもお会いしたい」

「……」

 荒鹿火は、厳粛な表情のまま立ち尽くした。

 彼はその眼に一度躊躇うような色を浮かべたが、やがて決然と口を開く。

「……深海さま。お気を落とさず、お聞きください。姫は、先の戦いのおり、自ら先陣をかって出られ--見事に戦いぬかれた末--壮絶な戦死を」

「姫が--あの姫が、戦死!??」

 喫驚し、激しく衝撃を受けた深海は、足下の筐を蹴飛ばして立ち上がった。

「そんな……ばかな。何かの間違いでは……」

「いいえ、我が軍の者が、確かに確認いたしております。姫のご活躍で、大伴を足止めすることができたのです」

「けれど……亡くなったなんて……」

 深海は虚ろに呟き、顔色を失う。

「深海さま。姫は、このような関わりになったのも運命だから、少しでも新王の為に役立ちたいと申されて、危険な役目を全うされたのです。どうかその意をお汲みになって、立派な大王としてお立ちください」

 深海を諫めるように早口で言うと、荒鹿火は足早に彼らの前から退出した。

 深海は愕然と、室の床に膝をつく。

「僕の……僕のせいだ。物部と大伴の争いになんか、なんの関係もない人だったのに。僕が息長に連れてきてしまった為に、あの人は、あんな若さで命を落としてしまったんだ……」

「別にお前のせいじゃない。大連どのも言われただろう。あの姫が、自分で望んだことだと」

 嘆く深海を横目で見やりながら、真手王は冷淡に言い切った。

「だけど、僕に会わなかったら、死ななくてすんだのは確かじゃないか!」

 深海は大声で真手王に向かって叫んだ。

「あの姫の血縁の人々がどれだけ悲しむか……そうだ、謝ろうにも、結局あの姫の真名や素性さえ知らないままだったんだ……」

 深海の全身を、重い罪悪感が苛んだ。

 本来違う道を歩むはずだった、通りすがりの人の運命を歪めてしまった。自分が、大王などというものを望んだが為に。

 この時、深海は初めて己が目指した物の大きさ--恐ろしさを、身に染みて思い知った。

 それは、深海の意志に関係なく、周囲のあらゆる者を飲み込んでいくのだ。無数の犠牲を出しながら、ただ一人に与えられる『高み』へとめざす道。

 「姫の死」という現実を突きつけられた深海は、改めてその奥に潜む深い闇に気がついた。それまで彼は、「大王即位」という事を、漠然としか思い描いていなかったのである。

「……まあ、大体の素性は予想がつかなくもないが。しかし、それもあまり意味のないことだ。深海、嘆いていたって仕方がないだろう。こんなこと、これから先いくらだって起こるんだ。犠牲者たちを悼むんなら、お前は彼らの無念を抱えて、大王として立つしかない。それが、お前の役目だ」

 突き放すように言うと、真手王は立ち上がり、転がったままの筐を拾った。

 床の上に丁寧に筐を置き、静かにその前に座ると、丁重な仕種で筐の蓋を開ける。

「素晴らしい……」

 筐の中身を覗き込むと、真手王は感嘆して目を見開いた。

 筐の中には、三つの玉璽--金冠、金履、環頭太刀が納められていた。冠と履は、いずれも金銅製である。葉や魚を模した歩揺と輝石の玉で表面を飾られ、裏側には赤い絹布が貼られていた。

「これを身に付けて即位に望むのだな……。素晴らしいぞ、深海! なんという威儀だ!」

 金色に耀く太刀を両手で掲げ持った真手王は、熱に浮かされたように叫んだ。彼の瞳には、尋常でない歓喜の光が浮かんでいる。

「さあ、つけてみろよ深海。誰よりも先に、この真手王に大王となったお前の姿を見せて

くれ!」

「……嫌だ」

 座り込んだまま、深海は俯き、小さく呟いた。

「……なんだと?」

「嫌だ。僕は、大王になんかならない」

 掠れた声で、だだをこねる子供のように、深海は言った。

「僕は、何もわかってなかったんだ。夢を追うなんて、綺麗事ばかり言って……本当の恐ろしさが、わかってなかったんだ。これからだって、戦いは続く。いや、どんどん激しくなっていくだろう。……だったら、これ以上犠牲を出し続けなきゃならないんなら、僕は大王位なんていらない!」

「ふざけるなよ、深海!」

 真手王は太刀を持ったまま深海に近づき、片膝をつくと、彼の肩を強く掴んだ。

「今更そんな戯れ言が通るとでも思ってるのか! 俺達は、もう引き返せないだぞ!」

 深海の瞳を見据え、真手王は怒気荒く叫ぶ。

「すまない、真手王。だけど、僕にはもう、自信がないんだ。二人で一緒に大連どのに謝ろう? 大和には、橘王という王裔がいるっていってたじゃないか。大王には、その人になってもらえばいい。そうすれば、もう争いも、犠牲もなくてすむんだ。そして、また二人で野州に帰って今までみたいに静かに暮らそう? 僕は、真手王がいてくれればそれでいい。他には、何も望まない。だから、二人で野州に帰ろう?」

 必死の形相で、深海は真手王に懇願した。

 自分が、とんでもない無茶を言っているのはわかっていた。土壇場で、逃げようとしていることも。

 けれど、これ以上心を偽って進むことは出来ない。

 恐ろしいのだ。

 何もかもが、どうしようもなく恐ろしい。自分は、そんなものに立ち向かえるほど、強くない。

 まだ、間に合うのなら。ここから逃げ出そう……今すぐ。

 子供の頃から、誰もわかってくれなくても、真手王だけは、深海の本当の気持ちを理解してくれた。どんなわがままでも、深海の本気の願いならば、真手王だけはきいてくれた。

 だから、今度も。散々怒られはするだろうけど、真手王だけは自分の味方になってくれるはずだ。

 きっと……。

 --だが。

 真手王は目をつりあげ、悪鬼のような形相で叫んだ。

「橘王だと!? 他の奴じゃ、意味がない。お前じゃなきゃ、駄目なんだよ! 『俺』の宿願を叶えられるのは、この世でただお前一人--お前だけが、あの大王家の血を穢すことができるんだからな!」

「血を……穢す?」

 深海は呆然と、激昂する真手王を見上げた。

 彼の言っている事の、意味が分からなかった。

「どういうことなんだ、真手王? 大王家の血を穢すって? 僕は……誉田別の大王の裔だから……大王に迎えられたんじゃ……」

「誉田別の裔など、もうこの世にはいない」

 真手王は立ち上がり、吐き捨てるように言った。

「奴らは十四年前の高島の戦で皆死んだ。……『お前の一族』が殺したんだよ」

 真手王は、傲岸な態度で深海を見下ろした。

「僕の……一族?」

「ああ、お前は本当に、何も覚えてはいないんだな」

 真手王は、哀れむように嘲弄した。

 彼のその貌は、十年以上一緒にいた深海が、これまで一度として見たことのないものだった。

「お前は……誰だ?」

 深海は、真手王を見上げながら掠れた声で言った。

「誰? 真手王だよ。決まってるじゃないか」

 真手王は怖気のするような冷笑を浮かべた。

「--十四年前。俺の父上が、騎馬民族に襲われた高島を救援に行った時、既に三尾の一族は全滅していた。首長である彦主人王も、妻の振媛も、幼い嫡子の男大弩王おほどおうも全て……な」

「男大弩王……?」

「父上は、高島を占拠した異国の騎馬民族と戦い、友族である三尾の仇を討った。父上は、奴らが三尾の一族にしたように、族人も奴卑も、すべて皆殺しにしようとした。--だが、偶然にもその戦火の中を生き延びた、異国の幼い奴卑の子供がいたのだよ」

 真手王はそこで言葉を切り、深海に一瞥をくれる。

 真手王の冷たい瞳に捕えられた時、深海は慄然とした。反射的に、もうこれ以上何も聞きたくないと思った。

「父上は、仇敵であった異国の騎馬民族の、生き残った奴卑の子を野州に連れ帰り、難を逃れた彦主人王の嫡子であると偽って育てた。それが深海……お前だ」

「僕が……っ!?」

 愕然とした深海は、悲鳴のように叫ぶ。

「そんな……そんな、はずはない。僕は、彦主人王の子だと……」

 反駁しながら、深海は必死に記憶を反芻しようとした。 野州に来る前を……高島にいた頃を、思い出そうとする。

 けれど、どうしても。戦火の中で泣いていた時以前の記憶を辿ることは出来なかった。

「今のお前の素性は、野州に来てから父上と息長の巫がお前に植え付けたものだ。……ふん。何が、河内王朝の開祖・誉田別の大王の王裔だ。お前はこの豊葦原に生まれた者ですらない。薄汚い、異国から来た侵略者の、ただの死に損ないの奴卑の子に過ぎないのさ」

 冷淡に告げる真手王の顔には、あからさまな侮蔑の表情が浮かんでいた。

「僕が……僕が、異国の侵略者の生き残り!? 三尾を滅ぼしたのは、僕の一族だったっていうのか……?」

 真手王の言葉に打ちのめされた深海は、悲愴な面持ちで切れ切れに呟いた。

 ……今まで信じてきたことは、何だったのか。

 王裔であることを驕る気持ちは、なかった。

 だが、血族を全て失った自分にとって、古の大王の血を引いているのだという誇りが、支えになってきたことも揺るぎのない事実である。

 だが、それは全て偽りだったのか。

 侵略者の生き残りである自分は、高島や野州にとって……いや、この豊葦原そのものにとって、忌むべき穢らわしい存在ではないのか?

「誉田別の王裔を庇護しているとなれば、いずれそれが息長にとっての切り札になることもあると考えて、父上はお前を身代わりに立てた。--だが、俺は違う。俺の願いは、忌まわしい異国の血を持つお前だからこそ、叶えられるのさ」

 真手王は深海に向かって残酷に嗤笑した。

「お前の……願い?」

「--そう。俺の願いはただ一つ。大王家の血を穢すことだ」

 決然と告げると、真手王は手に持っていた玉璽の太刀を己の頭上に掲げた。

「大王は、古から天照大御神の神裔であると自称している。……そんなこと、真実がどうかなんて、誰にも分かりはしないがな。だが、大王家は天孫であることを至上の誇りとし、その正統性をもって豊葦原の統治者であることを任じている--ならば」

 真手王は太刀を鞘から抜き、その銀光きらめく刀身の切っ先を、深海の眉間に突きつけた。

「俺は、この手で天孫の血を穢す。古から受け継がれたというあの血脈に、永遠に消えぬ呪いの楔を打ち込むんだ。--その為に、お前が必要なんだよ」

 真手王は突如、顔中に歓喜の表情を浮かべた。

「さあ、乗っとってやろうぜ、あの血筋を。誰もがお前を誉田別の王裔と信じ、歓呼の声で宮に迎えるだろう。だが、これから先、大王家に流れ続けるのは、大王とは何のつながりもない、異国の侵略者の血だ! こんな愉快なことがあるか!?」

 深海は思わず目を閉じた。

 こんな禍々しい言葉が真手王の口から流れ出るなど、信じたくなかった。

「真手王……どうして。どうして、お前がそんなことを……」

「それが、俺の『復讐』だからだ」

「お前が大王家に復讐しなければならない理由なんて、何もないじゃないか……」

 深海は泣きそうになった。

 少なくとも自分の知る限り、息長にも、真手王自身にも、大王家に対するこんな激しい恨みはないはずだ。

 それなのに、どうして--。

 深海は、苦渋に満ちた思いのまま目を開ける。

 そうして、眼前にある友の姿を眺めた。

 その相貌には歪んだ喜悦が浮かび、彼の双眸は狂喜の光で満たされている。

 --誰だろう、これは。

 深海は、ふと思った。

 そこには、長い間親しんだ--けれど、まったく見たことのない男がいる。

 こんな男は、知らない。

 これは、真手王では、ない。

「……お前は、真手王じゃ、ないのか」

 深海の唇から、確かめるような響きが零れた。

 真手王の姿をした男の瞳に、一瞬動揺の色が走る。

「何を……言う。俺は、息長真手王だ。ずっとお前の傍に居た友じゃないか」

「いや、違う。お前は僕の友じゃない。--お前は誰だ。どうしてそこにいる。真手王はどうした。僕の友は、どこにいるんだ!」

 叫ぶたびに、深海は自分の中で確信を深めていった。

 ここにいるのは、自信に満ちあふれ、けれどいつもどこか優しかった、あの友ではない。

 これは--真手王の姿をした、偽物なのだ。

「僕は、真手王の勧めがあったから、大王として立つ決意をしたんだ。……だけど、それは違った。始めから間違いだったんだ。僕は、野州に帰る。そして、僕の真手王を探す」

 深海は迷いのない口調で男に告げた。

 そうだ。全て、間違っていたんだ。

 もう一度、やり直さなくてはいけない。始まりの場所である野州に戻って、最初から、全てを。

「野州に帰るだと!? 大王位は、どうする気だっ」

「……僕は大王になんか、ならない。そうさ、お前のいうとおり、僕には大王になる資格なんてないんだ。野州に帰って、一番大切な者を取り戻す。それが、僕の願う全てだ」

「ふざけるな……ここまできて、後に引けるなどと思うなよ!」

 激昂した男は、その手に持っていた太刀を、すっと横へ滑らせた。

 深海の白い喉に、赤い筋が走る。時をおかず流れ出た血は、瞬く間に深海の襟元を濡らしていった。

「俺たちは、既に罪を共有している。お前はもう逃げられない。何としても、大王位についてもらう。……抗うというのなら、手足を切り落とすぞ。体が欠けていようと、命さえあれば、人形としては使えるのだからな」

 男は太刀を構える。

 脅しではない、と深海は思った。

 首の傷は、動脈ぎりぎりにつけられている。男がその気だったならば、さっきの一閃で深海の命を落とせたはずだ。

 本気で自分を斬ろうとしている男と対峙しながら、深海は次第に激しくなっていく傷の痛みを感じていた。




 息長軍の中に残ることになった稲目は、深海の直属の従卑のように扱われていた。

 どうもおかしな成りゆきになったとは思っていたが、他に行く所もない。それに偶然からとはいえ、深海の大王擁立に関わり、その内情を幾許かでも知ってしまった稲目には、

常に陰ながら監視の目が光っており、自由に逃げ出すことも出来なかった。

 仕方ないから、稲目はとりあえず深海に仕えておくことにした。真手王の方はなんだが近寄りがたくて恐かったが、深海はこれが大王になる人かと思うくらい気さくで、幼く身よりのない稲目を何かと気にかけて可愛がってくれた。

 だが、それらはあくまでも当座のことである。稲目の主は、やはり倭文以外にはいなかった。

 物部軍の戦力として組み込まれた彼女とは、瀬田川の戦い以降、離れ離れになったままだった。

 聞きかじっただけだが、あの場所では随分激しい戦が行なわれたらしい。倭文は尋常でなく強いから、きっと大丈夫だろうけれど……それでも稲目は、彼女がどうなったのか、ずっと気になっていた。

 そんな時、物部軍が合流したとの知らせが入った。

 倭文に会わせてもらえるよう、深海に頼んでみよう……そう思った稲目は、「台盤から奥殿に白湯を持っていくよう命じられた」という口実を作りだし、慣れない手つきで盆を運びながら、深海のいる室へ向かった。

「深海さま、稲目です。白湯をお持ちしました」

 室の前で声をかけると、稲目は返事も待たずに戸を開けた。

 誰か舎人がいたら、無作法な、と叱られただろう。しかし稲目は、これまで貴人に直接仕えたことなどない。だから、細かい作法など知らなくても仕方なかった。

 倭文がどこにいるのか、聞かせてもらおう。そう期待に満ちて奥殿へ入っていった稲目がそこで目の当りにしたのは--信じられない光景だった。

 真手王が、深海に向かって太刀を突きつけている。

 しかも深海は首に大きな傷を負い、大量の血を流していた。

「--深海さま!」

 稲目は、盆を取り落とした。白湯の入った土器が床に、落ち、砕け散る。

 その時稲目に理解出来たのは、真手王が深海を殺そうとしている、ということだけだった。

 真手王が何故、そんな暴挙に走ったのかなど、理由はわからない。だが稲目は咄嗟に、深海を救わなくてはならない、と思った。

「真手王さま、太刀を離して! こんなことしちゃ、いけない!」

 稲目は真手王の腕に飛びついた。必死でその束から彼の指を引きはがそうとする。

「離れろ、小僧! 貴様も殺すぞ!」

 真手王は、凄まじい力で稲目を振り払おうとした。

 しかし稲目は決して離れまいとして、夢中で彼の腕にしがみつく。

 --とにかく、この太刀をとりあげなくては!。

 稲目はただ、それだけを考えた。

 揉み合う中で、何度も真手王に殴られた。稲目も数度蹴り返した。口の中には錆びた血の味が広がり、体のあちこちに鈍い痛みを感じた。

 --遠くで、深海の鋭い叫び声が聞こえた。

 真手王ともみ合っているとき、稲目の頭は真っ白だった。何も考えられなかった。

 気付いた時、稲目は床に転がっていた。

 正気に返った稲目は、慌てて起き上がる。その右手には、何時の間にかしっかりと太刀を握りしめていた。

 稲目は、自分が真手王から取り上げたらしい太刀に目を落とす。その長い刀身には--べっとりと、赤い血が塗られていた。

「……っ、俺、俺……!」

 稲目は思わず太刀を取り落とした。

 床に転がった太刀を見つめたまま、全身に震えが走る。立っていられなくなり、思わず稲目は床に座り込んだ。

 --自分が何をしたのか、理解出来なかった。

 稲目は、恐る恐る顔を上げた。

 床の上に、真手王が倒れている。

 彼の胴には貫かれた跡があり、そこから恐ろしい勢いで鮮血が流れ出していた。

「--真手王!」

 悲痛に叫ぶと、深海は真手王のところに駆けより、彼を助け起こした。

「真手王、真手王、しっかりしろ!」

 深海は泣きそうになりながら、真手王に呼びかける。 真手王は土気色の顔でぐったりとしていたが、やがてうっすらと目を開けた。

「……深海……」

 その声を聞いた途端、深海ははっと息を呑んだ。

「真手王--お前か! お前なんだな!」

「……ああ、そうだ……。俺だよ……どうやら、『あいつ』は逃げたらしい……」

 真手王は弱々しく笑う。

 微かだが、確かに怜悧な光を宿したその瞳は、間違いなく深海の知っている真手王のものだった。

「『あいつ』……? ああ、真手王、お前は一体どうしてしまったんだよ!」

「深海……覚えてるか? 何年か前の朔の日の夜に……二人で、淡海に舟遊びに出かけたのを」

「--え?」

 虫の息で突然昔語りを始めた真手王を、深海は一瞬驚いたように見つめた。

「あの時……あの夜、俺は月のない淡海の空に、一際大きく、あかく耀く妖しい星を見た。お前はあの時見えなかったといったが……俺は、確かに見たんだ」

 苦しそうに喘ぎながら、真手王はきれぎれに話す。そんな彼の顔を見つめながら、深海は言われるままに記憶の糸を辿った。

 確かに昔、二人で朔の夜に淡海に出かけたことがある。詳しいことは、もう覚えていないが……真手王その時、『赭い星』を見たというのか?

「ひどく禍々しい……赭い星だった。俺はそれを、とても美しいと思ったよ……。だが、その時からだ。俺の中で、時折別の声が聞こえるようになった」

「--別の声?」

「声はしきりに俺に話しかけ、俺の心を浸食し、やがては完全に俺の意識を食い潰すようになった」

 苦々しく語る真手王の話を聞いた時、深海は先刻までの、まるで別人のようだった彼の姿を思い出した。

「……それが、さっきまでお前の体を使って話していた--僕を、大王にしようとしていたやつなのか!」

「……ああ、そうだ。だが、刺される直前に、奴は俺の中から出ていってしまった……」

「そいつは誰なんだ!? お前をこんな風にして、いったい何処へ……っ」

 深海は悲憤に顔を歪め、耐え兼ねるように叫んだ。

「わからない。『あいつ』は間違いなく、あの『赭い星』……だが、それが何なのか……。しかし、奴の目的は、ただ一つだ」

 苦しそうに目を閉じたまま、真手王は断定した。

 深海は、真手王の姿をした者が発した、呪わしい言葉の響きを思い起こす。

「……大王家への、復讐?」

「そうだ……。奴は、それを遂げるまで、何度でも同じことを繰り返すだろう……いいか、深海」

 真手王は震える手で深海の襟を掴み、その耳元で言った。

「『あいつ』は、また次の依り憑き先を探し、自分の思い通りになる、新しい大王を求めるだろう……。いいか、次に新しく大王を名乗る者……その中に、あの『赭い星』は潜み、操っている……そいつを、必ず討ってくれ!俺の……俺の仇を、深海、お前が!」

 必死の形相で懇願し、真手王は血塊を吐いた。

 彼は再び深海の腕の中に倒れ込む。荒かった真手王の息は、だんだんと弱くなっていった。

「……わかった、真手王。俺が必ず、次に大王を名乗る奴を討つ。--約束だ。お前の為に、俺はそいつを殺すから……っ」

 耐えきれず涙を落としながら、深海は友の体を抱きしめた。

「……同じ道を行きたかった。叶うならば、ずっと……」

 深海の肩に頭を預けたまま、真手王は静かに呟く。

 --それが彼の、別れの言葉なった。

 深海は物言わぬ真手王の亡骸を抱えたまま、ひとり激しく痛哭した。

 ……この世で一番大切な、かけがえのないものを、今永遠に失ってしまったのだ。

「……あ、あの……深海さま。俺、俺、なんてことを……!」

 稲目はずっと、目の前の光景を呆然と見つめていた。

 しかし真手王が死んでしまったと判った瞬間、激しい衝撃を受けて、その場で平伏する。

「ごめんなさい、俺……俺、俺が真手王さまを殺したんだ!」

 床に頭を擦りつけて深謝する稲目の姿を、深海は虚ろな瞳で眺めた。

「許してなんて言えない。俺を、俺を斬って下さい、深海さま……」

「……そんなことしたって、真手王は戻ってこないよ」

「だけど……」

「……いいんだ。あれはもう、ずっと前から、僕の知ってる真手王じゃなかったんだ……それにあのままだったとしても、、彼が救われる道もなかったしね……」

 深海は、悲傷に満ちた微笑みを浮かべた。

 この人は今、とても大切な人を喪ってしまった。この人にこんな思いをさせたのは、他ならぬ自分なのだ。

 そう痛感した時、稲目は、深海の為には自分はどんなことでもしなければならないのだ

と、覚悟した。

「俺、償うから。どんなことでもする。俺にできることなら、なんでも。一生かけて、償うから!」

 稲目は必死に懇願した。

 深海は、そんな彼の姿をどこか不思議そうに見つめていたが、やがて口を開くと穏やかに言った。

「……じゃあ、君がずっと僕の傍に居て、僕の力になってくれると約束するかい? --かつて、僕とそう約束した、あの友のように……」

「ああ、約束する! 絶対だ!」

 強く頷いて誓う稲目を見ながら、深海は虚ろに乾いた笑いを浮かべた。

 この少年と自分は、同じ仲間だ。

 「大王擁立」という逃れ得ぬ巨大な渦の中で、自分は最愛の友を……そして、彼は大切な主を喪ってしまった。

 我々は、共に遺された者……悼みを抱えて生きていかねばならない者たちなのだ。

 ならば、せめて、共にいよう。

 その喪失を思い出して辛い時、少しでも、互いが相手の慰めとなれるように。

 同じ傷を抱く者として。




 大銀杏の大木の一番上の枝に、葛城一言主は両足を広げて立っていた。

 空を見上げる。

 深い藍色の夜空には、無数の星々が瞬いていた。

 初冬に近い、冷たい澄んだ大気は、よりいっそう星空を鮮明に見せる。

 だが、今宵の星々の中に、一言主の探し求めるものは見いだせなかった。

「逃げたか……星神。また寸前で離れやがったから、わかんなくなっちゃったじゃないか……。本当にすばしっこい奴だよ……祀厳津みいかつ。--次は、どいつに憑く?」

 一言主は、独言のように呟く。

 見上げた夜空に、彼に返事を返すものはなかった。





「……いいか、必ず大王になれるって言って俺を迎えにきたのは、お前らだ! だから、わざわざ丹波から危ない橋を渡ってまで来てやったんだよ! それなのに、これはどういうことだっ!?」

 床几に座したまま、橘王は酒の入った土器を床に投げ捨てた。

 傍らに侍った采女が、銚子を持ったままビクッと肩を震わせる。割れた土器を片づけるふりをして橘王の傍を離れた采女は、麻布を取りに行くという口実を作り出して、そのまま大王の間から下がっていった。

「摂津の樟葉では、深海王とやらが、正式に『男大弩の大王』として即位したというじゃないか! しかも、主だった豪族の中にも、それを認めてあちら側に寝返る者が続出している! 俺は、こんな筋書きだとは聞いてないぞ!」

 激昂した橘王は、顔を真赤に紅潮させて、眼前の大伴金村を叱責した。

「あちらは偽王だ、正統性はこちらにある、と断言したのはお前ではなかったのか!?」

「……申し訳ございません。何分にも、深海王側は、玉璽を有しておりましたゆえ……」

 金村は平伏したまま、小声で申し開きをする。

 だがそんな彼の態度は、橘王の怒りに余計油を注いでしまった。

「瀬田の戦いで、物部から玉璽を奪い取ってみせると豪語したのは、貴様ではないか! それが失敗したのみならず、軍の大半まで失いやがって!」

 橘王の鋭い語気を浴びて、金村は床に額をつけたまま顔色を失った。

「あれは……あれは、本来ならば、我が軍の圧勝に終わるはずの戦いでした。それが、得体のしれぬ者たちによって……」

「壊滅させられてしまったんだろう」

 橘王は吐き捨てた。

「お前の部下に任せた列城宮の軍は、あやしい閃光によって、一瞬で殲滅したというじゃないか。わずかに生き残った者たちも、みな正気を失い『軍神いくさのかみを見た』と戯言を言っているとか」

それを降ろせる巫も、もはや今の世にいるはずもございません。恐らくは、物部側の何らかの策略に違いなく……」


「だが、敗けたことには変わりあるまい!」

 橘王は、激しい語調で金村を責めた。

「お前は大連でありながら、軍を失い、威光をも失わせた。もはや人心は、下々に至るまで深海王に傾いている。――見ろ、この宮の有り様はどうだ!」

 橘王は、怒気荒く叫んで両手を広げる。

 金村は、平伏したまま唇を噛んだ。

 権力に追従する者たちは、己が身を守る為に、時流を的確に読む。

 始めは橘王側についていた豪族も、「瀬田の戦い」を契機に形勢が逆転したと見るや、あっという間に深海王側へ流れていった。

 かつては有力な豪族たちで賑わっていた列城宮だが、今では昔日の面影もない。

 人気の疎らとなった宮には索漠とした雰囲気が漂い、残っているのは僅かな手勢と後見を持たぬ皇族、そして行く当てもない舎人や采女くらいのものだった。

「……勢いづいた物部軍は、『男大弩の大王』を奉じて山背の筒城から弟国へと南下を続けているというじゃないか! このままでは、大和に入られるのも時間の問題だぞ! お前らは、奴らがこの列城宮まで来たとき、ここを護れるのかっ!?」

 橘王は、顔を歪めながら怒鳴った。その頭の奥には、物部軍に対する恐怖が張り付いている。

「それは……もちろん……全力をもってお守り申し上げますが……」

 金村は、歯切れ悪く返す。

 彼自身にも、今の勢力でどこまで戦えるか、自身がなかったのだ。

 金村は、曖昧な返答を繰り返しながら時間を稼ぐ。彼は自分がどう動くべきか、心の内でひどく迷っていた。

 ――その時。

「……無理だな」

 不意に、室の外側から冷淡な声が響いた。

「葛城王……」

 金村は瞳を上げ、声の主を咎めるように睨む。

 開け放した戸の向こうには、回廊に座り込んで夜空を見上げている若い男の姿があった。

 葛城一族の若き王・香々瀬である。

 香々瀬はずっと、大王の間に背を向けて大和の星空に見入っていた。

 『盟友』であるはずの金村が、先程から橘王に叱責され続けているというのに、香々瀬は一向に間に入ろうとしない。彼にとて、今回の件の責はあるはずだ。

「……今、なんと言った? 葛城王」

 剣呑な瞳で香々瀬を一瞥すると、橘王は即座に立ち上がった。

「主力を失った今の大伴では、物部を防ぎきることは出来ない。奴らがくれば、この宮は落とされる。――そして、お前も死ぬのさ」

 組んだ足に腕を乗せ、瞬く星空を見上げたまま、香々瀬は恬淡と語った。

「ふざけるな!」

 橘王は憤激して叫んだ。

「大王になれるといって、俺を大和まで連れてきたのはお前たちだぞ!」

「だが、策に乗ることを選んだのは、お前自身だろう」

 香々瀬は突き放すように言った。

「丹波の山奥で土地の厄介者として一生を終えるはずだった貴様が、ひと時でも甘い夢を見れたのだ。それだけでも、幸せではなかったか?」

 香々瀬は橘王の方を振り向き、鮮やかに憫笑した。

「何が幸せだ! このままじゃ、偽王を騙った反逆者として、処刑されてしまうじゃないか……」

 言っている内に恐ろしくなったのか、橘王は顔色を失って唇を震わせ始めた。

 そんな彼を哀れむように見やり、香々瀬は唇を開く。

「……ではどうする? ここから、逃げるのか?」

「逃げる? ……ああ、そうだ! 最早、逃げるしか道はない。もう、大王くらいなんて、どうでもいい! 俺は、この命さえあればいいんだ。お前たち、俺をどこか安全な場所まで送り届けろ!」

 口調は命令だったが、橘王の言葉には懇願の響きが混じっていた。恐怖に苛まれた彼は、もう、己の身の安全にしか気が及ばなくなっていたのだ。

「橘王……」

 惑乱する橘王を目の当たりにして、金村は困惑する。

 回廊にいた香々瀬は立ち上がり、金村の前を横切って橘王の前に立った。

「……もう一度、問う。汝は、『逃げる』のだな? この宮を捨てて」

「あ、ああ、そうだ、早く……」

 橘王が言い終わらぬ内に、香々瀬は傍らの壁に掛けられていた飾り太刀の柄に手をかけた。

 そのまま、素早く刀身を抜く。迷いのない動きで白刃を煌めかせると、香々瀬は橘王の身体を斬った。

「――香々瀬どの……っ!?」

 目の前で起こった信じられない光景に、金村は驚愕の叫びをあげた。

 だが香々瀬は動揺一つ見せず、太刀を振ってその刀身から橘王の血を払う。

 彼は金村に背を向けたまま、橘王の亡骸に向かって吐き捨てた。

「下賎な小者よ……。演技力だけはあると思っていたが、所詮付け焼刃の品格では、この程度が限界だったか。――貴様の仕込みが悪かったのではないか?」

 香々瀬は振り返り、金村を一瞥する。

 その瞳には、これまで金村が一度も見たことのない冷酷な光が宿っていた。

「そこそこに使えると思ったから、連れてきたのだが。これでは、王裔というのも疑わしかったな。まあ、今となってはどうでもいいが……」

 絶命して横たわる橘王の遺骸を、香々瀬は一片の情けも無く踏みつける。

 金村は、突然の出来事に愕然としながらも、なんとかその唇から言葉を搾り出した。

「香々瀬どの……なんという事をされたのです! こんな男でも、我らにとっては唯一の切り札だった。これで我らは、物部に対抗する『大儀』をなくしてしまったのですぞ!?」

 金村は、年長の権威を振りかざして、気強く香々瀬を叱責しようとした。

 相手は、金村よりも遙かに幼い少年……しかも、これまで金村がその立場を利用してきた少年である。

 彼は愚かで、愚鈍で、脆いはず……だった。

 香々瀬は今まで、怯えながらも、金村の指示通りに動いてきたのである。彼は、使いやすい駒だった。

 あの「瀬田の戦い」で全てが狂い始めるまで、金村の計画が順調に進んでいたのは、香々瀬の存在を最大限に利用出来ていたからである。

 だが――今。

 この少年は、一体何を始めたのだ!?

「……もう、傀儡は要らぬのだよ」

 香々瀬は、金村を見上げて嗤嗤した。

 それは、禍々しいほど凄艶で、それまで優位に立っていた金村に戦慄を感じさせる程のものだった。

「傀儡は思い通りにならぬもの。何度取り替えても、結局は勝手なことを始めてしまう。……『我』は、考えを変えたよ」

「香々瀬どの……?」

「《宮》は、ここにある。幸いなことに、新しい《器》も手に入った。……なれば、後は、《主》のみ」

「何を言われているのです?」

 金村は不安げに聞き返す。

 彼には、香々瀬が何を言い出したのか、まるで理解出来なかった。

「……大伴の。汝には、『これ』が何に見えるかの?」

 香々瀬は、太刀を持たぬ方の掌を己の胸に当てて、金村に尋ねた。

「何、とは……貴公は、葛城王どのでは……?」

「――そう、葛城の、王なのだよ、『我』は!!」

 香々瀬は突如、弾かれたように哄笑した。

 高慢で尊大なその姿には、かつての小胆な童男おぐなの面影はどこにも見出せなかった。

「三輪や河内よりも先に、この地にあった王権を知っておるか!? それは葛城、葛城の王朝だ! ――『我』はこれより、葛城王朝の復古を宣言する。もう、どの大王の王裔も要らぬ。……『我』こそが、新たなる「葛城の大王」なのだからな!」

 香々瀬は高らかに宣言した。

「……葛城王朝……葛城の、大王……?」

 香々瀬を見つめながら、金村は呆然と繰り返した。

 ――千年以上も前にあったかも知れない、幻の王朝の復古!?

 ……そんな夢みたいなことが、現実に叶うはずがないではないか。

 香々瀬は一体、正気なのか。

 だが、恐怖に戦き凍りつく金村に向かい、「葛城大王」は冷厳と告げた。

「……汝はまこと、幸いな男よ。この希少な瞬間に立ち会えたのだからな。――ゆえに、選ばせてやろう。今ここで逃げ出して『我』に殺されるのと、後に『我』の為に戦って死ぬのと――どちらが良い?」

 鮮麗な笑みを浮かべて、「葛城大王」は残酷に言った。

 金村の背を、冷たい汗が落ちる。

 自分は今まで、「葛城の香々瀬」という少年の――何を見ていたのか。

 彼は、表向きの浅慮に顔の裏に……こんな恐ろしい素顔を隠していたのか。

 これが、香々瀬の本性だったというのか。

 利用しているつもりで、その実、逆に彼の手の上で踊らされていたのは、金村の方だったというのか――!?

(それとも……?)

 金村は、息を呑んだ。

 何か、そら恐ろしいものが、蠢き始めたような気がする。それが何なのかは、分からないが。

 ただ、今の金村に理解できたのは、自分が最早逆らうことも引き返すことも出来ない深い道に踏み込んでしまったという事――そして自分は、とてつもない過ちを侵してしまったのかもしれない、という事。

 ……ただ、それだけだった。


(第五章おわり 第六章へつづく)


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