表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月傾く淡海  作者: かざみや
4/8

第四章  「二つの王統」

古より豊葦原の国では、様々な覇者が王の中の王--即ち「大王」と名乗ることを求めて、大和へ都入りを目指してきた。

 それらの中でも、一系の血脈をもって数代続く「王権」を確立し、その存続に成功したものが、史上において二つだけ認められている。

 一つは、通算十代目にあたる「御間城の大王」から始まり、十四代目の「足仲彦の大王」で直系の断絶を迎えた『三輪王朝』。

 もう一つは、十五代目の「誉田別の大王」に始まり、先頃、第二十五代「若雀の大王」崩御によってこれも断絶の危機を招く事になった『河内王朝』である。

 この頃の通例として、皇位継承権を持つのは、大王の后妃、または子女に相当する一世王、もしくはせいぜいその二世王までとされていた。

 直系によって皇位が継承されれば政権は安泰だが、そうでない場合は、傍流や有力者の登場となる。実際『河内王朝』の始まりにあたっては皇位の簒奪があったとも伝えられるが、今ではその真相はわからない。

 --『河内王朝』は、後継者争いに揺れ続けた王朝だった。

 その原因は、最大の暴君であった第二十一代の「泊瀬の大王」による、大量の同族殺しにあった。彼が、自分の即位の障害となる王族をほとんど抹殺してしまった為に、以後王族の数が激減したのである。

 そしてついに、彼の皇子である二十五代「白髪の大王」が崩御したことによって、後継消滅という重大な危機を迎える事になった。

 この時、播磨から呼び寄せられ、相次いでその後の大王位を継いだのが、弘計尊・億計尊の兄弟であった。

 彼らは、十七代目の「去来穂別の大王」の孫であり、「泊瀬の大王」の従兄弟の子であったとされている。

 真偽のほどは今もってはっきりとはしていないのだが、この時朝廷には、「五世孫までの傍系王ならば即位が認められる」という令が作られた。

 それは、後継の危機を迎える度に無数の傍系王が出現し、それらの争いの中から次の大王を迎えてきた朝廷が、これ以上の血脈の混乱を回避するために設けた定めだった。

 ……さて、『河内王朝』の開祖・「誉田別の大王」にはあまたの子女がおり、後継となったのは大雀の皇子であったが、その異母兄弟に若野毛二俣王という王族がいた。

 彼の娘・大郎子は、淡海の湖西、高島に本拠を置く豪族三尾氏の中斯知と婚姻し、その子矢非王は以後高島に土着した。

 その矢非王が土地の豪族の娘、久留媛との間に生んだのが「彦主人王」であり、その息子にあたるのが深海なのだ。

 「誉田別の大王」の五世孫である深海を前にしたとき、物部の荒鹿火は深く額づいて奏上した。

「先頃、若雀の大王がかむあがりましましたことにより、まさに今絶えて継嗣みつぎ無きこととなりました。天の下の者たちは、いずれのところに心をよせればよいかわからなくなっております。思えば、古くから今に至るまで、禍はこうしたことから起こっております。やっこは、朝廷の軍を預かる大連としての責を深く鑑み、大王の御裔をお捜し申し、淡海のほとりに誉田別の大王の五世の孫君がおられるときいて、まかりこしました。どうか、この大連に、人主きみとして奉ることをお許し下さいませ……」



 自分の室でひとり物思いに沈んでいた深海のもとへ、真手王が一人でやってきた。

「--どうだ、少しは落ち着いたか」

 真手王は部屋の戸を閉じると、所在なさげにしていた深海の隣に座り込んだ。

「俺も驚いたがな。お前のほうがびっくりしただろう。いきなり大和の将軍が現れて、『大王になってくれ』だものな」

 そう言うと、真手王は喉の奥で低く笑った。

「物部どの達は、どちらに?」

「ああ、とりあえず一行ごと別の館に収まってもらったよ。ああものものしくては、族人

が落ちつかんだろう」

「そうか……」

 深海は小声で短く呟いた。

「で、お前はどうする気だ?」

 真手王は率直に切り出した。

「どうするって……わからないよ。確かに昔、父祖から大王の御裔だと聞かされてはいたけど、そんなの遠い伝説みたいなもので、僕はずっと淡海で静かに暮らしてきたんだ」

「--だが、思わぬところで時流がお前を必要としてしまった、ということだな」

「真手王……」

 深海は、当惑して真手王の顔を見つめた。

「何故物部どのが僕のところへ来たのが分からないんだ。確かに、宮殿では直系の王族が絶えたのかも知れないけど、傍系の王族なら他にもいただろう。それが、よりにもよってこんな遠い御裔の僕に」

「大連どのは仰っていたじゃないか。『御裔をくまなく調ぶるに、賢者さかしきみこはただ、深海さま御一人のみ』とな。たいそうな口上だ。さすがは、大和の将軍いくさのきみだな」

 真手王は物部の口上を真似て冷笑した。

「そんな、とってつけたような理由、そのまま信じられるわけないだろう?」

「まあ、だったら面白いけどな。……だがな、深海。俺が首長として判ずるに、物部がお前を担ぎたい理由は三つある」

 真手王は膝を立て、深刻な面持ちで口を開いた。

「一つ。傍系とはいえ、お前は出自と系統がはっきりしていること。今、各地で傍系王族なんて名乗ってる連中は、大抵が明確には系図を示せず、ただ自称しているだけの奴らだ。……二つ目。それは、この淡海の大豪族、息長がお前の後見についてることだ。後ろ楯のあるなしってのは、大王として立てるときに重要だろうよ。--そして、三つ目は」

 真手王はニヤッと笑い、深海の額を指さした。

「お前の評判を聞き、担ぐのに容易い、 御しやすい男だと思った……」

「真手王……」

「物部の荒鹿火は、その知略と戦術で大和の抗争を勝ち抜いてきた、相当の食わせものと聞く。お前を大王として立てると決めた裏には、かなりの計算があるだろうよ。恐らく、宮殿の内でも、なんらかの陰謀はあるな」

 真手王は平然と言い放った。

「真手王、僕は……」

 深海は言い淀んだか、やがて意を決して真手王に告げた。

「天下の民を我が子となして国を治めるのは、大変な仕事だ。僕にはそんな才能は無いし、どう考えても力不足だと思う。物部どのには、誰か他の賢い人を探してもらいたい。僕には、とてもできないから」

 深海は淡々と、素直な気持ちを口にした。

「……俺は、そうとも思わないがな」

「え?」

「お前は、自分の器を自分で狭めているところがあるよ。--真の己に出会うのを、まるで恐がっているかのように」

「そんなこと……」

「なあ、深海。俺の中には、二つの心がある」

 親しげな微笑みを浮かべ、真手王は深海に言った。

「一つは、お前と長年共に過ごしてきた、親友としての心。こっちの俺は、物部など追い返して、お前を今のまま穏やかに野州で暮らさせてやりたいと思っている」

 室内に点された灯を見つめながら、真手王は静かに言った。

「もう一つは、息長の首長としての心。--今夜大連どのがまかりこされた事で、俺にはやっと判ったよ。父上は、この日の為にお前を湖西の高島から、この野州に連れて来られたのだと」

「父君--真人王まひとおうどの?」

 不意に深海の脳裏に、懐かしい先代息長王の姿が蘇った。

 深海は四歳まで、母族・三尾氏が本貫地を置く近江の湖西、高島の地で育っていた。

 だがその頃、大陸から異国の騎馬民族が豊葦原に侵入を始めていた。

 越の国を侵略した騎馬民族は、そのまま南下して高島を攻撃した。彼らは三尾族を虐殺し、富を奪い、高島を占領しかけていた。

 その時、淡海の反対側から、一族の軍を率いた真人王の船団がやってきた。息長と三尾は湖上を行き来して交流が盛んであり、古くからの友族だった。

 息長軍は騎馬民族を打ち払ったが、彦主人王や振媛を始めとした三尾一族の大半は既に殺されていた。この時、事実上三尾氏は滅亡したのである。

 深海は、今でも鮮明に覚えている。

 大地は、おびただしい血で覆われて異臭を放っていた。 草原に、累々と死骸が打ち捨てられている。あちこちで火の手があがり、空は黒煙で覆われていた。

 この冥府のような世界に、動くものは何もない。恐ろしくて恐ろしくて、深海はただ狂ったように泣き続けていた。

 どれくらい泣いたか、時間さえもわからなくなった頃、何か大きくて暖かいものが、自分を抱き上げた。

 それが腕で、自分を抱いているのが人だと判った途端、深海は必死にそれにしがみついた。けして離れまいと小さな手で衣を掴んだ深海に、その人は言った。

『泣いても仕方がない。だが、お前は終わりではないよ。この私が、生きていく場所をあげるから』と……。

 真人王によって野州に連れ帰られた深海は、そこで首長の養子分として育てられた。

 館には、二つ年上の真手王がいた。二人はまったく気性が異なっていたが、それが逆に幸いしたのか、実の兄弟以上に仲睦まじく成長した。

「父上も、この息長の首長だ。単なる憐憫だけでお前を拾い育てたわけではない。父上には、一族を率いる王としての目的が--夢が、あった。そして、この俺にも、また」

 真手王は立ち上がり、深海の瞳を見下ろして言った。

「……深海。お前が、自分を救い育んだこの息長を思うのならば。どうか、我らの為に立ってくれ。長い間、山ごもれる青垣の国の奴らに占領されてきた宮殿に、淡海の楔を打ちこむことは、我ら息長の悲願だった。--物部に、担がれるのではない。我々が、奴らを利用するんだ。--なあ、深海。俺はな、お前を旗印とした、新しい淡海の王朝を創ってみたいんだよ……」



 夜明け前、倭文は一人で御館の裏手を歩いていた。

 秋とはいえ、この時刻は既に冬に等しい寒さである。羽織った襲の前をかきあわせながら、倭文は出来るだけ気配を立てぬように急いでいた。

(とんでもないことになったわ……)

 まさか、この地で物部の大王擁立に出くわすとは。

 このままここにいれば、否応無く厄介ごとに巻き込まれる。誰にも正体を悟られぬうちに、早く出ていかなければならないと思った。

 別棟で眠っているはずの稲目を起こし、そっと連れ出さなければならない。気を急きながら供人の室に向かう倭文の背中に、不意に声をかけたものがあった。

「……こんな時刻にどちらへ行かれるのかな。葛城の姫君」

 倭文は立ち止まり、無表情で振り返った。

 僅かな星明かりに照らされて、一人の長身の男が立っている。

「確か、倭文姫と、いわれたかな」

「……物部の……」

 倭文は苦い声で呟いた。

「意外にも、言葉を交わすのは初めてでしたな。しかし、あなたのことは、何度も宮殿で見かけておる。姫のお姿は、ひときわ印象に残るものですよ。ご自覚はおありですかな?」

 物部の荒鹿火は、悠揚とした物言いで問う。

 甘かった、と倭文は思った。

 たしかに大豪族である葛城と物部は互いによく宮に上がっているし、相手を見かけることも多い。だからこそ倭文は荒鹿火の顔を見知っていた。

 しかし倭文は、荒鹿火は自分の容貌などあまり覚えていないだろうと、たかをくくっていたのだ。

 宮に上がるときはいつも、褐色の髪を黒に染めているし、面立ちが変わるほどに化粧もさせられている。

 大体豪族の姫たちは、いつも御簾の内にいるか、領巾で顔を隠しているかして、己の姿をはっきりとは見せないのが常だった。

「まさか、葛城に先を越されているとは思いませんでしたよ。しかも、長みずから動いておられるとは。--目的は、我らと同じかな?」

 言葉は丁寧だったが、彼の口調には曖昧な答えを許さない強さが込められていた。

「……勘違いされているようですね」

 襲の被りを脱ぎ、倭文は平然と荒鹿火に言い返した。

「葛城の首長は我が弟、香々瀬。私はただの王族の一人に過ぎません。物部の大将軍ともあろう者が、そのようなこともご存じないので?」

「『顔』が誰であろうと関係ない。肝心なのは動かす『頭』を持っている方ですよ。それは首長であろうと、大王であろうとね」

 荒鹿火も動ぜすに言い返した。

「もう一度問う。何の為に、葛城の姫は淡海におられるのかな。答えられよ」

「……さて。私がここへ辿り着いたのは、ただ我らが守り神の託宣に従ってのこと。尊い神の御心など、ただ人の私にはわかりませんな」

 内容は全て真実だったのだが、倭文はあえて空言に聞こえるように言い放った。

「神の託宣? --戯れ言は止められよ」

 案の定、荒鹿火は眉を顰めた。

「あなたが巫女姫でないことは、以前から聞いている。大体、神だの託宣だの、今の世にありもしないことを。そんなものは、権益を守ろうとする神祇達の形式でしかない」

 荒鹿火はにべもなく言い捨てる。

 だがこの頃、大半の人々は荒鹿火と同じような考えを持っていた。

 古からの神々は変わらず尊崇すべきものであるが、それは遠い異界に在るか、この世のどこかに空気のように漂っている霊性であり、具体的に姿を見せたり、その声を聞いたりできるようなものではない。

 各部族にいるはぶりは、人々の心の拠所の象徴として、それぞれの守護神を祀っているにすぎなかった神族は既に、敬いはするけれども信じる対象ではなく、具体的に恵みや祟りを下すものではなくなっていた。

 当然、葛城の人々も、一言主を「葛城山のどこかにいるかもしれない護り主」として畏れている。まさか本当に人の形で存在していて、語って託宣を下す者だなどとは、夢にも思ってはいないだろう。

 葛城山は、古くは王族のみが立ち入ることを許されていた国見の山だったが、今ではその王族でさえも、霊山と畏れて踏み入らなくなっている神域だった。

 葛城山の中に、実際に一言主が棲んでいることを知っているのは、一族の中でも倭文ただ一人だけである。

 別に、一言主から口止めされていたわけではなかった。ただ単に、言ってもどうせ誰も信じてくれないだろうから、黙っていたのだ。

 実際一族の者は皆、倭文を、一人だけいつも葛城山へ出かけていく変わり者の姫だ、と思っていた。

 ただ、現し神と話せるとはいっても、倭文は荒鹿火の言うように、生まれつき巫女の力を持たない。

 一言主と今のような関係になったのは、たまたま幼い頃、蛮勇から葛城山に踏み入った倭文が、偶然姿を現わした一言主に、(不幸にも)気に入られてしまったからだけなのである。

 しかしそれだとて、長い間ひとりで過ごしていた一言主が退屈しきっていたところに、自分が出くわしてしまったからだけだろう、と倭文は思っていた。

(まあ、あなたが信じてるのは、武力と権謀だけなんでしょうね……)

 厳めしい荒鹿火の面差しを見つめながら、倭文はむしろ感心するように思った。

 十五で宮殿に上がったときから、この男はそうやって政治闘争を繰り返しながら、二十年以上も最高権力者の一人として生き抜いてきたのだ。

 具体的な力以外を信じないその現実的な強さと潔さを、倭文は羨ましいとさえ思った。

「--弟君が大伴と手を組んだことは、あなたのご指示だったのか」

「……ええっ? あの馬鹿な子が、とうとうそんな事を!?」

 突如意外な事を聞かされた倭文は、思わず構えるのを忘れて、素のまま叫んでしまった。

「……ああ。姉姫と弟君が反目しておられるという話は、やはり本当でしたか」

 倭文の率直な反応を見た荒鹿火は、一瞬その口元を緩め、薄い憫笑を浮かべた。

「そんなこと、関係無いでしょう、あなたには……」

 迂闊な己を少々恥ずかしく思った倭文は、憮然とした表情になる。

「いや、おおいにある。物部は、これ以上の大伴の専横を看過できぬのでな」

「--『専横』? ただ、あなたの政敵だというだけでしょう」

 倭文は、荒鹿火の言葉を捉えて辛辣に返した。

「確かに。だがあなたが葛城王族の血を引く以上、我らにそんなことは言えぬはずだよ」

 荒鹿火は冷淡に反駁した。

「--あなたは、平群の時の件を、どう考えておられるのか」

 不意に口調を変えると、荒鹿火は急に古い乱の話を持ち出した。

 今を生きる豪族達に、様々な違った運命を--繁栄と滅亡と混乱を招く原点となった乱だった。

「……若雀の大王をお立てしたことは、過ちではない。--しかし「葛城」としてではなく、私自身の考えであるならば……あの時大伴と手を組んだのは……あるいは間違いではなかったかと……」

 倭文は一族の苦い歴史を思い出しながら、沈鬱な表情で呟いた。

「では、あなたはこの『今』、どうなさるおつもりか。姫は賢しさかしめと聞いておる。葛城の長として答えよ」

「--くどい。何度も言わせるな。それを決めるのは、この私ではない!」

 荒鹿火の責め立てるような語調に辟易して、倭文はつい激越に叫んでしまった。

 対峙した二人の間に、緊迫した剣呑な空気が漂う。

「……頑迷な……。ならば、あなたの身柄は物部が押さえる。危険な葛城の姫を、このまま泳がせておくわけにはいかぬのでな」

 言いながら、荒鹿火は腰の太刀に手を置いた。

「--へえ? それはまた面白い」

 頭では、挑発だと判っていた。

 しかし倭文もこの場を引くわけにはいかず、構えをとりながら帯びていた平剣に手をそえた。

「物部の。相手が小娘と思って、侮るなよ……」

「--いや。汝の技量は、見ただけで伝わってくる。武人としては、一度手合わせしたいものだがな……」

 どこか残念そうに呟き、荒鹿火は抜きかけた太刀をおさめた。

「あなたには、別の使い方がある。姫、あなたは我々の為に役だっていただかなくてはならない。--これ以後、自由に逃げられるとはお思いになるな。どこへ行こうと、物部の兵が見張っておるゆえ」

「兵ごときが私を止められるとでも?」

「あなただけは、兵にも勝てるでしょうな。だがその場合、供人の子供は死ぬことになるでしょうよ」

 荒鹿火はさらりと告げた。

「あの子は、海石榴市で買った何処とも素性の知れぬただの奴卑だ! 葛城とは、何の関わりも無い子供を巻き込む気か……っ」

 荒鹿火の言いように激昂しながら、倭文は稲目をかばって大声で怒鳴った。

「では、葛城の血を引かぬ奴卑一人の命など、長たるあなたが気にされることもなかろう? 思いのままにしてみますかな」

 荒鹿火は倭文を見下げて嘲弄した。

「卑怯な……」

 倭文は荒鹿火を睨み付け、搾り出すように言う。

「この程度の事など、卑怯とも言わぬのだよ。……まあ、いずれあなたにもわかる……」

 余裕を浮かべたまま、子供でも諭すように荒鹿火は倭文に言った。

 何を言われようと顔色一つ変えぬ荒鹿火を見ながら、年月によって作り出された老獪さというのはこういうことなのだと、倭文はこの時身をもって知らされた。




 大和の列城宮に集まった豪族たちは、みな落ち着かぬ調子で一様にざわついていた。

 各豪族の長たちは、先々代の大后おおきさき春日皇女かすがのひめみこの命により、緊急に呼び出されたのである。

 この頃の慣習として、突然に大王が崩御して後継が決まらぬ場合、一時的に大后が皇位を継ぐことがある。若雀の大王は正式な大后を定める前に亡くなってしまった為、その先代であった億計の大王の大后・春日皇女を大王に推す声もあったが、本人は高齢を理由に固辞し続けていた。

「どういうことだろうか。ついに、先の大后は、御位におつきになる決心をなさったのだろうか」

 常の合議の間ではなく、大王に謁見するための間に並ばされた和邇王は、小声で傍らの茨田臣に話しかける。

「しかし……聞くところによると、物部どのが淡海に新王をお迎えに上がったとか。その物部どのがお帰りにならぬうちに、大后の大王即位など……」

 茨田臣は、御簾の降ろされた上座を覗きながら言葉を濁す。その御簾の向こうには、在りし頃、若雀の大王が座っていたものだった。

「--春日皇女のお入りでございます!」

 その時、先触れが声を張り上げた。豪族たちは一斉に平伏し、皇女を迎え入れる。

 高齢の春日皇女は、ゆっくりとした足捌きで彼らの前に現れた。御簾の前に立つと、豪族たちに声をかける。

「……みな、顔をお上げなさないな」

 皇女の命令で頭をあげた豪族たちの中から、小さなざわめきが起こった。

 春日の皇女は、その左右にまるで年齢の違う二人の男--大伴の金村と、葛城の香々瀬王を従えていたのである。

 軽く手を上げて、驚く豪族たちを制すると、春日皇女は小さいがよく透る声で彼らに告げた。

「……先の大王がみまかられて以来、宮の内は乱れ、わたくしは心痛めておりました。しかしここな二人、大伴の大連と葛城王が功を労し、大王に相応しい方を、お捜し申し上げてまいりました。--丹波におられた、橘王。足仲彦の大王の、五世の孫君にあたられる方です」

 そこまで語ると春日皇女は膝をつき、御簾に向かって拝礼した。金村と香々瀬も皇女に従う。

 人々の前で、御簾がするすると巻き上げられた。

 空位のはずの玉座には、一人の若い男の姿があった。 橘王は、ゆったりとした常の如き泰然さで胡床にいました。諸臣を前にして動ぜぬその風格は、まるで生まれながらの人主であるかのようだった。

「……橘王は、人々を愛で、さかしきを敬い、またその御心ゆたかな御方。天下をおさむ

るに、最も相応しき方です」

 春日の皇女は、淡々と語った。

 彼女の言葉は、静かでよどみない。まるで、あらかじめ誰かが決めた台詞を、ただ暗唱しているだけであるかのような、そんな口調だった。

 突然の事態に、豪族たちは皆困惑して顔を見合わせる。やがて、その中から和邇王がおずおずと声をあげた。

「畏れながら……。大王即位は、大臣・大連・将相・諸臣すべての推挙と三種の玉璽がそろって初めて正式に認められるもの。しかるに、ただいま玉璽を司る物部の大連どのがおられぬゆえ、早急に事を決するのはいかがかと……」

「物部の荒鹿火は朝廷の軍を預かる大連だというのに、この混迷した折に許し無く勝手に宮を離れた! あやつは、朝廷に翻意を持つ反逆者である! 物部の意を待つという者は、すべて荒鹿火と同罪とみなすぞ!」

 皇女の傍らにあった金村が、和邇王の言を遮り、激しい語調で一括した。

 彼の言葉は、筋の通らぬ恫喝である。

 しかし、武力を持つ大連である金村の凄まじい迫力と、明らかに彼の擁護についたと思われる春日皇女の権威を恐れ、それ以降、彼らに対して意見できた豪族は一人もいなかった。




 近江の国は、豊かな水量を誇る淡海のおかげで夏以降も比較的暖かい日が続くが、晩秋に入った頃から時雨が多くなり、急速に冷え込んでくる。

 特に、冬になると雪に閉ざされる日が多くなって来るので、深海を盟主に担いだ物部・息長の連合軍は、今のうちに野州を発つことにした。

 総勢五百に上る連合軍が目指すのは、大和。

 歴代の全ての大王が目指した都入りを果たさんとして、彼らもまた近江から大和へ西征を続ける。

「……しかし、深海さまが決意して下さって本当に良かった」

 馬を操りながら、荒鹿火は言った。

 この時代、馬はまだ貴重品だったので、騎乗しているのは先頭を行く盟主の深海と、その左右に従った荒鹿火・真手王ほか数人の主だった将だけで、軍の殆どは歩兵だった。

 荒鹿火は武将であるので、鐙・鞍・面繁・轡など、実用的な装備の整った馬に乗っている。

 しかし深海は、仮にも大王を名乗る者であるので、雲珠・杏葉・馬鐸などの金色に輝く装飾品をつけた、貴人用の飾り馬に乗せられていた。

「……この豊葦原を生きる人々には、みんなそれぞれ夢がある。たとえこんな僕でも、少しでもそれを叶えるための力になれれば……と思っただけです」

 居心地悪そうに鞍の上に股がった深海は、前を向いたまま自分に言い聞かせるように呟いた。

「しかし……姫まで、行軍にお連れすることはなかったのでは? 危険があるやもしれな

いのに……」

 躊躇うように言いながら、深海は振り返った。

 彼らから少し下がった軍の中に、憮然とした表情で馬に乗る倭文の姿がある。

「姫がご自分で志願されたのですよ。このような大事に行き合わせたのも運命、できれば深海さまのお力になりたいとね。いや、ご立派なご気性だ」

 荒鹿火は薄い微少を浮かべたまま、感奮したように言ってみせた。

「しかし、郎女を軍にとは……」

「いや、その点ならば心配はご無用。あの姫のご器量は、この荒鹿火をも凌ぐやもしれぬほど。それは確かにこの目で確かめております。さればこそ、わが精鋭の兵を預け、一将を担っていただいたので」

「それほどお強いのですか。そうは見えませぬが」

「……強いよ。それだけは、確かさ」

 深海の馬の後ろに座らせられていた稲目が、拗ねたように言った。彼は、自分がこんな所にいなければならないのが気に入らないのだ。

 倭文が行軍に参加する事になった時、彼女は稲目を淡海に置いていこうとした。しかし、稲目は「絶対倭文に着いていく」と主張した。荒鹿火は、「子供は危険だから自分の馬に乗せよう」と申し出た。倭文と稲目は、「それは絶対に嫌だ」と固辞した。

 収集がつかなくなったとき、深海が「それでは自分の馬に乗せる事にしないか」と提案した。三者はそれぞれ自分の立場の主張したが、最終的に深海の案で妥協することになった。

 本来の身分を考えれば、深海と稲目が同乗するなど考えられぬことである。しかし、深海の浮き世離れした性格が、それを実現させてしまった。

 淡海を西へ下っていた一行は、やがて瀬田川の東岸に出た。しかし、そこで彼らを待っていたのは、思いもしない光景だった。

「あれは……」

 川の向こう側を見やって、深海は絶句した。

 瀬田川の西側には、大軍がものものしい陣営を構えていた。軍の数はおびただしく、その終わりがどこまで続いているのか判らぬほどである。軍旗は地を覆い、土ぼこりは連なって天へ上がっていた。

「あれは……大伴の……っ」

 荒鹿火は形相を一変させ、馬を駆って前へ出ると、川の向こう岸に向かって大声で怒鳴った。

「我らは新たなる大王、誉田別の大王五世の孫君、深海王を仰ぎ、大和入りするものである! 汝らはただちに軍を解き、王をお通しせよ!」

 荒鹿火の怒声は川面を越えて向こう岸へ響き渡る。

 途端に、大伴軍は「かね鼓」を打ち鳴らし、数百の兵が胴間声を上げた。

 やがて、陣営の中から将と思しき男が現れ、荒鹿火に向かって言い返す。

「黙れ、反逆者! 宮殿には既に、足仲彦の大王五世の孫君、橘王が新たな大王としておわす! 偽王は即刻去れ! さもなくば、討ち滅ぼすぞ!」

「足仲彦の五世孫だと!? おのれ金村め、そんな手を……っ」

「どういうことですか、荒鹿火。大和には既に大王がいるのですか?」

 突然の成りゆきに、深海は喫驚しながら荒鹿火の側に馬を寄せた。

「ご安心を、深海さま。大王は、どんな後ろ楯があろうとも、玉璽を持たねば即位出来ませぬ。玉璽は、代々我が物部一族が司っております。偽王はあちらです。佞臣の大伴が、野心の為に偽王を立てたのです!」

 荒鹿火は、喘ぐように深海に説明する。彼の中で、金村に対する赫怒が渦巻いていた。

「--しかし、どうやってあれを突破するというのだ」

 深海を追ってきた真手王が、冷ややかに荒鹿火に聞いた。

 大伴軍は、軽く物部・息長軍の倍はあった。彼らの一部は、すでに瀬田川にかかる唯一の唐橋を渡らんとしている。

「我らは、そなたに命を預けてここまできたのだ。なんとしても、深海を大王にしてもらわねば許さぬぞ」

 真手王は大伴軍の動向に目をやりながら、非情に言い放った。

「無論。我ら物部もそのつもり……」

 苦虫を噛み潰したような顔で真手王に告げ、荒鹿火は必死に考えを巡らる。

 どうにか、この局面を乗り切る策を……。

「--真手王どの。軍を、二つに分けまする」 

 荒鹿火は、唐橋の向こうを見据えて言った。

「軍を二つに?」

「大伴軍は、我ら物部軍が押さえます。その間に、息長軍は迂回して淡海を渡り、山背の北部を抜けて摂津に入られよ」

「摂津? 摂津に入って、どうするのだ」

 真手王は怪訝そうに聞いた。

「恐らくこの先も、大和へ入るための要衝は大伴が押さえているだろう。大和の国と境を接した摂津の東に、樟葉という地があり、そこに昔の大王が築いた宮がある。ひとまずは、そこに入られることだ」

「--よかろう。しかし、そなたらだけで、あの軍をくいとめられるのかな」

「ご安心を。この荒鹿火に、策がある」

 荒鹿火は、確固とした口調で言った。

 しばし黙考し、真手王は頷く。

「……承知。--では深海、行くぞ!」

「しかし真手王、彼らだけを残しては……っ」

「お前が生きているということが、俺達にとって一番大切なんだよ! それがわからないのか!」

 真手王は深海を叱咤する。

 深海は打ちのめされたようにはっとした。彼は唇を噛み締め、手綱を強く握ると、己を鼓舞して荒鹿火のほうを向き直った。

「--では大連どの。……ご無事で……」

「御身こそ。お祈りいたしております」

 荒鹿火は、深海に向かって目礼する。

「……ちょっと待てよ! 何勝手に決めてんだよ! 俺、姫と離れ離れになんか……っ!」

 成り行きを見ていた稲目が、抗議の声をあげた。だが彼の反駁は大人たちに受け入れられることはなく、無視される。

 真手王は深海を促し、自軍へ向かって走り出した。

 彼らが遠ざかるのを確認すると、荒鹿火は部下に向かって鋭く命じる。

「--姫をこちらへ!」

 ほどなく、馬を駆った倭文が荒鹿火の隣に現れた。

「--どういうことか、大連どの。息長軍は、どこへ向かったのか」

 倭文は移動する軍の陣形を見渡しながら、険しい表情で荒鹿火に問うた。

「川のあちら側に、大伴の軍が控えておる。やつらは、どうあっても我らの大和入りを阻止するつもりだ。深海さまには、御身の安全を考えて、とりあえず真手王どのと共に摂津の樟葉へ向かっていただいた」

「--では、深海王の馬に乗った稲目も共に?」

 倭文は驚いて言った。

 眼下では、馬将に率いられた息長軍が、砂煙を上げながら急ぎ立ち去っていく。あの中に、深海と同乗した稲目もいるのか。

 こんなところで、稲目と別れ別れになってしまうなんて……?。

「さよう。だが、ご心配めさるな。いずれ合流できる。それより残った我らの役目は、あの大伴軍を食い止めること」

 荒鹿火は、瀬田側の向こうを指し示した。

「あの大軍を、どうやって……」

「さればこそ、姫をお呼びした。姫には我が精鋭を率いて、まず、あの唐橋を渡ろうとしておる大伴の先陣を叩いていただきたい」

倭文は厳しい眼差しで川向こうの大伴軍を注視した。大伴の兵達は、蟻のように橋を埋め尽くしている。あの中へ、わずか十数人の手勢と共に飛び込めというのか?

「……あなたの配下でもない私が、そんな無謀な命令を受けるとでも?」

 倭文は冷然と言い返した。

「姫は約束をお忘れかな? 息長軍の中にも、物部の手の者は混じっておりますぞ」

「……」

「あなたに選択権はない。拒むと言われるなら、この場で斬るだけのこと。なに、深海さまには壮絶な戦死を遂げられたとでもお伝えいたすよ。その場合、当然子供の命もないが……。いかがされる?」

「汝は、ほんっとうに……」

 性格の悪い男だ、と倭文は思った。

 息長軍が淡海を出発する際、稲目の身柄を引き合いに出して、嫌がる倭文を強引に行軍に参加させたのは、こういう目算があったからなのだ。

 倭文は本当に腹立たしく、怒りに歯噛みして荒鹿火を睨め上げた。

「お考えは」

 荒鹿火は、怯む様子もなく倭文に畳み掛けた。

「――行くしか、あるまい!」

 吐き捨てると、倭文は手綱を引き、与えられた兵の元に戻った。

「大将どのの命により、我ら先陣をつかまつる!」

 倭文は配下の兵に短く命じた。

 訓練された物部兵はなんら異を唱えることもなく、機敏な動作で陣形を整える。

「――では、参る!」

 倭文は馬を駆り、物部軍の中から飛び出した。その後に、盾持ちや歩兵が続く。

 大伴の先発隊で埋め尽くされた橋の中へ、倭文は飛び込んだ。向こう岸の大伴本陣から、雨のように矢が放たれる。それを盾持ち兵に防がせながら、倭文は平剣を抜いた。

 大伴の兵は、眉庇付兜・肩鎧・草擦などの鉄鎧で完全武装しているが、倭文は皮製の丈夫な襲を被っただけの軽装である。

 出発する時に、一応荒鹿火が鎧なども用意してくれたのだが、つけてみると動きにくいことこの上なかったので、実際には着なかった。そんなものつけなくても、まあ剣だけで降りかかる火の粉くらいはふり払えると、たかをくくっていたのである。

 よもや、自ら戦の中へ飛び込んでいくことになるとは、思いもしなかった。せめて短甲くらい装備しておけばよかったと思ったが、後の祭りである。

 倭文は武術の達人ではあったが、実際に戦に出るのは生まれて初めてだった。

 馬に乗って目立つ彼女を女将とみた敵兵が、次々に倭文に襲い掛かってくる。

 ただ相手の命を奪うことだけが重要な戦場は、これまでまったく経験したことのない異様な世界だった。

 ――だが倭文には、嫌悪などしている暇などない。

 殺らなければ、自分が殺られる。

 倭文はまず、一人だけ騎乗していた大伴の先兵隊の将の首を刎ねた。

 しかし、その隙に敵兵に馬の足を切られる。倒れた馬から飛び降りた倭文は、敵味方の歩兵と入り乱れて、激しい乱戦を繰り広げた。

 人数の上で圧倒的に不利な倭文達は、とにかく早く橋上での戦いを制し、援軍を呼び込むしかない。愛用の平剣しか武器を持たない倭文は、ひたすら敵兵の剥き出しになった首を刎ね続けた。

 やがて、倭文の驚異的な戦いぶりによって、大伴軍は橋の向こうまで押し戻される。やっと自軍を呼び込めると思った倭文は、荒い息を切らしながら、味方側を振り返った。

 ―ーしかし、その時彼女の目に入ったのは、理解できない光景だった。

 僅かに生き残っていた倭文配下の数人の兵たちが、何故か油を橋中に撒き散らしている。そして彼らは油を撒き終わると、一目散に東岸の物部軍のところまで逃げ帰った。

「お前達、いったい何をっ……」

 驚愕して叫ぶ倭文の前で、すぐに答えは示された。

 物部軍から、無数の火矢が唐橋に打ち込まれる。木で造られた唐橋は、あっという間に炎に包まれた。

 凄まじい火炎に追い立てられた倭文の背後で、焼け崩れた唐橋の残骸が、轟音と共に川へ落ちていった。それを見届けた物部軍は、疾風の如き素早さで戦場から――瀬田川の東岸から、撤退していく。

 川を渡る手段は断たれ、来るはずの援軍は倭文一人を敵方に残して姿を消した。

 立ち上がり、前方を見据えた倭文の前に広がっていたのは――千にも上る、敵軍の本隊だった。

 たった一人で敵軍のただ中に取り残された倭文は、その時はじめて荒鹿火の巡らせた策の全てを悟り――怒りに震えた手で、平剣の柄を握り絞めた。

「こういうことか――やってくれたな、物部の!」

 瞳に憤怒の光を滾らし、川岸に展開する大伴軍を睥睨する。

 そこには、ただ、絶望的な状況が広がっているだけだった。



 瀬田川の西岸に展開した大伴軍本陣は、恐慌状態に陥っていた。

 千の数を揃えた、鍛え抜かれた兵軍が――ただ一人の小娘によって、かき乱されているのである。

 そこには既に、陣形も戦略もなかった。娘はただ、自分に近付く兵を――その首や足を、片っ端から斬り落とし続けているのである。

 たった一人の女によって、大伴軍はすでにその三分の一を失っていた。川岸の草原は血で染まり、倒れた兵たちの屍で埋め尽くされている。

「――何故だ……どうして誰も、あの女を止められないんだ!」

 一番後方に控えた大伴軍の大将・許勢こせは、馬上で青ざめながら叫んだ。金村の腹心として、これまで数多くの戦を経験してきた許勢だが、こんな戦いは今まで見たことがない。

「ありえんぞ、こんなことは……あの女は、禍神の化身か!?」

 戦場に幽鬼の如く立つ女の姿を恐れるように、許勢は唇を振るわせた。

「許勢さま……このままでは、我らの消耗が激しすぎます。ここはいっそ、一旦引かれては?」

「――そんなことが出来るか!」

 恐々注進した配下を、許勢は激しく一括した。

「荒鹿火率いる物部本陣と戦ったのならともかく、得体のしれぬ女一人に敗れて帰ってきたなど、金村さまに報告できるかっ。俺の首が飛ぶわっ!」

「しかし、このままでは……」

「まだ兵は六百あまり残っておる! ――見ろ、あの女、そろそろふらつきかけておるぞ。そういつまでもは保つまいて……」

 願うように呟きながら、許勢は残った兵たちに、何度目かの総攻撃を命じた。



 ……いったい、どのくらいこうしているのだろう。

 倭文には、既に時の感覚が無くなっていた。

 兵を十人くらい斬った気がする……いや、百人だったかもしれない。

 吹き荒ぶ風も、立ち上がる埃も、全てが血臭に染まっているようで、他の物は何も感じられない。

 わかるのは、まだ兵が山ほど残っている、という事だけだった。

 戦いは、もはや技量や体力を凌駕した領域に入っている。倭文はただ、精神力だけで戦場に立ち続けていたのだった。

(ああ、でも、もうそろそろ駄目かもしれない……)

 何人目かの兵を斬りながら、倭文は空虚に考えた。

 ――不思議と、絶望感は湧いてこなかった。

 羽織った襲は、敵兵の返り血を浴びてべっとりと重くなっている。唯一の武器だった平剣も、とうの昔に刃こぼれしていた。――足も、もうふらふらだ。

(なんで私、こんなに必死になって戦ってるんだろう……)

 不意に倭文は、懸命に戦う己が可笑しくなってきた。

 こんな所で、命をかけて。

 たった一人で戦っている。

 それは、けして、物部の為ではない。……それだけは、確かだが。

 ――では、何の為に?

 摂津へ逃がした深海の為でもなかった。

 彼らとは、ただ流れゆくそれぞれの運命の中で、ほんの僅か行き合っただけの縁だ。守らねばと思うほどの執着はない。

 今の倭文は、背に庇うべき何者も持ってはないかった。

(葛城を守るための戦でもないのに……私は、どうして……)

 ――「では、葛城を守る為ならば、命を懸けられるのか?」

 倭文の中で、今一人の自分が問いを重ねた。

 ……ああ、少なくとも、理由にはなるだろう。

 意味なき戦ほど、虚しいものはないのだから……。

(……もう、倒れたっていいのに。後は、時間の問題だ。どのみち、私はここで殺される……)

 倭文の中に、諦めが生まれた。

 葛城から離れた、こんな異郷の地で。他族の戦に巻き込まれて。物部の策略にはまって。――愚かにも。

 そう、愚かだ。だけど、仕方がない。

 もう、終わりなのだから。

(いつから……私は、こんな冷めた気持ちしか持てなくなってしまったんだろう。いつも、自分には関係ないと逃げて……首長の座からも……)

 本当に大切に思うものなんて、何もないんだ。

 一族も、王であることも、意味なんてない。

 懸命になれることもなかった。

 じゃあ、もう、いいじゃないか……。

 倭文の心に隙が出来た。敵兵は、その間隙を的確に突いてきた。

 ――敵の一撃を受けて、遂に平剣が折れた。

 倭文を取り囲んだ兵の一人が、太刀を振り上げて彼女の左肩を斬った。

 激痛を感じた瞬間、倭文の体が傾いだ。

 倭文は最早抗う気力さえ持たず、体の力が抜けゆくままに倒れかける。

 ……このまま、敵軍に惨殺されてしまうんだろう。

 倭文は諦めて目を閉じた――しかし、予想した痛みは感じなかった。

 かわりに、誰かが自分を抱え上げたのを感じた。

 では、捕虜にされるのか……そう思った倭文の耳に、あるはずのない声が聞こえてきた。

「……まだこんなとこで死ぬなよ」

 敵兵の中に、異質なざわめきが起こる。

 聞き覚えのある声は、続けて倭文に言った。

「お前には、やってもらうことが残ってるんだからな」

 倭文は、薄目を開けて声の主を覗いた。

「一言主……?」

 凄惨な戦の只中に、葛城一言主は悠然と立っていた。右手に倭文を抱え、左手に長矛を握っている。

「どうして……ここに……あなたは、葛城山に依り憑いているんじゃあ……」

「……なあ、人間の限界って知ってるか? どんなに優れていても、がんばっても、所詮数には敵わないってことだ。残酷な真理だよな。――でもまあ、お前はよくやったよ」

 一言主は、手に持った長矛を振り上げると、大伴の兵に向かって振り下ろした。

 長矛から閃光がほとばしり、その光刃は大伴軍を薙ぎ払う。

 瀬田の西岸に残った六百の軍兵は、一瞬で殲滅させられてしまった。



(第四章おわり 第五章へつづく)


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ